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幼馴染み
【十五】記憶※
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「げっ、うぐっ!!」
瑞樹がそう声を上げる度に、すえた様な匂いが広がって行く。
瑞樹は今、地面に両手と両膝を付いて、胃の中にある物を吐き出していた。
ちらりと高梨は背後に視線を送る。
その視線の先では、地面に這いつくばる瑞樹と、その傍らに、瑞樹を宥め、落ち着かせる様に背中を撫でる優士の姿があった。そして、その二人の後ろには、天野の背中が見える。そして、その向こうに二体の妖の姿も。二体共四つ足で犬の様な姿だった。立ち上がれば百九十を超える天野の背を追い越すだろう。天野の圧に押されながら、喉をグルグルと鳴らしている。
星から聞いた話と同じだなと、高梨は思った。
(…これでは戦えない)
瑞樹だけでなく、優士もだ。
妖を目にした時から、優士の意識は瑞樹に向いている。いや、瑞樹にしか向いていない。
瑞樹と優士の二人は共に行動させるべきでは無いと、高梨は判断した。
捕食者としての妖を目にした瞬間に、瑞樹はその顔から血の色を失くし口元を押さえたが、胃の中から逆流して来る物を止める事は出来なかった。
何故と。あの時は大丈夫だったのにと。そんな言葉が優士の口から零れた。
あの時の妖と今、目の前に居る妖とはまるで別物だ。
あの時の妖は殺意を放っていたか?
あの時の妖はこちらを捕食しようとしていたか?
答えは否だ。
高梨は視線を自分の前方へと戻す。
そこには、一体の熊の様な妖が、やはり喉を鳴らして高梨達の様子を伺っていた。
「…悪いが、何時までもお前なんぞと見詰め合う趣味は無いんでな」
それが合図となった。
その言葉と同時に、高梨は手にしていた刀を揮う。一歩後ろへと妖は退くが、高梨の背後に居る"餌"から目を離せずに居る。
食に貪欲な事は悪い事では無いがな、と、高梨は夏になると食欲が落ちる誰かの事を頭に思い浮かべていた。
また、動いたのは高梨だけではない。天野も高梨のその呟きに俺も同感だと頷き、二体の犬の形の妖に斬り掛かっていた。
胃液を吐き、胃が引き攣る様な苦しさから涙を流しながら、瑞樹はその光景を見ていた。
その背中を優しく擦る温かい手は優士の物だ。
片手で肩を抱き、片手でゆっくりと背中を撫でてくれる。
時折瑞樹の名を呼び、大丈夫かと声を掛けながら。
何故、と、瑞樹は思った。あの時、あの空き家で妖に遭遇した時は何とも無かったのに、と。だから、もう大丈夫なのだと思ったのに。
それなのに。
教えられた通りに身体は動かず、地面に這いつくばって、胃の中の物を吐き出す事しか出来ない。勝手に震え出す身体が情けなくて、みっともなくて、瑞樹はまた涙を流す。
もう、あれから十年も経ったのに。
目の前、いや、瑞樹を抱きかかえながら妖に喰われて行った、瑞樹の母。母の苦しそうな声も、血の匂いも、骨の砕ける音も、皮を、肉を裂く音も、段々と記憶から薄れて行った筈なのに。
だが、妖と対峙した瞬間に、それは一気に脳裏に蘇り、瑞樹の心を苛んだ。
薄れては行っても、忘れる訳では無い。
あんな強烈な、熾烈な物が、そう易易と記憶から消える筈が無いのに。
二年前の新月の日、瑞樹は優士と町の外れの雑木林の中に居た。夕暮れ前にこっそりと親達の目を盗み、そこへと来ていた。
それは、ずっと計画していた事だった。
町に駐屯している朱雀の者に混じって、瑞樹と優士は鍛錬を重ねて来た。
十三の時から三年間、ずっと、余程の事が無い限りは休まずに続けて来た。
瑞樹の母を亡くしてからの記憶は曖昧だった。ただ、ずっと周りを心配させていたのだとは思う。
