旦那様と僕・番外編

三冬月マヨ

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旦那様の大きな手

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「只今、もど…」

「誰が行くかっ!!」

 学び…学業が終わり、その帰りにお買い物をして帰宅しましたら、その様な旦那様のお声が、僕の耳に届きました。余りにも余り過ぎる声量です。お屋敷の外にも聞こえたかも知れません。
 いそいそと草履を脱ぎ、僕はお茶の間を目指します。
 八月も終わりが近いとは云え、この夏はまだ暑く、夕方に差し掛かる今も縁側の戸は開けられています。ちりんちりんと風鈴が静かに揺れ、蚊取り線香の煙がゆらゆらと揺れて、お庭の方へと流れて行くのが見えました。

「只今戻りました。大きなお声が聞こえましたが、どうされたのですか?」

「あ、ああ、お帰り。…いや…その、だな…」

 そう声を掛けましてお茶の間へと入りましたら、電話を睨み付けたままで佇む旦那様が居ました。
 なるほど、先程のお怒りのお声は、そのお電話のお相手…と云う事でしょうか?
 
「その…」

「はい」

 何をそう言い難そうにしているのでしょうか?
 視線を彷徨わせながら、旦那様が腰を下ろして胡坐を組みましたので、僕も卓袱台を挟んで旦那様の正面に位置する様に、腰を下ろし、正座をしました。
 卓袱台の上には麦茶があり、僕が漬けた胡瓜と茄子の浅漬けがありました。
 本日、旦那様はお休みなので、お酒を戴いていても構わないのですが、夕餉が近付くときになりますと、ぴたりと呑むのを止めてしまわれるのですよね。それは、僕の作った物を楽しむ為だと自惚れても良いのでしょうか?

「…縁談の話が来た…」

「はい…?」

 じっと旦那様のお顔を見ていましたら、観念した様にその細い目が伏せられて、苦みを含んだ声音で、ぼそりと告げられました。
 一度言葉にすれば楽になるのでしょうか?

「覚えているか? お前を養…籍に入れる前に、禿げ頭で、でっぷりとした達磨の様な腹の根性の悪そうな下卑た気に食わない親父が縁談の話を持って来た事があっただろう。あの親父が、性懲りもなく、また話を持って来た。しかも、こちらの都合の確認等せずに、明日、その相手と会えと時間と場所を指定して来た」

 それまでの言い難さ等嘘の様に、旦那様がすらすらと述べます。
 ああ、お電話のお相手は、あの時の塩を撒けと言われましたお客様でしたか。
 と言いますか、余程旦那様のお気に召さないお相手だったのですね?
 随分と酷い物言いをされている様な気がしますが、宜しいのでしょうか?

「…そうでしたか…幸いと申しますか…旦那様は明日もお休みですし…そこまで御膳立てされてしまわれては…行くしかないと思うのですが…」

 …何故か、胸がちくちくとひりひりとします。お昼に食べたお弁当の鮭の骨が刺さりでもしていたのでしょうか?

「…良いのか?」

「…良い、とは?」

 僕の言葉に、ぴくりと旦那様は片方の眉が跳ね上げ、平素よりも低い声でそう訊いて来ました。

「俺が縁談の場に行っても、お前は良いのかと聞いている」

 何故、僕にそう訊くのでしょうか?
 縁談のお話が来ましたのは、僕ではありませんのに。

「…不可抗力とは言え、もう決まってしまった事ですし、お断りを入れるにしても、その場に向かった方が良いと思ったのですが…」

 それが道理であり、礼儀だと思ったのですが、旦那様の目は鋭く険しくなるばかりです。
 お相手の非常識さも、そこで指摘すれば、流石に次は無いでしょうと言いたかったのですが、身が縮こまってしまい、言葉が出て来ません。どうしましょう? これ程にお怒りになる旦那様を、僕は見た事がありません。

「…そうか…。…腹が空いたな…」

「あっ、はい、只今!!」

 これ以上身長が縮んでしまったらどうしましょう? と、思い始めた処で、旦那様が長く重い溜め息を吐いた後にそう仰いましたので、僕は慌てて台所へと飛び込みました。

 ◇

「ゆきおー? おーい?」

雪緒ゆきお君、そんなに塩を掛けたら…」

「いや、何も聞こえてないみたいだぞ? 残暑にやられたか?」

 校庭の木陰で茣蓙ござを広げて、僕達はお昼休みを満喫しています。今は、せい様が持参した西瓜すいかを食べているのですが…。
 星様のお声も、瑠璃子るりこ様のお声も、倫太郎りんたろう様のお声も、僕の耳には入って来ません。
 今頃、旦那様は縁談の場に居るのでしょうか。
 お相手は、どの様なお方なのでしょう?
 年代の近いお方なのでしょうか?
 それとも亡き奥様の様に、年上のお方なのでしょうか?
 もし、奥様の様に、お身体が弱いお方でしたら、どうなるのでしょうか?
 怖そうに見られがちな旦那様ですが、その実、とてもお優しい方です…。
 もし、もしも、その様なお方でしたら…旦那様は…お断りには…。

