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居場所

13.恋い憂うもの

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都内某所
ホテルの宴会場

 一頻りの挨拶やプレゼンテーションが終わり、引っ切り無しに焚かれていたカメラのフラッシュが消えた。後は身内のパーティを残すのみ、という頃。涼弥は、ようやく息をついた。
——つ……疲れた。
 何せ、人が多い。幸い、涼弥が報道陣からコメントを求められるようなことはなかったものの、壇上の煌びやかな人々の話を聞き続けるだけで疲れてしまった。
 涼弥は世間に顔を出していない小説家ということもあり、マスコミ達に見つかることはなかった。しかし、それも時間の問題だろう。下手に絡まれる前に、こっそり抜け出して帰りたい。何より、早くハルに会いたい。
「鈴未ライ先生」
 不意に声をかけられ、肩を震わせる。まさか、抜け出そうとしたのを見咎められたのだろうか。そう思って、恐る恐る振り返る。すると、そこにいたのは先ほど壇上に立っていた映画監督だった。
「あ……どうも」
「本日は足をお運びくださりありがとうございます! いかがですか? なかなかいいキャスティングだと思いませんか」
「はあ……はい」
「新進気鋭の実力派! 若手俳優揃いですからね。特に賢木さかきくんは、元々主演の予定だった高永くんが急逝してしまって……急遽の代役オーディションで決まったんですけどね。代打とは思えないでしょう」
 言われても、知らない。涼弥はため息をついた。ただ、とある俳優が自死してしまったというニュースは、そういえば数週間前に見た記憶がある。それがこの映画の主役に抜擢されていた人だったとは、知らなかった。
「それで、鈴未先生。よかったらあちらで一杯どうですか。ゆっくりお話でも」
「いや、お……私は、そういうのは」
「そうおっしゃらずに。さあさ、このホテルはいい酒があるんですよ」
 断ろうにも、監督の圧が怖い。目力、というにはやや品性に欠ける、禿鷹のような目つきだ。
——だから嫌なんだ、こういう場は。
 大抵、監督側が原作者などという邪魔な存在に媚を売るというのは、「原作者も絶賛、鈴未ライのお墨付き」という売り出し方をしたい時くらいだろう。または、もっと映像化のネタを寄越せと言ってくるか。彼らにとって、小説家なんてのはただのネタ倉庫の金脈でしかない。
「先生は随分お若いんですね。まだ二十代なんでしょう。存じておりませんでした……ハハッ」
「はぁ」
「それにしても、先生自身相当な色男じゃないですか。どうですか、カメオ出演なんてのは」
「いえ、カメラは苦手なので……」
 監督は舐め回すように涼弥をじっと眺めてくる。値踏みをされているような感覚が不愉快だ。涼弥は飲みさしだったシャンパンを空にし、通りかかったスタッフにグラスを返した。これで場を去る口実ができる。
「こちらもどうですか、先生」
 期待したのも束の間、すかさず監督が別のグラスを差し出してきた。急いで飲み干したのは、別に酒が好きだからというわけではない。早く逃げたかっただけなのに……というのはなるべく顔には出さず、会釈をして受け取った。
——ハルさん、今頃何してるんだろう。
 こんな時、ふと頭に浮かぶのはハルの優しい笑顔だ。
——風邪引いて心配かけちゃったし、今日くらい羽を伸ばしていてくれればいいんだけど。
 そう思いつつも、涼弥が帰る頃には家で待っていて欲しい。くたくたになった涼弥を、いつもみたいに抱き締めて欲しい……。そんな願望を抱いてしまう。

