Calling

樫野 珠代

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秘書編

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会長が部屋を出ていったあの後、別の意味で慌ただしい時間となった。
一度、涼のところへ戻ると言う朱里に恭介がそれを拒み、その横で珠子が買い物に行きましょうと朱里の手を引っ張る始末。
それぞれ自分の意見を曲げようとはせず、話は延々と続いた。
その一方通行の会話を停止させたのは松井の声だった。
「奥様。こちらは如何なさいますか?」
そう言って手に持っていた離婚届を差し出し、話題を逸らす。
「ああ、そうね。とりあえず保管しておきましょう。また何かの時に使えるかもしれないし、ふふ。」
そんな珠子に恭介は溜息をついた。
「お母さん。さすがにそれはやり過ぎです。そこまでしなくてもよかったのでは?」
「あら、でもこれのおかげで朱里ちゃんも戻ってきたのよ?あなただってこれを取り出した時、何も言わなかったでしょう。」
「言わなかったのではなくて、言えなかったんですよ。まさかそんなものまで用意してるなんて思ってもみませんでしたから。暫く実家に戻るという話だけしか俺は聞いてませんでしたからね。」
「そういう恭介も私と変わりがないでしょう。私は今回の責任を取ってもらうとしか聞いてませんでしたよ。まさかそれが実の父を引退させるなんてやり過ぎじゃないこと?」
そう言って二人は再び火花を散らしそうになり、松井が慌てて言葉をはさんだ。
「奥様。とりあえず、こちらはいつもの所へ保管しておきます。」
「ええ、お願い。」
「では、そろそろお屋敷にお戻りに・・・。」
「ですから、今から朱里ちゃんとショッピングに行くと言ってるでしょう?」
そう言って朱里の手を放そうとはしない。
そしてその言葉を聞いた朱里は、
「奥様。お買い物ならば今度になさいませんか?これからだとゆっくりと見るお時間もございませんので。」
「そう?別にお店を貸し切れば時間なんて気にせずにお買いもの出来るのよ?」
「い、いいえ!そこまでしなくても!」
怖い事を軽く言う珠子に朱里は慌ててそれを阻止した。
「それにまだやらなければならないことがありますので。」
「やらなければならないこと?」
「ええ。お世話になった方にきちんと御挨拶を。」
「そう・・・。」
「それなら俺がしておく。だから朱里はこのまま二階堂の屋敷に戻るんだ。」
二人の会話に割り込むように恭介が口を開く。
それに対し朱里は、
「いいえ!そんな失礼なことはできません!それに荷物も置いたままだし。」
断固として受け入れない。
さらにそれに付け足すように珠子が、
「そうですよ、恭介。そういうものは他人が言うものではありません。」
「お母さんは黙ってて下さい。これは俺達の問題なんです。」
「何です、そのものの言い様は。それが母親に向かって・・・」
珠子が反論しようとするのは無視して、恭介は朱里の両肩を掴んだ。
「いいか、朱里。君はもう一人の体じゃないんだ。何かあったらどうする。今は体を休めることだけ考えるんだ。」
「恭介。でもね・・・。」
「ちょっと待って。それはどういうこと?」
珠子が眉を顰めて二人を見る。
その反応でようやく二人はまだ誰にも知らせていなかったことを思い出した。
「ああ、そういえばまだ言ってなかったな。」
「一人の体じゃないって、まさか・・・?」
「え、えっと・・・その・・・。」
「もうあなたの孫がいるんですよ、このお腹に。」
恭介が朱里のお腹を撫でながらそう言った。
その隣りで顔を赤くした朱里が俯く。
一瞬の間ののち、珠子の表情が一気に変わる。
「まぁまぁ!なんて嬉しい事なのかしら!それで予定日はいつ?わたくしはいつ孫を見られるの?」
「えっと、予定日は10月27日です。」
「秋に生まれてくるのね?!あー、なんだか今からドキドキするわ。あ、でも夏は大変ね。熱中症に気をつけないと。そうだわ!夏は別荘で過ごしましょう。あそこなら避暑地だし。そうしましょう!あ、そうだ!お祝いもしなきゃ!あー、なんだか忙しくなりそう!」
「お母さん、落ち着いて。」
次々と浮かんでくる事に一人楽しそうな珠子に恭介が呆れながら声をかけた。
しかし本人はその声が聞こえていないらしく、朱里の手を取った。
「朱里ちゃん。わたくしがついてますからね!大丈夫!しっかりとフォローしますから。それに二階堂の家にいれば皆も助けてくれるわ。」
「い、いいえ!そこまでしていただかなくても・・・。」
「駄目です!あなたは大事なお嫁さんなの。こんな鈍感息子のところに嫁いでくれるんだもの、大事にしなきゃバチが当たるわ。それだけじゃない。ほら、こんな息子だから結婚もするかどうかも怪しいものだったでしょ?だから孫のことも夢のまた夢のように思ってたの。それがこんなに突然訪れるなんて本当に嬉しいのよ。あ、でもだからってプレッシャーに感じないでちょうだいね。息子が結婚を決めただけでも今は十分すぎるくらい嬉しいんだもの。」
「奥様・・・。」
「あ、だったら恭介の意見は聞くべきね。朱里ちゃんはこのまま二階堂のお屋敷に戻るべきだわ。今までお世話になられた方にはわたくしの方からお礼とお詫びをしておくから心配しないで。」
「はぁ・・・お母さん。それは俺から伝えるって言ってるでしょう。お母さんは朱里を連れて二階堂に戻ってくれるだけでいいんですよ。」
「何を言ってるんです!あなたは仕事があるでしょう?会長もいなくなるのだから今以上にあなたは重い責任を負うことになるんです。生半可な気持ちでいるんじゃありません!」
「誰も生半可な気持ちでやってませんよ。それに言ったでしょう。これは俺と朱里の問題だって。」
「何を言ってるんです!これは二階堂家全体の問題です!」
そうして何度目かの言い合いが始まった。
おろおろしながらそれを見ていた朱里は我慢できず、
「自分でやります!」
気がついたら大きな声でそう叫んでいた。
その声に二人の口がぴたっと止まった。
「二人のお気持ちは嬉しいです。でも自分の事は自分で出来ます。しなきゃいけないんです。私はもう母親なんです、この子の。」
そう言ってお腹を撫でた。
「母親として、誇れるような人間でいたいんです。だから・・・」
「わかったよ。」
ほっと息を吐いて、恭介が言った。
それを聞いて珠子も残念そうな顔をする。
「そう・・・よね。あまり過保護になりすぎても朱里ちゃんやお腹の子供のためにもならないわよね。」
「すみません、勝手なことばかり言って。」
「いいえ。わたくしも我儘を言ってしまったわ。ごめんなさいね。」
そう言って気遣うように朱里に微笑んだ。