「ゆきお?」

 間近に聞こえた声に顔を上げれば、直ぐ前に星様のお顔があり、その手は強く僕の肩を掴んでいました。

「あ…」

 星様の瞳が不安そうに揺れています。
 顔を動かして、瑠璃子様や倫太郎様を見れば、それはお二人も同じでした。

「も、申し訳ございません! この暑さに参ってしまった様です! しっかりと塩分と水分を摂りませんと!」

 と、僕はもう一度西瓜に塩を振ってかぶり付きました。

「あ!」

「うそ!」

「ばか!?」

 と、三者三様の声が聞こえました。
 …はい…真っ白な西瓜は、とても辛かったです…。

 …僕は、一体何をしているのでしょうか…。

 とぼとぼと、お弁当箱を包んだ風呂敷を手に、家路へとつきます。
 お買い物は昨日済ませましたから、今日は真っ直ぐと帰ります。
 
「…どうしましょう…」

 何か、昨日買い忘れた物とか無いでしょうか?
 何故、お屋敷へ帰りたくないだなんて、思ってしまうのでしょうか…。
 昨日も今朝も、あれから旦那様に何かを言われたとかは無いのです。夕餉も、朝餉も余す事無くお召し上がりになりましたし…ただ…縁談のお話は…あれから一度も…お口には出されませんでしたが…。
 …それですのに…。
 胸がとても、ちくちくとずきずきと痛みます。
 塩が固まって結晶となってしまったのでしょうか?
 きっと、それは、とても塩辛いのでしょうね。

「…遅かったな…」

 往生際悪く、回り道をしながら、俯き加減でお屋敷の門を潜りましたら、むすりとした旦那様のお声が聞こえました。旦那様は、そのお声の様に不機嫌そうに口を結んで、玄関前に立って居ました。縁談だからなのでしょうか? 滅多にお召しにならない、濃い灰色のすうつを着ていました。長い前髪も後ろへと流しています。

「は!? え!? か、鍵をお忘れに…って、そうでしたら鍵は掛かってませんよね!? あ、落とされたのですか!?」

 ですが、そのお姿に見惚れるよりも何よりも、僕は驚いてしまいました。
 その様な処にいらっしゃるだなんて、夢にも思っていませんでしたから、僕の声はみっともなく引っ繰り返り、何とも頓珍漢な事を口にしてしまった様な気がします。

「阿呆、そんな訳があるか。げんが悪いままで、家に入る訳には行かんだろうが。塩を撒け」

「は? え?」

 験が悪い、とは?

「早くしろ。それとも、お前は俺をこのまま一晩中立たせて置いて、明日仕事へ向かわせる気か?」

「ふえっ!? め、滅相もございませんっ! い、今直ぐ塩をお持ちしますっ!!」

 何が何やら解りませんが、僕は袖の中から鍵を取り出し、玄関の鍵を開けお屋敷の中へと入り、台所へと一直線です。

「そら、掛けろ」

 塩の入った壺を抱えて玄関まで来ましたら、軒下で旦那様が頭を下げて待っていました。

「ふぇっ!?」

「何を驚く。厄祓いだ。早くしろ」

「ふぁ、はひっ!!」

 言われるままに、僕は壺の蓋を開けまして、一つまみの塩を旦那様の頭へと掛けます。

「これで祓えるか。もっと掛けろ」

「はひぃいいいいっ!」

 ごそりと掌で掬いまして、ばさりと二度程掛けた処で、旦那様が頭を上げました。

「ああ、さっぱりした。喉が渇いたから茶を淹れてくれ」

「は、はひっ!」

 ぱさぱさと頭を振る旦那様に僕は返事をして、また台所へと駆け込みました。
『ふ…』と云う、微かな笑い声が聞こえた気がしますが、気のせいでしょう。

「お待たせしました」

 旦那様の前にお茶を置いて、僕は何時もと同じ様に、卓袱台を挟んで旦那様の正面に座りました。

「ああ、ありがとう」

 ちろりと目線を上げて、湯呑みに手を伸ばす旦那様を見ます。
 塩を掛けた後に頭を振ったせいでしょうか? 旦那様の御髪おぐしは乱れて、前髪が処々目に掛かっていました。また、上着も脱いでいまして、首のねくたいは緩められ、きっちりと一番上まで留められていた、白いしゃつの釦は外されていまして、僅かではありますが、首元が見えていて、僕はどきりとしてしまいました。
 …おかしいですね…? 普段は着物ですから、首元処か、胸元が見える時もありますのに…。

「…うん、落ち着くな…」

「それは良かったです…。…麦茶では無く、お茶と言われましたので…温かいお茶を…」

 温かいお茶を一口飲んでから、旦那様がそう言いますが、何故か僕は落ち着きません。
 何故でしょう? やはり、普段は見慣れない洋装だからでしょうか? それとも、乱れた御髪が気になるからなのでしょうか?

