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63.潤と似た人
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その夢の中で、ヒナキは見知らぬ場所にいた。少し古っぽい、しかし手入れの行き届いた立派な屋敷。岐阜のカレンの家とは違う。窓があって、和モダンな雰囲気漂う明るい屋内だ。廊下を歩くだけで、使用人たちからにこやかに挨拶をされる。
ヒナキは袴を身に付けて、男性の後ろを歩いていた。
「——よ。今日はお前の好きな曲を演奏しよう」
「本当ですか! ——さん!」
ヒナキはその男性に向かって嬉々とした声を上げた。それに、男性がニコリと笑みを見せる。
——あれ、この人……。
釣り気味の鋭い目。おっとりした下がり眉。そして、涙ぼくろ。品の良い、綺麗な唇。
倉科潤と、瓜二つだ。
——あ、でも潤とは左右逆だ。
この男性の涙ぼくろは、左目の下にあった。
「何がいいかな? ショパンかね」
潤にそっくりな彼は、乱雑に伸ばした黒髪を一つに結っていた。洋装の背広姿で、潤よりは少し身長が低いようだが、すらりとした背格好をしている。
「——さんの曲が聴きたいです。この間、作っていらした……」
「ふふっ、いいとも。あの曲は、お前のためのものなんだよ」
声まで潤にそっくりだ。耳心地の良い、優しくて艶やかな声。その声で呼ばれるだけで、ヒナキは幸せな気持ちでいっぱいになる。
——でも、名前が聞き取れない。
夢の中のヒナキの名前も、男性の名前も。
「おいで」
ふと顔を上げると、ピアノの前に座った男性が、ヒナキに向かって両手を広げていた。ヒナキはその胸に飛び込んで、温かい抱擁を受けた。
——心地いい。
夢の中なので、匂いはわからない。けれど、この人の腕の感触は、紛れもなく潤と同じものだ。
「愛する——へ」
優しい声がそう言った。程なくして、彼はヒナキを隣に座らせたまま、演奏を始めた。涙が出そうなほど繊細で、美しい曲だ。
「私の気持ちを聴いてくれ」
最後に、男性はそう言った。ヒナキはただ、心打たれて涙を流しながら、彼の手を握って首肯いた。
「その曲、聴いたことある」
ヒナキの演奏を聴いて、潤は真っ先にそう言った。また共用スペースのピアノを弾いている時に、ふと夢で見たことを思い出して、彼の前で試しに鳴らしてみたのだ。といっても、主旋律しか覚えていない。それでも、潤は難しい顔をして、そう言った。
「どこで聴いたか思い出せない。でも、知ってる」
「本当?」
「うん」
やはり潤は音楽のこととなると、すぐに「気難しい人」になってしまう。ヒナキは潤が考え込んでいるのをじっと待ちながら、鍵盤から離した指を空で動かした。本当にこの曲は、夢に出てきた潤そっくりな人が作った曲なのだろうか。だとしたら、彼は実在した人物ということになる。
「……ていうか、ヒナキさんピアノ弾けるんだね。知らなかったよ」
「ははっ、今さら?」
「ごめん。これでも驚いてるんだよ」
「まあ僕も驚いてるよ。何十年も弾いてなかったのに、昔みたいに指が動くから」
潤はまたしばらく考え込んでから、ようやく表情を緩めた。それでも、目はヒナキの方を向いていない。
「体が覚えてたんだろうね」
どうやら、この曲は潤の心に相当引っかかってしまったようだ。潤はじっとどこか遠いところを見つめたまま、腕を組んで立っている。
「いいや、帰ってから考えよう。……で、ヒナキさん。なんでその曲を俺に聴かせようと思ったの?」
「潤なら知ってるかなって思って。あと、その夢に出てきた人が、潤にそっくりだったから……」
「俺に?」
「うん」
名前はわからない。けれど、確実に潤とは別の人間なのに、驚くほど似ていた。もし彼が実在した人物ならば、潤の親戚であった可能性もある。
