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1章 アストレー編
07 ずるい男1
しおりを挟む嵐の後には清々しいほどの希望の朝がやってくる。
眩しくて、キラキラの。
まるでそんな言葉を体現するかのような、小春日和の図書室。
閲覧席に用意された大きめの机に脚を投げ出して、のんきに居眠りしているのは、この屋敷の主人であるカイン=キール=デボビッチ。
閉じられた瞳を縁取るまつ毛は、意外にも長い。
髪もまるで黒曜石のように艶やかで、濃すぎない落ち着いた顔立ちからは知的かつ品の良さが感じられる。
見直せば見直すほど、こいつは超絶イケメンだと認めざるを得なかった。
(ム、ムカつくわ、乙女ゲー補正。ゲームに登場しないキャラまで、美形である必要性がどこにあるのよ……!)
カイン=キールを見下ろしながら、私はギリギリと歯噛みする。
前世の私は乙女ゲーをプレイする時、メインヒーロー的な立ち位置にいる王子様系や俺様系を後回しにして、真っ先にクール系キャラを攻略していた。
公爵はぶっちゃけ、前世の私の好み・どストライクのキャラだ。ヒロインに冷たいキャラほど後々溺愛キャラに変貌するっていうギャップが魅力的で、当時ハマってしまったのよね。
(い、否! それはあくまで前世での話! 今の私にとってこいつはセシルや叔父様達を殺した仇! 滅すべき敵よ!!)
私はカッと目を見開き、前世に引っ張られてお花畑になりそうだった思考を振り払った。
ふぅ、危ない、危ない。イケメン、恐るべし。ちょっと容姿が優れてるからって、惑わされてはだめよ、デボラ。こいつ顔は良くても性格が最悪なんだから。
(それにしてもこの人、ホントに寝ているのかしら? 狸寝入り……ってことはないわよね?)
私は恐る恐る公爵に近づき、顔の近くでひらひらと手をかざしてみた。聞こえるのは静かな寝息のみ。どうやら本当にご就寝のようだ。
(これはまたとないチャンス! 初夜に計画したシチュエーションが、今まさにここに!)
私は思わずガッツポーズした。眠りに落ちている公爵の隙をついて撲殺する。しかもエッチなことしないで一方的に殺害できるんだから、むしろ昨日よりも条件はいいかもしれない。あとは凶器の壺……壺………。
(……って、ああん!? 肝心の壺がどこにもないじゃない! や、やばい! 急いで代わりになる凶器を探さなきゃ)
私は慌てて辺りを見回した。
周りに昨日のような壺はなく、並んでいるのは持ち上げられそうにない巨大天球儀や、どこかのお偉いさんの彫像だけ。
でも待った。ここにはこんなにたくさんの本があるじゃない。今持っている本じゃ心許ないけど、もっと分厚い……広辞苑並みの分厚い辞書の角で殴れば、十分凶器になるんじゃないかしら?
私は忍び足で少しずつ後退し、公爵を起こさないように一旦閲覧席を離れる。
(辞書のコーナーはどこ? もしくは辞書に匹敵するような分厚い本……!)
私は広い図書館の中を再び歩き回ることになった。だが初めて来る場所のためか、辞書探しに手間取ってしまった。厚さ15センチはあるだろう『ヴァルヴァンダ慣用句辞典』を見つけて閲覧席に戻ったのは、約10分後のこと。
(よし、これだけの厚さがあればイケる! ふふふ、公爵、今度こそ覚悟しなさいよ)
「――よぉ」
「ぎゃあっ!?」
だけど私の動きはあと一歩遅かった。閲覧席に戻ると公爵はとっとと目覚め、しかもソファに腰掛けたまま私に向かって軽く手を振っているではないか。
「ご、ごきげんよう、公爵様。こんな所でお会いするなんて奇遇ですわね」
「……そうか?」
公爵は気怠るそうに伸びをし、あくびをした
く、くそう、なんてタイミングの悪い。それにアンニュイな雰囲気がかっこいいなんて……爪の先ほども思ってないからね! 見とれてなんかいないったら! 本当だってば!