20分後、それぞれはホテルで別れた。
珠子は松井の用意した車に。
恭介は相羽と共に自分の車に。
最後まで恭介は名残惜しそうな顔をしていたが、朱里はそれは微笑んで見送った。
そうして振り返ったた朱里はそこにいた人物に驚く。
「木島さん、どうしてここに・・・?」
「久し振り。と言ってもさっき電話で話したけど。」
そう言って彼らしい爽やかな笑みを浮かべながら、朱里の疑問をあっさりと解決した。
「相羽室長を乗せてここにきてね、待機してたんだ。社長と一緒に行ったということは、どうやら君の護衛を俺に任せたらしいね。」
そう言って朱里を連れて、車に乗り込んだ。
「少し顔色が冴えないけど、大丈夫?」
「え、ええ。ちょっと疲れたからだと思うの。でも大丈夫。」
「そう?変な気遣いはしないでくれよ。それで倒れたりしたら俺が恭介に殺されるから。」
「そんな・・・。」
「いや、あいつならやりかねない。君は知らないと思うけど、君がいなくなった後のアイツは本当にやばかった。たぶん君のことを考えないように仕事に没頭したかったんだろうけど、周りはたまったもんじゃなかったよ。視線や言葉で人を殺せるならきっと数十人、いや数百人を殺してただろうな。仕事の鬼とは良く言ったものだね。ところで、どこに行けばいい?」
「あ、えっと涼の・・・結城さんのマンションに。って、わかります?」
「ああ、さっき確認しておいたから。」
そう言ってゆっくりと車を発車させた。
「木島さんも・・・知ってたんですね。私が彼のマンションにいることを。」
「あ?ああ・・・いや、知らなかったよ。でも恭介の現在地は車に取り付けてあるGPSでわかるから、さっき君と会ってた時の位置を確認したら、彼のマンションだった。」
「そっか。そうですよね・・・。」
木島の言葉で恭介が改めて社長という地位にいることを思い知らされる。
彼はいつも縛られているのだ。
自由になる時などないに等しいのかもしれない。
そんな事を考えていたせいか、
「着いたよ。」
木島のその言葉で、意外にも時間が経っていたことに気づく。
「ありがとうございます。」
「俺、そのへんで待ってるから。」
「でも・・・いつになるか、わからないし。」
「それでも待ってる。君がすっきりとした顔でここに現れることを祈っとくよ。」
「木島さん。」
「ほら、荷物の整理があるんだろ。もたもたしてると結城さんが戻ってくるぞ。」
「そ、そうですね。じゃあ・・・。」
朱里は鞄を持ち、車を降りた。
そしてゆっくりと建物の中へと入っていった。
その後姿を見ながら、木島は、
「すっきりとは・・・・・・いかないだろうなぁ。」
そう呟き、車を移動させた。


