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秘書編
6
しおりを挟む静まり返った空間に荒々しい水の音だけが響き渡る。
恭介は敷地内にある屋内プールで無心になって泳いでいた。
今朝から胸の奥がこのプールの水のようにやけにざわついていた。
それがなんなのか。
わけのわからないもどかしさを解消すべく、ずっとこうして泳いでいた。
たまに休憩を入れると、再び胸の奥にもやもやした感情が浮上してくる。
それを振り払うかの様に再び水の中へと飛び込む。
先程からずっとこの繰り返しだ。
ちょうど入口に近い飛び込み台に辿り着いたとき、天井から降り注ぐ太陽の光によって人影がプールの底に映しだされた。
恭介が怪訝に思い、地面に足をつく。
「休みの日くらい体を休めろよ。」
「文兄。」
飛び込み台に座り自分を見返す人物に恭介は視線を向けた。
「2時間前にここに入る恭介を見てたんだが、まさかもういないだろうと思って覗いてみたら・・・いるし。」
木島が話している間に恭介はプールから上がり、プールサイドにある椅子に座って体を拭いた。
そんな恭介の隣りにのんびりと座り、木島は肩肘を付き、恭介を眺めていた。
「・・・なんだよ。」
「ん?」
「何か言いたそうな顔してるぞ。」
「まあな。」
そう言ったまま木島は何も語ろうとはしない。
それが癪に障る。
「言いたい事があるなら言えよ。」
恭介はやや苛立ちを露にし、木島にそう言った。
「おまえがこうやって1時間以上泳ぐなんて最近なかったよなーと思ってさ。俺が最後に見たのは・・・おまえが中3くらいの時だったよな。」
「よく覚えてるな。」
「忘れやしないさ。あの時のおまえの顔も言葉も。」
「俺、何か言ったか?」
「ああ。」
そう言ったきり、木島は遠い先に視線を上げた。
あの日も恭介は泳いでいた。
何かをぶつけるかのように。
たまたま俺は親父と共に二階堂本宅へやってきていた。
親父同士の話が始まり、俺は暇を潰そうと外へ出た時だった。
恭介の姿を見かけた。
どこかへ向かっているらしく、足に迷いは見られなかった。
気付けば彼の後を追っていた。
そして辿り着いたのがこの屋内プール。
恭介は着替えも早々に済ませると準備運動とは言えない手足を軽く振るだけの動きを見せるとすぐに水の中へと飛び込んだ。
あとは俺の存在にも気付かないほど、ひたすら泳いでいた。
最初は呆れながら見ていたが、普段ではおよそ彼らしくない空気を感じ俺はじっとその行く末を見守っていた。
どのくらい時が経っただろうか。
ようやく彼の動きが鈍くなり、ゆっくりとプールサイドに向かった。
そこでようやく俺の存在を発見したらしく、やけに驚いていた。
「よぉ。」
「文兄・・・。」
「すげーな。一体、その体のどこにあんだけの体力があるんだ?」
水の中から這い上がり、恭介はタオルを頭から被せた。
そしてそのまま近くの椅子に重力に抵抗することなく落ち着いた。
息が上がっている。
暫くその様子を傍観していたが、落ち着いたころを見計らい口を開いた。
「何かあったのか?」
「・・・・・・別に。」
俯いた顔が浮き上がる事がない。
ほっと息をついて、恭介の隣りに座った。
「おまえはいっつも一人で解決しようとするよなー。ホント、大人顔負けだよ。まだ中3だろ?もう少しガキらしくしろよ。」
「十分、ガキだろっ!」
いきなり顔を上げたかと思ったら、すごい剣幕を俺を睨んできた。
それを呆気に取られ、見上げるしかなかった。
「何も出来ないんだよ!今日ほど自分が無力だと思ったことはないさ!これのどこが大人だって?!」
「お、おい。」
屋内に響き渡る程の声で恭介が胸の叫びを轟かせた。
その表情は苦痛で歪んでいた。
そして最後は項垂れながら椅子に力なく落ちていく。
「俺は一人じゃ何もできない。」
「恭介…。」
俺の呼びかけに恭介が応えることはなかった。
俺は親父に呼ばれその場を去る事になったが、恭介はそのままピクリとも動かなかった。
それから暫くして再び恭介に会った時、彼は別人になっていた。
あれほど決められた人生に何も感じず親の言われるがままに生きてきた恭介が、自己主張をするようになっていた。
親の仕事にも関心を示し、手伝いながら社会に出ていく準備を始めていた。
時には親にさえ、意見していた。
