旦那様と僕・番外編

三冬月マヨ

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夏のお散歩

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「暑い…」

 風鈴がちりりとも鳴らない夜の縁側で、団扇うちわを片手に涼みます旦那様がそう口にするのは、これで何度目でしょうか?

「今日は雷様も来ませんでしたし、今は風もありませんからね」

 旦那様の隣に腰掛けている僕も、ぱたぱたと団扇を扇ぎ風を送ります。僕の起こす風では足りないとは思いますが、少しでも風を感じて戴けたらと思います。
 お天気が良いのは喜ばしい事ですが、こう毎日毎日かんかん照りでは、身体が参ってしまいますね。特に旦那様はお外でのお仕事ですし。そろそろ、お湿りが欲しい処です。

「お風呂は済みましたが、水風呂を御用意しましょうか?」

 旦那様は明日は休日です。お休みの日くらいは、ゆっくりと休んで欲しいものです。

「いや、必要無い。あれは気持ちが良いが、後で身体が怠くなる…しかし、こう暑くてはおちおち寝ても…そうだ、散歩へ行こう。お前も明日は休みだろう、付き合え」

「ふえ?」

 ◇

「ふわ…」

 さらさらとした涼やかな音と、少しだけ冷えた風がさらりと頬を撫でて行き、僕は思わず声を出してしまいました。

「本当ならば、夜に来る場所では無いのだがな…」

 手にしていた木刀で軽く肩を叩きながら、旦那様が苦笑します。
 それもその筈です。
 僕達が今居るのは、夜の河原です。
 街の中心から外れたこの場所は、日中ならばともかく、夕方からは誰も近寄りません。それは、あやかしに遭遇する確率が、ぐっと上がるからです。

「だが、立入禁止区域と云う訳ではない」

 ええ、そうですね。
 ただ、暗黙の了解と云う言葉があります。
 わざわざ言葉や文章にして公開しなくても、誰もが常識の範囲内として、認識している事です。
 それが『夜の河原には近寄らない』です。例外は、勿論あります。亡くなった方を送る灯籠流しが、代表的な物でしょうか? ですが、その時にはたくさんの篝火を焚きますし、朱雀の方々が危険が無い様にと、周囲を警戒して下さいます。
 はい。
 旦那様は、その朱雀でして、しかもその一隊長さんでありますのに。

「…宜しいのでしょうか…」

「何がだ」

 月明かりの下ですが、黒く流れる川を見て、僕はぽつりと零してしまいました。

「確かに、お屋敷に居るよりはこちらの方が涼しいですし、良い気分転換にもなりますし、往復で一時間半程も歩けば、程良い運動にもなりますし、質の良い睡眠を取れそうな気がします。しますが、危険かも知れませんのに。それを冒してまで、こちらへ…ふが」

 お話の途中でしたが、隣に立ちます旦那様に鼻を摘まれてしまいました。何故でしょう?

「ここまで来ておきながら言う事か」

 そうかも知れませんが、旦那様が何も言わずにここまで来たのですよ? 先に仰って下されば、僕はお止めしたと思いますのに。ああ、いえ、木刀を手にされた時点で、おや? とは思いましたが『夜も遅いからな』と言われてしまえば、何も言える筈もありません。
 鼻を摘ままれたままで、ふがふがとしていましたら、その手がふっと離れてゆきました。

「向こう岸を見てみろ」

 僕の鼻を摘まんでいた手が対岸を指差します。
 ぴんと真っ直ぐと伸ばされた指の動きに目を奪われ、流れる様に対岸を見ましたら。

「…ふわ…」

 青い青い草や、処々に生えています木々の合間に、緑の丸く淡い光が見えました。ふわりふわり、ゆらりゆらりと雪が舞う様に、それらは動いています。気が付けば、それらは沢山ありました。

「蛍だ。ふと、以前来た時に、飛んでいたのを思い出してな。お前に見せたくなった」

 ぽふりと頭に手を置かれまして、僕は思わず旦那様を見上げました。

「綺麗だろう?」

 細い目を更に細めて笑います旦那様のお顔はとても優しくて、僕も『はい』と小さく笑いました。
 蛍を見るのは、初めてではありません。
 初めてではありませんが、こんなに溢れそうな程の蛍は初めてです。そして、こんなにも綺麗な光も初めてなのです。それは、ここには人工の光等一切無いからなのでしょうか? 自然のままで、とても空気が澄んでいるからなのでしょうか?
 その様な事を思いました、僕の頬を川の上を渡る風が撫でてゆきます。
 さらりとしたそれは、とても心地が良く、ふわふわと前髪を揺らします。
 ふわりふわりとゆらりゆらりと舞う光も、この風を感じているのでしょうか?
 蛍の放つ光が優しく涼やかなのは、この風に吹かれているからでしょうか?
 それとも、さらさらとした川の音が、心地良いからでしょうか?
 目の前に広がる光景から目を離す事が出来なくて、その様な事は無いのでしょうけど、瞬きをしたらその瞬間に消えてしまうのではとも思いまして、僕は寸分たりとも動けなくなってしまいました。
 そんな僕の頭の上で、こしょこしょと何かが動きました。何かでは、ありませんね。頭に置かれた、旦那様の手。その指が頭を擽る様に動いています。

「…帰るか」

 ぼそりと呟かれた声は、やはり優しくて、けれど、何処か拗ねた様な響きがして、僕は綺麗な光から目を離して旦那様を見上げました。

「ふわ…」

 見上げた旦那様の向こうには、輝く程の満天の星空がありました。あれは、天の川でしょうか? 何時でしたか、夏の間は何時だって見られると、旦那様が仰っていましたね。

「ん? ああ…」

 見上げる僕の声に、軽く首を傾げた後に旦那様も空を仰ぎまして、感嘆の息を零しました。
 きらきらと夜空を流れる川も綺麗ですと、ほうっと息を吐いた後に、見上げていた顔を戻し、対岸へと向けます。淡く綺麗な光は、まだそこに在りました。それらは先程までと変わらずに、ふわりふわり、ゆらりゆらりと軽やかに、涼やかに舞っています。

「そら」

「はい」

 その優しい光景に口元を緩めましたら、目の前に旦那様の手が差し出されて来ましたので、僕はそこに自分の手を重ねました。
 そうしましたら、ぎゅうっと少しばかり強い力で包まれてしまいました。
 じゃりじゃりとした砂利を踏む音を聴きながら、隣を歩く旦那様をちらりと見上げます。
 何処か、本当に…本当の本当に少しだけですが、不機嫌そうに見えますのは気のせいでしょうか?
 くすりと小さく、本当に小さく僕は笑います。
 何故、あの光景があんなにも綺麗に見えたのか、それが、解った気がしましたから。
 それは…。
 それは、旦那様が見せて下さった物だから、ですよ?
 隣に、旦那様が居たからなのですよ?
 そう言いましたら、旦那様はどの様なお顔をなさるのでしょうか?
 照れ隠しに、怒るかも知れませんね?

 …お可愛らしい…。

 と、思わず言葉が出そうになりまして、僕は思わずぶんぶんと頭を横に振りました。

「どうした?」

「な、なんれもないれふ…」

 不思議そうに聞いて来ます旦那様に、僕はそう答えるので精一杯でした。
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