色褪せない幸福を

三冬月マヨ

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後日譚

色褪せない幸福を

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 ぱしゃりぱしゃりと柄杓から撒かれた水が、高くなった陽光に照らされながら、乾いた大地に沁みて行く。

「う~ん。今日も暑くなりそうだねえ~」

 柄杓を手にした桶に戻した壮年の男が、軽く肩を竦めて青い空を見上げた。
 そこに浮かぶ白い雲は、正に入道雲と云う言葉が相応しかった。

「雷雨様が来たら嬉しいけど、誰かさんは泣き叫びそうだね~」

 眉を下げて男は笑い、汗で滑って下がって来た丸い眼鏡を掛け直してから、再び柄杓へ手を掛ける。

「あ、の、すみません…」

 桶の中の水を掬った処で、横合いから遠慮がちな声が掛けられた。

「うん。何かな~?」

 作業の手を止められたが、男は嫌な顔をせず、柔和な笑顔を浮かべ、声を掛けて来た青年へと身体を向けた。声を掛けたのは一人だったが、身体を向けた先には二人の青年が立っていた。どちらも、素直そうな面持ちをしていると、声を掛けられた男は思った。

(まあ、僕と比べたら、だけどね~)

 と、男は内心で肩を竦めた。

「た、高梨のお家は…ここで間違いないですか?」

 問い掛けられた言葉に、男は笑みを深くし、背後にある門を指差した。

「うん、そうだよ~。見学かな? 家の中には入れてあげられないけど~、窓とかは開けてあるから、好きに見て良いよ~」

 これで何度目だとか、何人目だとかは、もう数えてはいない。
 馬鹿正直に住所を公表した友人を呪うだけだ。
 
「ありがとうございます」

 二人の青年が頭を下げて、門を潜って行く。
 歓喜に満ちた笑顔は、心を潤してくれる。
 希望に溢れたその姿は、何処か眩しい。

「…はあ~。こんな事を思うなんて、やっぱり僕も歳なのかな~」

 男はまた柄杓を桶に戻して、わざとらしく、軽く腰を叩いてみせた。

 門を潜った青年二人が、ちらりと門扉前に居た男へと視線を向けて囁く。

「…今のって、相楽さがらさん?」

「ばか。んな訳あるか。身内とか、子供とかだろ?」

「そうだよね。本にあるのと同じ容姿だから、びっくりした」

「同じ黒眼鏡だし、陽に透けると茶色に見える髪とか、どう考えても遺伝だろ? 何年経ってると思ってんだ」

 そんな会話に耳を澄ませて聞いていた男…相楽柚子ゆずはくすりと笑う。

「…その、本人なんだけどね~」

 聞き取れない程の小さな声で呟き、相楽は水撒きを再開させた。
 ぱしゃりぱしゃりと、陽光にあてられた水が輝く。茶色い大地に黒い沁みを作り、その地を潤して行く。
 高梨と、彼等は口にした。
 いや、彼等だけでは、無い。
 ここを訪れる者は、皆、そう呼ぶ。
 彼等が読んだであろう、書物『色褪せない幸福を』の著者、高梨雪緒ゆきおの事を。
 雪緒が生を全うし、生前の約束に従い、里へと持ち帰り、せいが管理する物を纏めていた時に、雪緒が書いた自叙伝と日記、出さず仕舞いだった手紙を見付けた。
 その場に居たのは、星と月兎つきと、天野にみく、相楽、瑞樹みずき優士ゆうじゆいだ。
 当時を思い出し、相楽は軽い目眩を覚え、額を押さえた。
 はっきり言わなくても、酷かった。
 相楽と結以外の誰もが、雪緒の書いた自叙伝を読んで泣いたのだ。良い歳をした男達が、声を上げて。あれは地獄絵図だったと、相楽は今でも思う。