それを見て、俺は興味を覚えた。
恭介を変えたものは一体、何だったのだろうかと。
「文兄?」
恭介は、話の途中で遠くを見つめ黙り込んだ木島を怪訝に思い、声をかけた。
すると木島の体がビクッと動き、視線をゆっくりと恭介に向けてきた。
「おまえを変えたのは・・・彼女か?」
「え・・・?」
唐突な質問に恭介は眼を見開いた。
「あの日からおまえは人が変わったように何事にも積極的になった。今日だっておまえをこうやって衝動的にさせているのは・・・・・・違うか?」
じっと恭介を捉え、視線を逸らすことさえさせないとその眼が言っている。
文兄の言うあの日とは先ほど会話に出た中3の秋のことだろうな。
すぐにそう悟った恭介はその当時の事を思い出し、ゆっくりと口を開いた。
「確かに・・・あの日に関して言えば、彼女が関わっていないとは言えない。彼女がいたからこそ俺は自分の実力の無さを思い知る事ができたんだしな。だが今日は違う。久々に体を動かしたかっただけだ。深い意味はない。」
「ホントにそれだけか?風立さんの見合いが気になってるんじゃないのか?」
木島の問いかけに恭介はククッと笑った。
「俺には関係ない。」
「関係ない、か。」
「当たり前だ。部下のプライベートなんて興味ない。」
「ふーん・・・部下、ね。」
「何が言いたい。」
「別に。おまえにとっては風立さんもただの部下ってわけだ。」
「実際、そうだろ。」
「本当に?」
「今日はやけに疑り深いな。」
恭介は深いため息を零した。
すると木島がぽつりとつぶやいた。
「ただの部下なら別にいなくなっても構わないよな。」
「なんだよ、急に。」
木島の話の切り出しに戸惑いを隠せない。
何を意図しているのかもわからない。
恭介の苛立ちが更に増す。
「部下はいくらでも替えが利くし、それにお前が苦手としている女性社員が去るんだから全く問題はない、よな?」
そう言って木島は視線をプールの水面に移した。
「おまえは考えないのか?ある日、突然風立さんがいなくなることを。その時の自分をさ。」
「何を言ってるんだ、文兄。風立はそんなに無責任な奴じゃない。突然いなくなるなんて有り得ないだろ。」
「それは物の例えだ。突然でないとしてもいずれはお前のもとを去るんだ、遠からずな。」
「だったらその時に考えるさ。」
そう言って恭介は立ち上がった。
「おい、恭介。」
「話はもう終わりか?悪いけど、これ以上文兄の夢物語には付き合ってられないんだ。俺も色々と忙しい身分でね。」
そう言ってその場から立ち去ろうと歩き出した。
木島は最後の通告と思い、その背中に向かって叫んだ。
「このままじゃおまえ、絶対に後悔するぞ!失ってからじゃ遅いんだからな!」
木島の言葉に恭介は振り返りもせず、手だけを振って消えていった。
自室に戻り、恭介は荒々しく椅子に座った。
何なんだ、一体!
先程の文兄の言葉が頭から離れない。
いなくなるだって?
馬鹿な・・・。
彼女がなぜ今回の見合いを受けたのか理解に苦しむが、結局は断る事になるんだ。
今回だけに限ったことじゃない。
彼女は今の仕事にやり甲斐を感じている。
それは見ていれば誰でもわかることだ。
まさかそれを投げ捨ててまで他の事を優先するとは思えない。
『いずれはお前のもとを去るんだ、遠からずな。』
あれはどういう意味だ?
遠からず彼女がいなくなる・・・?
彼女が何か話をしているのだろうか、そういう話を。
それにしては曖昧、だな。
他に考えられるのは・・・ああ、そうか。
“結婚”だ。
俺自身が結婚など眼中になかったからなおさらそれに結び付けられなかった。
仮にそうだとしたら・・・文兄の言葉が彼女の結婚のことを指していたのなら・・・。
彼女がもし結婚を決めた時、仕事はどうするのだろうか。
このまま仕事を続けて行くのか、それとも・・・。
行き当たった先の考えに、恭介の胸の奥に渦巻いていた靄が広がり出す。
「今の仕事を捨てて結婚を選ぶというのか?馬鹿な・・・。」
思わず口に出していた。
彼女がそんな事をするはずがない。
例え結婚を決めたとしても、仕事を諦めるなんてことをするはずがない。
全く馬鹿な考えを抱いたものだ・・・。
恭介はフッとほくそ笑んだ。
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