と、ヒナキがじっと潤の顔を眺めていると、突然潤があっと声を上げた。
「分かったかもしれない」
「なにが?」
「その曲」
潤はくるりと背を向けると、どこかへ向かって歩き出した。ヒナキは慌ててピアノにカバーをかけ、片付けてから、潤の後を追った。
「どこ行くの?」
「実家」
「えっ、今から?」
ヒナキはコートを羽織る間も無く、急いで潤の後を追う。流石に、彼と一緒にいる時にカレンみたいな歩き方はしたくない。
「ヒナキさんも一緒に来る?」
「君のご実家に!?」
「うん。すぐ着くよ。電車で40分くらいだから」
潤はコートのポケットに両手を入れたまま、駅へ向かってまっすぐ進んだ。今ヒナキは、スマホと財布しか持っていない。いくら突然の機会だからとはいえ、恋人の実家に手ぶらで行くのはいかがなものか。
「潤って一人っ子だったっけ」
「そうだよ。……あ、そんな身構えなくていい。どうせ両親いないから」
聞けば、潤の両親は昔から家を空けることが多いらしかった。以前「ふーちゃん」の話を聞いた時も思ったことだが、潤は随分寂しい少年時代を過ごしたようである。
「母さんは舞台の稽古とかで忙しいし、父さんはあちこち飛び回っちゃうから」
作曲の仕事以外に、死神の仕事も忙しかったようだ。死神の仕事がどんなものか、知りたい気持ちもあったが、聞かない方が良さそうだと思った。きっと、潤にとってはあらゆる面で嬉しくない存在に違いない。
「たまの休みにはずっと楽器の練習させられてたしね。まあ、楽しかったからいいんだけど」
あまり一般的な家族らしい思い出はないという。
「父さんとは、言葉で喋った数より一緒に演奏した回数の方が多いかもしれない」
「そうなんだ……」
「けど、それが俺たちには合ってたかも。お互い口下手だったから」
そう言って、潤は笑った。
1時間後、ヒナキは土地勘のない場所で潤と並んで歩いていた。見渡す限り、いわゆる「東京」らしさはなく、地方都市といった雰囲気だ。
「クリスマスに一回来たでしょ」
物珍しそうな顔をしているヒナキに、潤は呆れたような笑みを見せた。そんなことを言われても、あの日は夜だったし、潤の運転に任せきりだった。一体都内のどの場所に連れて行かれていたのか、さっぱり分かっていなかったと言っていい。
「着いたよ」
潤に言われ、顔を上げると、そこには立派な戸建て住宅があった。いかにも洋風の、現代的な一軒家だ。
庭に、空っぽの犬小屋が置かれている。きっと、数年前まであそこで「ふーちゃん」が飼われていたのだろう。
「あの曲ね。多分、父さんが補完したやつだと思うんだ。元々は別の誰かが作ったものだと思うんだけど、未完成で」
「そうなの?」
あの記憶の限りでは、そんなに最近作られたもののようには思えなかった。だって、あの風景や服装はまるで——大正時代のものだったからだ。
しかし、その事は潤に言えなかった。なんとなく、あの夢がヒナキの人間だった頃に関わっているような気がして、不安だった。
「お邪魔します」
潤の後に続いて、ヒナキは倉科家に足を踏み入れた。確かに人の気配はない。綺麗に手入れはされているが、どこか物悲しさが漂っている。潤が出てから、それまで以上に誰もいない時間が増えたのかもしれない。
「父さんの作曲部屋があるんだ。こっち」
「勝手に入っていいの?」
「うん。父さんが仕事してない時ならね」
潤がそう言うので、ヒナキも黙って従った。他人の生活を勝手に覗いて申し訳ないような気持ちにもなるが、好奇心には勝てない。
「父方の親戚、作曲者とかの音楽やってる人が多かったらしいんだよね。だから、あの曲の元を作ったのも、多分そっちの人」
倉科元の作曲部屋は、使い込まれた電子ピアノと、複数の弦楽器(ケースに仕舞われているが、おそらくチェロとヴァイオリンだろう)、大きなレコードプレイヤー、譜面台、そしてヒナキの見たこともないような機材がいくつも設置されていた。家庭の中にこんな部屋があるなんて、にわかには信じがたい。
