睡蓮

樫野 珠代

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本編

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「課長、あの・・・ここは?」
車を走らせてどのくらい経っただろう。
寒さを抑えようとすることに必死で時間を忘れていた。
すると見覚えのないマンションへと車は入っていき、課長に促されるまま車を降りてマンションのエレベーターに乗り込んだ。
そして到着した部屋の玄関に入って漸く気になっている事を訊いてみた。
しかし課長は大して気にしてる風もなく、
「俺の家。ほら、入って。」
そう言って靴を脱ぐと1つの扉の中へと入っていった。
「え?あの!私が入ると廊下が濡れてしまいます!」
そう言うと課長がそこから出てきて、
「拭けばいいから心配するな。それとも抱きかかえていこうか?」
「っ・・・い、いいえ。」
課長の問いかけに慌てて首を振る。
そんな私を課長は楽しそうな表情で見ていたが、
「っくしゅん!」
思わずくしゃみをした私ではっとして、慌てて近づいてきて私を本当に抱きかかえた。
「っ!」
「じっとして。」
有無を言わさず、そのまま私は脱衣所で降ろされた。
バスルームから水の音がする。
「今、お湯を溜めてるからそれまではシャワーを浴びてろ。着ている服は乾燥させるから洗濯機の中へ入れておくこと。それと・・・。」
課長は棚の中からフェイスタオルとバスタオルを取り出し、
「今、何か服を持ってくるから。」
そう言うと課長はそのまま出て行って扉を閉めた。
それを見送っていたが、ブルっと体が震えて慌てて言われた通り震える指先に力を込め服を脱ぎ洗濯機へと入れていく。
下着はどうしよう・・・。
もちろんびしょ濡れだ。
履いているのも気持ち悪いけれど、乾燥に掛けた後に下着を見られる可能性を考えたら脱ぐことを躊躇う。
するとコンコンとドアが叩かれた。
慌ててバスタオルで体を隠す。
「少しだけ開けるぞ。見ないから受け取れ。」
そう言って僅かに開いたドアから服だけが差し出された。
「俺のだから大きいだろうけど、あるだけマシだろう。あと下着も濡れてたらちゃんと洗濯機に入れろよ。風邪ひくよりいいだろ。」
どうやら私の思考回路は読まれているらしい。
「でも・・・。」
「課長命令だから。」
「・・・はい。」
そう言われると従うしかない。
着替えを受け取ると課長は扉を閉めて、
「ゆっくりと浸かれよ。間違っても急いで出てくるなよ。」
そう言って足音が遠ざかっていった。


