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やがて
【三】旦那様はぐるぐる
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相楽が持って来た不味い夕餉の後、背中の傷の様子を見て貰っていた。
雪緒は結局、あの握り飯一つを食べただけで満腹だと言って、相楽が残りを食べていた。
『良いのか、それで』と聞けば『僕はお手伝いだから~』と、あっけらかんとしていた。
雪緒は元からあまり食べる方では無い。と云うか、俺の処に来るまではまともに食べて無かったせいで、胃は小さいし、本人も本人で『ゆっくりと噛んで食べると、少量でもお腹が膨れるのです』と言って、お妙さんを泣かせていたし、今も、その食べ方は変わらない。が、もう少し食べられる筈だ。昨日からの疲れや、睡眠不足の影響もあるのだろう。後は、この暑さか。俺の心配は要らないから、陽が落ちる前に、帰らせて休ませた方が良いだろうな。
「ん~…と、これで良しと~」
「旦那様、失礼致します」
相楽が包帯を巻き直すと、その様子をベッドの脇でじっと見ていた雪緒が、はだけていた浴衣を着るのを手伝ってくれた。この浴衣は病院側で用意してくれた物で、買い取りになるとの事だ。
「寝ている時は、腕の下に枕でも置いといてあげてね~。あと、起きている時は、三角巾で吊っていてね~」
「…三角巾なぞ、さも重病人の様だ。要らないだろう。動かさな…」
動かさなければ良いだけの話だと言おうとしたら、底の見えない黒い笑顔を相楽が浮かべて、俺を見て来た。
「十二分に、お釣りが来る程の重病人だからね~? それに、そうしていないと、何かあった時に咄嗟に動くのは利き腕でしょ~? 動きの制限でもあるんだからね~。雪緒君~、この馬鹿な紫君が馬鹿な事をしない様に見ていてね~。本当に紫君は馬鹿だから~。馬鹿につける薬は無いからあ~」
おい。今、何回馬鹿と言った。
「はい、解りました」
おい。納得しないで、少しは反論しろ。
「じゃあ、僕は行くから~。またね~」
「あ。相楽様」
軽く手を振って部屋を出て行こうとする相楽を、雪緒が引き留めた。何か話があるのだろうか?
「ん~? どうしたの、雪緒君~?」
「あ、あの、お部屋の外で…」
その場で話をしようとする相楽に、雪緒がちらりと俺の方を見た。
…何だ…?
「ん~?」
疑問の声を上げながらも、相楽は雪緒に促されるままに、部屋から出て行った。そして、ご丁寧にも出入口の戸は閉ざされてしまった。
「…おい…」
…何だ、この疎外感は?
一体、何の話だと言うんだ?
俺には関係の無い話なのか?
それとも、聞かせられない話なのか?
どちらにせよ、気分の良い物では無い。
「…いや…」
…別に…だからどうしたと言うのだ。
雪緒が相楽と何を話そうと、構わないではないか。
ただ、わざわざ俺の前で、そんな態度を取るのが気に入らないだけだ。
鼻を摘まんで欲しいとか、頭を撫でて欲しいとか、思い切り緩んだ顔でおにぎりを食べて見せたりして、甘えを見せて来たくせに、こんな風に俺を置いて行くのが気に入らんだけだ。
いや、だから、何故、こんな事を気にする。
別に雪緒が誰に甘えようと、頼ろうと、それはそれで良い筈だ。そうやって、雪緒の世界が広がって行くのは良い事だ。ただ、そこに俺が居ないのが、寂しいだけ…って、だから、何を考えている。親離れだ、親離れ。これは、その一歩なんだ。って、親と思われて居ないのに、親離れ? って、違う違う。しっかりしろ、俺。俺は雪緒の何だ? 俺は、雪緒の養父だ。養父らしく振る舞えば良いだけだ。そう、雪緒の想いは、一時的な物に過ぎない。ただ、俺の傍に居過ぎただけだ。勘違いだ。雪緒が言っていたではないか。あの日、俺に出会った日は大切な日だと。人生の転機に、俺が関わっただけの事だ。それを、恩義に感じているだけに過ぎんのだ。そして、それを恋情だと勘違いしているだけだ。そう、それだけなのだ。ただ、それだけだ。
俺が雪緒にとって、そう云う対象で居てはいかんのだ。
「…って…」
何か…また胃が痛くなって来たな…。
丸一日食べて無かったからと、不味い粥を食わされたのだが、胃が痛くなるとは食い損だろう。
いや、鎮痛剤だけだと胃が痛くなると言われて、胃の薬も出されてそれを飲んだよな? 効いていないのでは?
