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2章 解明編
40 イルマの告白【イルマ視点】
しおりを挟む今振り返ってみても、あの頃の自分は完全に運命に流されていた、とイルマは思う。
イルマ――いやセリーヌは元々、王都の役所に勤める役人の娘として生まれた。
父の位はその中でもいわゆる低下層に当たり、決して裕福な環境とは言えなかった。
それでもセリーヌは平民でありながらも最低限の教育を受け、将来はどこかの貴族の屋敷に行儀見習いとして奉公に出る話も出ていた。
全ての予定が狂ったのは、父の死からだった。
勤勉だったセリーヌの父は、ある年流行り病でぽっくりと逝ってしまった。
残されたのはセリーヌと瓜二つの母と、幼い弟妹達だった。
セリーヌの母は年の割には美しかった。ただ元々病弱な上、子供を三人も産んだため、床に伏せがちでもあった。
大黒柱だった父が亡くなった後、そんな病弱な母が働きに出られるはずもなく。
またセリーヌも奉公に出るには若干年が幼かった。双方の祖父母もすでに死去しており、頼れる親戚も皆無だった。
そんな時、母に再婚話が持ち上がった。
相手は爵位を金で買ったと噂される、ワインバーグ男爵その人である。
「私の許に嫁いだなら、子供達の生活も保障しよう。セリーヌについては、よい嫁ぎ先も見つけよう」
生活弱者であったセリーヌの母が、この話を断れるはずもなく。間もなくしてワインバーグ男爵と再婚した。
だがこの男、人の弱みに付け込んでくるあたり、やはりろくな男ではなかった。
ワインバーグは金に物を言わせ、何人もの愛人を囲っていた。
いわゆる生粋の女好き。
美しい女をコレクションすることが趣味だったワインバーグにとって、セリーヌの母もまた愛玩道具の一つでしかなかった。
それでもセリーヌや弟妹達のために、母は辛い暮らしによく耐えてくれたと思う。
その母もセリーヌが二十一歳の頃、持病が祟って儚くなってしまった。
「おお、セリーヌ。母が亡くなって辛いだろうが、これからのことは心配しなくてよい。これからもお前たちの義父として、お前達を支え続けよう」
ワインバーグはセリーヌの細腰を引き寄せ、ねっとりとした口調で囁いた。
全身に鳥肌が立ったあの時の感覚を、セリーヌは一生忘れられそうにない。
母が亡くなった後、ワインバーグは次の後妻としてセリーヌを狙っていた。
二十歳を過ぎても嫁ぎ先を見つけてもらえなかったのは、母亡き後のことを見越してのことだったのだ。
(やっぱりあの男の後妻にならなくてはいけないのかしら。もし断ったら、ヒルダやグラハムは……)
元々感情が面に出にくいセリーヌも、この時ばかりは己の身の振り方に悩み、苦悶した。
当時、妹のヒルダは14歳。弟のグラハムは12歳になったばかりだった。
母がセリーヌの防波堤になってくれたように、今度はセリーヌが弟妹達を守る防波堤にならねばならない。そのためには親子ほど年の違うワインバーグの玩具となるしか、道はないのだ。
――だがそんなある日、セリーヌの運命は逆転した。
なんと四大公家の一つであるデボビッチ家から、セリーヌを正妻に迎えたいとの正式な申し込みがあったのだ。
(……え? どういうこと? 私はアストレー公爵とは一度もお会いしたことがないし、見染められるはずもないんだけど……)
まさにデボラの時と、同じパターンである。
だがこの時もデボビッチ家の名声と権威は、如何なく発揮された。
公爵家からの正式な縁談の申し込みを男爵家が断れるはずもなく、セリーヌはデボビッチ家に嫁ぐことになったのだ。まだ幼い弟妹達を連れて。
もちろんこの時、ワインバーグ男爵がどれほど悔しがったかは……面倒くさいので割愛させていただく。
とにもかくにも。
セリーヌ=ワインバーグは、九死に一生のピンチを、カイン=キール=デボビッチに救われたのだ。
