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1巻
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つるんと冷たい山菜うどん
初夏。新緑の美しい季節の山歩きは楽しい。
すっきりと晴れた青空に、みずみずしい若葉がよく映える。風に揺られて、枝葉がさらりと音を立てた。
かすかに鳥の鳴き声が聞こえる。歩を進めると、少しずつさえずりが大きくなった。澄んだ高音だ。ピリリ、ピロリリン、とゆったりとうたうようなメロディが心地いい。
注意深く観察していると、広葉樹の枝に小鳥を見つけた。鮮やかな青色をしている。
スズメよりひと回りほど大きなそれは、羽の色からしておそらくオオルリだろう。
春に南方から渡来して、秋になるとまた南方に渡去していく夏鳥だ。
私は立ち止まって、背負っていたバックパックからカメラを取り出した。
晴れた青空と美しい新緑、羽を細かく震わせながらさえずるオオルリの姿をカメラにおさめる。
古いデジタルカメラだけど、まだじゅうぶんに現役だった。十年前、私が十一歳のときに祖母が買ってくれた宝物のカメラ。布のカメラケースは祖母であるツユの手製で、赤いチェック柄がかわいい、ふかふか仕様だ。裏面には、御崎小夏と、私の名前が刺繍されている。
実際に仕事で使うのは手ブレ補正が優秀な最新式のカメラなのだけれど、心惹かれた風景はついこの宝物のカメラでシャッターを切ってしまう。
私は大事にカメラをバックパックにしまい、目的地を目指して再び歩き始めた。
初夏といえども気温は高い。撮影機材を背負って歩くのは重労働だった。舗装されていない坂道は、想像以上に体力を奪われる。顎から汗が滴り落ちてきた。
キャップを取り汗を拭っていると、長い黒髪がはらりとほどけた。それを結び直してから、よし、と気合を入れ直す。
私は小柄で痩せ型の割には体力があるほうだと思う。根性があるというか、我慢強いとも思っている。そうでなければこの季節に一人で山奥に来たりはしない。
しばらくすると、新緑の中に潰れかけた平屋が見えた。その奥にも、民家らしき廃屋がぽつりぽつりと残っている。
(あった……)
今回も無事に辿り着いた。
最寄り駅からタクシーで四十分。山の入口から徒歩で約二時間。ここはかつて、山仕事をしていた人々が暮らしていた農山村だ。四十年以上も前、集団移転によって無人の集落になり、現在は廃村となっている。
私は最新式の高性能カメラで撮影を始めた。一軒ずつ、廃屋の隅々までカメラにおさめる。傷んだ柱や、朽ちた引き戸。潰れかけの家屋をひたすら撮り続ける。
私はいわゆる、動画クリエーターというやつだ。撮影から編集まですべて一人で行う。
無人の集落の撮影を始めたのは中学生の頃。きっかけは、祖母だった。
祖母は子どもの頃から引っ越しが多く、農山村を転々としていたという。祖母の父、私からすると曾祖父にあたる人が山仕事に従事していたらしいのだ。
祖母が曾祖父の人柄や、幼い時分の話をすることは滅多になかった。引っ越しを繰り返したせいでほとんど友達ができず、子ども時代にいい思い出はないらしかった。
それでも、体を悪くして入退院を繰り返すようになってからは、ときどき昔の話を聞かせてくれた。ぽつりぽつりと懐かしそうに語っていた。
残念ながら祖母の手元には子ども時代の写真は一枚も残っておらず、それならと私が代わりに祖母の故郷を尋ね歩き、動画の撮影も始めたのだった。
祖母がかつて暮らした農山村は、そのほとんどが廃村になっていた。時代の変化といえば、そうなのかもしれない。
病院のベッドの上で、私が撮影した映像を眺めながら「すっかり変わっちゃったねぇ」「でも、面影がある」「懐かしい」と微笑む祖母は幸せそうで、どこか寂しそうだった。
動画を配信サイトで公開するようになったのは、高校に入学した後のこと。
廃村を回るついでに、山歩きをして美しい風景を撮影し、VLOGを投稿してみたところ、少しずつだが、チャンネルを見てくれる人が現れた。
そしてあるとき、そのうちの一つがSNSで注目を集めた。
閉山して三十年が経つ集落の動画を、某大御所俳優が『通っていた分校の校舎が映っている。懐かしい』と紹介してくれたのだ。
結果、私のチャンネルの登録者は激増した。
おかげで高校卒業後には、専業として動画作成だけで生活ができるようになった。
他の動画投稿者から編集作業を依頼されることも多くなり、最近はかなり忙しい日々だ。
登録者数は順調に増え続けている。再生回数も問題ないので、ほそぼそとだが安定した専業生活だった。
土蔵や石碑もくまなく撮影し、一息ついていると、奥に神社が見えた。
生い茂る草木をかき分けて、鳥居の前に立つ。立派なお社だ。この集落でおそらく一番、状態がいい。
撮影を続けながら裏手に回ると、不思議なものを見つけた。草で編んだ小さな輪っかが、木の枝に括り付けられていた。
