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序
【三】
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久し振りに、楽しいお食事の時間を戴いた気がします。
僕以外の誰かと…ああ、いえ、お通夜から四十九日法要の時にも、沢山の方と卓を囲みましたけれど、こうして普通に…と言うのも可笑しいのでしょうけれど、何も気にする事無く、お食事を摂れると云うのは、やはり良いですね。
瑞樹様から戴いたこちらの桃も、大変に瑞々しくて、ふわっと口の中に広がる甘さがとても優しくて、懐かしい記憶を呼び起こしてくれます。まだ、僕が少年だった頃、風邪で寝込んでしまった事がありしました。その時に、旦那様が桃を食べさせて下さったのですよね。
「…ありがとうございます、瑞樹様、優士様」
あの時は、戸惑うばかりでしたけれど。旦那様がお傍に居て下さった事が、どれだけ心強かった事でしょうか。
「え?」
食後に出しました桃を啄みますお二人に、僕は静かに笑い掛けます。
「こちらの素晴らしい桃は勿論ですが…僕を気遣って下さったのでしょう?」
僕の言葉に、お二人の動きが止まりました。
ああ、やはりと思いました。
お電話にて、四十九日法要のお礼を致しましたが、やはり、またもやご心配をお掛けしていた様です。努めて明るい声を出す様にしていたのですが、ね。この感じですと、同じ様にお電話にてお伝えしました、瑠璃子様と倫太郎様にも、まだまだご心配を掛けていそうですね。
うぅん、自分が不甲斐なさ過ぎて、情けなくなって来ます。
「…すみません…」
ぽつりと頭を下げた瑞樹様が零します。
「いいえ、謝らなければいけないのは、僕の方です。こんなにもご心配を掛けさせてしまいまして…旦那様も呆れていらっしゃる事でしょうね」
「…それです」
肩を竦めて苦笑する僕を真っ直ぐと見詰めながら、優士様が口を開きました。
「…え?」
「瑞樹と話したんです。どうして、雪緒さんは高梨司令の名前を呼ばないのかって」
「え…」
予期していなかった言葉に、僕は思わず身体を強張らせてしまいました。
「優士」
「お前も気にしていただろう。雪緒さんは、親しい人達の前では『紫様』と、司令の名を呼んでいました。お通夜や葬儀、四十九日法要はあの様な場ですから、そうなのかと思っていました。ですが、そうではない今も、先日の電話でも、雪緒さんは司令を『旦那様』と呼ぶ…何故ですか?」
「………」
刺す様な優士様の視線に、声に、僕は息を飲んでしまいました。
お隣に居ます瑞樹様は、心配そうに不安そうに僕を見ています。
ああ…そうですね…それが、お二人を…いいえ、皆様を心配させていたのですね…。
「…申し訳ございません」
「謝って欲しい訳ではないです。責めている訳でもない」
「優士…」
つんつんと、瑞樹様が優士様の腕を指で突きます。
その様子に僕は、やはり目を細めてくすりと笑います。
「…これは、ですね…僕の我が儘なのです…」
そんな、何処か微笑ましいお二人のお姿を見たからでしょうか? 話す事は無いと思っていた事を、僕は話す事にしました。
「僕が、旦那様を紫様とお呼びする事になりましたのは、旦那様にお願いされたからです。旦那様のお名前をお呼びしますと、旦那様が喜んで下さるから、僕も嬉しくなりました。…ですが…」
僕は静かに、顔を右へと向けます。
桜の季節には、ここに、確かな温もりがありました。
「…今は、お名前をお呼びしても、喜んで下さる方は居ません…」
そっと目を伏せれば、お二人が息を飲むのが解りました。
「………天命ですと、頭では理解はしています。ですが、やはり…まだ、心が追い付かないのです…」
桜の舞う中で。
そっと、静かに。
それこそ、桜が散ります様に。
旦那様は僕の肩に凭れて、お眠りになりました。
覚める事の無い、眠りの中へと。
その細く鋭い瞳が、僕を見る事はもうありません。
その、低く重いお声が、僕の名前を呼ぶ事もありません。
刀を持つ手ですから、そこにはタコがあり、ゴツゴツとしていました。
晩年になりましても、力強く地を踏み締めていました。
「…そんな旦那様でしたが…僕を見る目は何時も優しくて…僕を呼ぶ声も優しくて…鼻を摘まむ指も、頭を撫でる手も…何もかもが優しくて…真っ直ぐと伸びた背筋はとてもお綺麗でした…」
…ええ…本当に、僕は我が儘です。
「…それに…これは、願懸けでもあるのです」
僕を見る旦那様の目が好きでした。
僕を呼ぶ旦那様の声が好きでした。
僕の鼻を摘み、頭を撫でて下さる旦那様の手が好きでした。
「何時か…僕が旅立ちましたら…そこで、旦那様にお逢い出来ましたら…その時は、沢山、本当に沢山、旦那様のお名前をお呼びしましょうと…旦那様が呆れて、もう良いと仰るまで…。だって、狡いではないですか…僕がお名前をお呼びしても、旦那様は僕の名前を呼んでくれないのですよ? ですから、少しの意地悪です」
肩を竦めて、僕は笑います。
そうです。
これは、願懸けなのです。
お名前をお呼びする様になりましてから『旦那様』に戻りますと、旦那様は解り易く落ち込んだり、慌てたりしたのですよね。それがまたお可愛らしくて…。
