旦那様と僕

三冬月マヨ

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はじまって

【四】旦那様は苦労が絶えない

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『あら。そのお名前が、私達のえにしを結んでくれましたのかも知れませんのに? 素敵なお名前ですわ』

 俺が自分の名前を恥ずかしいと口にしたら、鞠子まりこがそう笑った。

 見合いの席で、俺がどの縁談も断るのは不能だからと云う噂があるが真偽は如何に? と、コロコロと笑う鞠子を外へと連れ出して、二人きりで紫陽花の咲く庭園を散歩しながら話をしていた。

『…私は、女性は愛せないのです。ですから、このお話は…』

『あらあら。でしたら、尚の事、好都合ですわ。私は身体が弱く…』

 鞠子のその言葉が、俺達の婚姻のきっかけとなった。
 そして、名前を聞かれた。
 俺の親族が勝手に作成した釣書を見たが、俺本人から聞きたいと言われた。
 名乗るのは恥ずかしかったが、仮にも夫婦となるからには知っておかねばならぬだろう。
 そうしてゆかりと名を告げた俺に、鞠子は陽だまりの様に暖かく笑ったのだった。

 ◇

「…雪緒ゆきお…?」

 懐かしい夢を見たと思いながら目を開けたら、布団の横で雪緒が思い詰めた顔で正座していた。
 膝の上に置かれた両手は固く握られている。
 その脇には風呂敷包みが置いてあった。

「…僕は病気です。旦那様にお移しする訳には行きません。どうか、養子縁組を白紙に戻し、ここを出て行く事をお許し下さい」

 今日は学び舎は休みの筈なのに、何故荷物が? それに通常よりも多くはないか? と、眉を寄せて身体を起こした俺に、雪緒が深々と頭を下げて言って来た。
 養子となった今でも、雪緒は俺の事を"旦那様"と呼ぶ。
 父と呼べと幾度口にしたか解らないが、雪緒は頑なに首を縦には振らない。
 父と呼べるのは、実の父親だけと云う事なのだろう。
 その事に胸が痛むが、これは強要して良い物では無いから、雪緒が呼び易いのならばと、そのままにした。

「…は…?」

 出て行く?
 いきなり何だ?
 病気? 誰が? 雪緒が?

「…いや…病気とは? 俺には何時もと変わりなく見えるが?」

 右手で眉間に寄った皺を解しながら、思った事を俺は言った。
 病気だと告げるのに緊張したのか、顔は強張っているが、肌に赤みはあるし、熱で目が潤んでいる訳でも無い。

「不治の病です。こんな事は初めてです。こんな症状を僕は知りません。ですから、何も言わずに…」

「いやいやいやいや、待て待て待て。何があった? お前、昨夜は何とも無かっただろう? 昨夜から今朝までに何があった?」

 立ち上がり掛けた雪緒の手を身体を伸ばして引っ張り、再び座らせる。

「とにかく、症状を話せ。お前が知らないだけで、俺は知っているかも知れん。それから、相楽さがらに診て貰おう。自分だけで決めるな。素人の判断程怖い物は無いんだ」

 昨夜の夕餉の席で抜き合い等と言って俺を驚かせ、今朝は不治の病等と言って、また驚かせるとは、流石は雪緒だ。
 抜き合いの事は、そんな友人の誘いに乗るなと一喝したが。

「そう…ですよね…あの…」

 俺の言葉に、雪緒は暫し視線を彷徨わせたが、膝に置いた手を再び握って意を決した様に口を開いた。

「………………お漏らしかと思ったのです…」

 …ん…?