「なんだろう、これ……?」
輪っかは、私の手のひらと同じくらいの大きさだった。何かのおまじないか、風習でもあるのだろうか。思わず触れると、草はまだ乾燥していなかった。艶々として柔らかい。作ってから、そう時間は経っていないように見える。
手入れをするために、集落に通っている元住人がいるのかもしれない。そういう廃村は意外に多い。平屋や他の家屋の状態を見ると管理が粗いので、このお社だけ維持管理しているのではないか。そんなことを考えながら、一通りの撮影を済ませた。
帰り支度をしていると、急にあたりが暗くなった。見上げると、真っ青だった空は灰色の雲に覆われている。湿った匂いがする、と思った瞬間、ぽつりと雨粒が落ちてきた。
天気予報が外れることは珍しくない。去年の夏も撮影中にゲリラ豪雨に見舞われ、カメラを一つダメにしてしまった。
私はすぐに荷物をバックパックに押し込んで、鳥居をくぐった。この集落で雨宿りに最も適しているのは、このお社だ。
「失礼します……少し、雨宿りさせてください」
扉を開けると、ギイ、と妙に嫌な音がした。中はほこりっぽくて薄暗い。なんとなく躊躇してしまうけど、雨の勢いは増すばかりだ。ここで止むのを待つしかない。
お社の中で腰を下ろし、カメラを確かめる。最新式はもちろん、宝物のカメラも無事だ。
(よかったぁ……)
安心して、ふっと息を吐いた。
雨はどんどん激しくなっているようだった。ゴロゴロと雷の音もする。
すると、ふいに背を向けている扉がギイ、と音を立てた。雨の湿った匂いが、お社の中にすべり込んでくる。
風かなと思ったけれど、わずかに気配を感じた。ヒタ、ヒタ、と足音も聞こえる。背中がゾクリとする。
(手入れに来てるひと、かな……?)
こわごわと扉のほうに向き直ると、着物を着た白髪の人物が立っていた。
表情は分からない。長い白髪がゆらりと揺れている。
「あ、あの……ここに住んでおられた方ですか?」
震える声で聞くと、白髪の人物がゆっくりと私のほうに近づいてくる。
(背が高いから、おじいさんかな。でも……髪が長いからおばあさん?)
「お、お社の手入れに来られたんですか? あの、私、動画を撮影していまして、それを生業にしております。えっと、あの、勝手にお邪魔して申し訳ありません……!」
ぺこぺこと頭を下げる。自分の村を勝手に撮影されて、不快に思うひとだっているだろう。
ただでさえ風当たりの強い職業だ。一部の迷惑系動画クリエーターのせいでイメージはよくないし、特に年配の方には理解されにくい仕事かもしれない。
「帰ろうとしてたんですけど、雨が降ってきて。それでここにお邪魔して、雨宿りを……」
「もしかして、見えるの?」
「は、はい……?」
顔を上げると、思ったよりも近くに相手がいた。
声にハリがある。それによく見ると、髪はきれいで艶があり、さらさらとしていた。年配者ではない。ずいぶん若い人なのだと気づく。
「君、にんげんだよね?」
「に、にんげんですが……」
答えながら、おかしなことを聞くひとだなと思った。普通は人間に「にんげんだよね」なんて聞いたりしない。
「そうですけど……」
私は目の前にいる人物を改めてよく見た。着物、靡く長い白髪……
ここは廃村だ。撮影をしながらいろいろと見て回ったけれど、この場所でひとが生活を営んでいる様子はなかった。どの家も完全に空き家だった。
そういえば、さっき「見えるの?」とも言っていたっけ。
も、もしかして、このひとって……!
「お、おばけだ……!」
私は叫び、震えながら後ずさる。
無人の集落の撮影を始めて早八年。放置された廃屋に物悲しい雰囲気は何度も感じたけれど、妖しい気配を感じたことは一度もなかった。自分には霊感がないと確信していた。
それなのに、まさかおばけに遭遇するなんて。
おばけはゆっくりと膝をつき、私に視線を合わせた。興味深そうにこちらを覗き込んでくる。ぱちぱちと瞬きをする度に、作り物のように繊細なまつ毛が揺れる。このおばけは、やたらまつ毛が長い。
おばけは竹製のカゴらしきもの持っていた。それを脇に置いて、そっと私に手を伸ばしてくる。
「ひっ!」
怖くて怖くて、思わずぎゅっと目を閉じた。握りしめた私の手のひらに、おばけの手が触れる。
「あれ、すごいね。ちゃんと触れる。君って本当ににんげんなの?」
なんだか嬉しそうなおばけの声が聞こえて、私は少し目を開けた。Tシャツの裾を握りしめている私の手を、おばけがちょんちょんと指先で突いてくる。
「んふぅっ……!」
悲鳴にならない声を上げてしまう。怖い。
そしておばけの手は生温かい。怖い。生温かいのは怖い。ん……?
「おばけなのにぬくい……」
おばけというものは、冷たいのが普通なのではないだろうか。
「僕は、おばけっていうより妖怪かなぁ」
朗らかな声でおばけが言った。
「ようかい……?」
「もののけとか、あやかしっていうやつ」
もののけ……? あやかし……?
