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65.死神の影

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 カレンはヒナキが出て行ったのを確かめた直後、潤の体をベッドに寝かせ、扉の鍵を閉めた。ホテルを指定したのはこの為だった。有事の際に、後腐れなく作業をできるからだ。
 潤の目がゆっくりと開く。先ほどまでとは違う、月のように輝く金色の目だ。凛太郎と同じ、卑しくも美しい神の輝きを放っている。
「神の愛に効くのはね……鬼の毒さ」
「毒……?」
「そうさ。捨てる神あれば、拾うありってね。お前は私に感謝するだろうよ」
 カレンはニタリと笑みを浮かべ、牙を剥き出しにした。そのまま、潤のに齧り付く。固い鎖に阻まれる感触はあったが、そんなものはカレンにとって無意味だった。
「うぐっ、あ……ああ゛ぁ゛っ!」
「はあ……ああ、確かに……美味い血だ」
「やめ、ろ……お前何を……っ!」
 甘美で、濃厚で、いい匂いがする。これだから、若い人間の血は好きだ。カレンはそっと口を離すと、丁寧に唇を舐めた。飢えていた体が、まるで死の床から蘇ったかのようだった。
「悪かった。ちょっとだけ血を飲んでしまったよ。でも、そろそろ発作は治まるはずだ。このカレンの毒を入れてやったんだからね」
「……うぅ、ぐっ」
 潤が苦しげに呻いた。呼吸が乱れ、額までが赤くなっている。それから彼は、汗と涙を流し、今にも死にそうな顔をしながら、カレンの肩を掴んだ。
「んん? まだ痛むかい?」
「いや……」
 潤は力なく首を振る。傷口は、鎖に護られている箇所のせいか、すでに出血が止まっていた。
「助かった……ありがとう、ございます」
 その言葉を聞きたかった。カレンは目を細めて、にっこりと笑う。そうだ。これで、潤はカレンをなるはずだ。
「毒を入れることは、真の吸血鬼である私にしかできない。半端者のヒナキは与り知らぬことだ。どうだい? これなら……神の呪いにも耐えられそうだろう?」
 潤の表情がふと弛む。その瞳に、僅かながら希望のような色が浮かんだのが分かった。
 カレンは潤の涙を拭ってやりながら、その不安定にきらめく瞳をまっすぐ覗き込む。
——ああ、このまま喰い殺してやりたい。
 ふと、カレンの腹の底で吸血鬼の本能が疼く。しかし、カレンは決して本能に呑まれて計画を台無しにするような真似はしない。
——私が殺すんでは駄目だ。ヒナに嫌われてしまうからな。
「これで……俺の呪いは」
「消えはしない。ただ、苦痛を忘れることはできる。私が何度でも毒を与えてやろう」
 全能の神に愛されていることを忘れるほどに。死に近づいていることさえ、気がつかなくなるほどに。
「それで、充分です。ヒナキさんと一緒にいられるなら……」
 潤はふっと弱々しい笑みを浮かべる。まだ若いこの男は、どれだけ強がっていても、死への恐怖を忘れられないようだった。
——それでいいさ。
「どうやら、お前さんとは意見が同じようだね」
「…………」
 潤はゆっくりと起き上がる。その薄い体を、カレンは優しく抱き締めた。人の肌は温かい。そして、彼のように神の愛に蝕まれている存在は、特別にいい匂いがする。
 カレンはゆっくりと、牙をおさめ、潤の背中を撫でた。
「ヒナキのために死んでくれ。死神」
 潤は何も言わずに、ただ静かに頷いた。






3月1日 早朝
東京駅構内某所

「発作が起こったらこれを使いなさい。いいか? 症状が出てから使うんだぞ。吸血鬼の毒は、健康な体に使うと、文字通りに毒だからな」
「わかりました。ありがとうございます」
 カレンに渡された小瓶を受け取り、潤は頭を下げた。あんなに毛嫌いしていた高永カレンに、手助けをされることになるとは。不服であると同時に、やはりヒナキのような優しい人間には、潤をあと一ヶ月で死なせることは出来ないのだろうと悟った。
——2回も死にかけているところを見られたんだ。これ以上心配はかけられない。
 ふと、瓶の中身を見る。そこには奇妙な色の液体が入っていた。
「深く考えない方がいい。それは私の毒を精製したものだが……まあ、出所は、あれなんでな」
「はあ」
「まあ身構えるな。ヴァンパイアわたしの身体構造は、人体とは異なっているから」
 そう言って、べろりと舌を見せてくる。その舌は長く尖っていて、黒に近い紫色をしていた。話しているだけでは気が付かなかったが、どうやら彼は歯の並びも、骨格さえも、ただの人間とは異なっているらしかった。別の生物種と考えれば当たり前のことだが、こうして人の姿をして話をしているのに、不思議だ。
「さて、私のような存在があまり人目につく場所に長居するわけにはいかないな。そろそろ立ち去るとしよう」
 カレンは辺りを見回し、いよいよ人影が増えて来た事を気にしているようだった。
「達者でな」
「はい。ありがとうございます」
 そう言うと、カレンはくるりと背を向けた。しかし、すぐに何かを思い出したようにもう一度潤を振り向くと、ふと耳元に唇を寄せた。
「分かっていると思うが、絶対にヒナに気取られるなよ」
 それだけを言って、カレンは今度こそ姿を消した。魔法でも使ったように、忽然と居なくなったので、潤はいよいよ自分は化け物の手を取ってしまったのかと憂鬱な気分になった。