「すごいね」
「でしょ」
潤は迷わずに壁際の巨大な棚へと向かい、中を物色し始める。楽譜やレコードなど、彼の父親のコレクションが収納されているようだった。
「ここに父さんの作った曲の音源と譜面が入ってたはず。多分……この中に……」
しばらく中を漁り、潤はぶつぶつと何事かを呟いた。その横顔を眺めながら、ヒナキはふと考える。
「潤は作曲しないの?」
「ん? どうだろう。今は考えてないけど」
「興味はある?」
「うん。でも、やるなら今みたいな感じでめぐちんと共作かな。バンドの曲作って、自分で歌いたい」
「そっか」
URANOSの曲はほとんどMEGが作っているが、近頃は潤も参加しているという風に聞いている。彼らは専ら自分たちの曲を作ることに熱を上げていて、他所へ楽曲提供をするのは、メンバーの誰も望んでいないらしい。
「やりませんかって話はちょくちょく来るんだよ。先輩のバンドマンとか、全然関係ないジャンルだけど同じ事務所の人とかから。別に、その人たちとやってみて、後でセルフカバーをすればいいんだけどさ。なかなか、俺もメグもめんどくさい人間だから」
「こだわりが強いんだよね」
「うん。でもいつかは、そうだな……この人に歌ってほしい、みたいな曲が作れたらいいけど。今は自分たちで楽しみたい」
潤の口元に笑みが浮かぶ。本当に、音楽の話をしている時の潤は生き生きとしている。彼の楽しそうな姿が、ヒナキは大好きだ。
「あ、あった。これだ」
潤は譜面の束とレコードを取り出し、ヒナキに見せた。
「曲名は無かったから、父さんも通り名で呼んでたんだ。未完ロマンスって」
「ロマンス?」
「うん。どうもこの曲、恋人に贈るつもりで作ったみたい。曲名は無かったのに、作曲者のコメントはいっぱい残っててさ」
潤が、束の中に挟まれていた古びた紙を取り出す。そこには、達筆な字でいくつもの短文が記されていた。
「これが……潤のご先祖の残した」
「そう。多分。……ねぇ、これ見て弾いてみてくれない?」
「えっ、僕が?」
「うん」
楽譜を見てすぐに弾けるほどの才はない。少なくとも、ヒナキはそう思っている。確かにピアノ曲なのは分かるが、速読は無理だ。少なく見積もっても、1週間以上はかかる。
「ちょっと時間ちょうだい」
「もちろん」
結局、その日は楽譜を読むだけに費やして、練習は持ち帰ることになった。作曲者のコメントも含めて、全頁をコピーした紙の束は、ずっしり重たい冊子になった。手ぶらで来てしまったが、かえってよかったかも知れない。
彼の家を離れる頃にはすっかり夜になっていたが、それでも彼の両親は家に帰ってこないようだった。住宅街は静まり返り、家々が温かい灯りを点け始める。
「もしかしたら今日は2人とも帰らない日なのかもね」
「そんな日があるの?」
「よくある。母さんは、稽古が忙しいとほとんど帰らなかったし。不仲とかじゃないんだよ。ホントに忙しいだけ」
幼い頃の潤は、寂しい夜をどうやって過ごしていたのだろう。そんな事に思いを馳せると、胸が痛んだ。
「そうだ、来月チャリティコンサートがあるって言ってたでしょ?」
「ああ、うん」
「あれが終わったら父さんもしばらく手が空くだろうから、その時に相談してみるのもいいかもね。言っとくよ。どうせ、譜面パクったこと言わなきゃいけないし」
「うん。ありがとう」
話しながら、駅へと向かう。
「とにかく、練習してみるよ。人に聞かせられるくらいになるのは数ヶ月かかるかもしれないけど」
「うん。楽しみにしてる」
数ヶ月先。潤に聞かせられるようになる日など、訪れるのだろうか。ふとそんな考えがよぎったが、ヒナキはすぐに首を振った。
——明日にはカレンと会うんだ。そしたらきっと……。