『こっ、これっ、このままじゃダメだよ』

 と、みくが言えば、天野がうんうんと大きく頷く。星と月兎は、言葉なく、ただ泣きじゃくっていた。泣きながらも、比較的冷静だった優士が『自費出版で本にしましょう』と提案して、あれよあれよと話が決まってしまった。

『…いや~…、そんなのは、雪緒君は望んでいないと思うよ~?』

 と、相楽は宥める様に両手を胸の高さまで挙げて口にしたが『雪緒君みたいな子が、他にも居るかも知れないじゃないか! これは、そんな子達の力になるよッ!』と、みくに怒鳴られて、相楽は挙げた手を下ろした。

(まあ、それなら雪緒君は照れながらも、誰かの力になれるのならと、喜ぶだろうけど…ゆかり君は怒り狂うだろうなあ~)

 と思ったが、口には出さなかった。
 だって、それはそれで面白いから。
 既に故人になって久しいが、怒り狂う高梨と、それを宥める雪緒の姿が容易に想像出来たから。
 だから、まあ良いかと出版に力を貸した。
 特に名がある訳でもない人間の自叙伝なんて、さして需要が望める物ではないだろう。物好きな人間ぐらいしか手に取らないだろうと思った。だから、百部程刷り、書店の片隅に置かせて貰った。

「…まさか、増刷に増刷を重ねるだなんて思わないよね~」

 空になった桶を手に門扉を潜れば、先程の青年二人が縁側に腰掛けて、件の自叙伝を広げているのが目に入った。穏やかな笑みを浮かべながら、庭の向日葵を指差したり、縁側にある風鈴を指差したりしている。
 それは、ここで何度も目にして来た光景だ。
 同性婚が認められているとは云え、やはり、それに抵抗や嫌悪を覚える者達が居る事は事実だ。
 雪緒の自叙伝は、そんな者達の力になっているのだと云う。
 また、幸福とは云えない者達の、力にも。
 こんな物は夢物語だと嗤う者達も居る。
 ただ、運が良かっただけだと嗤う者達も居る。
 だが、それがどうしたと云うのだ。
 相楽は、そこに書かれた事が事実だと知って居る。
 嗤いたい者は嗤えば良い。
 信じたい者だけが、信じれば良い。
 そこから得られる幸福は、望む者だけが手にすれば良い。
 ただ、それだけだ。

(…まあ、隠蔽している部分もあるけどね~)

 相楽は井戸へ向かいながら、皮肉気に笑う。
 あやかしが人の姿になれる事。
 妖と交わった者の寿命が延びる事。
 それらに関わる部分は、雪緒には申し訳ないが、消させて貰った。
 原本には手を加えてはいないから、何時か、時が来たら、そのままを公開する事は出来る。出来るのだが…杜川もりかわが望んだ妖と人との共存は、時が流れた今も、未だ難しいのが現実だ。

(身体の変化については、たける君は絶好調だし、僕も、今の処全然問題は無いんだけどね~…。だけど、もし…この変化に適応出来ない人が居たら…。悪用しようとする人が居たらと思うと、公表は出来ないよね~)

「あの、ありがとうございました!」

 そんな事を考えながら、井戸から水を汲もうとしていた相楽の背中に、はっきりとした感謝の言葉が掛けられた。

「うん? 僕は何もしていないよ~?」

 振り返れば、そこには何処か満たされた笑顔を浮かべた青年二人が立って居る。

(良い顔しちゃって、まあ)

「ここを管理しているんですよね? だから、ありがとうございます」

「庭も、見えるとこだけですけど、家の中も綺麗で…その、何かぽかぽかしてて良かったです」

「そう。それは良かったね~」

(きっと、雪緒君も喜んでいるよ~?)