動揺を悟られぬよう、私は必死に作り笑いを返す。
「お前もここに休みに来たのか?」
「公爵様、失礼ながら図書室は休憩所ではございません。本を閲覧するための場所でございますわ」
「でもここ、日当たりいいからな……」
言いながら、公爵はまだどこかぼぅっとした様子だ。どうやらここは彼にとっての隠れ家スペースみたい。確かに本棚が並んでいて入り口側、テラス側から見ても死角になっている。ここなら居眠りしていても、誰も気づかないわね。
「公爵様、こんなところで居眠りしていては風邪をひきます。大事な体なのですから、ご自愛なさって下さいませ」
「んー……」
表面上は模範的な良妻を演じてみる。すると公爵は腕組みをしながら、軽く首をひねって、
「なんか、しっくりこない……」
「公爵様?」
「そう、それ」
と、私を指さした。
「公爵様……て呼び方、なんか変だ」
「でも公爵様は公爵様でございますでしょう?」
「堅苦しい」
一刀両断。どうやら公爵はこの呼び方が気に入らないらしい。
まぁ確かに私達は仮初とはいえ夫婦。ちょっと他人行儀かもしれないわね。
(あら、なんか意外にも会話が成立してる。昨日の様子からして、私と顔を合わせてもガン無視されるかと思ってたのに……)
私は若干イライラしつつ、公爵の様子を見守った。ここから立ち去るでもなく、相変わらずソファに座ったままだ。これは私と会話する意思ありと見ていいのかしら?
(それにしても公爵様の呼び方が気に入らないなら、何て呼べばいいの? 私達は曲がりなりにも夫婦になったのだし、一般的に考えれば……)
――例えば〝旦那様〟とか?
そこまで考えて、思わず頬に熱が上った。
いや、無理無理。恥ずかしい。仇のこいつを猫撫で声で『旦那様~♪』って呼ばなきゃいけないなんて、私には拷問。完全な無理ゲーよ!
「――カイン」
「へ?」
「カインでいい。皆そう呼ぶ」
「――」
だけどこの公爵様は、私の想定をいきなり数段飛び越えてきやがった。
ハ? 今ナント、仰リヤガリマシタ?
一瞬思考が停止しかけると同時に、顔が火照るどころか、一気に全身の血がカーッと熱くなる。無意識に手足が震え、心拍数も上昇した。
いや、こんな展開、いきなりありえない。ありえないってば!
(自分のことをカインと呼べって……まさかこれは乙女ゲーで人気の名前呼びイベント!? 今それを私に要求するの? 他でもないあんたが!?)
私は硬直し、思わずまじまじと公爵を見返してしまった。
ここで改めて説明しよう。なぜ私がたかが名前を呼べと言われたくらいで、ここまで狼狽するのかを。
『名前呼びイベント』とは、乙女ゲーではよくある、ときめき恋愛イベントのことである。
例えば攻略対象がA王子の場合、プレイヤー(ヒロイン)はゲーム開始当初は「A様」とは呼ばない。あくまで敬称である「殿下」とお呼びするのが普通だ。
なぜならゲーム開始当初の攻略対象の好感度は0であり、知人でも友人でもないプレイヤーが、いきなり王子の名前を呼ぶのは無礼に当たるからである。
だがゲームを進め、好感度や親密度を上げていくと、プレイヤーと攻略対象は知人から友人、さらに気になる異性の友人とランクアップしていき、恋愛対象となる。
好感度100でラブラブENDを迎えられるとすれば、好感度50の折り返し地点で起こるのが、この名前呼びイベントなのだ。
『プレイヤー、どうか私のことはAと気軽に呼んでほしい。君にはそう呼んでもらいたいんだ。私のわがままかな……』
『殿下……いえ、A様……(ポッ)』
これだ、これ。今まで高嶺の花だった攻略対象が、直接名前を呼ぶことで一気に身近な存在になる。自分だけに与えられた特権に、乙女ゲープレイヤーは激しくときめくのだ。
ちなみにこの派生として、
『その先輩っていうのやめない? 俺のことは太郎でいいから』
『二人きりの時は教師と生徒ということとは忘れ、名前で呼びなさい』
『実は次郎っていうのは仮初の名で、本当は三郎っていうんだ。これは二人だけの秘密だぜ?』
などなど。攻略対象によっては色々名前呼びイベントのパターンも増える。
つまりプレイヤーと攻略対象が完全に恋に落ちた証――それが『名前呼びイベント』なのだ。
……ということで、大体お分かりいただけだろうか。
乙女ゲー脳の私が、なぜ「名前を呼べ」と言われただけで激しく動揺するのかを。
(つか、今の私とあんたの間の好感度なんて、100どころか-100でしょーが! 恋愛フラグが何一つ立ってない状態で、よく名前を呼べだなんて図々しいこと言えるわね!?)