「糸引き女っていうんだけど。聞いたことない?」
にこにこと無邪気に笑いながら、目の前のおばけは自らの素性を打ち明ける。
「し、知らないです……」
「そっか。残念だけど仕方ない。あんまりメジャーな妖怪じゃないからね」
そう言いながら、おばけはしょんぼりと項垂れる。
よほど混乱していたのか、私は目の前の存在が妖怪だかあやかしだかということよりも、性別の部分に引っ掛かってしまった。だって、間近で見ると完全に男性なのだ。
それに、自分のことを「僕」と言っていたし。
じっと凝視する私に対し、「ん?」と首を傾げながら、おばけ改め妖怪は見つめ返してくる。
あざとい仕草だけど、かなりの美形なので妙に様になっている。きらきらしたオーラさえ感じる。まつ毛は長いし、色白で肌はつるつるだし、完璧に整った甘ったるい王子様顔だった。
混乱した頭で、外見は王子様だけど中身はお姫様なのだろうか、と思考を巡らせる。内面が女性ということなのかもしれない。自らの性別は自らで決めるというのが昨今の風潮だ。
あくまでも人間の世界の話だけど。
「えっと、あなたは妖怪というか、もののけというか、あやかしで……」
「うん」
きれいな二重の瞳を輝かせながら王子様……じゃないお姫様が頷く。
「糸引き女さんで」
「うん」
自称糸引き女さんは頷きながらつんつんと突くのを止めて、私はぎゅっと手を握られた。
内心では「ひぇぇ」と思ったけど、なんとか悲鳴を上げずに済んだ。
「女性……なんですね?」
「男性だね」
はっきりと断言して、糸引き女さんは握った手をゆらゆらと揺らした。意味が分からない。
糸引き「女」なのに男性……? というか本当に妖怪?
手を繋いでいるこの状況も理解不能だ。
考えても分からない。というか、考えられない。気づいたら目の前がぼんやりとしていた。
霞がかかったようになって、きらきらの王子様顔もはっきりと見えなくなっている。
少しずつ、私の意識は遠のいていった。
♦ ♦ ♦
目を覚ますと、天井に立派な梁が見えた。
(ここ、どこだろう……?)
集落に点在していた廃屋はもちろん、あのお社にもこんな梁はなかった。ほこりっぽさも感じない。畳から、わずかにイグサのいい匂いがする。
ぐるりと部屋を見渡すと、しっかりとした建物だということが分かる。歴史を感じる日本家屋だ。
使い込まれた卓袱台、衣桁、和箪笥。古めかしいそれらを眺めていると、ふいに白髪の人物が真上から覗き込んできた。
「目が覚めた?」
声を掛けられ、驚きで心臓がぎゅっとなる。私は慌てて飛び起きた。
「お、おば……!」
いや、そういえば、おばけではないと言っていたっけ。
「い、糸引き女さん……?」
「紛らわしいから糸って呼んでくれていいよ」
「は、はぁ……あ、えっと、御崎小夏です……」
じりじりと後ずさりながら、それでもぺこりと頭を下げる。
「小夏ちゃんかぁ。かわいい名前だね」
「ど、どうも……」
他人に下の名前で呼ばれた記憶がほとんどないので、どう反応していいのか分からない。
「なんだか誤解しているみたいだから説明すると、僕は男で、糸引き女っていう呼び名はにんげんが勝手に付けたものだから」
「そ、そうなんですか……?」
「昔ね、着物のほつれを道端で修復してたら、通りかかったひとに声を掛けられて。あやかしが見えるにんげんだったんだろうね。あ、ほら、僕って長い髪じゃない? それで女性だって勘違いしたみたい」
「は、はぁ……」
「それでね、間違ってますよ、僕は女性じゃないですよってはっきりと主張したんだけど。なんか、白髪だから老婆だと思われたみたいで。おまけに大声で相手を驚かせたことになっててさ」
「へ、へぇ……」
「後で糸引き女の伝承を知ったとき、自分のことだって分からなかったよ。当然だよね、僕とぜんぜん違うもんね? そう思わない?」
「えっと……」
同意を求められても、後で自分の伝承を確認するという状況になったことがないのでよく分からない。
「しかも手縫いだったんだよ? 針と糸しか持ってなかったのに、いつの間にか糸車で糸を引いてたことになってるし……」
ため息をつきながら肩を落とす糸さんの姿に、なんとなく同情してしまう。
「そ、それは、災難でしたね……」
事実がかなり歪曲されている。しかし伝承とはそういうものかもしれない。現代でいうところの口コミや、誰が書いたか分からないネット記事みたいなものだろうか。
着物から作務衣姿になった糸さんが、いつの間にか至近距離にいた。
淡い青色の瞳にじっと見つめられて変な汗をかく。恐怖もあるのだけど、整い過ぎた顔面の圧というか、きらきら感がまぶしくて心臓に悪い。
「顔色、少しはよくなったね」
「あ、ありがとうございます」
私はしばらくの間、気を失っていたらしい。
いきなり妖怪だと名乗る白髪の人物に遭遇したのだから、仕方がない。
