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第15話 キリアン
しおりを挟む開けたドアの先にいたのは、濃紺の髪を上品に束ねブルーシルバーのマーメイドドレスを着こなす絶世の美女だった。
ダイヤの宝飾品を見に纏い、明らかに貴族だと分かる立ち姿だが、キリアンは彼女に見覚えがあった。
目の前の女は、根暗な才女だ。
根暗な才女は死んだはずだ。短剣で自らの胸を突き刺し、海に身を投げ自殺するミライザを、船上パーティへ参加した多くの人物が目撃している。
だが、キリアンには、目の前の美女が彼女にしか見えなかった。
キリアンは、ジェナー商会の次男として生を受けた。長男は商会の跡取りになるからと教育を施される中、次男は自ら身を立てろと何かと冷遇された。
キリアンは、兄と差別される事が悔しかった。兄よりも優秀だと証明してみせる。反骨心から勉学に冒頭するようになった。気がつけばキリアンは、帝国学院の特待生の座を手にしていた。
兄に勝ったと思った。次男だからと冷遇する両親や親族を見返す事ができた。帝国学院に入学する事で、満足してしまったのかもしれない。それがいけなかった。
帝国学院に入学すると、すぐに現実に晒された。帝国学院には、世界中から優秀な人物が集められる。そんな人物達の中でキリアンの成績は平均点になんとか届く程度だった。数ヶ月で特待生の座を明け渡す事になった。学費が必要になり、実家に相談したが、親は金を出してくれなかった。キリアンは学費を稼ごうと、学院で貴族の御用聞を始めた。
同じ学生でも、自分より頭が悪い貴族に媚を売らなければ生き残れない。
思うように伸びない成績、平民という身分、金を恵んでやっているからと顧客の貴族達に不当に貶められる自分自身に納得のいかない日々を過ごしていた。
だけど、キリアンより惨めな人物がいた。長い癖のある黒髪を後ろで雑に纏め、分厚い眼鏡をかけて常に一人で勉強ばかりするミライザ・マージャスに対する風当たりは強かった。女学院生達は彼女を異物とみなし、故意に仲間はずれにしている様子だった。皆で根暗な才女と馬鹿にするように貶める。
(俺はまだ、あいつよりはマシだ。)
皆に嫌われても、黙々と勉強し成績を落とさないミライザを見て、キリアンは自分も頑張ろうと思えた。ある意味、帝国学院に通い続けれたのはミライザのおかげかもしれない。
卒業後キリアンは帝国学院の研究員として働く事になった。平民のキリアンと組みたがるメンバーが見つからず、相変わらず雑用ばかりの日々をこなしていた。
ある日、海上天候に関する研究メンバーになるようにキリアンは指示された。
集められたメンバーを見て、キリアンはすぐに察した。
(根暗な才女がリーダーねぇ。いや、このメンバーなら彼女は使い捨ての駒かな。)
メンバーに含まれる38歳のギーガンは帝国ライ伯爵家出身だ。何度も博士号に挑戦しているが、彼が主導する研究はいつも上手くいかない。ライ伯爵家出身にも関わらず、何人もの後輩研究員に先を越されてきた。ギーガンに実績を上げさせるように伯爵家から圧がかかっているとの噂がある。
ローザは研究員として働いているが、結婚相手探しと宝石に夢中な女性で、裏取引が可能な相手として有名だ。やましい事がある時、金さえあればすぐに買収できる。
一番若いマイクは、かなりの小心者で自分から発言する事がほとんどない。
そして根暗な才女のミライザ・マージャス。隣国の侯爵令嬢のはずだが、実家とは疎遠らしく後ろ盾がない。すでにいくつかの研究発表をサブリーダーの立場で成功させている。才女という渾名通りかなり優秀な人物だ。きっと今回の研究は成功するだろう。だからこそ彼女は使い捨ての駒として最適な人物だった。
そして俺の役割は、相変わらずの雑用係らしい。
研究チーム内の人間関係や、研究道具や材料の手配。雑用はいくらでもある。ミライザは集められたメンバーの意図に全く気づいていない様子だった。新しい研究メンバーと少しでも仲良くなろうと必死に話しかけている姿が滑稽だった。
研究は順調にデータが集まり、予定通り進んでいった。
その日は雨が降っていた。長期休暇となり、ギーガン、ローザ、マイクは実家に帰ったり、恋人と過ごすからと学院を離れていた。根暗な才女は相変わらず毎日研究室に来て作業をしている。キリアンは、実家から、兄の結婚準備で忙しいから帰ってくるなと言われていた。窓に激しくぶつかる雨音を聞きながら、キリアンは研究室でボンヤリ根暗な才女を眺めていた。