「………目覚めましたら…下肢が…その…濡れていまして……」

 下を向いて、雪緒がぼそぼそと話す。

「…ですが、違ったのです…ベタつきまして……気持ち悪くて…その…匂いが…」

「…あー…」

 俺はペチンと、自分の額を叩いた。
 抜き合いの話をした翌朝にこれとは、都合が良いのか悪いのか…。

「…あのな、雪緒。それは、病気では無い。寧ろ健康な証だ」

「え!?」

 顔を勢い良く上げた雪緒の目には涙が浮かんでいた。

「その、な? 昨夜話した…抜き…まあ…抜けば、寝ている間に出す事は無くなる筈だ」

 諭す様に雪緒に話す。
 いや、こいつ、未だだったのかと思いながら。
 まあ、それもそうか。
 栄養が行き届いて無かったせいで、雪緒の成長は遅い。
 声変わりだって、去年したばかりだ。
 身長だって、雪緒の同年代の奴らと比べたら圧倒的に低いし、身体もやはり細い。

「…ぬく…。…ああ、では、ご学友の方のお力をお借りすれば宜しいのですね! 解りました! 流石は旦那様です!」

「違うっ!!」

 パンと掌を合わせて、晴れやかな顔で笑う雪緒の鼻を摘まんで俺は怒鳴った。
 何処をどうしたらそうなるんだ、こいつはっ!!

「痛っ!! 痛いですっ!!」

「それは基本一人でやるもんだ! お前にだって性欲はあるだろう!? どうしようもなく下半身に熱が灯る事があるだろう!?」

って、朝から何でこんな話をしてるんだ、俺は!?

「…せいよく…? ねつ…? 何がですか?」

 俺に鼻を摘ままれながら器用に雪緒は首を傾げて来た。
 嘘だろ、おい。
 いや、まあ、そんな話はした事は無かったが…。
 こいつ…親戚の家に居た頃にも、そう云う事を話す相手が居なかったって事か…。
 あのような状態ではそんな余裕も無かったと。
 改めて、あの親戚、親族一同に怒りが沸く。
 未だ子供なのに。
 子供は守られるべき存在なのに。
 それなのに。
 そんな子供の特権を使う事がないままに、雪緒は過して来た。
 誰かに、何かに甘える事を忘れたままに。
 甘えさせてやりたいと、鞠子もお妙さんも度々口にしていた。
 しかし雪緒は知ってか知らずか、それを巧みに躱して行くのだ。
 …まあ…間違いなく雪緒本人には、その気は無いのだろうが。

 ◇

「何だ、ゆかりん。溜め息なんか吐いて。男前が台無しだぞ? おわっ!?」

「今すぐ首を刎ねられたいのなら、素直にそう言え」

 街の警邏の最中、俺の隣に並ぶ同僚兼幼馴染みの天野が、気安く肩に手を置いて死にたいと言って来たから、俺は腰に下げていた刀の柄に手を掛けて抜くそぶりをした。
 勤務中は常に帯刀を義務付けられている物だ。

「あの~。仮にも診療所の前で物騒な遣り取りしないでくれる~?」

 呆れた様な声が聞こえて来て、俺は柄から手を離して声を掛けて来た人物に向き直る。

「すまん。この阿呆のせいだ。それよりも、朝頼んだ物がもう出来たとは本当か、相楽?」

「本当だよ~。僕は嘘は吐かないよ。まあ、中に入ってよ。今は誰も居ないしさ~」

 俺の言葉に相楽は人の良い笑顔を浮かべて、相楽診療所と書かれた引き戸を開けて中へと入って行った。

「何だあ? ゆかりん、ゆずっぺに何頼んだんだ? あだっ!!」

「勤務中は高梨と呼べと何度言えば解るんだ」

 天野の脛を軽く蹴って、俺はそう言った。
 これで少しは大人しくなってくれれば有難いのだが。

「痛いよー酷いよー痣になったよー僕歩けないー鉄板入った長靴ちょうかで蹴るなんて高梨隊長の鬼ー勤務中に寄り道するしー」

 余計に酷くなっただけだった。
 熊の様な図体で、誰が僕だ。何だ、その棒読みは。
 やはり勤務が終わってからの方が良かったのだろうか。
 しかし、通り道であるし、出来たと連絡を貰ったとあれば、直ぐにも受け取りに来たくなると云うのが人情だろう。