課長に言われるままにお風呂に浸かり、冷え切った体が温まるまで浴室から出ることはなかった。
ぼぅーっとする頭で脱衣所へと出る。
すると廊下に繋がる扉のドアノブにさきほどまでにはなかった白いビニール袋がぶら下がっていた。
しかもその表面にはメモ書きで『ないよりはマシだろうから使え。』と書かれている。
何だろう・・・
袋を手に取り、中身を確認するとカッと顔が熱くなり、条件反射で袋と閉ざす。
一旦、呼吸を整えてもう一度、袋を開けてゆっくりと中身を取り出した。
それは開封されてない女性物の下着。
まさか・・・買ってきたのだろうか。
そう思って袋を確認するとコンビニのマークが書かれていて、所々濡れていた。
そしてその雫がメモへと伝わり、文字が滲んでいく。
私をお風呂に連れてきた後、買いに行ってくれたんだ。
胸の奥をギュッと締め付けられるような痛みが走る。
渡された服を手に取って確認してみると、パーカーと私が履いたらちょうど良い長さになるハーフパンツだった。
それらを着て、バスタオルを首に掛けつつ拭きながらリビングへ行くと課長もTシャツとスラッとしたスウェットのパンツに着替えてキッチンに立って何かをしていた。
部屋の中は課長の言ったように暖かい。
けれど体の末端は冷えが酷く、なかなかその温もりに染まらない。
「座って。」
近づいてきた課長は両手にマグカップを持ち、ソファへと促した。
素直に座ると目の前のテーブルにマグカップが1つ置かれた。
「珈琲、飲めるよな?寒くないか?ちょっと待ってろ。」
そう言いながらリビングを出ていく。
暫くしてから毛布を持ってきてすっぽりと体を覆ってくれた。
「あ、ありがとうございます。」
改めて部屋を一瞥した。
シンプルな装飾で部屋が統一され、すっきりとした雰囲気のリビング。
通路には扉があったから他にも部屋があるのだろう。
「そんなに気になる?」
「え?」
「いや、興味深そうに物色してるから。」
そう言って課長は可笑しそうに笑っている。
「す、すみません。」
考えてみれば失礼な事だし、部屋をジロジロ見られて好い気になる人なんてあまりいないだろう。
それに、
「あの、このお部屋で暮らしているんですよね?それなのに以前、私の家までわざわざ送って頂いて、本当に申し訳ありませんでした。」
「いや、良い機会だったから。親にたまには顔を見せろって言われ続けてた所だったからね。だから樋野が気にすることでもないんだよ。さすがに夜中にいきなり帰ったのには驚いたようだけど。」
「でも・・・。」
「それにあの時は樋野と話がしたかったというのもあったし。」
そう言われてあの時の事を思い出した。
あの日がなければ私はきっと今でも課長に対してトラウマが酷く残っていただろう。
あれがきっかけで少しずつ課長との距離を縮めることができたような気がする。
けれど結果的に苦しい気持ちを再び呼び起こすことになってしまった。
どちらが良かったのかはわからない。
けれど仕事の事を考えれば現状の方が良いように思う。
「樋野?」
声を掛けられて我に返ると課長が心配そうに顔を覗き込んでいた。
びっくりして思わず仰け反る形になった。
それに課長は寂しそうな表情をしたがすぐに打ち消すように笑みを浮かべた。
それを見ていたらなんだかこちらが悪いことをしてしまったように感じて胸が痛い。
「そ、そろそろ帰らなきゃ。」
「服が乾いてないだろ。」
「で、でも終電が・・・。」
「俺が送っていくから気にするな。」
「そ、そんなわけにはいきません。課長の家はここですし。き、着替えてきます。」
そう言って立ち上がった瞬間、ふらっと空間が揺れた気がして思わず手を伸ばしていた。
「樋野!」
課長の呼ぶ声と共に体が包まれる感覚。
「おい!大丈夫か?」
「あ・・・。」
目の前に広がる課長の顔。
腰に回された腕。
それらを意識してしまうと言葉が出なくなっていた。
課長は不意に額に手を当ててきた。
「熱いな。」
そう呟くと私をいきなり抱え上げ、歩き出した。
「か、課長!」
「じっとして。熱がある。」
「・・・っ。」
迷惑をかけたくないのに。
どうしてこうなるのだろう。
出来るだけ傍にいることを避けたいのに。
これ以上・・・好きになりたくないのに。
「今、薬持ってくるから。大人しく寝てろよ。」
課長はある一つの部屋に入るとベッドの上に私を寝かせ、頭をポンッと撫でて部屋を出て行こうとする。
「か、課長!」
呼び止めた勢いのまま、上半身を起こす。
けれど頭がフラフラと揺れているように感じ、平衡感覚を見失ってしまった。
そんな私を課長は即座に傍に寄ってきて、体を支えてくれた。
こんなに近い距離で、こんなにも体温を感じる距離で、こんなにも優しさを感じて。
熱のせいで冷静さを欠いていたのかもしれない。
理性が崩壊していたのかもしれない。
だから、
「樋野、何やって・・・。」
私の体を寝かせようとする課長を静止して、
「も、もう止めてください。もう・・・優しくしないでください。」
課長の両腕を掴み、感情をコントロール出来ないまま俯きながら懇願した。
「これ以上・・・わ、私は傷つきたくないんです。もう、イヤなんです。あんな痛みを経験するのは・・・だからっ。」
言葉をつづけようとしたけれど課長に引き寄せられてその先を言葉にする事が出来なかった。
体全体に心地よい温もりが広がって、課長に抱きしめられている事にようやく気付いた。
「ごめん、我慢できなかった。」
「え・・・?」
「勝手な思い込みかもしれないけど、樋野も俺と同じ気持ちじゃないかって思えて嬉しいんだ。」
「か、課長?」
「俺は樋野、君の事が好きなんだ。」
抱きしめられたまま、課長の言葉が耳に聞こえてきた。
「そんな権利はないんだってずっと言い聞かせてきたんだけど、ダメだな。君の些細な言葉で一喜一憂するんだから。」
課長はゆっくりと体を離して、真っすぐに私を見つめた。
「樋野を傷つけないように努力する。樋野の笑顔が消えない努力もする。けど、もしかしたら知らない所でまた樋野が傷つくかもしれない。その時は俺に言ってほしい。嘘つきだって批難したっていい。そしたら俺は樋野が傷ついた事がわかるし、樋野を苦しめるものを消し去ることだってできる。そうやって二人で解決していこう。もうすれ違って回り道をするのは嫌だから。俺は樋野を失いたくないんだ。」
「っ・・・・ずるいです、課長。」
そんなに苦しそうに見つめられたら反論できない。
「樋野?」
「私っ・・・もう我慢しなくていいんですか?もう苦しまなくていいんですか?」
課長の腕を掴みながら訴えるように言葉を吐き出すと課長は再び抱きしめてくれた。
「我慢なんてする必要ないだろ。苦しいなら苦しいと言えばいい。俺が全部それを引き受ける。だから樋野の気持ちを聞かせてくれ。」
「わ、私・・・好きです。好きなんです、課長のことが。」
その瞬間、体を包む温もりがさらに強まった。
「やばいな。このままずっとこうしていたい。」
「か、課長。」
課長の声が耳元で聞こえてきて、自分のドキドキする心臓の音が一段と体中に響く。
顔も相当赤くなっているのだろう、熱が一段と増している。
「はぁ・・・、タイミングが悪いな。」
そう呟くと課長はゆっくりと抱きしめていた腕を解いて、私をベッドへと寝かせてくれた。
「とにかく今は寝てろ、薬を持ってくる。今日はここに・・・俺のそばにいろ。」
「っ、は、はい。」
布団で赤くなった顔を覆いながら返事だけした。
それを見届けてから課長は部屋を出て行き、部屋にただ1人。
なかなか止まらない動悸を落ち着かせようと深呼吸をしてみたけれど、ベッドに残る課長の香りを吸い込むことになり、体全体を課長に包み込まれているようで余計に落ち着かなくなってしまった。
未だに少し信じられない自分がいる。
なんだろう・・・実感がなくてふわふわしてる感じ。
夢のような、ぼんやりとした感覚。
そうだ、熱があるんだった。
思い出した時、意識は途絶える瞬間だった。






 

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