きっと、潤を救う手立てが見つかる。彼を、ヒナキを殺すよう上手く説得する方法が。
——今のところ、潤には言わないでおこう。
2月24日の夜。タイムリミットは、40日を切っていた。
ヒナキは袴を身に付けて、男性の後ろを歩いていた。
「——よ。今日はお前の好きな曲を演奏しよう」
「本当ですか! ——さん!」
ヒナキはその男性に向かって嬉々とした声を上げた。それに、男性がニコリと笑みを見せる。
——あれ、この人……。
釣り気味の鋭い目。おっとりした下がり眉。そして、涙ぼくろ。品の良い、綺麗な唇。
倉科潤と、瓜二つだ。
——あ、でも潤とは左右逆だ。
この男性の涙ぼくろは、左目の下にあった。
「何がいいかな? ショパンかね」
潤にそっくりな彼は、乱雑に伸ばした黒髪を一つに結っていた。洋装の背広姿で、潤よりは少し身長が低いようだが、すらりとした背格好をしている。
「——さんの曲が聴きたいです。この間、作っていらした……」
「ふふっ、いいとも。あの曲は、お前のためのものなんだよ」
声まで潤にそっくりだ。耳心地の良い、優しくて艶やかな声。その声で呼ばれるだけで、ヒナキは幸せな気持ちでいっぱいになる。
——でも、名前が聞き取れない。
夢の中のヒナキの名前も、男性の名前も。
「おいで」
ふと顔を上げると、ピアノの前に座った男性が、ヒナキに向かって両手を広げていた。ヒナキはその胸に飛び込んで、温かい抱擁を受けた。
——心地いい。
夢の中なので、匂いはわからない。けれど、この人の腕の感触は、紛れもなく潤と同じものだ。
「愛する——へ」
優しい声がそう言った。程なくして、彼はヒナキを隣に座らせたまま、演奏を始めた。涙が出そうなほど繊細で、美しい曲だ。
「私の気持ちを聴いてくれ」
最後に、男性はそう言った。ヒナキはただ、心打たれて涙を流しながら、彼の手を握って首肯いた。
「その曲、聴いたことある」
ヒナキの演奏を聴いて、潤は真っ先にそう言った。また共用スペースのピアノを弾いている時に、ふと夢で見たことを思い出して、彼の前で試しに鳴らしてみたのだ。といっても、主旋律しか覚えていない。それでも、潤は難しい顔をして、そう言った。
「どこで聴いたか思い出せない。でも、知ってる」
「本当?」
「うん」
やはり潤は音楽のこととなると、すぐに「気難しい人」になってしまう。ヒナキは潤が考え込んでいるのをじっと待ちながら、鍵盤から離した指を空で動かした。本当にこの曲は、夢に出てきた潤そっくりな人が作った曲なのだろうか。だとしたら、彼は実在した人物ということになる。
「……ていうか、ヒナキさんピアノ弾けるんだね。知らなかったよ」
「ははっ、今さら?」
「ごめん。これでも驚いてるんだよ」
「まあ僕も驚いてるよ。何十年も弾いてなかったのに、昔みたいに指が動くから」
潤はまたしばらく考え込んでから、ようやく表情を緩めた。それでも、目はヒナキの方を向いていない。
「体が覚えてたんだろうね」
どうやら、この曲は潤の心に相当引っかかってしまったようだ。潤はじっとどこか遠いところを見つめたまま、腕を組んで立っている。
「いいや、帰ってから考えよう。……で、ヒナキさん。なんでその曲を俺に聴かせようと思ったの?」
「潤なら知ってるかなって思って。あと、その夢に出てきた人が、潤にそっくりだったから……」
「俺に?」
「うん」
名前はわからない。けれど、確実に潤とは別の人間なのに、驚くほど似ていた。もし彼が実在した人物ならば、潤の親戚であった可能性もある。
と、ヒナキがじっと潤の顔を眺めていると、突然潤があっと声を上げた。
「分かったかもしれない」
「なにが?」
「その曲」
潤はくるりと背を向けると、どこかへ向かって歩き出した。ヒナキは慌ててピアノにカバーをかけ、片付けてから、潤の後を追った。
