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はじまって
【五】旦那様も困り者
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旦那様の身体がぐらぐらと揺れています。と、思いましたら、卓袱台に額を押し付けてしまわれました。
「旦那様? お加減が宜しくないのでしょうか? お手本は後日で構いませんので、お休みになられますか? 只今お布団を敷いて来ますね」
僕はそう口にして、手にしていた文書を卓袱台の上に置きました。
今日はお天気が良かったので、お布団はふかふかのほかほかです。安眠間違い無しです。
「…いや…。あのな…手本ってなんだ…。それは…他人に見せる物では無いんだ…」
立ち上がり掛けた処で、卓袱台に額を付けたまま、旦那様がぼそぼそと言いましたので、僕は座り直しました。
「それでは、皆様はどうやってそれを覚えるのでしょうか? 確かに、この指南書には、とてもお詳しく記してありますが、僕はやはり実際にそれを見て覚えたいと思うのです。こう思うのは、いけない事なのでしょうか?」
「…いや…だからな? …その…うん…まあ…あれだ…本能のまま…に…すれば…いい…」
「…ほんのう…?」
首をこてんと傾けて、旦那様の後頭部を眺めます。
本能とは何でしょうか?
指南書に寄りますと、健康の為に三日に一回は出した方が良いとありました。三日毎におちんちんを弄らなければならないとか、何の苦行なのでしょうか? そんな暇があるのならば、勉学に時間を割きたいと思いますし、何なら勉学の為に手を抜いている家事に時間を割きたいです。大体、これまではその様な事は不要でしたのに。やはり、今朝のあれは病の一端だったのでは?
「…いや…だから、病じゃない…。…その…大人に…まあ…近付いただけだ…」
いけません。
どうやら思っていた事が声に出てしまっていた様です。
卓袱台から顔を上げた旦那様が、前髪に右手を差し込んでわしわしと掻いています。
「それに書いてあるかは、中を見ていないから知らんが…その…性交渉をすれば…お前は…父親になる…まあ…それの兆しだ、今朝のは…」
そうして、両手で顔を覆ってしまわれました。
「…ちちおや…父…? …では、今朝のはその資格を得られた、と。そう云う認識で宜しいのでしょうか?」
性交渉は流石に僕でも知っています。
子供を授かる為の神聖な儀式で、それに成功すればこうのとりさんが子供を運んで来ると言われています。
ですが、それと今朝の事がどう関係あるのでしょうか?
夜更しをしてでも、この指南書を何度も読み返す必要がありそうですね。
「…ああ、そうだ。…だから、そうする時は責任を持ってだな…。…その…お前…学び舎で気になる子でも出来たのか…?」
両手で頬を擦りながら、旦那様が僕を見て来ます。
ですが、その細い目は何処か焦点が定まらない様な気がします。
「…気になる子…ですか…?」
首を傾げました僕に、旦那様の瞳がうろうろと彷徨い出します。
「…あ、ああ、いや…言いたくないなら別に…無理にとは言わんが…まあ…世界が広がるのは良い事だし…それを望んでいた訳だし…」
旦那様はまた両手で顔を覆って、ぼそぼそと呟き出しました。
「…ええと…気になると言えば、倫太郎様はいつも帯が曲がっていますので、それが気になると云えば気になりますが…後は、慎一郎様は何時も後頭部の御髪が跳ねていますので、もう少し早くにお目覚めになられた方が宜しいかと…後はそうですねえ…由美子様の吹き出物ですとか、瑠璃子様のみつ編みが少々不格好な気が致しますし…」
「待て待て待て待て待て!」
思い付く限りの気になります事を上げていましたら、旦那様が片手は顔を隠したまま、片手は僕の方へ掌を見せて待ったを掛けて来ました。
「何だ、その色気の無い話は!? ええい! お前は、昨晩、いや、今朝か!? どんな夢を見た!?」
色気?
色気とは何の事でしょうか?
そして、何故、夢の話になるのでしょうか?
ですが、夢ですか…夢…。
「…えぇと…」
それを思い出しました僕は、思わず俯いてしまいました。
その瞬間、僅かではありますが、目を見張った様な旦那様のお顔がちらりと視界に映りました。
「あ、いや! 話し難いのならば、話さなくて良い。…そうだよな…お前も年頃なんだしな…ああ…」
俯いています僕には旦那様が今、どの様なお顔をされているのかは解りませんが、そのお声には若干の苦味が含まれている様な気がします。
これは、もしや、旦那様には筒抜けなのでしょうか?