壊れ物を扱う様に、大切にされて来たのだと思う。
ずっと、優士も傍に居て瑞樹を心配してくれていた。
ただ、何時の日の事だったかは忘れたが。
『お前ら、ずっとべったりで気持ち悪い。なんだよ、優士は瑞樹の母ちゃんかよ』
そんな事を友人の誰かから言われた。
優士は気にするなと、ぼくは気にしていないから、と、瑞樹の頭を撫でながら言ってくれたが、朧気な日々を過ごしていた中で、その気持ち悪いと云う言葉は頭から消える事は無く、ぐるぐると頭の中を巡っていた。
その日、瑞樹の父と瑞樹の二人の食卓で、瑞樹は口に含んだ物を『しょっぱいっ!』と、思わず吐き出していた。
そんな瑞樹の様子に、瑞樹の父が驚いた様に『え? え? いつもと変わらないよ?』と、卓にある肉じゃがを見下ろしていた。
そんな父に『母さんの味付けはこうじゃないっ!』と、瑞樹は叫んでから気が付いた。そう云えば、食べ物の味を久しぶりに感じたな、と。それが途轍もなく、味の濃い肉じゃがだったとしても。久しぶりに物を食べたと云う実感を味わっていた。
そして、そこから瑞樹は急激に泣き出した。
あの日から気が付けば時は流れて、瑞樹は十歳になっていた。朧気に過ぎて行った時間の記憶は曖昧で。深い闇の中で海に浮かんで、ただ、その波にたゆたゆと漂っていた。そんな時間を過ごしていた気がした。何を考えていたのか、何も考えて居なかったのか。自分の事なのに、瑞樹には解らなかった。ただ、解ったのは、この味付けの物を食べ続けていたら、早死にすると云う事だ。亡き母が良く言っていた。
『味がはっきりとしている物は確かに美味しいけれど、身体には良くないのよ。薄いかな? ってぐらいが丁度良いの』
と。
その言葉を思い出して、瑞樹はまた泣いた。
瑞樹の父は、そんな瑞樹を見て、ただ驚いていた。母を亡くしたあの日から、虚ろだった瑞樹が感情を露わにして涙を流している。一体、何がきっかけだったのかは解らないが、母を亡くす前の瑞樹が帰って来たと思った。泣いて泣いて泣きじゃくって『…母さん…』と、涙を流しながら、肉じゃがを食べて『…しょっぱい』と、文句を言っている。そんな瑞樹の姿が嬉しくて、目尻に涙を浮かべた数日後に『父さんが作る物を食べてる方が、よっぽど危険だ』と言われ、瑞樹の父は奈落の底へと叩き落されたのだ。
本来の活発さを取り戻した瑞樹に喜んだのは、瑞樹の父だけではない、優士もその両親も喜び、料理を教えて欲しいと言われた優士の母は、任せなさいと笑顔でその胸を叩いたのだった。
瑞樹がそう声を上げる度に、すえた様な匂いが広がって行く。
瑞樹は今、地面に両手と両膝を付いて、胃の中にある物を吐き出していた。
ちらりと高梨は背後に視線を送る。
その視線の先では、地面に這いつくばる瑞樹と、その傍らに、瑞樹を宥め、落ち着かせる様に背中を撫でる優士の姿があった。そして、その二人の後ろには、天野の背中が見える。そして、その向こうに二体の妖の姿も。二体共四つ足で犬の様な姿だった。立ち上がれば百九十を超える天野の背を追い越すだろう。天野の圧に押されながら、喉をグルグルと鳴らしている。
星から聞いた話と同じだなと、高梨は思った。
(…これでは戦えない)
瑞樹だけでなく、優士もだ。
妖を目にした時から、優士の意識は瑞樹に向いている。いや、瑞樹にしか向いていない。
瑞樹と優士の二人は共に行動させるべきでは無いと、高梨は判断した。
捕食者としての妖を目にした瞬間に、瑞樹はその顔から血の色を失くし口元を押さえたが、胃の中から逆流して来る物を止める事は出来なかった。
何故と。あの時は大丈夫だったのにと。そんな言葉が優士の口から零れた。
あの時の妖と今、目の前に居る妖とはまるで別物だ。
あの時の妖は殺意を放っていたか?
あの時の妖はこちらを捕食しようとしていたか?