「お前がワインバーグの後妻の娘か。安心しろ。おまえを妻に迎えはしたが、それは形式上のこと。ほとぼりが冷めた頃に、きちんと離婚してやる。だからお前は今後どんな人生を歩みたいか、アストレーにいる間にじっくりと考えるといい」
「………」
アストレーにやってきて、初めて夫・カインと迎える夜。
カインは事務的にセリーヌにそう言い渡すと、さっさと執務に戻ってしまった。
セリーヌは脱力した。一体どんな男が自分の夫になるかと思いきや、カインはセリーヌに負けず劣らずの無感情人間だったのだ。
それにしてもなぜそんな男が自分のような身分の低い女とわざわざ結婚したのか。セリーヌは不思議に思っていた。
だがデボビッチ家で過ごすうちに、その謎はすぐに解けた。セリーヌに同情して事情を打ち明けてくれたのは、メイド長のマリアンナである。
「カイン様については何も期待しないほうが賢明ですよ、セリーヌ様。最初の奥様の時もあんな感じだったのです。最初の奥様はアンジェリカ様と仰って、このデボビッチ家の外戚に当たるお嬢様でした」
「アンジェリカ、様……」
この話は、弟妹のヒルダやグラハムと共に聞いた。
その内容は凡人のセリーヌの想像が及ばないほど、とんでもないものだった。
「ですがこのアンジェリカ様、とんだはねっかえりでしてね。なんとこのアストレーに避暑でやってきた時、港で出会った異国の海賊と恋に落ちたのです。もちろん周りの者はその恋に反対いたしました。ですが反対されればされるほど燃え上がるのが、アンジェリカ様というお嬢様の気質だったようで」
「は、はぁ……」
セリーヌは、マリアンナの話を、ぽかんと口を開けて聞いていた。
弟のグラハムは「なんかかっこいい!」と、見当違いな方向でワクワクしていたのを覚えてる。
「結局アンジェリカ様は、意中の恋人と一緒になれないなら死んでやる!と、大きな騒ぎを起こしました。これにはアンジェリカ様のお父様も頭を抱えたそうです。何せアンジェリカ様を溺愛してたことで有名な伯爵様でございましたからね。
ですがさすがに伯爵家の娘を海賊と結婚させたと知られれば、伯爵家の立場はございません。そこでアンジェリカ様と相手の海賊、二人とそこそこの面識があったカイン様が、ご提案されたのです。
ならば一度自分と結婚して伯爵家の面目を保った後、アンジェリカ様は恋人と添い遂げるがいい。添い遂げた後、アンジェリカ様は急病で亡くなったことにすれば全て丸く収まる。駆け落ちを強行され、一生会えなくなるよりはましな案だと思うがどうか……と問われ、伯爵様もとうとうご納得されたのです」
マリアンナはその時のことを思い出して、深く長いため息をついた。
話を聞かされるセリーヌのほうはと言えば、絶句も絶句。貴族は政略で結婚することもあるが、まさかそんな頓珍漢な理由で結婚した例は、さすがに聞いたことがない。
「アンジェリカ様? ええ、先日も元気な様子でアストレーをお訪ねになりましたよ。今では立派な海賊の頭領夫人でございます。対外的には半年前に亡くなったことになっておりますけどね。つまり何が言いたいかと言いますと、セリーヌ様」
「は、はい」
セリーヌは背筋を正し、マリアンナからの忠告をしっかりと受け止めた。
「もしもあなた様がカイン様を心から愛し、一生添い遂げようとする覚悟がおありなら、私も全力で応援致しましょう。ですがカイン様はあの通りのお方……。領主としては優秀でありますが、どこか人として大事な部分……常識と言いましょうか、感情と言いましょうか……が、著しく欠如しておられます。何せ自分の結婚を、人助けのために利用してしまう方ですからね。苦労するとわかっていて、私は茨の道を勧めたりはしません。もしもあなたが望むなら、カイン様は喜んで離婚して下さるでしょうから、あなたは今後どう生きたいのかよくお考え下さい」
「は、はい、わかりました……」
怒涛の勢いで説明され、セリーヌはなんだか納得してしまった。
自分は決してカインに愛されて、結婚したわけではないこと。
カインにとって自分との結婚は、人助けの一環だったこと。