「また来ても良いですか?」

「勿論だよ。喜ぶ子が居るからね~」

「え?」

「ううん、こっちの話~。…ねえ、君達は今、幸せ?」

 相楽の問いに、青年二人は互いの顔を見た後に、照れた様に笑った。
 そして、何度も頭を下げて、高梨邸を後にした。

「…ゆい君、出ておいで~?」

 青年二人の背中を見送り、辺りに人の気配を感じなくなった処で、相楽が誰も居ない縁側へと振り返り声を掛けた。

「…ぽかぽかしたかな~?」

 縁側へと歩みを進めながら、相楽はおどけた声を出す。

「ン。ポカポカ、幸セダッタ」

 その声は、誰も居ない筈の縁側から聞こえて来た。

「そうかあ~。良かったねえ~。彼等も、ぽかぽかだって言ってたよ? 結君が綺麗にお掃除してくれてるお蔭だね~」

「ココ、ポカポカ二シタイダケ。皆ノポカポカ集メテルダケ。ココ、雪緒ノ宝ノ箱」

 その言葉と共に、誰も居なかった筈の縁側に黒い影が現れた。
 黒い毛に覆われたそれは、妖の結だ。雪緒曰くお手玉程の大きさだった結は、今は座布団を二枚並べた程の大きさに成長していた。巨大な黒いお手玉、いや、毛虫だ。出逢った時の幼体の姿を、雪緒がいたくお気に召したらしく、また、結もそれを理解していたのか、結はそのまま成長した。黒い、巨大な毛虫だ。だが、嫌な感じはしない。黒い艶やかな毛は肌触りが良く、またもふもふとしていて、雪緒は度々結に寄り掛かり、読書をしていたそうだ。

(紫君が知ったらと思うと、不憫で泣けてくるよね~)

 と、その話を聞いた時、相楽は今は亡き不憫な友を思い、泣き真似をした。

「…宝の箱かあ~。…そうだねえ~」

 縁側に腰を下ろして、相楽は青い空を見上げる。
 本物の青い宝の箱は、星が里へと持って行った。
 飾り箱の中にあっても、時間が経てば、やはり色は褪せて劣化して行く。
 それでも、そこにある想いは変わらない。
 ぽかぽかとした想いは、これからも色褪せずにそこにあるだろう。

「…誰かが居て、そこに幸福があれば…それは続いて行くよ。色褪せない幸福は巡り続けるよ、雪緒君」

 青い青い空に星は見えない。
 だが、相楽は何時か見た天の川を脳裏に描き、その言葉を紡いだ。

「…なあんて、僕の柄じゃあないね~。お昼にしようか~、結君」

 縁側から相楽は立ち上がり、そこに寝転がっている様に見える結に声を掛けて、高梨邸の隣の家へ…今は、相楽の家へと向かう。
 高梨邸を管理する事になったのは、結がそこから離れたくないと言ったのもあるが、やはり、みくや星達が『ここが無くなるのは嫌だ!』と、五月蠅かったからだ。
 もう自分の事を覚えている人も居ないし、街へ戻っても良いかと、相楽は渋々といったていで高梨邸の管理を引き受けた。

「幸いと言ったら棘があるけど…この辺は年配の人が多かったからね~」

 だから、空き家となっていた隣家を相楽は迷う事無く買い上げ、新しい自分の家とした。
 しかし、それも永遠にとはいかない。
 いずれは、相楽もここを去る時が来る。

「結君が、人になってくれれば問題は無いんだけどね~」

(それか、いっその事、あの家の守り神になるとか…)

「って、今も似た様な物かあ~」

 くすくすと笑いながら相楽は勝手口へと手を掛けた。
 ぽかぽかとした想いを胸に感じながら、もう一度青い空を仰ぐ。

 幸福は巡る。
 誰かの喜ぶ姿を見れば、自分も何故か嬉しくなる様に。
 そんな自分の姿を見て、誰かが元気付けられる様に。
 そんな、小さな幸せで良い。
 それらは、日々、そこかしこにあって巡り巡っている。
 それが、雪緒の言う、色褪せない幸福なのだろう。

 青い空の向こうにある星を見詰め、相楽は目を細めて口元を緩めた。
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