翌日 夜
愛知県 某ホール

「あなたと今日ここで出会えたのも『運命』。
 本当に幸せでした。ありがとう!」

 息が苦しい。笑顔が上手く作れているかどうかわからない。ペース配分は間違えなかったはずだ。今日は冒頭から声の調子も良かった。そのはずなのに。

 本編最後の曲が終わるとすぐ、挨拶もそこそこに、潤は下手へと捌けた。袖で出迎えてくれたローディーに手振りで礼を伝え、スタッフ達に会釈を繰り返しながら控室へ向かう。本当は、すぐに身支度をしてアンコールに備えなければならないが、今はそれどころではなかった。
 人目が無くなり、気が抜けた途端、頭がくらくらした。首が痛む。纏わり付く鎖が熱い。タオルで口元を押さえて、激しく咳き込んだ。この嫌な感じは、近ごろ覚えがあった。
——ステージの上じゃなくて良かった。
 ふらふら、とにかく誰かにぶつからないようにだけ考えながら、廊下を急ぐ。控室へ辿り着く直前になって、ついに真っ直ぐ立てなくなり、壁に手をついた。咳が止まらない。生温かい不快なものが喉に絡む。早く呼吸を整えないと……。
——カレンの薬、飲まなきゃ。
「ジュン? 顔色悪かったけど大丈夫?」
 入間が駆けつけて来たのだと分かった。彼とて息は上がっている。平気だと伝えたいのに、声が声にならない。
 入間はいつになく動揺しているようだった。無理もない。自分のバンドのフロントマンがこんな状態では、誰だって困惑するだろう。
「一回中入ろう。まだ時間はあるから」
 彼の言葉に従って、潤はなんとか控室の中に入った。咳は落ち着きつつあったが、過呼吸にでもなったように息がうまく吸えない。手近にあったコンビニの袋を手繰り寄せて、必死で呼吸を捕まえる。時折咳をしながら、懸命に息を吸った。
「なあ、ジュン……きみ……これ……」
 入間が顔を真っ青にしているのが目に飛び込んできた。遅れて、彼がたった今潤の捨てたタオルに目を向けているのに気がついた。その視線を辿って、潤もタオルを見やる。分かっていたことだが、そこには、べったりと血がついていた。
 ようやく落ち着き始めた呼吸に安堵しつつ、袋から顔を離す。全身が、暑さと寒気で狂ったように汗をかいていた。バッグの中を漁って、カレンから受け取った「ヴァンパイアの毒」を探す。どれだけ飲めばいいかもわからず、とにかく一息に煽った。不思議と、味も匂いもしなかった。
 それが功を奏したのか、時間が経ったためか、少しずつ動悸も治ってきた。潤は口元を拭って、入間の方に向き直った。
「誰にも……言わないで。お願い」
 床に放っていたタオルを乱暴に掴むと、先ほどの袋に突っ込んだ。それを丸ごとゴミ箱に押し込んで、ため息をつく。もう一度入間の方を見ると、彼の目に悲しげな色が浮かんだ。
「ジュン…………」
 入間は何か言いたげにしていたが、やがて黙って頷いた。彼の物分かりの良さは、本当に美徳だと思う。申し訳ない事を言っていると分かりながら、潤は入間に頷いて見せた。
 2人は慌ただしく準備をして、すぐにステージ袖に戻った。待ち侘びていた目黒とニックが、2人の微妙な空気を見て、僅かに表情を曇らせた。
「……なんかあったの?」
 潤は、不安げなニックに向かって首を振った。彼らは、潤が人ではないことさえ知らない。何も心配などかけたくなかった。
「大丈夫。行こう」
 4人はそれぞれハイタッチをすると、ステージへ向かった。再び、大きな歓声に出迎えられる……。