「ここは……?」
「僕の家だよ」
「……すてきなお家ですね」
改めて室内を見回した。本当に立派な建物だ。ものすごく撮影したい。動画クリエーターの血が騒いでうずうずする。
失礼かなと思いながらもきょろきょろと観察していると、ちょん、と糸さんの指先が私の手の甲に触れた。
「やっぱり触れるなぁ」
「そ、そうですね」
ビクリと反応しながらも冷静を装う。あまり驚いたら、彼に対して失礼だろう。
本当はまだ、めちゃくちゃ怖いのだけど。
「ずっと考えてたんだけど、もしかして茅の輪に触れた?」
「ちのわ……?」
「うん、これくらいの草の輪っか」
糸さんが手で輪を作る。小さな草の輪。そういえば、あった。
「お社の裏手の……?」
「やっぱり!」
糸さんが納得したように頷いている。彼と会話ができるのも、触れることができるのも、どうやらあの草の輪が原因らしい。
「あの茅の輪は古くて、そのぶん力もあるからね」
「あの草……茅の輪、ですか? まだ青々としてましたけど」
刈り取ったばかりといった感じで、触れると柔らかく、艶々としていた。
「何百年も前からあの状態らしいよ」
「そうなんですか……」
自分(人間)の常識が通じないことを思い知らされて、軽いショックを受ける。
草の輪は『夏越の祓』に欠かせないものだと糸さんは言った。無病息災を願う神事だということは私も知っている。
「あやかしの世界にも、そういうのあるんですね」
「もちろんだよ。一年を健康に過ごしたいからね」
あやかしも風邪を引いたりするのだろうか、と心の中で考える。
「そういえば、茅の輪がずいぶん小さかった気がするんですけど」
いつだったか、神社の境内に設置された巨大な輪を見たことがあった。直径は数メートルあったと思う。その輪をくぐることで、厄災を祓い、清めるのだ。
「あの大きさだと、くぐれないんじゃないですか?」
「念力で人形を作ってくぐるから問題ないよ」
なるほど。それは便利だ。
大きな輪を作らなくても事足りるなんて、あやかしって楽でいい。
「そうだ、小夏ちゃん。お腹空かない? ちょうど、うどんが茹で上がったところなんだ。一緒に食べない?」
正直に言うと、お腹はかなり減っている。徒歩で山道を二時間も歩いたのでぺこぺこの状態だった。うどん、と聞いて私のお腹が「ぐるるるー!」と反応する。
「えっと、これは」
慌てて自分のお腹を押さえたけど、はっきりと彼の耳にも届いたらしい。
「遠慮しないで。持ってくるから」
そう言って、糸さんはうきうきしながら部屋を出て行った。
しばらくすると、木彫りの丸盆に器を二つ載せて糸さんが部屋に戻ってきた。
「どうぞ」
卓袱台にコトリと器が置かれる。器は涼やかな硝子製だった。
たっぷりと出汁がかかった冷やしうどん。具は山菜とネギと油揚げ。
ふわりと出汁のいい香りがする。思わずゴクリと喉が鳴った。
『あやかしの拵えた料理』を目の前にして一抹の不安がよぎったけれど、意識を失った私を手当てしてくれたようだし、彼はきっと悪いあやかしではないのだろう。
「い、いただきます……」
「召し上がれ」
つるりと冷たいうどんが、疲弊した体に力をくれる。
山菜はどれもクセがなく、シャキシャキと歯ごたえがあった。
うどんにはコシがあって、のどごしも最高だ。
たっぷりと添えられた油揚げは甘辛く味付けされている。少し濃いめの味付けだから、すごく満足感があった。噛むと、じゅわっと油揚げから濃い味が沁みだしてくる。
ちゅるちゅると無心ですすり、あっという間に完食した。
「いい食べっぷりだね」
「お、美味しかったので……ごちそうさまでした」
勢いよく頬張る姿を見られたことが恥ずかしい。
でもお腹が膨れたことで、やっと緊張が解けてきた。
糸さんはつるつるとうどんをすすっている。豪快に完食した自分とは違い、まだ半分以上も残っている。なんとも上品な食べ方だった。
「夏に冷たいうどんって、やっぱりいいなぁ。僕が打ったんだよ」
「すごく美味しかったです」
うどんは糸さんの手打ちらしい。のどごしが最高だった理由が分かった。
「一応、山菜が自慢なんだよね」
続けて糸さんから話を聞くと、採ってすぐに下処理をしたものだという。
「山菜って、もしかしてカゴに入っていたやつですか?」
お社で会ったとき、そういえば彼は竹製のカゴを持っていた。
「そうだよ。毎日採りに行くんだ。いつお客さんが来てもいいように」
「お客さん?」
「うちは旅籠なんだよ」
糸さんがこの立派な建物について話してくれた。
屋号は紬屋というらしい。もちろん人間相手の商売ではない。
あやかしたちが通る『道』というのが存在していて、その道沿いにこの旅籠はあるという。
「つまり、あやかし街道みたいなものだね」
「宿場みたいに栄えては……なさそうですね……?」
客が泊まっている様子はない。遠慮がちに確認してみると、糸さんは困り顔になった。