朱里は涼が戻ってくるまでに荷物をまとめ、彼の為に食事の用意も済ませると、何をどう切り出そうか考えながら彼が帰ってくるのを待った。
しかしそんな朱里の考えを涼は察していた。
朱里の携帯に電話がかかってきたのだ。
「涼?」
『朱里。今、俺のマンション?』
「ええ。」
『そう・・・。もう荷物の整理は済んだんだろ?』
「涼・・・あのね、」
『もう何もすることはないんだろう?だったらもう戻った方がいい。二階堂社長が待ってるよ。』
「でも私、あなたと話が・・・」
『俺は今日、そこには戻らない。』
「え・・・。」
『だから君はもうそこを離れるべきだ。』
「待って!涼、聞いて!」
今にも電話を切りそうな涼に朱里は必至に叫んだ。
その気持ちがわかったのか、涼は何も言わず朱里の次の言葉を待っていた。
朱里も一呼吸おいて、ゆっくりと口を開いた。
「社長に聞いたわ。二階堂と提携してもいいって。その条件が・・・私だって。どうして?どうしてそこまでしてくれるの?私に・・・そこまでする価値なんてないわ。だって・・・あなたのプロポーズを断った人間だもの。今だってたくさんお世話になったはずなのに、そんなあなたを振り切って離れていく人間なのよ。なのにどうして・・・。」
『違うよ、朱里。君がそこを出ていくように仕向けたのは俺なんだ。』
「え・・・?」
『福岡で俺の言った言葉、覚えてるかい?あの時、君に言っただろう?俺が君を幸せにするって。あの時は俺がこの手で君を幸せにしようって決めたんだ。でも、それは間違いだってすぐに気づいたよ。寂しく微笑んだり、無理に笑顔を作ることはあっても決して心から笑うことはなかったから。俺がそばにいて、どんなに手を尽くしても君の笑顔を取り戻せなかった。それだけじゃない。夜中に部屋に籠って泣く君の声を何度も聞いて、その度に胸が苦しくなった。その時、思ったんだ。ああ、俺じゃ駄目なんだって。じゃあ君が心から笑えるのは誰のそばなんだって思って、君を見ていたらすぐにピンときたよ。テレビの音声で会社の名前が出る度に反応するくらい、君はわかり易かったからね。二階堂の社内の人間だということはすぐにわかった。さすがに相手が社長だとは思わなかったけどね。』
「涼・・・。」
『結構、ショックだったんだ、これでも。俺のプロポーズを断った理由が身分の違いだったのに、朱里の心を鷲掴みにしている相手は俺と同じ地位にある人間だったんだ。結局、俺は最初から朱里に相手にされていなかったんだってことを身をもって知った。』
「ち、違うの。彼との事は私も・・・」
『いいんだ、朱里。別に責めてるわけじゃない。むしろちょっとした嫉妬、かな。朱里の心を射止めた奴に対しての。』
ハハっと力ない笑い声が響く。
『朱里の相手がわかってから俺はずっと考えていたんだ。朱里にとって一番の幸せはなんだろうって。俺は福岡で言ったあの言葉だけは果たそうと思っていたからね。そして行き着いたんだ。俺が君の幸せになる為にできることをしよう。たとえ君を幸せにするのが俺じゃなくても、君が幸せになるなら手を差し伸べようって。もう君が夜中に泣かなくてすむのなら、その声を聞かずに済むなら俺はそれで十分だってそう思った。』
涼の気持ちが胸に突き刺さる。
どうしてそこまで相手を思いやれるんだろう。
なぜそこまで優しく出来てるのだろう。
私は無理だった。
恭介が他の女性と寄り添う姿なんて見たくないってそう思った。
たとえ恭介の幸せだと思ってもそれだけは見ることが出来ないって。
『だから今日、二階堂社長に会いに行ったんだ。そこで君の話を持ち出した。彼が君を説得できるかどうか、試したんだ。もちろん成功するとは思っていたよ。だって彼は・・・その話を聞いて、血相を変えてすぐに飛び出して行ったんだ。ああ、そこまで朱里を思ってるなら大丈夫だ、安心して朱里を託せるって思ったよ。』
「っ・・・涼。」
止め処なく涙があふれてくる。
私は涼に何もしてあげられないのに・・・。
何か言わなきゃいけないのに言えない。
『泣かないでくれよ、朱里。最後まで泣き声を俺に聞かせるつもりかい?』
冗談でも言うように優しい声で涼が言う。
いけない、これ以上は。
「今まで・・・っ・・・本当にありがとう。涼がいなかったら私、生きてなかったかもしれない。」
『大袈裟だよ。朱里は強い人間だ。どんな困難でも乗り越えられてたさ。』
「そんなことない。」
『俺も・・・いろんな気持ちを持てた。貴重な経験をさせてくれてありがとう。・・・幸せになれよ。』
その言葉の後、すぐに無機質な音が単調に聞こえてきた。
その音を聴きながら、朱里はその場にうずくまって泣き続けた。


