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居場所

15.気づいて

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 イヤホンの向こうで、トントンと包丁を動かす音がする。八代凪斗は、夜道を歩きながら、その生活音を遠くに聞いていた。
 雑音と無音の狭間。まだ全身に巡っている酒の名残。都会の街灯りが煌々と降り注ぐ——心地よいそれらを打ち破ったのは、決して柔らかくはない幼馴染の声だった。
「こんな時間に電話かけてくるなんてどうしたん」
 通話を開始したのは随分前だったが、彼が口を開いたのはこれが初めてだった。凪斗は思わず破顔し、足を止める。ちょうど、信号に引っかかったところだった。
 周囲の雑音がピタリと止んだような気さえした。目の前をいくつもの自動車が横切っていくけれど、その走行音さえ遠くにしか感じない。
「暇やってん」
 たっぷり息を吸い込んでから、凪斗はそう答えた。特に繕う必要はない。しばらくの沈黙の後、乾いた笑い声が返ってきた。
「ハッ、俺を暇つぶし要員にするんかい。そんなんお前くらいやわ。さては寂しん坊か」
可愛かいらしいやろ」
「アラサーの男が何言うてんねん」
 幼馴染——今井いまい雅臣まさおみは、電話の向こうで愉快そうにしていた。何かを調理する音の合間に、昔から変わらない、カラカラという笑い声が響く。雅臣の声は、いつも落ち着いていて耳心地がいい。大抵の人が聞けば無愛想で冷たく聞こえるのだろうが、凪斗にとってはこれ以上に安心する話し声などない。
 彼との付き合いは20年以上だ。物心がつく前から、ご近所付き合いで何かと交流を持たされていた。そして、幼稚園から高校まで、学校だけではなくあらゆる習い事が一緒だった。凪斗の人生にはいつも雅臣がいた、といっても過言ではない。そしてまた、「彼の隣」というポジションはいつだって凪斗のものだった。
「マサもどうせ、がおらんで寂しいんやろ。心配せんでも、明日には京都帰ったるやん」
「帰って来ていらんわ。もうお前の顔見飽きたし」
「ひど。高校出た後、用事もないのに僕の大学にしょっちゅう顔出しとったんは誰なん?」
「うっさいわ。それこそ暇つぶしやいうねん……痛っ」
「なに?」
「指切った。うわ、最悪。血ぃ出た」
 雅臣はあーとため息混じりの声を上げて、ガタガタ物音を立てた。本当に指を怪我したようだ。こうして音を聞いているだけでも、今彼がどんな顔をして、何をしているか目に浮かぶ。昔は、怪我をしたって一人では何もできないお坊ちゃんだったが、今は違う。
「大丈夫? 何作っとったん」
「ビーフシチュー。の、下拵したごしらえ」
「ええなぁ」
「明日お前も食べに来ぃや。お前の家に持ってくんは嫌やけど、ウチ来るくらいならええで」
「うん、ほな行こかな。指大丈夫なん?」
「こんなんすぐ治るわ。で、何時に帰って来んの」
「んー……8時くらいかな。もう一個仕事あんねん」
「そうなん」
 また、しばらくの沈黙だ。やがて信号が変わり、凪斗は歩き出す。もうすぐ滞在先のホテルに着く。そしたら、雅臣との通話は終わりだ。
 雅臣はいつのまにか手当を終えたらしく、また調理器具を忙しそうに動かし始めた。凪斗は、少しだけ歩調を緩めた。
「マサ、あんな」
「んー」
「今日大学の後輩にうたよ」
「そうなん」
 雅臣は釣れない雰囲気だ。大抵、凪斗が何を話しても彼は聞き流すけれど、それでは面白くない。少し前を歩くカップルをぼんやり目で追いながら、凪斗はそっと唇を舐めた。
「何年か前にさ、話したやん」
「何を?」