初夏。新緑の美しい季節の山歩きは楽しい。
すっきりと晴れた青空に、みずみずしい若葉がよく映える。風に揺られて、枝葉がさらりと音を立てた。
かすかに鳥の鳴き声が聞こえる。歩を進めると、少しずつさえずりが大きくなった。澄んだ高音だ。ピリリ、ピロリリン、とゆったりとうたうようなメロディが心地いい。
注意深く観察していると、広葉樹の枝に小鳥を見つけた。鮮やかな青色をしている。
スズメよりひと回りほど大きなそれは、羽の色からしておそらくオオルリだろう。
春に南方から渡来して、秋になるとまた南方に渡去していく夏鳥だ。
私は立ち止まって、背負っていたバックパックからカメラを取り出した。
晴れた青空と美しい新緑、羽を細かく震わせながらさえずるオオルリの姿をカメラにおさめる。
古いデジタルカメラだけど、まだじゅうぶんに現役だった。十年前、私が十一歳のときに祖母が買ってくれた宝物のカメラ。布のカメラケースは祖母であるツユの手製で、赤いチェック柄がかわいい、ふかふか仕様だ。裏面には、御崎小夏と、私の名前が刺繍されている。
実際に仕事で使うのは手ブレ補正が優秀な最新式のカメラなのだけれど、心惹かれた風景はついこの宝物のカメラでシャッターを切ってしまう。
私は大事にカメラをバックパックにしまい、目的地を目指して再び歩き始めた。
初夏といえども気温は高い。撮影機材を背負って歩くのは重労働だった。舗装されていない坂道は、想像以上に体力を奪われる。顎から汗が滴り落ちてきた。
キャップを取り汗を拭っていると、長い黒髪がはらりとほどけた。それを結び直してから、よし、と気合を入れ直す。
私は小柄で痩せ型の割には体力があるほうだと思う。根性があるというか、我慢強いとも思っている。そうでなければこの季節に一人で山奥に来たりはしない。
しばらくすると、新緑の中に潰れかけた平屋が見えた。その奥にも、民家らしき廃屋がぽつりぽつりと残っている。
(あった……)
今回も無事に辿り着いた。
最寄り駅からタクシーで四十分。山の入口から徒歩で約二時間。ここはかつて、山仕事をしていた人々が暮らしていた農山村だ。四十年以上も前、集団移転によって無人の集落になり、現在は廃村となっている。
私は最新式の高性能カメラで撮影を始めた。一軒ずつ、廃屋の隅々までカメラにおさめる。傷んだ柱や、朽ちた引き戸。潰れかけの家屋をひたすら撮り続ける。
私はいわゆる、動画クリエーターというやつだ。撮影から編集まですべて一人で行う。
無人の集落の撮影を始めたのは中学生の頃。きっかけは、祖母だった。
祖母は子どもの頃から引っ越しが多く、農山村を転々としていたという。祖母の父、私からすると曾祖父にあたる人が山仕事に従事していたらしいのだ。
祖母が曾祖父の人柄や、幼い時分の話をすることは滅多になかった。引っ越しを繰り返したせいでほとんど友達ができず、子ども時代にいい思い出はないらしかった。
それでも、体を悪くして入退院を繰り返すようになってからは、ときどき昔の話を聞かせてくれた。ぽつりぽつりと懐かしそうに語っていた。
残念ながら祖母の手元には子ども時代の写真は一枚も残っておらず、それならと私が代わりに祖母の故郷を尋ね歩き、動画の撮影も始めたのだった。
祖母がかつて暮らした農山村は、そのほとんどが廃村になっていた。時代の変化といえば、そうなのかもしれない。
病院のベッドの上で、私が撮影した映像を眺めながら「すっかり変わっちゃったねぇ」「でも、面影がある」「懐かしい」と微笑む祖母は幸せそうで、どこか寂しそうだった。
動画を配信サイトで公開するようになったのは、高校に入学した後のこと。
廃村を回るついでに、山歩きをして美しい風景を撮影し、VLOGを投稿してみたところ、少しずつだが、チャンネルを見てくれる人が現れた。
そしてあるとき、そのうちの一つがSNSで注目を集めた。
閉山して三十年が経つ集落の動画を、某大御所俳優が『通っていた分校の校舎が映っている。懐かしい』と紹介してくれたのだ。
結果、私のチャンネルの登録者は激増した。
おかげで高校卒業後には、専業として動画作成だけで生活ができるようになった。
他の動画投稿者から編集作業を依頼されることも多くなり、最近はかなり忙しい日々だ。
登録者数は順調に増え続けている。再生回数も問題ないので、ほそぼそとだが安定した専業生活だった。
土蔵や石碑もくまなく撮影し、一息ついていると、奥に神社が見えた。
生い茂る草木をかき分けて、鳥居の前に立つ。立派なお社だ。この集落でおそらく一番、状態がいい。
撮影を続けながら裏手に回ると、不思議なものを見つけた。草で編んだ小さな輪っかが、木の枝に括り付けられていた。
「なんだろう、これ……?」
