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55.酩酊

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 入間と2人で店を出たあと、ヒナキはどうやって自分の家に辿り着いたのかをよく覚えていなかった。「酔い潰れたら送ってあげるよ」なんて啖呵を切ったくせに、結局世話になったのはヒナキの方だったということだけは分かる。
 いつのまにか入間は居なくなっていて、ヒナキは自分の家のベランダで、理由もなく泣いていた。恐らく彼が帰宅までを手助けしてくれたに違いないのだが、その記憶も曖昧だ。タクシーに乗せてくれたところまでは覚えている。その後、朧げながら彼に散々な迷惑をかけて、なんとか家の中に押し込んでもらって……彼に一体何を言ってしまったんだったか。とにかく、ヒナキは失言を繰り返した挙句泣き喚いて、入間を酷く困惑させてしまったのだった。

 知らない間に、スマホの画面にはヒビが入っていた。落としたのか、力のコントロールができなくて壊してしまったのか。潤に電話をしたいのに、うまく画面が操作できない。メッセージアプリが起動できないので、また癇癪を起こしたように泣きじゃくってから、潤の電話番号に直接コールをかけた。
 今が何時かも分からないのに、酒でおかしくなった勢いで潤にまで迷惑をかけようとしているのは、自分でもどうかと思う。しかし、弱り切った理性は頭の片隅でカレンのお節介程度にしか働かない。今のヒナキを止めるには、不十分だった。
「ヒナキさん? どうしたのこんな時間に」
 果たして、潤は通話に応じた。とても眠そうな、しかし焦った声だった。非常事態に飛び起きた、といった風だ。
——こんな時間……?
 なぜかヒナキは、自分の手でベランダを締め切ってしまっていたので、部屋の中の壁掛け時計を見ることは叶わなかった。空が白み始めているので、かなり不健全な時間だということはぼんやり分かる。
「潤……潤だぁ……君の声が聞きたかったんだ」
 心から滲み出たものをそのまま口にした。泣きすぎて、酷い声だ。自分がどうして泣いているかも分からないので、どうしようもなかった。
「えっ……泣いてる? なんかあったの?」
「わかんない……何もない……ぐすっ」
「ちょっと待って。ホントにどうしたの? 今どこ? 何してんの?」
「ベランダ。座ってる」
「ベランダ……?」
「うん……ベランダ……」
 そう繰り返した時、冷たい風が吹いた。それでも、ヒナキは全く部屋の中に戻ろうという気にならない。夜風で頭を物理的に冷やしていないと、大変なことになってしまいそうなのだ。
 とはいえ、今でもすでにだ。鈍く重い頭の中で、ヒナキは普段なら誰にも言えないような、子供じみたことばかり考えていた。
「潤に会いたいのに、いないし……ううっ……こんなバカみたいなことしたら……嫌われちゃう」
「嫌わないよ。ねえ、どうしたの?」
「どうもしてない……頭おかしくなった……」
 そうして、ヒナキはまた大袈裟に泣いた。潤が困惑してるのが分かる。けれど、そこに潤がいて、ヒナキの話を聞いていると思うだけで、嬉しくてまた涙が出てしまう。会いたくてたまらない。気持ちの制御が効かない。
「ヒナキさん……家にいる? 家のベランダ?」
「うん……」
 その後、しばらく潤は黙り込んだ。代わりに、物音が聞こえてくる。何かしているらしい。忙しいのだろうと、普段なら分かるけれど、今のヒナキにとっては「怒らせてしまった」という風にしか受け取れなかった。
 こんな鬱陶しい電話をかけてしまったのだから、怒らせてしまって当然だ。怒られたら、嫌われる。ただでさえ化け物で、長生きのジジイで、彼の隣に立つ資格などないのに。
「じゅんっ……怒らないで……っ」
「え? 怒ってないって。着替えてただけ。ねえ、今から30分くらいで着くから。一回電話切るよ」
「……会いに来てくれるの?」
「はあ……彼氏がそんなんなのにほっとけないでしょ。部屋ん中入っててよ。一般人にバレちゃうよ」
「ん……カレシ……」
「彼氏じゃないの? とにかく、すぐ行くから。待っててね」
「うん……」
 いよいよ声が掠れてきた。ヒナキはスマホを強く握ったまま何度も頷いて、電話が切れる音をどこか遠い気分で聞いていた。無音が訪れる。
 潤には部屋に入れと言われたが、扉を開けるのも億劫で、ヒナキはそのまま蹲って待つことにした。涙が凍り付いてしまいそうだ。

