睡蓮

樫野 珠代

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本編

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それから1週間は同じ事の繰り返しだった。
けれど、それでも少しずつ、人と関わることに慣れていっている自分に気付いた。
例えば電話を受けた時。
「樋野さんでしょ?声でわかったよ。菱刈商事の岡本です。」
「あ、いつもお世話になっております。」
「仕事が落ち着いてるみたいだね。」
「え?」
「声が穏やかだから。」
「そ、そうでしょうか。」
「うん、人間観察を得意とする俺が言うんだから間違いない。と言っても見えてはないんだけどね。」
そんな他愛ない会話もしてくれる人が増えていく。
急な来客でも、次第に相手が誰なのか把握していくと
「樋野さん、こんにちは。急に来てしまったんだけど、いるかな?」
誰が、とまでは言わず私に微笑みかけてくる。
「いらっしゃいませ、高井様。楠瀬ですよね。只今、呼んできますので、あちらのソファでお待ち下さい。」
そう言って、すぐに担当の楠瀬に伝え、高井の好きな飲み物であるブラックコーヒーをテーブルに出す。
「ありがとう。」
高井さんは言葉と共に笑顔を返してくれる。
その時が一番、嬉しい。
相手を認識して、すぐに担当が浮かび、すぐに対応が出来る。
そんな小さな事でも、仕事をしているんだという実感が沸く。
時にはクレームもあるけれど、丁寧に謝罪をしつつ、担当へと回す。
入社して数か月経った今、ようやく仕事らしい仕事をしている気がしてきた。
そうして週末の金曜日。
本決算が終わる最終日に、営業部では恒例の決起会と言う名の飲み会が行われる。
今回は偶然にも金曜日が最終日となり、当然、営業部の人間は定時に上がれるように仕事の調整をしていた。
ということで社内、というより課内は少し浮き足立っていた。
そんな日の朝、就業開始と同時に課長に呼ばれた。もちろん、益子さんもだ。
今日はなぜか会議室へと導かれ、3人が席へ着く。
すると、課長がまず私達二人を見据えて言葉を発する。
「二人とも今日の決起会だが、定時に上がれそうか?」
そう訊かれ、隣りの益子さんを見やる。
「・・・すみません。たぶん無理です。」
と悔しそうな表情を浮かべて益子さんは答えた。
最近、彼女は口数が少なく、どことなく顔色が悪い気がする。
何度も言葉を掛けようかと思ったが、彼女の纏う空気が私を拒絶しているようで結局、言葉を掛ける事は出来なかった。
そうして今日まできてしまった。
そんなことを考えていると、ふいに
「樋野は?」
名前を呼ばれた。
はっと現実に戻り、慌てて答える。
「は、はい。大丈夫です。」
「そうか。では、予定より少し早いが二人の仕事の見直しについて話そう。まず、二人の先週分と今週分の仕事量を表にしておいた。」
そう言って目の前のテーブルに1枚の紙が出された。
促されて見たその用紙には、二人それぞれの2週間分の仕事がきっちりと表にまとめられていた。
「これを見る限りわかると思うが。先週の樋野の仕事量は、益子のそれを上回っている。それなのに帰りは益子の方が少なくとも1時間、最大で3時間近く遅い。一方、樋野は先週の益子の仕事量に俺の仕事の補佐まで終えてほぼ毎日定時帰宅。益子、先週君が言っていた発言だが、これを見ても同じ事が言えるか?」
「っ・・・いいえ。」
「ではこれからどうすべきだと思う?君の今の意見を聞きたい。」
「それは・・・・。」
益子さんはそのまま無言になった。
課長はそれを見越していたのだろう。
特に待つわけでもなく、言葉を続ける。
「改めて言う必要はないと思うが、一応言っておく。うちに無能な人間は必要ない。特に入社したばかりの新人よりも出来ない者など会社の負債以外の何物でもない。そして仕事を選ぶような傲慢な者も。」
最後の言葉を聞いた瞬間、背筋が凍った。
私の事だ・・・
やっぱり課長は何もかもお見通しだ。
あまりにも恥ずかしく、情けなくて顔を上げられない。
視線はずっと表が書かれた紙に向けられてはいるけど、心は凍り付いて何も考えられない。
おそらく隣りにいる益子さんも同じなのだろう、何も言葉を発しない。
「まずは今日だ。益子、今抱えている仕事をここに持ってくるんだ。」
「は、はい。」
課長の言葉で、益子さんはようやく解放されると思ったのか、足取りも軽く素早く会議室から出て行く。
その間も、課長の顔を見ることが出来ず、視線はずっと下げたまま。
益子さんの足跡も聞こえなくなった頃、課長がふぅっと息を吐く音がした。
「悪かったな、樋野。」
「え?」
いきなり謝罪をされ、思わず視線を上げた。
先ほどまでの厳しさを帯びた課長はそこにはおらず、困ったように眉を下げる一人の人がいた。
「今まで早見に甘えて事務の事を全て任せていたのは俺だ。早見が出勤最終日に言ってきたんだ、益子をどうにかするようにと。その時はあまり実状を把握できてなかったが、次第に状況が見えてきた。だがそれに気づいた時はすでに樋野一人でそのツケを被ることになっていた。俺が至らないせいで残業ばかりさせて申し訳ない。」
そう言って頭を下げた。
「や、やめて下さい!課長は何も悪くないんです。私が・・・私がもっとしっかりしていたら残業ももっと減らせたはずですから。さっき、課長が言われた言葉、私の事ですよね?仕事を選ぶ傲慢な人間って。」
「それは違う!」
課長の否定に、首を振る。
「いいえ、私の事です。益子さんは多分、私が人見知りだって知って、人と関わらなくて済むように書類全般を任せてくれたんだと思うんです。もし、私が普通に人と接することが出来ていたなら、もっと円滑に仕事が回ったと思うし。だから・・・」
「樋野、君って人は本当に・・・。」
課長はふっと表情を和らげた。
その表情を直で見てしまい、鼓動が踊り始めた。
落ち着かなきゃ。
俯き、只管、そう心に呟く。
ちょうどその時、益子さんがファイルをいくつも抱えて戻ってきた。
「これが今日しなければならない仕事です。それでこっちが来週以降の仕事で・・・。」
テーブルの上にファイルの山を二つ作る。
それを一瞥した課長は眉を寄せ、益子さんを見返す。
そして次に私へと視線を移した。
「樋野、これから急ぎの仕事はあるか?」
「い、いえ・・・昨日までに終わらせているので今日は特にありません。」
「そうか、じゃあ・・・。」
今日の分から半分だけ取り上げると私の方へ差し出してきた。
「樋野、これを決起会までに出来るか?」
「は、はい。頑張ります。」
ファイルを受け取りそう返事をすると、課長も頷き、
「もう言っていいぞ。すぐに仕事にかかれ。」
そう言って、視線で下がるように促した。
素直にそれに従い、ファイルを持ち直し、
「失礼します。」
そう言って会釈をして、すぐに自分のデスクへと足を進める。
益子さんも一緒に戻ろうと机の上に置いたファイルを持ち上げようとした時、課長に呼び止められそのまま椅子に座る姿がちらっと見えたが、今は腕に抱える仕事を終わらせる事へと頭をシフトした。








 



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