輪っかは、私の手のひらと同じくらいの大きさだった。何かのおまじないか、風習でもあるのだろうか。思わず触れると、草はまだ乾燥していなかった。艶々として柔らかい。作ってから、そう時間は経っていないように見える。
手入れをするために、集落に通っている元住人がいるのかもしれない。そういう廃村は意外に多い。平屋や他の家屋の状態を見ると管理が粗いので、このお社だけ維持管理しているのではないか。そんなことを考えながら、一通りの撮影を済ませた。
帰り支度をしていると、急にあたりが暗くなった。見上げると、真っ青だった空は灰色の雲に覆われている。湿った匂いがする、と思った瞬間、ぽつりと雨粒が落ちてきた。
天気予報が外れることは珍しくない。去年の夏も撮影中にゲリラ豪雨に見舞われ、カメラを一つダメにしてしまった。
私はすぐに荷物をバックパックに押し込んで、鳥居をくぐった。この集落で雨宿りに最も適しているのは、このお社だ。
「失礼します……少し、雨宿りさせてください」
扉を開けると、ギイ、と妙に嫌な音がした。中はほこりっぽくて薄暗い。なんとなく躊躇してしまうけど、雨の勢いは増すばかりだ。ここで止むのを待つしかない。
お社の中で腰を下ろし、カメラを確かめる。最新式はもちろん、宝物のカメラも無事だ。
(よかったぁ……)
安心して、ふっと息を吐いた。
雨はどんどん激しくなっているようだった。ゴロゴロと雷の音もする。
すると、ふいに背を向けている扉がギイ、と音を立てた。雨の湿った匂いが、お社の中にすべり込んでくる。
風かなと思ったけれど、わずかに気配を感じた。ヒタ、ヒタ、と足音も聞こえる。背中がゾクリとする。
(手入れに来てるひと、かな……?)
こわごわと扉のほうに向き直ると、着物を着た白髪の人物が立っていた。
表情は分からない。長い白髪がゆらりと揺れている。
「あ、あの……ここに住んでおられた方ですか?」
震える声で聞くと、白髪の人物がゆっくりと私のほうに近づいてくる。
(背が高いから、おじいさんかな。でも……髪が長いからおばあさん?)
「お、お社の手入れに来られたんですか? あの、私、動画を撮影していまして、それを生業にしております。えっと、あの、勝手にお邪魔して申し訳ありません……!」
ぺこぺこと頭を下げる。自分の村を勝手に撮影されて、不快に思うひとだっているだろう。
ただでさえ風当たりの強い職業だ。一部の迷惑系動画クリエーターのせいでイメージはよくないし、特に年配の方には理解されにくい仕事かもしれない。
「帰ろうとしてたんですけど、雨が降ってきて。それでここにお邪魔して、雨宿りを……」
「もしかして、見えるの?」
「は、はい……?」
顔を上げると、思ったよりも近くに相手がいた。
声にハリがある。それによく見ると、髪はきれいで艶があり、さらさらとしていた。年配者ではない。ずいぶん若い人なのだと気づく。
「君、にんげんだよね?」
「に、にんげんですが……」
答えながら、おかしなことを聞くひとだなと思った。普通は人間に「にんげんだよね」なんて聞いたりしない。
「そうですけど……」
私は目の前にいる人物を改めてよく見た。着物、靡く長い白髪……
ここは廃村だ。撮影をしながらいろいろと見て回ったけれど、この場所でひとが生活を営んでいる様子はなかった。どの家も完全に空き家だった。
そういえば、さっき「見えるの?」とも言っていたっけ。
も、もしかして、このひとって……!
「お、おばけだ……!」
私は叫び、震えながら後ずさる。
無人の集落の撮影を始めて早八年。放置された廃屋に物悲しい雰囲気は何度も感じたけれど、妖しい気配を感じたことは一度もなかった。自分には霊感がないと確信していた。
それなのに、まさかおばけに遭遇するなんて。
おばけはゆっくりと膝をつき、私に視線を合わせた。興味深そうにこちらを覗き込んでくる。ぱちぱちと瞬きをする度に、作り物のように繊細なまつ毛が揺れる。このおばけは、やたらまつ毛が長い。
おばけは竹製のカゴらしきもの持っていた。それを脇に置いて、そっと私に手を伸ばしてくる。
「ひっ!」
怖くて怖くて、思わずぎゅっと目を閉じた。握りしめた私の手のひらに、おばけの手が触れる。
「あれ、すごいね。ちゃんと触れる。君って本当ににんげんなの?」
なんだか嬉しそうなおばけの声が聞こえて、私は少し目を開けた。Tシャツの裾を握りしめている私の手を、おばけがちょんちょんと指先で突いてくる。
「んふぅっ……!」
悲鳴にならない声を上げてしまう。怖い。
そしておばけの手は生温かい。怖い。生温かいのは怖い。ん……?
「おばけなのにぬくい……」
おばけというものは、冷たいのが普通なのではないだろうか。
「僕は、おばけっていうより妖怪かなぁ」
朗らかな声でおばけが言った。
「ようかい……?」
「もののけとか、あやかしっていうやつ」
もののけ……? あやかし……?