後にわかったことだが、セリーヌの義父・ワインバーグは、グレイス・コピーの常用者だった。後に薬物乱用の罪で逮捕されることとなったが、それも元々カインが内偵を入れていたからだ。その過程でカインは連れ子のセリーヌが困窮していることを知り、求婚という形で助けてくれたのだろう。
(カイン様……カイン=キール様……。なんて不思議な方かしら……)
それからしばらくの間、セリーヌは公爵夫人として夫・カインのことを観察した。
異性として惹かれなかった……と言えば嘘になる。
たとえニコリと笑わなくても、会話が「ああ」「いや」「それが何か?」の三種類しかなくても、カインの心根は温かく、一人の人間としては魅力的だったから。
しかし自分ではカインの心を動かすことはできないだろう……と言うことも、セリーヌには早々にわかってしまった。
いや、むしろどんな女性だったら、この無感情人間の心を動かすことができるのだろうかと不思議に思う。
そうなると、セリーヌの心に蓄積するのは居たたまれなさと罪悪感だった。
公爵夫人という自分には過ぎた身分が、だんだん重荷になっていったのだ。
(カイン様にはそのうち離婚して頂くとして、私はこれからどうしたいのかしら。ヒルダやグラハムの将来についても考えないと……)
セリーヌは自分の身に起きた幸運を、当然と思えるほど図々しくはなかった。
日々、自分はここにいていいのだろうかと悩み、自分の生き方を模索していた。
そんな時、デボビッチ家の庭に一匹の子猫が迷い込んだ。母猫とはぐれ、衰弱した状態で見つかったその子猫を、セリーヌは放っておけなかった。
「このアストレーに動物のお医者様はいますか? できればこの子を助けてあげたいのですけれど」
セリーヌは子猫を柔らかなタオルで包みながら、マリアンナに相談した。すると、
「そういうことならば、カイン様の親衛隊隊長であるヴェインを頼るといいでしょう。ああ見えて、大の動物好きですから」
と、言う答えが返ってきた。
セリーヌはもちろんヴェインのことは知っていた。いつもカインを陰から守る、大柄で強面の男。顔には大きな傷跡があり、元はモルド=ゾセから流れてきた難民だと言う。
それまでろくに口を利いたことはなかったが、セリーヌはヴェインの許を訪ねることにした。当時、ヴェインは暮雪宮の中でも、馬小屋に近い離れに住んでいた。その理由はすぐに判明する。
「迷子の子猫ですか。なるほど、少々お待ちください。今厨房まで行って、子猫でも食べられそうな離乳食を作ってまいりますので」
「………」
手慣れた仕草で甲斐甲斐しく子猫の世話をするヴェイン。その住処には、10匹以上の犬や猫、鳥などが飼われていた。いや、正確に言うと、保護されていたのだ。
ヴェインは弱った野良猫や野良犬を拾ってきては面倒を見、最終的には里親を探して譲渡していた。一人馬小屋に近い離れに住んでいるのも、動物の鳴き声や臭いで、他の使用人達に迷惑をかけないためであった。
ヴェインは言う。こうして動物達の世話をするのは、恩返しの一環だと。
「吾輩もカイン様に拾って頂かなかったら、今頃どこかの国の傭兵となって、荒んだ生活を送っていたことでしょう。この子らは、吾輩と同じです。誰かの助けがあれば、きっと幸せになれる」
「まぁ……」
さらにヴェインは小さなストローを使って、衰弱した子猫に赤ちゃん言葉で話しかけていた。
「はい、おいちいご飯でちゅよー。頑張って食べまちょうねー。あららそっぽを向くんでちゅか。これは困りまちたねー」
岩のような大男が、手のひらにすっぽり収まってしまうほど小さな子猫に翻弄される姿を見て、普段は滅多なことで笑わないセリーヌも思わず笑ってしまった。
これにはヴェインも眉根をしかめ、不満を露わにする。
「セ、セリーヌ様、吾輩傷つきましたぞ……」
「ご、ごめんなさい。でもヴェイン殿があまりに可愛らしくて」
「か、可愛い? 吾輩が?」
「あ、ごめんなさい。でも可愛らしいのは本当で……」