「僕が今の家に引っ越した直後くらいにさ」
「…………ああ」
 その時、雅臣の声がふと暗くなったのが分かった。微々たる変化だが、充分だ。凪斗は少しだけ口元を綻ばせる。かかった、と思った。全く、雅臣は本当に素直な男だ。
「遊びも大概にしぃや」
「遊びちゃうよ。知ってるやろ?」
「あー、知ってるよ。お前は男でも女でも見境なく依存するもんな」
 嫌味たっぷりの雅臣の言葉が、本当は愛情の裏返しである事くらい知っている。理解わかっているから、凪斗はこうやって試すのだ。
 凪斗のことを、損得勘定抜きにずっと大切に思ってくれているのなんて、この男しかいない。家族でも、他の友人知人でも、みんな凪斗のことを「八代家の坊ちゃん」としか思っていない。けれど、雅臣だけは違う。
——せやから、こいつには変なさせたないねん。
「マサはどうなん」
「ん?」
 またガタガタと雑音が響いた。雅臣はどこかへ移動しているらしい。もう料理はいいのか、なんて聞く気はないが、彼が何をしているか想像するのは楽しい。おそらく、階段を——いま下り切って——それから、服を着替え始めたに違いない。
「……俺は何も変わらんよ」
 雅臣はくたびれた声でそう言った。その声は、ほとんどが突然割り込んできた犬の鳴き声にかき消されてしまった。
「豆助?」
「うん。夜の散歩行かんと」
 凪斗は何も答えなかった。雅臣がわざと会話を終わらせようとしているのが、顔が見えなくてもよく伝わってくる。明日会った時も、きっと今と同じような顔で出迎えてくれるのだろう。
「僕もそろそろホテル着くわ」
「ん、そうなん」
 沈黙を補うように、犬がわんと吠える。豆助は、雅臣の飼っている柴犬だ。夜の散歩は雅臣の当番なのだと、以前言っていた。
「明日、京都駅着く頃に連絡ちょうだい」
「え? なに、迎えにでも来てくれんの」
「行ったってもえーよ」
「別に要らんわ。困ったらお姉呼ぶし」
「はぁ? ほんまに可愛げ無いな。いつまでお姉はんに甘えてんねん。俺の車でそのまま俺ん家来ればええやん」
「泊めてくれんの?」
「おー」
 凪斗はまた少し笑って、ホテルの前の歩道で足を止めた。もう、あと少しで通話が終わる。前を歩いていたカップルは、いつの間にか居なくなっていた。
「……気ぃ付けて帰って来ぃや」
 雅臣はいつものぶっきらぼうな口調でそう言った。それだけで、凪斗は安心できる。
「マサも、散歩中に死なんようにな」
「は? 散歩で死ぬとか無いし」
「わからんやん」
 明日、帰ったら雅臣に何を話そうか。そんな事を頭の片隅で思い浮かべながら、凪斗はふと目を細めた。
「ほな、また明日な」
 言うと、雅臣が小さくため息をつく。
「ほなな。おやすみ」
 しばらくの沈黙を置いて、どちらからともなく通話を切った。






「腰が痛い」
 涼弥は客用の敷布団の上で、芋虫のように丸くなっていた。先ほどの情事でシーツを汚してしまったので、今晩は2人で狭い布団の中だ。この家に初めて来た時はまさか、本当にこの布団を使うことになるとは思わなかったが、涼弥の準備の良さはこうした緊急事態にありがたかった。
「ごめんね」
 ハルはただ謝罪を述べる。さっきから何度もこの単語を繰り返すので、その度に涼弥にため息をつかれていた。けれど、謝るしかできない。
「病み上がりなのに無理させちゃったよね」
「ぶり返したら、またハルさんが看病してくれるんだろ?」
「もちろん。……ぶり返さないで欲しいけど」
「ハハッ、大丈夫だよ。多分。いま元気だし」
 涼弥はハルに抱きついて、小さく笑った。当のハルはというと、眠るどころではない。疲労や眠気は確かにあるけれど、涼弥がこんな状態なのに、自分だけぬけぬけと寝落ちするわけにはいかない。