「どこ行くの?」
「実家」
「えっ、今から?」
ヒナキはコートを羽織る間も無く、急いで潤の後を追う。流石に、彼と一緒にいる時にカレンみたいな歩き方はしたくない。
「ヒナキさんも一緒に来る?」
「君のご実家に!?」
「うん。すぐ着くよ。電車で40分くらいだから」
潤はコートのポケットに両手を入れたまま、駅へ向かってまっすぐ進んだ。今ヒナキは、スマホと財布しか持っていない。いくら突然の機会だからとはいえ、恋人の実家に手ぶらで行くのはいかがなものか。
「潤って一人っ子だったっけ」
「そうだよ。……あ、そんな身構えなくていい。どうせ両親いないから」
聞けば、潤の両親は昔から家を空けることが多いらしかった。以前「ふーちゃん」の話を聞いた時も思ったことだが、潤は随分寂しい少年時代を過ごしたようである。
「母さんは舞台の稽古とかで忙しいし、父さんはあちこち飛び回っちゃうから」
作曲の仕事以外に、死神の仕事も忙しかったようだ。死神の仕事がどんなものか、知りたい気持ちもあったが、聞かない方が良さそうだと思った。きっと、潤にとってはあらゆる面で嬉しくない存在に違いない。
「たまの休みにはずっと楽器の練習させられてたしね。まあ、楽しかったからいいんだけど」
あまり一般的な家族らしい思い出はないという。
「父さんとは、言葉で喋った数より一緒に演奏した回数の方が多いかもしれない」
「そうなんだ……」
「けど、それが俺たちには合ってたかも。お互い口下手だったから」
そう言って、潤は笑った。
1時間後、ヒナキは土地勘のない場所で潤と並んで歩いていた。見渡す限り、いわゆる「東京」らしさはなく、地方都市といった雰囲気だ。
「クリスマスに一回来たでしょ」
物珍しそうな顔をしているヒナキに、潤は呆れたような笑みを見せた。そんなことを言われても、あの日は夜だったし、潤の運転に任せきりだった。一体都内のどの場所に連れて行かれていたのか、さっぱり分かっていなかったと言っていい。
「着いたよ」
潤に言われ、顔を上げると、そこには立派な戸建て住宅があった。いかにも洋風の、現代的な一軒家だ。
庭に、空っぽの犬小屋が置かれている。きっと、数年前まであそこで「ふーちゃん」が飼われていたのだろう。
「あの曲ね。多分、父さんが補完したやつだと思うんだ。元々は別の誰かが作ったものだと思うんだけど、未完成で」
「そうなの?」
あの記憶の限りでは、そんなに最近作られたもののようには思えなかった。だって、あの風景や服装はまるで——大正時代のものだったからだ。
しかし、その事は潤に言えなかった。なんとなく、あの夢がヒナキの人間だった頃に関わっているような気がして、不安だった。
「お邪魔します」
潤の後に続いて、ヒナキは倉科家に足を踏み入れた。確かに人の気配はない。綺麗に手入れはされているが、どこか物悲しさが漂っている。潤が出てから、それまで以上に誰もいない時間が増えたのかもしれない。
「父さんの作曲部屋があるんだ。こっち」
「勝手に入っていいの?」
「うん。父さんが仕事してない時ならね」
潤がそう言うので、ヒナキも黙って従った。他人の生活を勝手に覗いて申し訳ないような気持ちにもなるが、好奇心には勝てない。
「父方の親戚、作曲者とかの音楽やってる人が多かったらしいんだよね。だから、あの曲の元を作ったのも、多分そっちの人」
倉科元の作曲部屋は、使い込まれた電子ピアノと、複数の弦楽器(ケースに仕舞われているが、おそらくチェロとヴァイオリンだろう)、大きなレコードプレイヤー、譜面台、そしてヒナキの見たこともないような機材がいくつも設置されていた。家庭の中にこんな部屋があるなんて、にわかには信じがたい。
「すごいね」
「でしょ」
潤は迷わずに壁際の巨大な棚へと向かい、中を物色し始める。楽譜やレコードなど、彼の父親のコレクションが収納されているようだった。