「糸引き女っていうんだけど。聞いたことない?」
にこにこと無邪気に笑いながら、目の前のおばけは自らの素性を打ち明ける。
「し、知らないです……」
「そっか。残念だけど仕方ない。あんまりメジャーな妖怪じゃないからね」
そう言いながら、おばけはしょんぼりと項垂れる。
よほど混乱していたのか、私は目の前の存在が妖怪だかあやかしだかということよりも、性別の部分に引っ掛かってしまった。だって、間近で見ると完全に男性なのだ。
それに、自分のことを「僕」と言っていたし。
じっと凝視する私に対し、「ん?」と首を傾げながら、おばけ改め妖怪は見つめ返してくる。
あざとい仕草だけど、かなりの美形なので妙に様になっている。きらきらしたオーラさえ感じる。まつ毛は長いし、色白で肌はつるつるだし、完璧に整った甘ったるい王子様顔だった。
混乱した頭で、外見は王子様だけど中身はお姫様なのだろうか、と思考を巡らせる。内面が女性ということなのかもしれない。自らの性別は自らで決めるというのが昨今の風潮だ。
あくまでも人間の世界の話だけど。
「えっと、あなたは妖怪というか、もののけというか、あやかしで……」
「うん」
きれいな二重の瞳を輝かせながら王子様……じゃないお姫様が頷く。
「糸引き女さんで」
「うん」
自称糸引き女さんは頷きながらつんつんと突くのを止めて、私はぎゅっと手を握られた。
内心では「ひぇぇ」と思ったけど、なんとか悲鳴を上げずに済んだ。
「女性……なんですね?」
「男性だね」
はっきりと断言して、糸引き女さんは握った手をゆらゆらと揺らした。意味が分からない。
糸引き「女」なのに男性……? というか本当に妖怪?
手を繋いでいるこの状況も理解不能だ。
考えても分からない。というか、考えられない。気づいたら目の前がぼんやりとしていた。
霞がかかったようになって、きらきらの王子様顔もはっきりと見えなくなっている。
少しずつ、私の意識は遠のいていった。
♦ ♦ ♦
目を覚ますと、天井に立派な梁が見えた。
(ここ、どこだろう……?)
集落に点在していた廃屋はもちろん、あのお社にもこんな梁はなかった。ほこりっぽさも感じない。畳から、わずかにイグサのいい匂いがする。
ぐるりと部屋を見渡すと、しっかりとした建物だということが分かる。歴史を感じる日本家屋だ。
使い込まれた卓袱台、衣桁、和箪笥。古めかしいそれらを眺めていると、ふいに白髪の人物が真上から覗き込んできた。
「目が覚めた?」
声を掛けられ、驚きで心臓がぎゅっとなる。私は慌てて飛び起きた。
「お、おば……!」
いや、そういえば、おばけではないと言っていたっけ。
「い、糸引き女さん……?」
「紛らわしいから糸って呼んでくれていいよ」
「は、はぁ……あ、えっと、御崎小夏です……」
じりじりと後ずさりながら、それでもぺこりと頭を下げる。
「小夏ちゃんかぁ。かわいい名前だね」
「ど、どうも……」
他人に下の名前で呼ばれた記憶がほとんどないので、どう反応していいのか分からない。
「なんだか誤解しているみたいだから説明すると、僕は男で、糸引き女っていう呼び名はにんげんが勝手に付けたものだから」
「そ、そうなんですか……?」
「昔ね、着物のほつれを道端で修復してたら、通りかかったひとに声を掛けられて。あやかしが見えるにんげんだったんだろうね。あ、ほら、僕って長い髪じゃない? それで女性だって勘違いしたみたい」
「は、はぁ……」
「それでね、間違ってますよ、僕は女性じゃないですよってはっきりと主張したんだけど。なんか、白髪だから老婆だと思われたみたいで。おまけに大声で相手を驚かせたことになっててさ」
「へ、へぇ……」
「後で糸引き女の伝承を知ったとき、自分のことだって分からなかったよ。当然だよね、僕とぜんぜん違うもんね? そう思わない?」
「えっと……」
同意を求められても、後で自分の伝承を確認するという状況になったことがないのでよく分からない。
「しかも手縫いだったんだよ? 針と糸しか持ってなかったのに、いつの間にか糸車で糸を引いてたことになってるし……」
ため息をつきながら肩を落とす糸さんの姿に、なんとなく同情してしまう。
「そ、それは、災難でしたね……」
事実がかなり歪曲されている。しかし伝承とはそういうものかもしれない。現代でいうところの口コミや、誰が書いたか分からないネット記事みたいなものだろうか。
着物から作務衣姿になった糸さんが、いつの間にか至近距離にいた。
淡い青色の瞳にじっと見つめられて変な汗をかく。恐怖もあるのだけど、整い過ぎた顔面の圧というか、きらきら感がまぶしくて心臓に悪い。
「顔色、少しはよくなったね」
「あ、ありがとうございます」
私はしばらくの間、気を失っていたらしい。
いきなり妖怪だと名乗る白髪の人物に遭遇したのだから、仕方がない。
「ここは……?」
「僕の家だよ」
「……すてきなお家ですね」