こうして『旦那様』と口にする事で『何時になったら、俺の名を呼ぶのだ!?』と、夢に出て来て下さるのではと、願っているのです。
僕以外の誰かと…ああ、いえ、お通夜から四十九日法要の時にも、沢山の方と卓を囲みましたけれど、こうして普通に…と言うのも可笑しいのでしょうけれど、何も気にする事無く、お食事を摂れると云うのは、やはり良いですね。
瑞樹様から戴いたこちらの桃も、大変に瑞々しくて、ふわっと口の中に広がる甘さがとても優しくて、懐かしい記憶を呼び起こしてくれます。まだ、僕が少年だった頃、風邪で寝込んでしまった事がありしました。その時に、旦那様が桃を食べさせて下さったのですよね。
「…ありがとうございます、瑞樹様、優士様」
あの時は、戸惑うばかりでしたけれど。旦那様がお傍に居て下さった事が、どれだけ心強かった事でしょうか。
「え?」
食後に出しました桃を啄みますお二人に、僕は静かに笑い掛けます。
「こちらの素晴らしい桃は勿論ですが…僕を気遣って下さったのでしょう?」
僕の言葉に、お二人の動きが止まりました。
ああ、やはりと思いました。
お電話にて、四十九日法要のお礼を致しましたが、やはり、またもやご心配をお掛けしていた様です。努めて明るい声を出す様にしていたのですが、ね。この感じですと、同じ様にお電話にてお伝えしました、瑠璃子様と倫太郎様にも、まだまだご心配を掛けていそうですね。
うぅん、自分が不甲斐なさ過ぎて、情けなくなって来ます。
「…すみません…」
ぽつりと頭を下げた瑞樹様が零します。
「いいえ、謝らなければいけないのは、僕の方です。こんなにもご心配を掛けさせてしまいまして…旦那様も呆れていらっしゃる事でしょうね」
「…それです」
肩を竦めて苦笑する僕を真っ直ぐと見詰めながら、優士様が口を開きました。
「…え?」
「瑞樹と話したんです。どうして、雪緒さんは高梨司令の名前を呼ばないのかって」
「え…」
予期していなかった言葉に、僕は思わず身体を強張らせてしまいました。
「優士」
「お前も気にしていただろう。雪緒さんは、親しい人達の前では『紫様』と、司令の名を呼んでいました。お通夜や葬儀、四十九日法要はあの様な場ですから、そうなのかと思っていました。ですが、そうではない今も、先日の電話でも、雪緒さんは司令を『旦那様』と呼ぶ…何故ですか?」
「………」
刺す様な優士様の視線に、声に、僕は息を飲んでしまいました。
お隣に居ます瑞樹様は、心配そうに不安そうに僕を見ています。
ああ…そうですね…それが、お二人を…いいえ、皆様を心配させていたのですね…。
「…申し訳ございません」
「謝って欲しい訳ではないです。責めている訳でもない」
「優士…」
つんつんと、瑞樹様が優士様の腕を指で突きます。
その様子に僕は、やはり目を細めてくすりと笑います。
「…これは、ですね…僕の我が儘なのです…」
そんな、何処か微笑ましいお二人のお姿を見たからでしょうか? 話す事は無いと思っていた事を、僕は話す事にしました。
「僕が、旦那様を紫様とお呼びする事になりましたのは、旦那様にお願いされたからです。旦那様のお名前をお呼びしますと、旦那様が喜んで下さるから、僕も嬉しくなりました。…ですが…」
僕は静かに、顔を右へと向けます。
桜の季節には、ここに、確かな温もりがありました。
「…今は、お名前をお呼びしても、喜んで下さる方は居ません…」
そっと目を伏せれば、お二人が息を飲むのが解りました。
「………天命ですと、頭では理解はしています。ですが、やはり…まだ、心が追い付かないのです…」
桜の舞う中で。
そっと、静かに。
それこそ、桜が散ります様に。
旦那様は僕の肩に凭れて、お眠りになりました。
覚める事の無い、眠りの中へと。
その細く鋭い瞳が、僕を見る事はもうありません。
その、低く重いお声が、僕の名前を呼ぶ事もありません。
刀を持つ手ですから、そこにはタコがあり、ゴツゴツとしていました。
晩年になりましても、力強く地を踏み締めていました。
「…そんな旦那様でしたが…僕を見る目は何時も優しくて…僕を呼ぶ声も優しくて…鼻を摘まむ指も、頭を撫でる手も…何もかもが優しくて…真っ直ぐと伸びた背筋はとてもお綺麗でした…」
…ええ…本当に、僕は我が儘です。
「…それに…これは、願懸けでもあるのです」
僕を見る旦那様の目が好きでした。
僕を呼ぶ旦那様の声が好きでした。
僕の鼻を摘み、頭を撫でて下さる旦那様の手が好きでした。
「何時か…僕が旅立ちましたら…そこで、旦那様にお逢い出来ましたら…その時は、沢山、本当に沢山、旦那様のお名前をお呼びしましょうと…旦那様が呆れて、もう良いと仰るまで…。だって、狡いではないですか…僕がお名前をお呼びしても、旦那様は僕の名前を呼んでくれないのですよ? ですから、少しの意地悪です」
肩を竦めて、僕は笑います。
そうです。
これは、願懸けなのです。
お名前をお呼びする様になりましてから『旦那様』に戻りますと、旦那様は解り易く落ち込んだり、慌てたりしたのですよね。それがまたお可愛らしくて…。
こうして『旦那様』と口にする事で『何時になったら、俺の名を呼ぶのだ!?』と、夢に出て来て下さるのではと、願っているのです。
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