 やがて、本当に30分ほど経った頃だろうか。聞き覚えのあるバイクの音が聞こえてきて、ヒナキは顔を上げた。あれはきっと、潤のバイクだ。クリスマスの時に聞いた、あの音に間違いない。
 今になって、ようやく時間を確認した。スマホの割れた画面の中には、4時18分と表示されていた。
「こんな時間……か……」
 排気音が途切れてから、数分後。インターホンが鳴った。しかし、ヒナキが動き出すより前に、扉の開く音がした。鍵を開けたままにしてしまっていたのだったか、潤が鍵を開けたのか、よく分からなかった。セキュリティが甘過ぎると、つい最近も潤に小言を言われたところだった。
「やっぱりまだそこにいた」
 潤はまっすぐにヒナキの元へ向かってくると、ベランダの戸を開けた。流石に、少し呆れているようだった。髪は乱れているし、寒かったせいか、顔が赤くなっている。急いで来てくれたことは明らかだった。
 潤に手を引かれて、久しぶりに部屋の中へと入る。思っていたよりも、部屋の中は暖かかった。ヒナキはふらふらと床にへたり込んだが、すぐに潤の腕の中に閉じ込められてしまった。
「ほら……体冷たくなってるじゃん」
——潤の匂いだ。
 その瞬間、止まっていたはずの涙がまた溢れ出した。酔いは、先ほどよりはおさまりつつあったが、それでもまだ頭は痛むし、うまく体に力が入らない。
「どれだけお酒飲んだの」
「覚えてない……たくさん」
「そうだろうね。はあ、でもよかった。無事で」
 潤は心底安堵したようにヒナキを強く抱きしめた。彼の胸がトクトクと速いペースで音を鳴らしている。次第に、ヒナキの心の中で欲張りな感情が膨れ上がって、弾けた。
「潤……ごめん……好きだよぉ。好き、会いたかった……っ」
「ん、分かってる。俺も好きだよ」
 潤は泣きじゃくるヒナキの額に軽くキスをして、ソファに座らせた。その隣に彼も腰を下ろして、眠そうに欠伸をする。その様子を眺めながら、ヒナキは深く考えるより先に、ふと頭に浮かんだことを口に出した。
「潤と一緒に暮らしたい……」
「え?」
 潤はあからさまに動揺した。どうやら、今のヒナキの発言で目が覚めたらしい。くしゃくしゃの髪を指で梳きながら、咳払いをした。
「待って。なんて?」
「マンション買うから……同棲しようよ」
「急に何言い出すの」
 別に、たった今思いついたわけではない。前々から考えていたことだ。ただ、今気持ちが昂った結果、出てきてしまっただけで。
「潤に毎日会えたら寂しくないし、不安にもならないもん……」
 潤は口をポカンと開いたまま、言葉を失って固まっていた。寝癖のせいで、少々間抜けに見える。それでも、ヒナキの目には美しいという情報しか入ってこない。
「僕……上京してすぐのお金のなかった時代からずっとここに住んでるし……いい加減まともなところに引っ越せって相良さんに何度も言われてる」
「相良さん?」
「マネージャー。前から進められてる物件がいくつかあったんだ。……でも、大きい家に1人で住むなんて嫌だよ。潤も一緒に住もうよ」
 そんなことを言いつつ、今の潤の家すら行ったことがない。彼の私生活というものをろくに知らない。確か、場所は恵比寿か目黒の辺りだと言っていた気はする。
 しかし、一緒に住んでしまえばそれももはや関係ない。同じ住所で、同じ空間で、生活を共にしてしまいさえすれば、自ずと分かることだ。
「……本気で言ってる?」
「当然でしょ」
 ヒナキはふらふらと立ち上がり、潤の膝の上に跨った。見下ろした潤は珍しく、酷く照れた顔をしていた。彼のいつもの澄ました表情を崩すことができたのだと思うと、たまには酒癖で悲惨になるのも悪くないかもしれない。
「ずっとそばに居てくれたら……変な時間に電話なんてしないよ」
「ヒナキさん……? ホントに、酔っ払いすぎじゃない……?」
「僕は潤のことこんなに好きなのに……洋介くんも言ってた! 潤は僕にホントに好かれてるか心配してるって……」
「えっ」
 潤は目をいっぱいに瞠いて、それから罰が悪そうに視線を逸らした。その様子では、彼が入間に言ったということは本当なのだろう。
「バカ……僕はいつも、君に嫌われないよう我慢してるだけなのに」
「……我慢してるの?」
「引かれたくないんだ。僕はただでさえ……年寄りの化け物だから……」
 言いながら、また涙に溺れそうになる。どれだけ泣いても枯れない涙が、自分でも恐ろしいくらいだった。
「そんな事気にしてたの? それで……」
「気にするに決まってるじゃないか! 今だってホントは……っ」
 言いかけて、最後の言葉を見失った。唇を噛む。すると、潤は優しくヒナキの顎を撫で、それを止めさせようとした。
「ありがとね」
「なんで?」
「ふふっ。今ヒナキさんは、ちゃんと俺に甘えてくれてるから」
 潤はそう言うと、ヒナキを優しく抱き寄せた。
「ヒナキさん、いつもなんか俺に遠慮してるみたいだったから。ちょっと寂しかったんだ」
 遠慮、なんてするに決まっている。相手はずっと憧れていた相手で、それが恋愛感情に変わったのは最近だとしても、交際できているなんて奇跡なのだ。嫌われるのが怖くて、一歩引いてしまうのは当たり前じゃないか。
「もっと甘えて欲しい。……俺のこと必要として欲しい。これも、俺なりの甘えかもね」
 潤はふわりと眉を下げた。彼の鼓動が少しずつ速くなるのが分かった。ヒナキは潤の頭を撫で、深い色の目をまっすぐ見つめながら、慎重に言葉を発した。
「僕も潤に必要だって思われたい……」
 1人に対してこんなに強い感情を抱くのは、求めてしまうのは、危険なのではないか。ふと、どこか冷静な頭でそう思ったが、ヒナキは見ないふりをした。
「俺はもうとっくにヒナキさんがいないとダメだよ」
 潤の声が優しい。少しずつ呼吸が落ち着き始めて、気づいた時には涙が止まっていた。




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