「ここに父さんの作った曲の音源と譜面が入ってたはず。多分……この中に……」
しばらく中を漁り、潤はぶつぶつと何事かを呟いた。その横顔を眺めながら、ヒナキはふと考える。
「潤は作曲しないの?」
「ん? どうだろう。今は考えてないけど」
「興味はある?」
「うん。でも、やるなら今みたいな感じでめぐちんと共作かな。バンドの曲作って、自分で歌いたい」
「そっか」
URANOSの曲はほとんどMEGが作っているが、近頃は潤も参加しているという風に聞いている。彼らは専ら自分たちの曲を作ることに熱を上げていて、他所へ楽曲提供をするのは、メンバーの誰も望んでいないらしい。
「やりませんかって話はちょくちょく来るんだよ。先輩のバンドマンとか、全然関係ないジャンルだけど同じ事務所の人とかから。別に、その人たちとやってみて、後でセルフカバーをすればいいんだけどさ。なかなか、俺もメグもめんどくさい人間だから」
「こだわりが強いんだよね」
「うん。でもいつかは、そうだな……この人に歌ってほしい、みたいな曲が作れたらいいけど。今は自分たちで楽しみたい」
潤の口元に笑みが浮かぶ。本当に、音楽の話をしている時の潤は生き生きとしている。彼の楽しそうな姿が、ヒナキは大好きだ。
「あ、あった。これだ」
潤は譜面の束とレコードを取り出し、ヒナキに見せた。
「曲名は無かったから、父さんも通り名で呼んでたんだ。未完ロマンスって」
「ロマンス?」
「うん。どうもこの曲、恋人に贈るつもりで作ったみたい。曲名は無かったのに、作曲者のコメントはいっぱい残っててさ」
潤が、束の中に挟まれていた古びた紙を取り出す。そこには、達筆な字でいくつもの短文が記されていた。
「これが……潤のご先祖の残した」
「そう。多分。……ねぇ、これ見て弾いてみてくれない?」
「えっ、僕が?」
「うん」
楽譜を見てすぐに弾けるほどの才はない。少なくとも、ヒナキはそう思っている。確かにピアノ曲なのは分かるが、速読は無理だ。少なく見積もっても、1週間以上はかかる。
「ちょっと時間ちょうだい」
「もちろん」
結局、その日は楽譜を読むだけに費やして、練習は持ち帰ることになった。作曲者のコメントも含めて、全頁をコピーした紙の束は、ずっしり重たい冊子になった。手ぶらで来てしまったが、かえってよかったかも知れない。
彼の家を離れる頃にはすっかり夜になっていたが、それでも彼の両親は家に帰ってこないようだった。住宅街は静まり返り、家々が温かい灯りを点け始める。
「もしかしたら今日は2人とも帰らない日なのかもね」
「そんな日があるの?」
「よくある。母さんは、稽古が忙しいとほとんど帰らなかったし。不仲とかじゃないんだよ。ホントに忙しいだけ」
幼い頃の潤は、寂しい夜をどうやって過ごしていたのだろう。そんな事に思いを馳せると、胸が痛んだ。
「そうだ、来月チャリティコンサートがあるって言ってたでしょ?」
「ああ、うん」
「あれが終わったら父さんもしばらく手が空くだろうから、その時に相談してみるのもいいかもね。言っとくよ。どうせ、譜面パクったこと言わなきゃいけないし」
「うん。ありがとう」
話しながら、駅へと向かう。
「とにかく、練習してみるよ。人に聞かせられるくらいになるのは数ヶ月かかるかもしれないけど」
「うん。楽しみにしてる」
数ヶ月先。潤に聞かせられるようになる日など、訪れるのだろうか。ふとそんな考えがよぎったが、ヒナキはすぐに首を振った。
——明日にはカレンと会うんだ。そしたらきっと……。
きっと、潤を救う手立てが見つかる。彼を、ヒナキを殺すよう上手く説得する方法が。
——今のところ、潤には言わないでおこう。
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