「迎えに来てくれたの、嬉しかった。あのホテル知ってたんだ?」
「ん? ……うん。まぁね」
「そっか」
 涼弥はまたため息をつき、考え込むような声を出した。いつも早寝の涼弥にしては夜更かしの時間に当たるはずだが、まだ寝るつもりではないらしい。
「俺ってハルさんのこと何にも知らないな」
「そんなことないよ」
「……だって、名前すら知らない」
 そう言って、涼弥はちらりとハルを見上げた。その目つきがなんとも言えず、ハルは息を呑む。縋るような色で潤んだそれは、ハルの罪悪感を一層助長した。
「少し前まで……あのホテルで働いていたんだ」
「え?」
「俺、有休消化中だって言ったでしょ。あそこを退職するんだよね」
「ホテル勤めだったんだ。しかも、あんな立派な……」
「立派かどうかは分からないけど」
 なんとなく、涼弥の頭に手を伸ばした。撫でると、髪のふわふわした感触が心地よい。
「涼弥に出会えたんだから、仕事辞めて正解だったなぁ」
「今も仕事中じゃん。違う仕事だけど」
「お金貰ってるから否定はできない……けど、気持ち的には仕事じゃないよ」
「そう?」
 涼弥は納得いかないような顔をしている。その額にキスをすると、じわりと肌に朱が差した。彼がこうしてハルを優しく受け止め、許してくれるから、ハルはどんどん欲深くなってしまう。
「この契約が終わったら、レンタル彼氏も辞める」
 安心が欲しい、と思った。そして、うっかり馬鹿正直に、そんなことを口にしてしまっていた。ハルは直後に悔いたが、今さら引き返すことはできない。
「辞めて……どうすんの?」
「どうしよ。また料理人でもやろうかな」
「じゃあ、転職活動だね」
「5月いっぱいまでは休みだから、その間に動けるかなぁ」
 涼弥はしばらく視線を彷徨わせ、何かを考え込んでいた。やがて、何度目かわからないため息と共に俯いてしまう。
「俺、まともに就活したことないから何も言えない」
「小説家なんだから当たり前じゃん。就活なんて楽しくないし、知らなくていいよ」
「うん……でも、なんか」
「ん?」
「自分がすごく未熟に思えて……やだな」
 涼弥はハルの胸に頭をくっつけて、もごもごと話し続ける。
「ちゃんと、ハルさんに見合う男になりたい」
 それきり、涼弥は黙りこくってしまった。待っているうちに、すうすう寝息が聞こえ始める。やはり、眠かったらしい。
「まさか君がそんなこと言うなんて」
 ハルはごく小さな声で呟いた。涼弥を寝やすい体勢にさせて、布団を整える。可愛らしい寝顔は、少しだけ物憂げな色を帯びていた。その姿は、いつも以上にか弱い小動物のように見えた。
「俺こそ、君に相応しい男にならなきゃ」
 ちらりと、先ほど元同僚の花に会った事を思い出した。涼弥との仕事が終わったら、どうしようか。少なくとも、これからも彼のそばに居たければ、はっきりしなければいけない。
——やっぱ彼とずっとって考えたら、俺も昼職やらないとな。
 もう30歳手前なのだ。どうせ、夜の仕事は歳を取ったら難しくなる。今の「レンタル彼氏」は元々、早く死にたくて、死ぬ準備のつもりで始めた仕事だった。
——それが、むしろ寿命を伸ばすことになるとはね。
「おやすみ……涼弥」
 ハルはゆっくりと目を閉じた。もはや、眠ることへの恐怖もない。明日が来るのが恐ろしいとか、このまま消えたいだとか、そんな感情は忘れてしまったような気がする。
——明日は涼弥に何をしてあげようかなぁ。
 そんな事を考えながら、ハルは穏やかに意識を手放した。



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