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8.料理苦手女子が作るたまご雑炊
子供のころ
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『母親はキッチンに立たないひとだったから』
『そうなんだ』
『父親はいつも料理してたけど、家では何もしない』
『もしかして、料理人さん?』
『そう』
父子そろって料理好き。なんか、良いな。一緒に料理したりするんだろうか。
『お父さんに料理を教わったの?』
『独学』
意外な返答に、思わず画面をタップする手が止まる。
『いつだったか、気を張る店が苦手って言ってたじゃん』
『うん』
『父親の店、めちゃくちゃそんな感じの店で』
思わず冷や汗をかく。
『ご、ごめん! 悪く言うつもりはなくて!』
ガツガツ食べたいがゆえの言葉というか。つまり私の食い意地が上品さを欠いているだけで。
『ぜんぜん。俺も同意見だから。なんか、気取ってるっていうか。客を選んでる感じがイヤだ』
郡司の父は、銀座にある高級店のオーナーシェフらしい。郡司が幼い頃ころから、不在がちだったという。
『お仕事、忙しかったんだね』
『女だよ』
『え?』
『ずっと愛人がいんの』
『そう、なんだ……』
それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。
『俺は、誰でもウェルカムな店をやりたい』
『店って、ごはん屋さん?』
『そう。でも』
『うん?』
『何料理の店にしたいか、そこまでは決まってなくて』
『うん』
『どんな料理を作りたいか、考えてて。今のとこでバイトしてる』
もしかしたら、父親への反発もあるのかもしれない。たとえそうだとしても、自分がやりたいと思える仕事があるのは良いことだ。
『将来のことを考えているなんてすごいね』
私は、特にやりたいことがなかった。奨学金を借りて大学へ進学したものの、返済のことを考えると気が重かった。
ずっと犬を飼いたいと思っていたし、動物は好きだった。働き甲斐もあるし、環境にも恵まれたと思う。今は、入社して本当に良かったと思っている。
就活の際、何社か面接を受けて内定をもらえたのが、わんにゃんスマイルだった。弟妹たちのことを思うと母親には頼れず、とにかく就職してがむしゃらに働いた。
役職がつき、それに伴い収入も上がった。完済のめどが立ったときは嬉しかった。いや、安堵した。誰かと遊びに行くこともなく、自分なりに節約して暮らした。
料理が苦手だから、ごはんはコンビニや外食を頼ってしまったけれど。
自分のことも、ぽつりぽつりと郡司に話す。途中でタップする手が疲れたので、会話に移行した。喉の調子は良くなったらしい。それでも、『まだ本調子じゃないから、うつる』と言って、アプリを通しての会話になった。
『今日ね、ごはん作りながら思ったんだけど』
『わたあめの?』
『どっちかっていうと、郡司くんのほう』
『うん』
『楽しかったんだよね』
『うん』
『買い物してるときも、レシピ探してるときも。材料を切って、手ごろな大きさの鍋を探して、棚を見てたら土鍋があって。コトコト煮込んでる時間も、楽しかった』
『うん』
郡司の掠れた声が耳に届く。相槌の「うん」は、全部違っていて、低かったり、よく聞こえなかったり、とぎれとぎれだったりした。
『うちはIHキッチンだけど、ここはガスコンロじゃない?』
『そうだね』
『火をつけるときの、チッチッチっていう音とか、ぜんぶ楽しかった』
『音が楽しいの?』
くすくすと笑う声が、耳の奥にダイレクトに響く。
『私、どうして、料理が苦手だと思ってたんだろう』
上手に作れないというより、嫌いだというニュアンスを多く含んでいたことに、今さら気づいた。
わずかな沈黙のあと、郡司が言葉を発した。
『無理やり、作ってたからじゃない? 子供のころ』
『あー……、うん。でも、正直に言うと、郡司くんには多少オーバーに伝えていたというか』
誇張していたことを恥ずかしく思いながら詫びる。
『でも、料理を担当してたのは本当なんでしょ』
『まあね』
『それって、週にどれくらい?』
ほとんど、毎日だった。だからこそ、たまに母親が作る和食ごはんが好きで。
『弟妹さんたち、いるんだよね』
『うん、でもね。私が一番上だったから』
『……何歳違うの?』
郡司が、言葉を選んでいるのが分かる。慎重に、私の中に足を踏み入れようとしているのを感じる。
『私と弟は一歳違いで、妹とは三つ離れてる』
『ほとんど変わらないじゃん』
『子供のころの一年は大きいんだよ』
そう言いながら、自分でもおかしいなと思い始める。
『じゃあ、杏さんが主導して、弟妹さんたちに手伝ってもらう感じ?』
『……そういうのは、なかったな』
どうしてだろう。手伝ってもらえばよかったのに、ぜんぶ自分の役割だと思っていた。そうしなければと、思って、ひとりでがんばって……。
『掃除とか、洗濯とかも……?』
『う、うん。私がやってた』
『それで、弟妹たちの面倒もみてたの?』
『そ、そうだね……』
面白がって、自分の過去を誇張したつもりだった。
話を盛って郡司に聞かせたつもりでいた。でも、違った。彼に伝えていたことは、ぜんぶ真実に違いなかった。
なにひとつ、大げさなことはなかった。
ぐらぐらと、信じていたものが急に崩れていくような気がした。世界がぐるりと反転したような、でもその世界に自分はまるでついていけなくて。