「鈴未先生」
 監督の話を聞き流していると、今度は別の声がかかった。いつのまにか、監督がいる方とは反対側の位置に、誰か近づいてきていたらしい。
 振り向くと、黒いマスクを着けた男が、紹興酒の入ったロックグラスを片手に立っていた。
「初めまして。今回脚本を担当させていただきました、八代やしろと申します」
——八代?
 聞いたことのある名前だ。それに、この声も聞き覚えがある。と、八代もそれを感じ取ったらしく、おっとり笑っていた目がハッと瞠かれた。菊色の瞳がきらりと光る。
「あれ? なんかどこかでお会いしたことが……って、あ!」
 彼はマスクを外し、涼弥に向かって笑った。つり気味の切れ長な目と、上品そうな薄い唇がにっこりと弧を描く。
「涼弥か? 俺のこと覚えてる?」
「もしかして……ナギさんですか?」
「うん! ナギや。八代凪斗なぎとやで」
 やはり、数日前の夢に出てきたあの人だ。間違いない。涼弥はトラウマを抉られたような気持ちになり、思わず目を背けた。
「そんな嫌そうな顔せんといてや。俺は嬉しいんやで。久しぶりやなぁ」
「お久しぶりです。すみません、別に嫌ってわけじゃ」
「かまへんよ。そりゃこんな所で会ったら気まずいやんな。ごめんなぁ?」
 ナギ——凪斗は、相変わらずの人の良さそうな顔をする。実際、彼はとても優しい先輩だ。そんな彼を汚してしまった事実が、涼弥の心に錆を作っているのだ。どうせ忘れられはしないものの、考えずに済んでいたはずの事を直視させられるのは、精神的にきつい。
——ナギさんは何も悪くないのに。
「八代さん、先生と顔見知りだったんですか」
 監督の声に、凪斗の視線がようやく涼弥から外れた。ほっとしつつ、酒を煽る。
「そうなんですよ。大学が一緒やったんです」
「そうでしたか! これはこれは……こんな光栄な仕事で再会されるなんて、ご縁ですねぇ」
「ほんまですわ。……ほんで監督、何か飲まはります? もうグラス空かはるやろ」
「え? ああ、そうだね」
「僕がお酒うて来ましょか」
「いや……自分で取りに行くよ。ありがとうね」
 凪斗が追い払おうとした事を察してか、監督は苦い笑みを残してその場を去った。彼が居なくなっただけで、少しだけ空気が和らいだのが分かった。それでも、やはり凪斗と顔を合わせるのは気まずい。
「元気しとったん?」
 沈黙を破ったのは凪斗だった。彼の声は柔らかく、優しさに溢れている。あの頃と一つも変わらない。
——よく覚えている。
 彼の少し憂いを帯びたような目つきも、唇の下のホクロも、温かな手の感触も。
 決して嫌いではなかった。むしろ、あの当時はこの人に微かな好意を抱いていたような気さえする。それでも、彼に不貞を働かせてしまった以上、二度と彼に接近することはしまいと、自分で決めたのだ。
「……ナギさん」
「んー?」
「あの時のこと……すみませんでした。遅すぎるかもしれないけど」
 凪斗の顔が見られない。涼弥はじっと視線を落としたまま、唇を噛んだ。隣で、凪斗が氷の入ったグラスを揺らす音がする。なんと言われるのだろう。そもそも、彼があの時のことをどう思っているのか、一度も聞いたことがなかったと、今更ながら気が付いた。
「ごめんなんて言わんといてやぁ。なんか傷つくわぁ」
「……え?」
「俺はなんも嫌じゃなかったのに、涼弥は嫌やったん?」
 ふと顔を上げる。すると、凪斗はグラスに口をつけたところだった。カランという音の後、彼の喉がゆっくり上下する。その様が、妙に色っぽい。
「そっかー。それで避けられとったんやなぁ」
「えっ……え、と」
「涼弥は俺に悪い事したって思うてたんや」
 凪斗は深々とため息をつくと、涼弥に向き直った。眉間に皺が寄っている。
「それって、俺がお前に浮気したと思うたから?」
 その瞬間、まるで周囲の音が消えたように感じた。凪斗は悲しげな目で真っ直ぐに涼弥を見つめている。胸が痛い。涼弥はふっと息を吸ったが、吐き出すことができなかった。首肯くと、凪斗の方が深い息を吐き出した。
「涼弥は知らへんかったかもやけど、俺あの時もう彼女と別れとったんよ」
「え?」
「別れて1ヶ月くらいやったかなぁ。傷心しとったところを、お前が受け入れてくれたような気ぃして、嬉しかったんや」
——知らなかった。
 それでは、あの時の凪斗は浮気をしたことにはならなかったんだ。
——でも、だからって……。
「勝手に慰みもんみたいにしてもうたんは、俺こそ悪かったと思てる。でも、別に俺はあの一回限りで終わらすつもりでお前に手ェ出したんやないねん」
 凪斗は手の中で、くるりとグラスを回した。しばらくの沈黙が訪れる。どうしたらいいのだろう。涼弥は必死で言葉を探したが、適切なものが見つからない。
 すると、涼弥の困り果てている様子を見かねたのか、凪斗は急に表情を緩めた。
「ごめん。そんな顔せんとって。別に今更お前に迷惑かけようとは思てへんよ。たださぁ……」
 凪斗は、きっちりセットした髪をかき上げると、くしゃりと笑った。
「俺らもう一回、フツーの先輩後輩でやり直されへんかなぁ? 涼弥とずっとこのままは嫌やねん」
 その言葉は、涼弥の長らく抱えていた痛みをはっきりと和らげてくれた。自然と涙が滲む。ずっと、この言葉が欲しかったのかもしれない。凪斗に許されて、あの事件の前のように彼と接することができたなら……。この4年間、それを心のどこかで願っていたのだ。
「……はい」
 溜まった涙が溢れないうちに拭い去って、涼弥は笑った。今度こそまっすぐ凪斗を見上げて、視線を合わせる。
「ありがとうございます」
「うん。改めてよろしく、やな」
 凪斗はグラスを差し出して、涼弥の持っていたものに重ねた。合わさったグラスの音が、とても軽やかに聞こえた。