「いや、吾輩が可愛いなどと……そのようなはずがありません。からかうのはおやめください」
「別にからかってるわけじゃ……。本当に心からそう思ったんです」
「………」
「………」
思わずヴェインは真っ赤になった。
なぜか釣られて、セリーヌも真っ赤になった。
あの時、セリーヌの中に温かい火が灯ったのだ。
激しく燃え盛るわけではない。だけど春の陽だまりのような、穏やかで温かい想いが……。
ヴェインに恋した後の、セリーヌの変化は著しかった。
まずヴェインと一緒に動物達の世話を見るようになり、二人の距離は一気に縮んだ。
どちらかというとセリーヌのほうがヴェインにベタ惚れという感じで、ヴェインは始めセリーヌの真意がわからなくて戸惑っていたようだ。何せ自分を好いてくれる奇特な女性が、この世に存在するとは思っていなかったから。
またセリーヌはヴェインと出会ったことで、自分が今後どうしたいのか、明確な指針を立てることができた。
セリーヌの願いは、今後もヴェインと共に生きることだ。
そしてヴェインと共に生きるなら、今後もこのデボビッチ家で暮らし続けることになるだろう。
となれば、公爵夫人という立場はむしろネックになる。
「カイン様、どうか私と離婚して下さいませんか」
デボビッチ家に嫁いでから二カ月経った頃。
セリーヌは自分からカインに離婚を切り出した。
カインは顔色一つ変えず、
「そうか」
とだけ言った。
この頃、セリーヌはマリアンナに頼み、正式にメイド教育を受けていた。
セリーヌはヴェインと結婚し、今後もメイドとして恩人であるデボビッチ家に仕え続けることを希望したのだ。
しかし例え離婚しても、セリーヌがセリーヌのままデボビッチ家で暮らし続けていくには問題が残る。離婚した公爵夫人がメイドとして屋敷に残り、さらには公爵の部下と再婚する……となれば、良からぬ醜聞も立つだろう。
そこでカインは言った。
「また今回も死別したことにするか」
……と。
それはセリーヌから別の女性へと生まれ変わり、ヴェインと共に生きていくということを示唆していた。
今から思えばこの選択が後々カインの悪評の原因になってしまうのだが、この時のセリーヌはそこまで考えが及ばなかった。
どうかそのようにご手配願います……と頭を下げ、カインもセリーヌとの離婚に合意した。
――こうしてセリーヌ=ワインバーグという女性はこの世から消え失せ、イルマという名の一人のメイドが新たに誕生した。
デボビッチ家で正式に働くようになり、イルマは弟妹達を全寮制の学校に通わせることができるようにもなった。
デボビッチ家内でも、イルマがカインの元妻であったことは古参の使用人達の間では公然の秘密となっている。
と言うか、結局その後もカインは立て続けに二人の女性と結婚することになったので、「ああ、またか……」とイルマの影が薄くなってしまったことは否めない。
結婚期間も二カ月と短かったため、現在ではメイドとして仕えた月日のほうが圧倒的に長いのだ。
とにもかくにも。
こうしてカイン=キール=デボビッチの結婚列伝は、延々続いていくことになったのだ。
「次々と妻を入れ替えては、その妻を殺し続ける男」という悪評が立ったのも、ある意味お人好しカインの自業自得である。
けれど……とイルマは思う。
今度こそ失礼極まりないその悪評も、終わる時が来たのではないか。
あの無感情だったカインにも、年貢の納め時が来たのではないか、と、イルマは期待に胸を膨らませている。
なぜならカインの五番目の妻――デボラという少女は、あのカインを初日から笑わせた逸材なのだから。
全てに無関心で、全てに無感動だったカインから、人らしい表情を引き出した唯一の女性なのだから。
今度こそ……今度こそきっと。
恩人であるカインには幸せになってもらいたいと、かつて妻だった女は心から願っている。
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