「……ん?」
 潤は目を覚ました。いつから眠っていたのか、ここがどこなのか、理解が及ばない。瞬きを繰り返し、部屋の景色を眺める。白い、味気ない天井。知らないベッド。そしてどうやら、潤は何かを鼻につけられているようだった。
——酸素吸入器?
 そして、左腕にも何かがつけられていた。袋に繋がれた管——点滴だ。
——病院……?
 首を動かして、辺りを見回した。人の気配はないが、物音がする。扉一枚隔てた向こうで、誰かが動き回っているようだった。
 と、しばらく考え込んでいるうちに、その扉が静かに開いた。マネージャーだ。
「JUN! 目が覚めたのか」
「ここは……?」
「病院だよ。君はライブが終わった直後に倒れたんだ。もう、あれから半日経ってる」
「昨日……?」
「ああ。幸い、ライブ自体に支障はなかったよ。IRUMAの提案もあって、まだ世間には公表してない。気分はどうだい? 辛くないか?」
——倒れたのか。
 いつ倒れたのか、思い出せない。アンコールを歌い切った記憶もないが、彼が終わってから倒れたと言うのだから、無事にライブは終わらせられたのだろう。
「顔色は……まだ、良くなさそうだね。お医者さんは、ただの貧血だって言っていたけど……3人ともすごく心配していたよ。今、呼んでくる。ああ、先に看護師さんを呼ぶから安心して」
「3人……みんなも、いるんですか?」
「当たり前じゃないか。置いていけるもんか」
 置いて行く。ということは、ここは愛知県内の病院なのだろう。面倒なことになってしまった。
 マネージャーが慌ただしく出ていくと、しばらくして看護師が2名入ってきた。それから遅れて、壮年の医者がやって来る。意識レベルを確認され、体温を測られている間、潤はぼうっと天井を眺めていた。
「喀血があったと伺ったので、呼吸器や肺の検査も行ったのですが、組織には異常が見られませんでした」
——やはりそうか。
「ただ、発熱と貧血が見られますので、しばらくは安静にお願いします。いま、詳しい血液検査をしていますので、結果が出次第お伝えしますね」
「……はい」
 医者は必要なことを早口に喋ると、看護師に吸入器を抜去させ、静かに部屋を出ていった。それから、看護師による入院に関する説明と、書類の案内がされる。潤の意識ははっきりしていたが、看護師の話はほとんど頭に入って来ていなかった。
——どうしよう。これ、ヒナキさんにも伝わっちゃうのかな。
 余計な心配はかけたくないとあれほど思っていたのに。
——よーちんあたりから伝わっちゃうかもしれないな。
 そんな事を思っていると、看護師達と入れ替わるようにしてURANOSの3人が入ってきた。皆浮かない顔をしている。しかし潤は、申し訳ないという気持ちより先に、彼らの顔を見れて安堵してしまった。
「ジュン! 生きててよかったぁ」
 ニックが涙ながらにそう言った。その後ろで、目黒が苦々しい顔をしている。きっと怒っているのだろう。入間も、穏やかな表情には見えなかった。
「ごめん……みんな。迷惑かけちゃって」
「ほんとだよ! いや、迷惑っつーか、どんだけ心配させられたことか」
 ニックは潤の右手をしっかり握り、子供のように泣いた。ニックはいつだって優しい。彼だって、きっと潤に対して苛立ちや不満くらいあるはずなのに、こんなにも心配してくれていたのだ。
「なあ、ジュン」
 目黒が重たげに口を開く。彼が何を言おうとしているのか、凡そ予想がついた。
「ツアー、中断しようか?」
——やっぱり。
 それを言われた途端、潤は思わずため息をついてしまった。もし自分が目黒の立場だったら。きっと、同じように考えただろう。メンバーの誰かが欠けてしまうことは、バンドにとって最も辛いことだと言ってもいい。それを回避するためなら、ファンや世間に不誠実な事をしても仕方ないと、そんな風に考えてしまうのも必然だ。
「中止か、急だけど……延期にするか。あと、東京だけじゃんか。東京ならまだ、都合つくだろうし」
「君に無茶させたくないんだよ」
 突然、入間が口を挟んだ。どうやら、彼はどこかで泣いていたらしかった。珍しく、瞼が腫れている。声がいつもより低いのも、潤の胸を痛ませた。
「そんな……危険な状態で、ステージには立たせられない」
「ただの貧血……大丈夫だよ」
「っ、あれがただの貧血なわけあるかよ!」
 入間が突然声を荒げたので、他の3人は一様に目を丸くした。彼が、普段こんな風に怒ることは滅多にない。
「洋介。デケェ声出すな。病院だぞ」
「わかってる。ごめん……取り乱した」
 入間はふらふらと潤のそばに歩み寄って、しゃがみ込んだ。潤の顔を真っ直ぐに見つめて、語り掛ける。
「お願いだから……危険なことはやめてくれ」
「よーちん……」
 それ以上の言葉は、口にするのを躊躇ったようだった。入間がこんな、自分が死にかけているかのように悲壮な顔をするなんて思わなかった。自分が、無意識のうちに彼らのことを軽んじていたように思えて、罰が悪くなる。潤はしばらく視線を彷徨わせてから、もう一度だけ「ごめん」と言った。





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