僕が見た夢を。
でしたら、隠したとしても無意味なのでしょう。
「申し訳ございません」
身体を引きまして、両手を座布団の上に置いてそこに頭を乗せました。
「は? な、何だ!? 何故謝る!? どんな厭らしい夢を見たとしてもだな、それは…!」
「昨夜は旦那様の事を考えながら眠りに付いたせいかは解りませんが、旦那様に鼻を摘まれる夢を見ました! あ、いえ、夢の中でまで旦那様は意地悪ですとか、怒りん坊ですとか、そういった悪意とかは皆無で…旦那様…?」
何やら慌てます旦那様のお声に顔を上げて、無作法ながらも一気にまくし立てていましたら、旦那様のお顔からみるみると血の気が…いえ…表情が抜け落ちて行きました。
「…俺…?」
「はい?」
やがて、ぽつりと溢れました言葉に、僕は首を傾げました。
「…俺の夢を見て…? …朝…そうなった…?」
「はい?」
お叱りを受けるかと思ったのですが、旦那様のお声には張りが無く、ですが、その細い目は限界まで広げられている様な気が致します。
「…そうか…」
そう力なく、小さく旦那様は呟いて立ち上がり、ふらふらと茶の間から出て行きました。
お叱りを受けなかった事に安堵は致しましたが、どうにも腑に落ちません。旦那様は何をお聞きしたかったのでしょうか?
今朝の事と、夢に何の関係があるのでしょうか?
僕は再び、卓袱台の上に置きました指南書を手に取りました。
まだ全部は読んでませんので、もしかしましたらこれに答えがあるのかも知れません。
そうして目を落としましたら。
『ちぃん』と云う、高い音が仏間から聞こえて来ました。
ああ、今夜も奥様とお話されてからお休みになられるのですね。
あ、いけません。
指南書を読む前に、お布団を敷いて置かなければ。
ふかふかのお布団ですから、きっと良い夢を見られる事でしょう。
旦那様の安眠を願いながら僕は立ち上がり、茶の間を後にしました。
「旦那様? お加減が宜しくないのでしょうか? お手本は後日で構いませんので、お休みになられますか? 只今お布団を敷いて来ますね」
僕はそう口にして、手にしていた文書を卓袱台の上に置きました。
今日はお天気が良かったので、お布団はふかふかのほかほかです。安眠間違い無しです。
「…いや…。あのな…手本ってなんだ…。それは…他人に見せる物では無いんだ…」
立ち上がり掛けた処で、卓袱台に額を付けたまま、旦那様がぼそぼそと言いましたので、僕は座り直しました。
「それでは、皆様はどうやってそれを覚えるのでしょうか? 確かに、この指南書には、とてもお詳しく記してありますが、僕はやはり実際にそれを見て覚えたいと思うのです。こう思うのは、いけない事なのでしょうか?」
「…いや…だからな? …その…うん…まあ…あれだ…本能のまま…に…すれば…いい…」
「…ほんのう…?」
首をこてんと傾けて、旦那様の後頭部を眺めます。
本能とは何でしょうか?
指南書に寄りますと、健康の為に三日に一回は出した方が良いとありました。三日毎におちんちんを弄らなければならないとか、何の苦行なのでしょうか? そんな暇があるのならば、勉学に時間を割きたいと思いますし、何なら勉学の為に手を抜いている家事に時間を割きたいです。大体、これまではその様な事は不要でしたのに。やはり、今朝のあれは病の一端だったのでは?
「…いや…だから、病じゃない…。…その…大人に…まあ…近付いただけだ…」
いけません。
どうやら思っていた事が声に出てしまっていた様です。
卓袱台から顔を上げた旦那様が、前髪に右手を差し込んでわしわしと掻いています。
「それに書いてあるかは、中を見ていないから知らんが…その…性交渉をすれば…お前は…父親になる…まあ…それの兆しだ、今朝のは…」
そうして、両手で顔を覆ってしまわれました。
「…ちちおや…父…? …では、今朝のはその資格を得られた、と。そう云う認識で宜しいのでしょうか?」
性交渉は流石に僕でも知っています。
子供を授かる為の神聖な儀式で、それに成功すればこうのとりさんが子供を運んで来ると言われています。
ですが、それと今朝の事がどう関係あるのでしょうか?
夜更しをしてでも、この指南書を何度も読み返す必要がありそうですね。
「…ああ、そうだ。…だから、そうする時は責任を持ってだな…。…その…お前…学び舎で気になる子でも出来たのか…?」
両手で頬を擦りながら、旦那様が僕を見て来ます。
ですが、その細い目は何処か焦点が定まらない様な気がします。
「…気になる子…ですか…?」
首を傾げました僕に、旦那様の瞳がうろうろと彷徨い出します。
「…あ、ああ、いや…言いたくないなら別に…無理にとは言わんが…まあ…世界が広がるのは良い事だし…それを望んでいた訳だし…」
旦那様はまた両手で顔を覆って、ぼそぼそと呟き出しました。
「…ええと…気になると言えば、倫太郎様はいつも帯が曲がっていますので、それが気になると云えば気になりますが…後は、慎一郎様は何時も後頭部の御髪が跳ねていますので、もう少し早くにお目覚めになられた方が宜しいかと…後はそうですねえ…由美子様の吹き出物ですとか、瑠璃子様のみつ編みが少々不格好な気が致しますし…」
「待て待て待て待て待て!」
思い付く限りの気になります事を上げていましたら、旦那様が片手は顔を隠したまま、片手は僕の方へ掌を見せて待ったを掛けて来ました。
「何だ、その色気の無い話は!? ええい! お前は、昨晩、いや、今朝か!? どんな夢を見た!?」
色気?
色気とは何の事でしょうか?
そして、何故、夢の話になるのでしょうか?
ですが、夢ですか…夢…。
「…えぇと…」
それを思い出しました僕は、思わず俯いてしまいました。
その瞬間、僅かではありますが、目を見張った様な旦那様のお顔がちらりと視界に映りました。
「あ、いや! 話し難いのならば、話さなくて良い。…そうだよな…お前も年頃なんだしな…ああ…」
俯いています僕には旦那様が今、どの様なお顔をされているのかは解りませんが、そのお声には若干の苦味が含まれている様な気がします。
これは、もしや、旦那様には筒抜けなのでしょうか?
僕が見た夢を。
でしたら、隠したとしても無意味なのでしょう。
「申し訳ございません」
身体を引きまして、両手を座布団の上に置いてそこに頭を乗せました。
「は? な、何だ!? 何故謝る!? どんな厭らしい夢を見たとしてもだな、それは…!」
「昨夜は旦那様の事を考えながら眠りに付いたせいかは解りませんが、旦那様に鼻を摘まれる夢を見ました! あ、いえ、夢の中でまで旦那様は意地悪ですとか、怒りん坊ですとか、そういった悪意とかは皆無で…旦那様…?」
何やら慌てます旦那様のお声に顔を上げて、無作法ながらも一気にまくし立てていましたら、旦那様のお顔からみるみると血の気が…いえ…表情が抜け落ちて行きました。
「…俺…?」
「はい?」
やがて、ぽつりと溢れました言葉に、僕は首を傾げました。
「…俺の夢を見て…? …朝…そうなった…?」
「はい?」
お叱りを受けるかと思ったのですが、旦那様のお声には張りが無く、ですが、その細い目は限界まで広げられている様な気が致します。
「…そうか…」
そう力なく、小さく旦那様は呟いて立ち上がり、ふらふらと茶の間から出て行きました。
お叱りを受けなかった事に安堵は致しましたが、どうにも腑に落ちません。旦那様は何をお聞きしたかったのでしょうか?
今朝の事と、夢に何の関係があるのでしょうか?
僕は再び、卓袱台の上に置きました指南書を手に取りました。
まだ全部は読んでませんので、もしかしましたらこれに答えがあるのかも知れません。
そうして目を落としましたら。
『ちぃん』と云う、高い音が仏間から聞こえて来ました。
ああ、今夜も奥様とお話されてからお休みになられるのですね。
あ、いけません。
指南書を読む前に、お布団を敷いて置かなければ。
ふかふかのお布団ですから、きっと良い夢を見られる事でしょう。
旦那様の安眠を願いながら僕は立ち上がり、茶の間を後にしました。
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