5 / 50
1.赤かぶ漬け(岐阜)
帰り道
しおりを挟む
ふらつく足取りながら、何とか結野は自力で部屋に戻って行った。貫井は顔に出ない性質だ。いつものように生白い顔のまま「ごちそうさま」と言って、食堂を後にした。
火の元と作業場にある勝手口の戸締りを確認して、千影も帰宅する準備を整える。
アパートへの帰り道、歩きながら「今日も充実した一日だった」と晴れやかな気持ちになった。
少し前までは、反省したり落ち込んだりすることのほうが多かった。
寮に住む社員たちとうまくコミュニケーションをとることができなかったのだ。
去年の晩夏、千影はワカミヤに入社した。勤めていた創作料理店の閉店に伴い、転職活動を始めて真っ先に目に留まったのが社員寮のまかない係の求人だった。
食材の買い付けから調理まで一人で担当すると知ってやりがいを感じた。同時に、杉野館のまかない係は自分ひとりだけという点に安心感を抱いた。
他人と関わることが苦手な自分には合っていると思った。面接では「住人である社員と関わることはほとんどありません」と説明された。
「配膳のときに顔を合わせる程度だと聞いています」
とも言われたが、実際に働いてみると「それなりに関わりがあるな」というのが正直な感想だった。当然といえば当然だった。アレルギーの有無を把握したり、それぞれの好みを聞いたり、残業する際に連絡を受けたり。住人たちと関わる機会は多々あった。
寮で暮らす人たちは、気の良い社員ばかりだった。仕事で遅くなる日は前もって教えてくれたし、嫌いな食べ物や、味の好みはあるかと確認したときも「大丈夫だから」と気を使ってくれた。
「教えていただいた方が助かるんですが」
それなのに、冷ややかな物言いをしてしまった。にこりともせずに真顔で言われたら驚くだろう。イヤな奴がまかない係として来たと思われたに違いない。
皆に安心して美味しいものを食べてもらいたい、という気持ちからだったが、それを上手く伝えられない。
創作料理店で働いていたときもそうだった。料理をすることが好きで、作ったものを褒められることはあったが、接客はいつまで経っても不得手なままだった。
杉野館でつっけんどんな物言いをしたのは勤務初日だった。家に帰ってから泣きたくなるくらい後悔した。真顔になるのは緊張しているからなのだが、そんな千影の事情は住人たちには関係のないことだ。
千影は幼少期、親戚の家を転々とする生活を送っていた。
両親が離婚し、幼い千影を押し付け合った結果だった。物心ついた頃から、自分はよそ者だという感覚があった。家族団欒をしていても、この中で自分だけが「違う」のだと知っていた。
虐げられたり、いじわるをされたり、そういうことがあったわけではない。優しくしてくれた。面倒を見てくれた。どの家に行っても、良いお母さんと、良いお父さんがいた。でもそれは「誰か」のお母さんとお父さんで、自分の本当の家族ではない。
この家族の中で、自分はどんな顔をすればいいのか分からなかった。どんな顔でその中にいればいいのか分からなかった。なるべく手のかからない子でいたかった。優しくされるたびに、申し訳なさを感じた。自分にはないものを持っている他の子供が羨ましかった。当たり前の顔をして、その家族の中にいられる子供になりたかった。
優しい家族に、誕生日を祝ってもらったことがある。
用意されたホールケーキを見て、うれしく思うと同時に胸がチクリと痛んだ。「お母さん」と「お父さん」が買ってくれたケーキは、先月誕生日を迎えた「本当の子」のものより小さいことに、千影は気づいてしまった。
当たり前だ。自分はよそ者なのだ。同じものを要求するなんておこがましい。せっかく準備してもらったのだから、うれしい顔をするべきだ。少しでも可愛げのある子だと思われたい。本当にうれしいと思っている。でも、うれしい顔って、どんな顔だろう。
考えれば考えるほど、どんな顔をすればいいのか、いま自分がどんな顔をしているのか、分からなくなってしまうのだ。
最後は、伯母の家で暮らした。
母に年の離れた姉がいることを千影は知らなかった。長年疎遠だったことを、後になってから聞かされた。
伯母は一人暮らしで、大阪で小さなお好み焼き屋を営んでいた。高校を卒業するまでの十年近くを伯母の元で過ごした。そして創作料理店に就職が決まり、千影は飛騨高山にやって来たのだった。
火の元と作業場にある勝手口の戸締りを確認して、千影も帰宅する準備を整える。
アパートへの帰り道、歩きながら「今日も充実した一日だった」と晴れやかな気持ちになった。
少し前までは、反省したり落ち込んだりすることのほうが多かった。
寮に住む社員たちとうまくコミュニケーションをとることができなかったのだ。
去年の晩夏、千影はワカミヤに入社した。勤めていた創作料理店の閉店に伴い、転職活動を始めて真っ先に目に留まったのが社員寮のまかない係の求人だった。
食材の買い付けから調理まで一人で担当すると知ってやりがいを感じた。同時に、杉野館のまかない係は自分ひとりだけという点に安心感を抱いた。
他人と関わることが苦手な自分には合っていると思った。面接では「住人である社員と関わることはほとんどありません」と説明された。
「配膳のときに顔を合わせる程度だと聞いています」
とも言われたが、実際に働いてみると「それなりに関わりがあるな」というのが正直な感想だった。当然といえば当然だった。アレルギーの有無を把握したり、それぞれの好みを聞いたり、残業する際に連絡を受けたり。住人たちと関わる機会は多々あった。
寮で暮らす人たちは、気の良い社員ばかりだった。仕事で遅くなる日は前もって教えてくれたし、嫌いな食べ物や、味の好みはあるかと確認したときも「大丈夫だから」と気を使ってくれた。
「教えていただいた方が助かるんですが」