答えは否だ。
高梨は視線を自分の前方へと戻す。
そこには、一体の熊の様な妖が、やはり喉を鳴らして高梨達の様子を伺っていた。
「…悪いが、何時までもお前なんぞと見詰め合う趣味は無いんでな」
それが合図となった。
その言葉と同時に、高梨は手にしていた刀を揮う。一歩後ろへと妖は退くが、高梨の背後に居る"餌"から目を離せずに居る。
食に貪欲な事は悪い事では無いがな、と、高梨は夏になると食欲が落ちる誰かの事を頭に思い浮かべていた。
また、動いたのは高梨だけではない。天野も高梨のその呟きに俺も同感だと頷き、二体の犬の形の妖に斬り掛かっていた。
胃液を吐き、胃が引き攣る様な苦しさから涙を流しながら、瑞樹はその光景を見ていた。
その背中を優しく擦る温かい手は優士の物だ。
片手で肩を抱き、片手でゆっくりと背中を撫でてくれる。
時折瑞樹の名を呼び、大丈夫かと声を掛けながら。
何故、と、瑞樹は思った。あの時、あの空き家で妖に遭遇した時は何とも無かったのに、と。だから、もう大丈夫なのだと思ったのに。
それなのに。
教えられた通りに身体は動かず、地面に這いつくばって、胃の中の物を吐き出す事しか出来ない。勝手に震え出す身体が情けなくて、みっともなくて、瑞樹はまた涙を流す。
もう、あれから十年も経ったのに。
目の前、いや、瑞樹を抱きかかえながら妖に喰われて行った、瑞樹の母。母の苦しそうな声も、血の匂いも、骨の砕ける音も、皮を、肉を裂く音も、段々と記憶から薄れて行った筈なのに。
だが、妖と対峙した瞬間に、それは一気に脳裏に蘇り、瑞樹の心を苛んだ。
薄れては行っても、忘れる訳では無い。
あんな強烈な、熾烈な物が、そう易易と記憶から消える筈が無いのに。
二年前の新月の日、瑞樹は優士と町の外れの雑木林の中に居た。夕暮れ前にこっそりと親達の目を盗み、そこへと来ていた。
それは、ずっと計画していた事だった。
町に駐屯している朱雀の者に混じって、瑞樹と優士は鍛錬を重ねて来た。
十三の時から三年間、ずっと、余程の事が無い限りは休まずに続けて来た。
瑞樹の母を亡くしてからの記憶は曖昧だった。ただ、ずっと周りを心配させていたのだとは思う。
壊れ物を扱う様に、大切にされて来たのだと思う。
ずっと、優士も傍に居て瑞樹を心配してくれていた。
ただ、何時の日の事だったかは忘れたが。
『お前ら、ずっとべったりで気持ち悪い。なんだよ、優士は瑞樹の母ちゃんかよ』
そんな事を友人の誰かから言われた。
優士は気にするなと、ぼくは気にしていないから、と、瑞樹の頭を撫でながら言ってくれたが、朧気な日々を過ごしていた中で、その気持ち悪いと云う言葉は頭から消える事は無く、ぐるぐると頭の中を巡っていた。
その日、瑞樹の父と瑞樹の二人の食卓で、瑞樹は口に含んだ物を『しょっぱいっ!』と、思わず吐き出していた。
そんな瑞樹の様子に、瑞樹の父が驚いた様に『え? え? いつもと変わらないよ?』と、卓にある肉じゃがを見下ろしていた。
そんな父に『母さんの味付けはこうじゃないっ!』と、瑞樹は叫んでから気が付いた。そう云えば、食べ物の味を久しぶりに感じたな、と。それが途轍もなく、味の濃い肉じゃがだったとしても。久しぶりに物を食べたと云う実感を味わっていた。
そして、そこから瑞樹は急激に泣き出した。
あの日から気が付けば時は流れて、瑞樹は十歳になっていた。朧気に過ぎて行った時間の記憶は曖昧で。深い闇の中で海に浮かんで、ただ、その波にたゆたゆと漂っていた。そんな時間を過ごしていた気がした。何を考えていたのか、何も考えて居なかったのか。自分の事なのに、瑞樹には解らなかった。ただ、解ったのは、この味付けの物を食べ続けていたら、早死にすると云う事だ。亡き母が良く言っていた。
『味がはっきりとしている物は確かに美味しいけれど、身体には良くないのよ。薄いかな? ってぐらいが丁度良いの』
と。
その言葉を思い出して、瑞樹はまた泣いた。
瑞樹の父は、そんな瑞樹を見て、ただ驚いていた。母を亡くしたあの日から、虚ろだった瑞樹が感情を露わにして涙を流している。一体、何がきっかけだったのかは解らないが、母を亡くす前の瑞樹が帰って来たと思った。泣いて泣いて泣きじゃくって『…母さん…』と、涙を流しながら、肉じゃがを食べて『…しょっぱい』と、文句を言っている。そんな瑞樹の姿が嬉しくて、目尻に涙を浮かべた数日後に『父さんが作る物を食べてる方が、よっぽど危険だ』と言われ、瑞樹の父は奈落の底へと叩き落されたのだ。
本来の活発さを取り戻した瑞樹に喜んだのは、瑞樹の父だけではない、優士もその両親も喜び、料理を教えて欲しいと言われた優士の母は、任せなさいと笑顔でその胸を叩いたのだった。
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