Calling

樫野 珠代

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秘書編

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とうとう月曜日が来た。
朱里は緊張と不安で眠れずに朝を迎えた。
それでも昨日1日で大分落ち着いた。
結局、朱里は珠子の好意に甘えて離れでずっとベッドに横たわっていた。
考える事はこれからの事。
ずっと考えて、そして行き付いた結果・・・土曜日の出来事はなかったことにしよう。
そう決めた。
私が気にしなければ・・・普段どおりに行動すれば彼も楽になるだろうし、元の上司と部下の関係に戻れるはず。
彼のもとで働くためなら、どんな事でもするし、自分を偽ってもいい。
それに、今私にできる事はそれくらいしかない。
朱里は気持ちを引き締め、それを示すかのように仕事用の顔を鏡に向けた。


深呼吸を静かにして、朱里は書斎のドアをノックした。
コンコン。
心臓が今にも破裂しそうなくらいバクバクしている。
でも平静を装い、朱里はゆっくりとドアを開けた。
そこにはすでに準備を整えた恭介の背中が見えた。
彼は窓際で外を見ていた。
「おはようございます、社長。車の用意が出来ましたので参りましょう。」
彼を促し供に車に向かう。
それが朝の日課。
ここまではいつも通り。
後は彼が普段どおりに動くだけ。
朱里は視線を下げ、恭介が動くのを待つ。
「その前に話がしたい。」
「ですが、時間がございません。朝から会議が入っております。お話でしたら車内でお聞きします。」
淡々と語る朱里に、恭介が近づいてきた。
「この前の事を謝りたいんだ。それから・・・。」
「社長。」
朱里は恭介の言葉を遮った。
そして強い眼差しを恭介に向けた。
「今は勤務時間内です。プライベートなお話でしたら、仕事を終えられてからなさって下さい。」
きっぱりと言い切り、朱里は体を翻した。
「下でお待ちしておりますので。」
そう言い残し、朱里は書斎を出ていく。
いや出ていこうとした。
しかしいつの間にか傍に来ていた恭介が朱里の左手を捕らえていた。
「仕事よりも大事な話だ。」
そう言うと朱里の手を引きよせ、椅子に座らせる。
朱里は抵抗する事を諦め、ほっと息を吐くと椅子の横に持っていた鞄を置いた。
それを見届けると恭介は朱里の前に膝をつき朱里の両腕を掴んだ。
「まず土曜の夜の事を謝りたい。本当に悪かった。」
そう言って恭介は朱里の前で頭を下げた。
「謝って済むことではないことは十分わかってる。あの時の俺は・・・いやそれは言い訳でしかないな。でも今はすごく後悔してる。いくら酔っていたとは言え君を無理やり襲ってしまった。世間では犯罪になるだろう。そんな事をしてしまった自分が非常に情けなくて仕方がない。」
後悔している。
その言葉が朱里の胸に突き刺さったままその痛みが消えない。
私を抱いた事を彼は後悔していると言ったの?
わかっていた・・・彼にとって何よりも屈辱的な事だと。
だから忘れたいと思うのも無理はない。
けれど、それを後悔という言葉で終わらせないでほしかった。
そんな言葉で告げられたら・・・身も蓋もないじゃない。
悲しみが心を覆い尽くす寸前で朱里ははたと気がつく。
いけない、ついさっき決心したばかりなのに!
私はあの事は忘れると決めたはずよ。
朱里は自分を奮い立たせ、声を整えた。
「社長。何のお話でしょう。」
「え?」
「社長の謝る理由がよくわかりませんが。」
「風立・・・?」
恭介は戸惑っていた。
そんな恭介に朱里はさらに続ける。
「土曜の夜の事でしたら、お気になさらないでください。私の中ではもう過去の事なので。忘れてもらっても構いません。」
「なに?」
「世間ではよくある事でしょう、上司と部下の情事など。それに私は社長秘書です。社長のモチベーションを維持させるのも秘書の仕事。その為ならどんな事でもします。たとえそれが土曜の日のような事でも。」
「君は平気なのか?無理やり俺に襲われて、しかも君は初めてだったのに。」
「大したことではありません。むしろ申し訳ないくらいです。面倒くさいものを押しつけてしまって、しかも後の処理まで任せてしまったのですから。」
「君にとってあれは大したことではないのか?上司にいい様に扱われて君はそれで納得できるのか?」
「割り切れば良いだけの話です。ただ秘書として一言申し上げるならば、あのような事を他の者には慎まれた方がよろしいかと。スキャンダルはビジネスにとって致命的なミスに繋がる恐れがあり・・・。」
「もういい。」
朱里の言葉を遮り、恭介が立ち上がった。
朱里が見上げる頃には恭介は朱里に背を向けていた。
「君の考えはよくわかった。」
そう言って恭介は自分の鞄を持つと、朱里を残し書斎を出ていった。
これで良かったのよ。
朱里は自分にそう言い聞かせ、ゆっくりと立ち上がった。
そして恭介の部屋へ続く扉を一度だけ見つめ、そして書斎を出ていった。