泣き疲れ、枯れるまで泣いた後、朱里はようやく体を動かし、マンションの外へと出た。
すぐ横の植え込みの端に木島が座って空を見上げていた。
朱里の存在に気づくと、木島はぱんっと足を叩き立ち上がった。
「ちゃんと終わらせてきた?」
「・・・はい。」
最低限の化粧は直したが、それ以上にカバーできない状態だった。
目が赤く、その周りもひどいことになっていたからきっと木島も気づいたはず。
だからそういう言葉を投げかけたのだろう。
最後にもう一度、マンションを見上げた。
ありがとう、涼。
心の中で呟き、朱里はすぐそばに止めてあった木島の車に乗り込んだ。
そして車がゆっくりと動き出した。
「いい人だな、結城さんって。」
「え?」
「最後まで君の為に気を使ってさ。」
どういう意味だろう。
なぜそんな事を彼が知っているのか。
「後ろ…。」
木島のその声につられ、サイドミラーで後ろを何気なく見る。
するとそこにスーツを着た涼の姿を見つけた。
朱里は思わず、後ろを振り返った。
「涼!」
その声が聞こえたのかどうか、涼は微笑んで手を上げた。
泣き枯らしたと思っていた涙が再び頬を伝う。
次第に小さくなる姿を消えるまで追いかける。
最後はコーナーを曲がって見えなくなった。
朱里は涙を拭きながら、前を向いた。
その横で、木島が、
「俺の姿に気づいて朱里が部屋にいるとわかったらしい。すぐに君に電話してた。俺のすぐ近くで君との会話を聞かせてた。たぶんそれは恭介の為、だと思う。」
「恭介の為?」
「そう。もう君とは何でもないっていうことを俺を通じて社長に伝えたかったんだと思う。社長が余計な詮索をしないように。風立さんにこれ以上の疑惑がかからないように。だから今も会わなかったんだ。最後の最後まで二人の為に彼は動いたんだよ。彼の優しさだろうな。」
「っ・・・涼・・・。」
「だから風立さんは幸せにならなきゃいけないんだ。そうだろ?」
嗚咽で言葉がうまく出ない。
ただひたすらその代わりにコウコクと頷いた。
私、幸せになるから。
だから涼、あなたもどうか幸せに・・・。






 

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