それなのに、冷ややかな物言いをしてしまった。にこりともせずに真顔で言われたら驚くだろう。イヤな奴がまかない係として来たと思われたに違いない。
皆に安心して美味しいものを食べてもらいたい、という気持ちからだったが、それを上手く伝えられない。
創作料理店で働いていたときもそうだった。料理をすることが好きで、作ったものを褒められることはあったが、接客はいつまで経っても不得手なままだった。
杉野館でつっけんどんな物言いをしたのは勤務初日だった。家に帰ってから泣きたくなるくらい後悔した。真顔になるのは緊張しているからなのだが、そんな千影の事情は住人たちには関係のないことだ。
千影は幼少期、親戚の家を転々とする生活を送っていた。
両親が離婚し、幼い千影を押し付け合った結果だった。物心ついた頃から、自分はよそ者だという感覚があった。家族団欒をしていても、この中で自分だけが「違う」のだと知っていた。
虐げられたり、いじわるをされたり、そういうことがあったわけではない。優しくしてくれた。面倒を見てくれた。どの家に行っても、良いお母さんと、良いお父さんがいた。でもそれは「誰か」のお母さんとお父さんで、自分の本当の家族ではない。
この家族の中で、自分はどんな顔をすればいいのか分からなかった。どんな顔でその中にいればいいのか分からなかった。なるべく手のかからない子でいたかった。優しくされるたびに、申し訳なさを感じた。自分にはないものを持っている他の子供が羨ましかった。当たり前の顔をして、その家族の中にいられる子供になりたかった。
優しい家族に、誕生日を祝ってもらったことがある。
用意されたホールケーキを見て、うれしく思うと同時に胸がチクリと痛んだ。「お母さん」と「お父さん」が買ってくれたケーキは、先月誕生日を迎えた「本当の子」のものより小さいことに、千影は気づいてしまった。
当たり前だ。自分はよそ者なのだ。同じものを要求するなんておこがましい。せっかく準備してもらったのだから、うれしい顔をするべきだ。少しでも可愛げのある子だと思われたい。本当にうれしいと思っている。でも、うれしい顔って、どんな顔だろう。
考えれば考えるほど、どんな顔をすればいいのか、いま自分がどんな顔をしているのか、分からなくなってしまうのだ。
最後は、伯母の家で暮らした。
母に年の離れた姉がいることを千影は知らなかった。長年疎遠だったことを、後になってから聞かされた。
伯母は一人暮らしで、大阪で小さなお好み焼き屋を営んでいた。高校を卒業するまでの十年近くを伯母の元で過ごした。そして創作料理店に就職が決まり、千影は飛騨高山にやって来たのだった。
38
お気に入りに追加
109
あなたにおすすめの小説
恋煩いの幸せレシピ ~社長と秘密の恋始めます~
神原オホカミ【書籍発売中】
恋愛
会社に内緒でダブルワークをしている芽生は、アルバイト先の居酒屋で自身が勤める会社の社長に遭遇。
一般社員の顔なんて覚えていないはずと思っていたのが間違いで、気が付けば、クビの代わりに週末に家政婦の仕事をすることに!?
美味しいご飯と家族と仕事と夢。
能天気色気無し女子が、横暴な俺様社長と繰り広げる、お料理恋愛ラブコメ。
※注意※ 2020年執筆作品
◆表紙画像は簡単表紙メーカー様で作成しています。
◆無断転写や内容の模倣はご遠慮ください。
◆大変申し訳ありませんが不定期更新です。また、予告なく非公開にすることがあります。
◆文章をAI学習に使うことは絶対にしないでください。
◆カクヨムさん/エブリスタさん/なろうさんでも掲載してます。
【完結】雨上がり、後悔を抱く
私雨
ライト文芸
夏休みの最終週、海外から日本へ帰国した田仲雄己(たなか ゆうき)。彼は雨之島(あまのじま)という離島に住んでいる。
雄己を真っ先に出迎えてくれたのは彼の幼馴染、山口夏海(やまぐち なつみ)だった。彼女が確実におかしくなっていることに、誰も気づいていない。
雨之島では、とある迷信が昔から吹聴されている。それは、雨に濡れたら狂ってしまうということ。
『信じる』彼と『信じない』彼女――
果たして、誰が正しいのだろうか……?
これは、『しなかったこと』を後悔する人たちの切ない物語。
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
本日、私の大好きな幼馴染が大切な姉と結婚式を挙げます
結城芙由奈
恋愛
本日、私は大切な人達を2人同時に失います
<子供の頃から大好きだった幼馴染が恋する女性は私の5歳年上の姉でした。>
両親を亡くし、私を養ってくれた大切な姉に幸せになって貰いたい・・・そう願っていたのに姉は結婚を約束していた彼を事故で失ってしまった。悲しみに打ちひしがれる姉に寄り添う私の大好きな幼馴染。彼は決して私に振り向いてくれる事は無い。だから私は彼と姉が結ばれる事を願い、ついに2人は恋人同士になり、本日姉と幼馴染は結婚する。そしてそれは私が大切な2人を同時に失う日でもあった―。
※ 本編完結済。他視点での話、継続中。
※ 「カクヨム」「小説家になろう」にも掲載しています
※ 河口直人偏から少し大人向けの内容になります
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ぎんいろ
葉嶋ナノハ
ライト文芸
夕方を過ぎる頃、まひるは銀杏の樹の下で蒼太と共に一枚の葉を探す。手にすればあの人に会えるという、優しい伝説を信じて――。
まひると蒼太は幼なじみ。まひるの思いを小さな頃から知っていた蒼太は、願いを叶えるためにいつも傍にいた。※多視点で話が進んでいきます。2011年の作品。サイトからの転載です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる