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第1章 始まりの海国

放たれた刺客

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 勇者が気絶するように眠り、テュイアに会えないことを申し訳なく思っていた頃。

「眠れないのかい?」

「ええ。そうね……そういうことになると思う」

 まだまだ冴え渡る瞳を微睡に渡したくはない、とテュイアは窓際で腰掛けていた。
軍勢が並んでいた広間を眺めて物憂げな表情を浮かべている。
柔らかな雰囲気のテュイアとは違うような印象を持つのは月明かりが施す薄化粧といったところか。

「貴方と勇者は色々な景色を見せてくれる」

「紛い物が混じるのは不服だが、退屈しのぎにはなっているかな?」

「ええ。この部屋から出られなくても、たくさんの思い出がこの身体に詰まっていく」

そのままバルコニーの近くまで歩を進めるテュイア。

「それはもう、充分すぎるくらいに」

 怪しく光る満月に照らされるその姿はまるで女神そのもの。
ゼルヴェはますます彼女が欲しいと手を伸ばす。

 しかし、封印がゼルヴェとテュイアの間に浮かび上がった。

神が作り上げた障壁は、近いはずの二人の距離を何千万里と遠く隔てているのだ。

「私が欲しい?」

「ああ、欲しいさ」

「だったら何故悠長に勢力拡大などしているの? 勇者を見つけ出して屠れば、私は貴方のものなのに」

冷静な仮面を被っていたゼルヴェはその時、仇敵を目にしたように瞳を細める。

「魔王は完成している。勇者は発展途上。それが神の施した呪い」

「——何が言いたい?」

「貴方が出向けば、すぐに勇者は死ぬ。っていう話よ」

 暖かに笑うテュイアはそこにはいなかった。冷たい死人のような瞳が魔王を射抜く。
その幼いながらも妖艶な姿に魔王は心を奪われたのだ。

魔王として、このような妃を持つのが相応しいとも感じて。

「……ふふっ、まだまだ青い魔王様ですね」

「言ってくれるな。魔の軍勢を従え、諸国を蹂躙し制圧する私が青いと?」

「ええ。貴方は勇者を殺す理由を探している」

「!?」

 冷たい眼が心の内までを見抜いているようでゼルヴェは視線をそらす。
天下布武の力を手にしてから邁進してきたことに理由があると自分で考えたことはなかった。

「私がクレイスを殺せないと?」

「ええ。領土を広げて勇者に部下を殺されて初めて怒りを抱く。いや、抱こうとしている」

 魔王として領土を増やす行為は何らおかしくないがその真の目的が、それを妨害する勇者を憎むためなはずがあろうか。そんな道理があるはずがないとゼルヴェはせせら笑った。

「否定してもいいけど……貴方は結局、友を討つことを躊躇っている」

 強調された「友」という言葉。

刹那、ゼルヴェの脳裏に浮かぶ幼き日々。
それを振り払うように、魔王は言葉を紡ぎあげた。

「——お前はそんな簡単に手に入る女なのか?」

「そうやって悪ぶるのがゼルヴェだったかしら?」

 魔王の腹の中は屈辱に満ちた。
テュイアを手に入れたいが、思い通りに動くのも癪に触るというもの。
眼光は鋭くなり、城が震えるほどの覇気が辺り一帯を包んだ。

「私は最強になった。最強が自ら出向き、雑魚の勇者を狩るだと?」

封印で手出しできないとはいえ、一筋の汗がテュイアの頬を伝う。

「それは間違いだ。最強の称号とは座して待ち、挑戦者を迎え撃つ者!」

空気の怯えが止まり、ゼルヴェも笑みを柔和なものに戻す。

「旅の途中で奴が死ねば、そもそもお前を奪い合う土俵にすら立てなかったということだ」

踵を返し去っていくゼルヴェの後ろ姿を見ながら、テュイアは小さなため息をついた。

「あーらら、逆効果だったかなぁ……」

胸を抑えた少女は昂ぶったように瞳を輝かせ月を見上げる。

「魔王のあんな熱い一面を見せてもらったんですもの。私も身体が火照っちゃう」

 去る途中に後ろを振り向いてテュイアを眺める。

 魔王の妃にふさわしい妖艶さと神秘性を兼ね備えるようになったと感じるが、それが本当に自分の求めていたものなのかどうかは分からないままにその場を去って行った。



 感情を露わにしてしまったことを冷静に反省するゼルヴェ。
何か適当な景色でも見せてご機嫌を取るしかないと雑然に考えていたころ。

「我が魔王」

 自室に戻る途中、闇から影が浮き立つように一人の女性が現れた。

「レヴィーか。どうした?」

 しなやかな肢体と女性的な体のフォルムを持つ美女、レヴィー・エスキタン。
長く伸ばした濡羽色の髪を一つにまとめており、凛々しい瞳が理知的な雰囲気を漂わせている。
 彼女は魔王の側近として常にゼルヴェを支え続けているのだ。
人間としては最強に近い能力をもち、筋肉質な身体から飛び出す拳は神片ゴースなしでも千の軍隊に匹敵するという。

「彼方の大陸に我が軍の斥候部隊が到着しました」

片膝をついて報告する様子は質実剛健な戦士というよりは、暗殺者の佇まいと言えよう。

「海の向こうの大陸か。特に発展した文明もないと聞くが……」

思い出したようにゼルヴェは言葉を続ける。

「ああ。クレイスを飛ばした大陸だったな……それで向かったのは?」

「フォゼでございます」

「千手のフォゼか。試しに勇者と遊んでやれと伝えておけ」

「はっ」

瞬きと共に消えるレヴィー。つくづく優秀すぎる、と逆に寒気を覚えるほどだった。

「これで勇者が死ねばテュイアは私のもの、か。いささか味気ないが、魔王のもたらす試練とはそういうものなのかもしれない」

 小手調べにはあまりにも重すぎる刺客であることは間違いないが、これを切り抜けられないようでは女を奪い合う資格はない。

ゼルヴェはそう自分に言い聞かせるようにして冷酷に勇者への試練を始めるのだった。
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