根暗な才女は、野暮ったい白衣に隠されているが、よく見ると細身な体つきでスタイルがいい。白衣の下は暑さの為かシャツだけ着ているようで、盛り上がる鎖骨がやけに目立って見えた。
キリアンは、研究室で二人きりという初めての環境を、急に強く意識した。
目の前の女は、分厚い眼鏡に隠されているが小顔で、整った形の耳をしている。
いつもは垂らしている長い黒髪を、珍しく纏め上げており、白く細い頸からは普段は感じられない色気が匂い立つようだった。
(俺も、欲求不満かな。いくらなんでも根暗な才女はないだろう。)
「キリアン?どうしたの?」
「えっ。いや」
「なんだか、こっちばかり見ていなかった?今日するべき所は終わったわ。手伝ってくれてありがとう。そろそろ帰りましょう。」
「ああ」
研究室を出て鍵を閉める。キリアンは鍵を持って帝国学院の受付へ返しに行った。正面玄関へ行くと、根暗な才女がずぶ濡れになっていた。
「鍵、ありがとう。急に横殴りの雨が降ってきたの。酷いでしょ。」
「案外ドジだな。どうぞ使ってくれ。」
ずぶ濡れになった白衣は、透き通り形のいい胸と膨らんだ腰が顕になっていた。
キリアンは持っていたハンカチをミライザへ手渡した。
ミライザはハンカチを受け取り、眼鏡を外す。
根暗な才女の素顔は美しかった。長い漆黒のまつ毛に彩られた大きな瞳。整った高い鼻。赤く濡れた唇。
眼鏡を拭きながら彼女は微笑んだ。
「ありがとう。キリアン。」
微笑みと共に、長いまつ毛が艶を持ちながら弧を描く。
頸から一筋垂れた黒髪は、濡れて雫を落とす。
鎖骨を伝い胸元を伝い落ちる雫に触れたくてしかたがない。
キリアンは、思わず生唾を飲み込んだ。
その日から、キリアンは根暗な才女から目が離せなくなった。相手は曲がりにも侯爵令嬢だ。平民のキリアンが手を出していい相手ではない。
それに、根暗な才女をスケープゴートにする計画は着々と進んでいる。ギーガンのライ伯爵家だけでなく、隣国から依頼があったとローザが言っていた。
ミライザ・マージャスは確実に失脚する。
そう、失脚すればいい。
根暗な才女は、帝国学院にしか居場所がない。
貶められても帰ってくるだろう。どんなに陰口を叩かれても、無視されても勉強し続けた学生の時のように、彼女は自分のペースを取り戻そうとするはずだ。
海上天候に関する研究を成功させた侯爵家の才女では、キリアンには手が届かない。
だけど、学院からも、研究メンバーからも、実家からも捨てられた行き遅れのミライザならキリアンの相手としてどうだろうか。
根暗な才女とは、学院の中ではキリアンは最も親しい間柄だと思っている。
きっと、ミライザはキリアンを頼ってくるはずだ。
その時は、優しく慰め、励ますのだ。自分だけは味方だからと。
(早く堕ちて来い。ミライザ。)
ミライザ・マージャスが自殺したと知らされた。誰も彼女の死を疑わなかった。むしろ根暗な才女が情報漏洩した話の信頼性が増した。予定通り研究発表はギーガンの手柄となった。ローザの取引相手はマージャス侯爵家だったらしい。マージャス侯爵家は帝国皇族に伝手があるらしく、多額の報酬と共に、パーティでは控え室も与えられた。平静を装っているが、キリアンは後悔と喪失感に苛まれていた。
キリアンは、見過ごしただけだ。決してギーガンの企みを手伝ってはいない。ローザと一緒に虚偽の発言をした訳ではない。ただ傍観した。どうなるか知っていながら止めなかっただけだ。
平民のキリアンが、貴族達の思惑に逆らうとどうなるか明らかだ。
ただ、欲しかった。誰よりもキリアンに近い彼女が欲しかった。
キリアンは「ごきげんよう」と言い、踵を返して早歩きで立ち去る濃紺の髪の美女を慌てて追った。
ミライザだ。彼女はミライザだ。
やっぱり帰ってきた。
誤り許しを乞おう。俺が間違っていた。本当に失うとは思っていなかった。助けるはずだったのだ。俺が、何もかもを失った君を助けるはずだった。
目の前を、泳ぐように歩くブルーシルバーのドレスは美しく裾が人魚の鰭のように靡いている。
歩くたびに形がいい肩甲骨が姿を表しては消えていく。
濃紺の美しい髪、白い頸、芸術品のように美しい手。
根暗な才女はいつも白衣を着込んでいた。こんな肌を顕にした彼女を見た事がない。だけど、彼女に違いない。
「待ってくれ!ミライザ!」
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