「旦那様、お加減が? 横になりますか?」
軽く左手で胃を押さえた時、雪緒が部屋に戻って来た。
手に、謎の物体を持って。
「…雪緒…? その手に持っている物は何だ?」
雪緒が手にしているそれを、俺は恐る恐ると行った態で、指を差して聞いた。
半透明の硝子製の長細く曲線を描き、先端が上を向き、その部分が開いているそれを。
「尿瓶です。先程相楽様から渡されました」
平然と言ってのける雪緒に、ぐらぐらと目眩がした。
「…必要無い。厠ぐらい歩いて行ける」
…何だ…? 相楽との話は、俺の排尿の話だったのか? それなら別に俺の前で話しても…いや、俺が騒ぐとでも思ったのか…それで、邪魔が入らない様に、部屋から出て行った…そう云う事か?
何だ、そう云う事か。
そう思ったら、不思議な事に胃の痛みが和らいだ気がした。
「ですが、片手ですと不便ですよね? お手伝い致しますから、こちらを使用しましょう」
「い、いや…」
少々の粗相はするかも知れんが、前を思い切り広げれば、後は褌から取り出すだけだと言おうとする前に、雪緒がさらなる追撃をかける。
「あ。大きい方の時も、お手伝い致しますね。着物を押さえてお尻を拭くのは片手では出来ませんからね」
邪気の無い顔で笑う雪緒とは反対に、すんっ、と、俺の顔から全ての表情が消えた気がした。
雪緒は結局、あの握り飯一つを食べただけで満腹だと言って、相楽が残りを食べていた。
『良いのか、それで』と聞けば『僕はお手伝いだから~』と、あっけらかんとしていた。
雪緒は元からあまり食べる方では無い。と云うか、俺の処に来るまではまともに食べて無かったせいで、胃は小さいし、本人も本人で『ゆっくりと噛んで食べると、少量でもお腹が膨れるのです』と言って、お妙さんを泣かせていたし、今も、その食べ方は変わらない。が、もう少し食べられる筈だ。昨日からの疲れや、睡眠不足の影響もあるのだろう。後は、この暑さか。俺の心配は要らないから、陽が落ちる前に、帰らせて休ませた方が良いだろうな。
「ん~…と、これで良しと~」
「旦那様、失礼致します」
相楽が包帯を巻き直すと、その様子をベッドの脇でじっと見ていた雪緒が、はだけていた浴衣を着るのを手伝ってくれた。この浴衣は病院側で用意してくれた物で、買い取りになるとの事だ。
「寝ている時は、腕の下に枕でも置いといてあげてね~。あと、起きている時は、三角巾で吊っていてね~」
「…三角巾なぞ、さも重病人の様だ。要らないだろう。動かさな…」
動かさなければ良いだけの話だと言おうとしたら、底の見えない黒い笑顔を相楽が浮かべて、俺を見て来た。
「十二分に、お釣りが来る程の重病人だからね~? それに、そうしていないと、何かあった時に咄嗟に動くのは利き腕でしょ~? 動きの制限でもあるんだからね~。雪緒君~、この馬鹿な紫君が馬鹿な事をしない様に見ていてね~。本当に紫君は馬鹿だから~。馬鹿につける薬は無いからあ~」
おい。今、何回馬鹿と言った。
「はい、解りました」
おい。納得しないで、少しは反論しろ。
「じゃあ、僕は行くから~。またね~」
「あ。相楽様」
軽く手を振って部屋を出て行こうとする相楽を、雪緒が引き留めた。何か話があるのだろうか?