私は一体どんな反応を返すべきか逡巡した。
もちろん『カイン様』と呼び返せばいいのはわかっているが、好感度-100の状態で呼べば、なんだか負けたような気がする。
いいこと? 公爵。私は別にあんたと親密になりたいわけじゃないの。むしろ殺害する時以外は極力距離を置きたいの。そのくらい私から流れ出る暗黒オーラから察しなさいよ、バーカバーカ。
「――デボラ?」
「――っ!!!」
そしてすかさず、二発目の爆弾投下。
ぎゃあぁぁぁぁーーーーっ! 今もろ名前を呼ばれた!
これぞ『逆名前呼びイベント!』。ゲーム中盤になるまで「お前」とか「こいつ」とか、決してプレイヤーの名前を呼ばなかった攻略対象が、突然プレイヤーの名前を呼び出す破壊力は、まさにナパーム級。
例えば気になる異性が「山田さん」呼びから突然「花子ちゃん」呼びに変わったら、誰でもときめくでしょう?
しかも人気声優のイケボで名前を囁かれたら、乙女ゲー全プレイヤーは失神、もしくは狂喜乱舞。
もちろんこの手の恋愛イベントはフルボイス必須。記念すべき名前呼びイベントにボイス入れなかった恋愛ゲームは『制作費ケチってんじゃねぇよ!』と大体炎上していた。
(くっ、悔しい……! なんで好感度-100なのに、名前呼びイベントが立て続けに発生するの!?)
私は怒りに震えながらも、公爵から突き刺さる視線にひたすら耐えていた。
公爵の表情に変化はない。怒るでも笑うでもなく、ただ私の二の句を待っている。
そんな雰囲気。
気づけば私の口内はからからに乾いていた。
公爵からしたら、たかが名前を呼ぶなんて大したことではないんでしょうね。
そうよ、これは大したことない。大したことではないわ……。
公爵がちゃんと私の名前を憶えてくれていたことに、いちいち喜んだりしないんだから。
「カ、カイン様……」
私は蚊の泣くような声で、何とかその一言を絞り出した。
すると公爵はニッと口角を上げ、楽しそうに笑う。
「カインでいい」
「呼び捨ては……さすがに無理です。どうかご容赦下さいませ……」
私はドレスの裾を持ち上げ、恭しく首を垂れた。
公爵の落ち着いた低音ボイスが、心の奥底に突き刺る。途端、再び激しく鼓動が乱れた。必死に 理性の手綱を握り、震える足元に力を込める。
公爵の声色は私をからかっているようでもあり、どこか真摯でもあった。
それはまるで落ちていく砂時計の砂のように、うまくつかめない。
――ああ、なんてずるい男。
私の吐息は、空しく宙に霧散する。
たった一言で私の心を乱し惑わせる、公爵が本気で憎かった。
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