改めて室内を見回した。本当に立派な建物だ。ものすごく撮影したい。動画クリエーターの血が騒いでうずうずする。
失礼かなと思いながらもきょろきょろと観察していると、ちょん、と糸さんの指先が私の手の甲に触れた。
「やっぱり触れるなぁ」
「そ、そうですね」
ビクリと反応しながらも冷静を装う。あまり驚いたら、彼に対して失礼だろう。
本当はまだ、めちゃくちゃ怖いのだけど。
「ずっと考えてたんだけど、もしかして茅の輪に触れた?」
「ちのわ……?」
「うん、これくらいの草の輪っか」
糸さんが手で輪を作る。小さな草の輪。そういえば、あった。
「お社の裏手の……?」
「やっぱり!」
糸さんが納得したように頷いている。彼と会話ができるのも、触れることができるのも、どうやらあの草の輪が原因らしい。
「あの茅の輪は古くて、そのぶん力もあるからね」
「あの草……茅の輪、ですか? まだ青々としてましたけど」
刈り取ったばかりといった感じで、触れると柔らかく、艶々としていた。
「何百年も前からあの状態らしいよ」
「そうなんですか……」
自分(人間)の常識が通じないことを思い知らされて、軽いショックを受ける。
草の輪は『夏越の祓』に欠かせないものだと糸さんは言った。無病息災を願う神事だということは私も知っている。
「あやかしの世界にも、そういうのあるんですね」
「もちろんだよ。一年を健康に過ごしたいからね」
あやかしも風邪を引いたりするのだろうか、と心の中で考える。
「そういえば、茅の輪がずいぶん小さかった気がするんですけど」
いつだったか、神社の境内に設置された巨大な輪を見たことがあった。直径は数メートルあったと思う。その輪をくぐることで、厄災を祓い、清めるのだ。
「あの大きさだと、くぐれないんじゃないですか?」
「念力で人形を作ってくぐるから問題ないよ」
なるほど。それは便利だ。
大きな輪を作らなくても事足りるなんて、あやかしって楽でいい。
「そうだ、小夏ちゃん。お腹空かない? ちょうど、うどんが茹で上がったところなんだ。一緒に食べない?」
正直に言うと、お腹はかなり減っている。徒歩で山道を二時間も歩いたのでぺこぺこの状態だった。うどん、と聞いて私のお腹が「ぐるるるー!」と反応する。
「えっと、これは」
慌てて自分のお腹を押さえたけど、はっきりと彼の耳にも届いたらしい。
「遠慮しないで。持ってくるから」
そう言って、糸さんはうきうきしながら部屋を出て行った。
しばらくすると、木彫りの丸盆に器を二つ載せて糸さんが部屋に戻ってきた。
「どうぞ」
卓袱台にコトリと器が置かれる。器は涼やかな硝子製だった。
たっぷりと出汁がかかった冷やしうどん。具は山菜とネギと油揚げ。
ふわりと出汁のいい香りがする。思わずゴクリと喉が鳴った。
『あやかしの拵えた料理』を目の前にして一抹の不安がよぎったけれど、意識を失った私を手当てしてくれたようだし、彼はきっと悪いあやかしではないのだろう。
「い、いただきます……」
「召し上がれ」
つるりと冷たいうどんが、疲弊した体に力をくれる。
山菜はどれもクセがなく、シャキシャキと歯ごたえがあった。
うどんにはコシがあって、のどごしも最高だ。
たっぷりと添えられた油揚げは甘辛く味付けされている。少し濃いめの味付けだから、すごく満足感があった。噛むと、じゅわっと油揚げから濃い味が沁みだしてくる。
ちゅるちゅると無心ですすり、あっという間に完食した。
「いい食べっぷりだね」
「お、美味しかったので……ごちそうさまでした」
勢いよく頬張る姿を見られたことが恥ずかしい。
でもお腹が膨れたことで、やっと緊張が解けてきた。
糸さんはつるつるとうどんをすすっている。豪快に完食した自分とは違い、まだ半分以上も残っている。なんとも上品な食べ方だった。
「夏に冷たいうどんって、やっぱりいいなぁ。僕が打ったんだよ」
「すごく美味しかったです」
うどんは糸さんの手打ちらしい。のどごしが最高だった理由が分かった。
「一応、山菜が自慢なんだよね」
続けて糸さんから話を聞くと、採ってすぐに下処理をしたものだという。
「山菜って、もしかしてカゴに入っていたやつですか?」
お社で会ったとき、そういえば彼は竹製のカゴを持っていた。
「そうだよ。毎日採りに行くんだ。いつお客さんが来てもいいように」
「お客さん?」
「うちは旅籠なんだよ」
糸さんがこの立派な建物について話してくれた。
屋号は紬屋というらしい。もちろん人間相手の商売ではない。
あやかしたちが通る『道』というのが存在していて、その道沿いにこの旅籠はあるという。
「つまり、あやかし街道みたいなものだね」
「宿場みたいに栄えては……なさそうですね……?」
客が泊まっている様子はない。遠慮がちに確認してみると、糸さんは困り顔になった。
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