「ん~? どうしたの、雪緒君~?」
「あ、あの、お部屋の外で…」
その場で話をしようとする相楽に、雪緒がちらりと俺の方を見た。
…何だ…?
「ん~?」
疑問の声を上げながらも、相楽は雪緒に促されるままに、部屋から出て行った。そして、ご丁寧にも出入口の戸は閉ざされてしまった。
「…おい…」
…何だ、この疎外感は?
一体、何の話だと言うんだ?
俺には関係の無い話なのか?
それとも、聞かせられない話なのか?
どちらにせよ、気分の良い物では無い。
「…いや…」
…別に…だからどうしたと言うのだ。
雪緒が相楽と何を話そうと、構わないではないか。
ただ、わざわざ俺の前で、そんな態度を取るのが気に入らないだけだ。
鼻を摘まんで欲しいとか、頭を撫でて欲しいとか、思い切り緩んだ顔でおにぎりを食べて見せたりして、甘えを見せて来たくせに、こんな風に俺を置いて行くのが気に入らんだけだ。
いや、だから、何故、こんな事を気にする。
別に雪緒が誰に甘えようと、頼ろうと、それはそれで良い筈だ。そうやって、雪緒の世界が広がって行くのは良い事だ。ただ、そこに俺が居ないのが、寂しいだけ…って、だから、何を考えている。親離れだ、親離れ。これは、その一歩なんだ。って、親と思われて居ないのに、親離れ? って、違う違う。しっかりしろ、俺。俺は雪緒の何だ? 俺は、雪緒の養父だ。養父らしく振る舞えば良いだけだ。そう、雪緒の想いは、一時的な物に過ぎない。ただ、俺の傍に居過ぎただけだ。勘違いだ。雪緒が言っていたではないか。あの日、俺に出会った日は大切な日だと。人生の転機に、俺が関わっただけの事だ。それを、恩義に感じているだけに過ぎんのだ。そして、それを恋情だと勘違いしているだけだ。そう、それだけなのだ。ただ、それだけだ。
俺が雪緒にとって、そう云う対象で居てはいかんのだ。
「…って…」
何か…また胃が痛くなって来たな…。
丸一日食べて無かったからと、不味い粥を食わされたのだが、胃が痛くなるとは食い損だろう。
いや、鎮痛剤だけだと胃が痛くなると言われて、胃の薬も出されてそれを飲んだよな? 効いていないのでは?
「旦那様、お加減が? 横になりますか?」
軽く左手で胃を押さえた時、雪緒が部屋に戻って来た。
手に、謎の物体を持って。
「…雪緒…? その手に持っている物は何だ?」
雪緒が手にしているそれを、俺は恐る恐ると行った態で、指を差して聞いた。
半透明の硝子製の長細く曲線を描き、先端が上を向き、その部分が開いているそれを。
「尿瓶です。先程相楽様から渡されました」
平然と言ってのける雪緒に、ぐらぐらと目眩がした。
「…必要無い。厠ぐらい歩いて行ける」
…何だ…? 相楽との話は、俺の排尿の話だったのか? それなら別に俺の前で話しても…いや、俺が騒ぐとでも思ったのか…それで、邪魔が入らない様に、部屋から出て行った…そう云う事か?
何だ、そう云う事か。
そう思ったら、不思議な事に胃の痛みが和らいだ気がした。
「ですが、片手ですと不便ですよね? お手伝い致しますから、こちらを使用しましょう」
「い、いや…」
少々の粗相はするかも知れんが、前を思い切り広げれば、後は褌から取り出すだけだと言おうとする前に、雪緒がさらなる追撃をかける。
「あ。大きい方の時も、お手伝い致しますね。着物を押さえてお尻を拭くのは片手では出来ませんからね」
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