その日一日、朱里は静かに過ごした。
それは穏やかにという意味ではなく、無言の拒絶をされているという意味で。
周りから見れば普段とは変わりない二人のやり取りでも、朱里にすれば二人の間に目に見えない大きな壁が見えた。
朝の発言は元の関係に戻る為に吐いた言葉だった。
けれどそれは取りようによっては、例え相手が恭介でなくても上司であれば喜んでその身を任せる。
そんな風にも取れる。
それに気が付いた時、自分で自分を呪いたくなった。
彼に嫌われたのかもしれない。
今更ながら自分の発言を後悔していた。
そんな朱里の気持ちなどを余所に周りの人間は当然二人の間に起きたこと等知る由もなく、いつものように恭介との繋ぎを頼んでくる。
今はそれが一番の憂鬱であった。
恭介との会話がこんなにも苦痛に感じることは今まで初めてだった。
第三者がいれば壁を感じる事もなく、普段の仕事中の彼なのだ。
そして朱里も安心して仕事ができた。
しかしいざ二人きりになると空気が一気に張り詰める。
彼の身体から放たれる空気が彼女の侵入を拒んでいるかのように。
それでも仕事なのだから逃げる事は出来ない。
朱里はただひたすら時間が過ぎてくれる事だけを祈っていた。


疲れた体を奮い立たせ、最後の仕事に就く。
書斎での最後の仕事だ。
「・・・以上が明日のスケジュールとなっております。他に何もなければ終わらせて頂きますが。」
「ああ。」
恭介のその言葉を聞いて、朱里はほっと胸を撫で下ろした。
これでようやく一日が・・・
「それじゃあ朝の続きといこうか。」
・・・え?
彼の一言で、朱里は固まった。
朱里の表情に恭介はフッと口端を上げた。
「君が言ったんだろ、プライベートな話は仕事の後にしろって。だから俺は今まで待ってたんだ。」
「いえ、あの・・・。」
「お互いに納得がいくまで話そう。」
そう言って恭介はいつもの椅子に座り、朱里を目で促す。
いけない。
咄嗟にそう思った。
体の奥で非常ベルが鳴っている。
ここから前に足を踏み出したら、きっと何かが起きてしまう。
朱里は少し後ずさったのを恭介は見逃さなかった。
いきなり立ったかと思ったら有無を言わさず朱里の手を取り、自分の方へ引いた。
「ここで逃げるのはフェアじゃない。朝は君が自分の意見を言うだけ言っただろ。だったら今度は俺の番だ。君は最後までそれを聞くのが筋だろう?」
「・・・わかりました。」
朱里は抵抗する事を早々と諦めた。
たとえ何を言っても結局は私は勝てないもの。
だったら聞くだけ聞いてそのまま部屋に戻ればいい。
彼が何を言おうと私の決心が変わる事はないから。



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