「ちょっと~、恥ずかしいから。嘘でも良いから、巡回のフリをしてよ~。ほら、早く中に入って。じゃれ合うのはそれからにして~」

 一向に屋内へと足を踏み入れない俺達に痺れを切らした相楽が、引き戸の向こうから唇を尖らせて顎をしゃくった。

「へぇい」

「ああ」

 相楽柚子ゆずは、俺と天野の共通の友人だ。
 相楽の父が医師で、その息子の柚子本人もその資格を得ている。
 ここは、その父親が有する診療所兼相楽の自宅だ。
 今朝、逃げる様に家を出た後に真っ先にここへ寄り、とある頼み事をしていたのだ。

「はい。頼まれていた物。一応、挿絵もあるよ。下手だけど感じが伝われば良いんでしょ~?」

「ああ、助かる」

 笑顔の相楽から、紐で綴じられた紙の束を受け取り、俺は礼を口にした。

「何だあ、それ?」

 診療所の待合室にあるベンチに座って、相楽に煎れて貰った茶を啜りながら、隣に座る天野が俺の手元を覗き込んで来た。

「雪緒君へのお土産~。今夜は赤飯だね~。でも、あの雪緒君がか~。感慨深い物があるよね~」

「何だよお? 二人だけで解ってるなよな。そい!」

 掛け声と共に、天野が俺の手から紙の束を奪って行った。
 手の早い奴め。

「んあ? ………………あー…そっか…まあ…赤飯…なのか…?」

 パラリと紙を捲って、そこに書かれてある文字を見た天野が何処か遠い目をして呟いた。
 まあ、その様な反応になるのだろうな。
 俺達には不要の物だろうが、雪緒には必要な物だ。
 今朝、性欲の処理の仕方を軽く雪緒に説明をしようとしたらだ。

『おちんちんですか? おちんちんはおしっこを出す時と、お風呂以外では触ったりする事はありませんよね?』

 と、首だけでは無く、身体も傾げて言ってくれた。こんな相手にどう教えろと云うのだ。お手上げだ。
 だから、人体に詳しい相楽に文章にしてくれと頼んだ。ついでに絵も有ると尚良いと。
 それが、今天野が手にしている紙の束の正体なのだ。

「…赤飯はまあ…用意しても…雪緒には解らない様な気がするが…」

「だけどよ? こんなのよりも、ゆかりんがお手本を見せてやれば良いんじゃねえのか?」

「…は…?」

「お手本とかはどうでも良いけどさ~。あの雪緒君がどんな夢を見たのか僕は気になるな~」

 天野の言葉が咄嗟には理解出来ずに、眉を寄せた俺の耳に相楽の追撃が掛かった。

「…は…?」

 夢?

「ああー。確かに。学び舎で、どんな気になる子を見付けたんだろうな?」

「…は…?」

 気になる子?

「なるよね~。雪緒君の好みって、どんな子なんだろ~? 可愛い系~? 美人系~?」

「…は…?」

 ただ譫言の様に疑問を繰り返す俺を無視して、二人は雪緒の好みはどうだとか、どんな厭らしい夢を見たのか、そんな話で盛り上がっていた。

 ◇

 そこから後は朧気で、どうやって勤務を終え、更にはどうやって帰宅したのか俺が知りたいくらいだった。
 何時の間にか夕餉を終えて、食後の茶を啜りながら、ぼんやりと卓袱台の向かいに座る雪緒を見ていた。
 雪緒は熱心に、相楽が書いた文書を読んでいた。

「…あの…旦那様…?」

「ん? ああ、どうした? 何か解らない事でも書いてあったか?」

 文書から顔を上げてこちらを見る雪緒の表情は、何処か不安気だ。

「あ、いえ。とてもお詳しく書いてあるのですが…失敗したら怖いので、旦那様にお手本を見せて欲しいと思うのですが、いけませんでしょうか?」

 ぐらりと、俺の上体が揺れた気がしたのは気のせいだろうか?

「…鞠子…助けてくれ…」

 自分のそんな呟きすら、何処か遠くに聞こえた気がした。
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