 それから、凪斗と懐かしい話で盛り上がった。大学時代の思い出がほとんどだったが、その後彼が脚本家になるへ至った事、涼弥がこれまでに書いた小説の話など、あまり他人とはしてこなかった会話を数年分楽しんだ。
「はぁ、楽しかったです」
「ほんまになぁ。偶然とはいえ、会えてよかったわ。そろそろお開きやな。俺らも帰ろか」
「はい」
 ホテルの宴会場を出て、エレベーターでロビーへと降りる。その頃になって、涼弥はようやくハルからの連絡を返していないことに気がついた。
「あ……どうしよ。もうこんな時間だ」
「なに? 何か用事あったん?」
「いえ、そういうわけじゃ」
 待っている人がいるのだ。けれど、彼とはあくまでレンタルの契約である。下手にその存在を凪斗に明かしたくはない。
 やがて2人は、ロビーを通り抜け、エントランスの近くまで辿り着いた。凪斗に別れの挨拶をしようと立ち止まると、凪斗が先に口を開いた。
「涼弥、家まで送って行くで」
「え?」
「飲み過ぎたやろ」
「あ…………」
 以前に彼にそう言われた時、それは正しくであったが、涼弥はこうして心配してくれた凪斗に間違いを犯してしまった。今日はそういうわけにはいかない。
「いえ、平気ですよ。タクシーで帰ります」
「そうか? それやったらタクシー代くらい……」

「涼弥くん」

 突然、不機嫌そうな声が割り込んできた。涼弥はハッと息を呑み、振り返る。
「ハルさん!? どうしてここに……」
「…………」
 ハルは黙って近づいてくると、涼弥の手を掴んだ。そうして、凪斗から離すように自分の方へと引き寄せる。彼の手は、いつにも増して冷たいように感じた。
「あれ、どちらさん?」
 凪斗は目を丸くして、不思議そうに首を傾げた。驚いているのは涼弥も同じだ。まさか、彼がこの場に姿を現すとは思わなかった。
「あ、あの……彼は……」
「涼弥くんのです。帰りが遅いので、心配で迎えに来ました」
 ハルの声は、妙に棘があった。こんな話し方をしているのは聞いたことがない。しかし、表情は至っていつも通り爽やかだ。
「ああ、お迎えあったんや。彼氏が来たんなら安心やわ。ほな涼弥、気ぃつけてな。また今度」
 凪斗はそう言うと、にこりと笑って立ち去った。ほんの一瞬、彼がハルに冷たい視線を向けたような気がしたが、酒で上手く回らない頭では深く考えることもできなかった。
 凪斗がいなくなったことで、涼弥はすっかり気が抜けてしまった。ハルの腕に抱きついて、肩に頬をくっつけると、ハルは驚いたような声を上げた。
「涼弥くん? ……だいぶ酔ってるな」
「ハルさん、来てくれたんだぁ」
「涼弥くんが返事くれないからだよ。大丈夫だった? 何ともない? まったく、病み上がりなのに」
 ハルはいつもの穏やかな声で、気遣きづかわしげにそう言った。それが嬉しくて、涼弥はへらりと笑う。
「ハルさんが来てくれたから大丈夫……ありがとう」
「それならいいけど。ほら、帰ろう」
「うん」
 手を引かれて歩きながら、ハルの顔を見上げた。なんだか、彼も少し肌が赤くなっているようだ。
「ハルさんもお酒飲んでた?」
「酒臭い?」
「んーん、顔が赤い」
「ほんと? 気付かなかった」
 ハルは自分の頬に手を当て、熱を確かめるような素振りを見せる。涼弥は隙を見て、その手の甲に短いキスをした。
「っ、涼弥くん」
「ん」
 今度は顔を上げて、自分の頬へのキスを強請ってみる。流石に、一度は唇へキスをされたからといって、またそれを強要することはできない。
 しかし、ハルははにかんで笑うと、涼弥の唇に触れるだけのキスをした。ほんの一瞬のうちに、仄かな熱が体の奥に宿る。
「帰ってからね」
 ハルのその言葉で、涼弥はまた笑顔になった。




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