「さて。お前に聞きたい事がある」

「は、はいっ!?」

 ちらちらともぞもぞとしながら、お茶を飲む旦那様を見ていましたら、突然その様に言われて、僕は慌てて、何時の間にか丸くなってしまっていた背中を伸ばし、姿勢を正しました。
 そんな僕の様子に、旦那様は小さく噴き出した後、軽く咳払いをして、こう聞いて来たのです。

「俺が惚れているのは、誰だ?」

 と。

「…っ…!?」

 は!? え!? ほっ、惚れ…っ…!?
 
 初めてその言葉を聞いた時は、余りにも馴染みが無さ過ぎて、言葉の意味を把握出来ませんでしたが、今は違います。
 惚れていると云う事は、好いていると云う事で、想いを寄せていると云う事です。

「へっ、はっ、そ、そっ、あ、あの…っ…!」

 しかし、何故、今、それを問うのでしょう?
 その様に真っ直ぐと、優しく、心がぽかぽかとする目を向けて、温かくて静かなお声で。
 縁談の場からお戻りになられたのですから、まずは、そのご報告からなのではないのでしょうか?
 また、験が悪いとはどう云う事なのでしょうか?

「…お前が好いているのは誰だ?」

 もごもごとしたまま、中々それを口にしない僕に、旦那様が言葉を変えて聞いて来ました。

「旦那様ですっ!」

「ぶはっ!」

 間髪入れずに答えた僕に、旦那様は肩を揺らして笑い出してしまいました。

「そっ、その様に笑わふが…っ…!?」

 顔を赤くして卓袱台に両手を置いて、腰を浮かせて身を乗り出した僕の鼻を、旦那様の右手がさっと伸びて来て、すかさず摘まんで来ました。抗議をしようとしたのですが、これでは出来ません。少しだけ上がった僕の眉が、みるみると下がって行くのが解ります。

「ああ、すまん。最初の質問も、その勢いで"僕です"と言って欲しかったがな。まあ、良いだろう」

「…ほふれふか…」

 何が良いのか、僕には解りませんが…兎にも角にも…普段の旦那様…ですよね…? いえ…普段と違いまして、その細い目がはっきりと見えて、どきどきとしてしまうので、しっかりと前髪を下ろして欲しい処ではありますが…。

「…行けと言われた時は絶望したが、まあ、勝手に段取りを決められたとは云え、すっぽかすのもな…。俺だけで済めば良いが、朱雀と云う組織に組してる以上、その名を墜とす行動を取る訳には行かんからな。…まあ、今後、こんな事は無いから安心しろ。きつく灸をすえて来たからな。俺が惚れているのはお前だけだし、この先、何があってもそれは変わらん」

「…ふぁ…ひ…」

 真っ直ぐと、鼻先が触れそうなくらいに間近で言われてしまい、僕の頭は爆発しそうです。
 鼻を摘ままれてなければ、鼻血が出たかも知れません。
 それ程に、僕を見る旦那様の細い目は…とても…その…甘やかだったのです…。

「さて。着替えて来るから、その間に飯…いや、今日は先に晩酌が良いな。用意を頼む」

「はい…」

 旦那様の手が、僕の鼻から離れて行きます。
 それが名残惜しくて、少しだけ頼りなく情けない声が出てしまいました。
 旦那様の手は大きくて優しくて、僕はそれにとても安心してしまうのです。
 何時でも、何度でも、そうやって安心させて欲しいと思ってしまうのは、僕の我儘なのでしょうか?

「雪緒」

 僕の傍を通り過ぎようとした旦那様が僕の名を呼びます。それと同時に、僕の頭にその大きな手が乗せられました。

「不安にさせてすまんな」

 直ぐ耳元で聞こえた低い声に、僕の肩がぴくりと揺れます。
 不安だなんて、それは僕が勝手にそう思っただけで、旦那様が謝る事ではありません。
 と、そう言おうとしまして顔を上げたら、僕の額に柔らかい何かが触れたのです。

「…ふぇ…?」

「…楽しみにしている」

 少しだけ意地が悪そうに旦那様は目を細めて、口の端だけで笑って立ち上がりながら、もう一度僕の頭に手を置いて、くしゃりと撫でてからお茶の間を出て行きました。

「ふ…え…え…えええええええええええええっ!?」

 なっ、何と云う事をするのでしょうか!?
 い、今のは、ひ、額に、せ、せ、せ、せ、せ、せ、せっぷ…っ…!?

「たっ、楽しみとは何ですか!? 晩酌のお摘みですか!? 夕餉ですか!?」

 お茶の間に一人残された僕は、やけに熱い額を両手で押さえて、そう叫んだのでした。

 ちりんちりんと風鈴を揺らす風は、まだ熱を孕んでいて、まだまだ暑い夏は終わりそうにないと言っている様でした。
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