『もしかして、私って、けっこう頑張ってたのかなーー!』
わざとらしいくらいの明るい声が、行き場を失ったみたいに宙に浮く。
『そうなんだ』
『父親はいつも料理してたけど、家では何もしない』
『もしかして、料理人さん?』
『そう』
父子そろって料理好き。なんか、良いな。一緒に料理したりするんだろうか。
『お父さんに料理を教わったの?』
『独学』
意外な返答に、思わず画面をタップする手が止まる。
『いつだったか、気を張る店が苦手って言ってたじゃん』
『うん』
『父親の店、めちゃくちゃそんな感じの店で』
思わず冷や汗をかく。
『ご、ごめん! 悪く言うつもりはなくて!』
ガツガツ食べたいがゆえの言葉というか。つまり私の食い意地が上品さを欠いているだけで。
『ぜんぜん。俺も同意見だから。なんか、気取ってるっていうか。客を選んでる感じがイヤだ』
郡司の父は、銀座にある高級店のオーナーシェフらしい。郡司が幼い頃ころから、不在がちだったという。
『お仕事、忙しかったんだね』
『女だよ』
『え?』
『ずっと愛人がいんの』
『そう、なんだ……』
それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。
『俺は、誰でもウェルカムな店をやりたい』
『店って、ごはん屋さん?』
『そう。でも』
『うん?』
『何料理の店にしたいか、そこまでは決まってなくて』
『うん』
『どんな料理を作りたいか、考えてて。今のとこでバイトしてる』
もしかしたら、父親への反発もあるのかもしれない。たとえそうだとしても、自分がやりたいと思える仕事があるのは良いことだ。
『将来のことを考えているなんてすごいね』
私は、特にやりたいことがなかった。奨学金を借りて大学へ進学したものの、返済のことを考えると気が重かった。
ずっと犬を飼いたいと思っていたし、動物は好きだった。働き甲斐もあるし、環境にも恵まれたと思う。今は、入社して本当に良かったと思っている。
就活の際、何社か面接を受けて内定をもらえたのが、わんにゃんスマイルだった。弟妹たちのことを思うと母親には頼れず、とにかく就職してがむしゃらに働いた。
役職がつき、それに伴い収入も上がった。完済のめどが立ったときは嬉しかった。いや、安堵した。誰かと遊びに行くこともなく、自分なりに節約して暮らした。
料理が苦手だから、ごはんはコンビニや外食を頼ってしまったけれど。
自分のことも、ぽつりぽつりと郡司に話す。途中でタップする手が疲れたので、会話に移行した。喉の調子は良くなったらしい。それでも、『まだ本調子じゃないから、うつる』と言って、アプリを通しての会話になった。
『今日ね、ごはん作りながら思ったんだけど』
『わたあめの?』
『どっちかっていうと、郡司くんのほう』
『うん』
『楽しかったんだよね』
『うん』
『買い物してるときも、レシピ探してるときも。材料を切って、手ごろな大きさの鍋を探して、棚を見てたら土鍋があって。コトコト煮込んでる時間も、楽しかった』
『うん』
郡司の掠れた声が耳に届く。相槌の「うん」は、全部違っていて、低かったり、よく聞こえなかったり、とぎれとぎれだったりした。
『うちはIHキッチンだけど、ここはガスコンロじゃない?』
『そうだね』
『火をつけるときの、チッチッチっていう音とか、ぜんぶ楽しかった』
『音が楽しいの?』
くすくすと笑う声が、耳の奥にダイレクトに響く。
『私、どうして、料理が苦手だと思ってたんだろう』
上手に作れないというより、嫌いだというニュアンスを多く含んでいたことに、今さら気づいた。
わずかな沈黙のあと、郡司が言葉を発した。
『無理やり、作ってたからじゃない? 子供のころ』
『あー……、うん。でも、正直に言うと、郡司くんには多少オーバーに伝えていたというか』
誇張していたことを恥ずかしく思いながら詫びる。
『でも、料理を担当してたのは本当なんでしょ』
『まあね』
『それって、週にどれくらい?』
ほとんど、毎日だった。だからこそ、たまに母親が作る和食ごはんが好きで。
『弟妹さんたち、いるんだよね』
『うん、でもね。私が一番上だったから』
『……何歳違うの?』
郡司が、言葉を選んでいるのが分かる。慎重に、私の中に足を踏み入れようとしているのを感じる。
『私と弟は一歳違いで、妹とは三つ離れてる』
『ほとんど変わらないじゃん』
『子供のころの一年は大きいんだよ』
そう言いながら、自分でもおかしいなと思い始める。
『じゃあ、杏さんが主導して、弟妹さんたちに手伝ってもらう感じ?』
『……そういうのは、なかったな』
どうしてだろう。手伝ってもらえばよかったのに、ぜんぶ自分の役割だと思っていた。そうしなければと、思って、ひとりでがんばって……。
『掃除とか、洗濯とかも……?』
『う、うん。私がやってた』
『それで、弟妹たちの面倒もみてたの?』
『そ、そうだね……』
面白がって、自分の過去を誇張したつもりだった。
話を盛って郡司に聞かせたつもりでいた。でも、違った。彼に伝えていたことは、ぜんぶ真実に違いなかった。
なにひとつ、大げさなことはなかった。
ぐらぐらと、信じていたものが急に崩れていくような気がした。世界がぐるりと反転したような、でもその世界に自分はまるでついていけなくて。
『もしかして、私って、けっこう頑張ってたのかなーー!』
わざとらしいくらいの明るい声が、行き場を失ったみたいに宙に浮く。
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