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深夜の宝石

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 きっと明日には何事もなくなっている。そうに違いないと必死に自分に言い聞かせるも、横になる気分にもなれずベッドに座って暗闇の中で過ごしていた。

 嫌な予感がする。あの時も、こんな風に不安な夜を過ごしていたっけ。

『…ボス…』

 クローゼットから引っ張り出した羽織を抱きしめて無理矢理寝てしまおうとするが、全く眠気がない。目を閉じれば嫌な想像ばかりしてしまう。

『良い思い出! そう、楽しかったことを思い出そう、うん!』

 羽織に顔を埋めて必死に今日の記憶を呼び起こす。楽しかった猿石との料理。騒がしくて、ずっと楽しくて仕方なかった時間。その前に一悶着あったけど猿石もあの後は楽しかったなら、それで良い。

 おんぶお化け状態だったけど…。

『皆、そろそろ食べたかな…? 美味しかったなら良かったけど』

 ボスも食べてくれただろうか。一番の力作をボス個人にと分けておいた。形も良かった、一番の。食べてくれたかなぁ。

 感想を聞けるのも、顔を合わせるのも二日後。今すぐにだって逢いたい。

『…ぇ?』

 ベッドの振動で飛び起きる。まさかと思ってベッドから仕事用のを抜き取れば吃驚、朝と同様に電話が来た。しかも今度は刃斬ではない。

 画面には間違いなくと、そう記されていた。

【よォ。随分と早ェ受け取りじゃねェか】

 耳に当てたスマホから聴こえる耳に馴染む低くて、少し掠れた声。耳にした瞬間に緊張が解けてつい涙が流れてしまう。

 そうして動揺した結果、なんとかボスを止めようとしたのに結局は押し切られてしまった。眠くなってきたって言ったのに!

『ど、どうしようっ!』

 本気か?! いや絶対本気だよな、あの人なら!

『ああもう! 絶対もう既に向かってるじゃん!!』

 涙を乱暴に拭ってベッドから降りようとすると持っていた羽織が落ち、足に絡まって転ぶ。なんとか顔面からダイブすることは避けられたが嫌な汗をかいた。

 取り敢えずパジャマは着替えなくてはと手探りで真っ暗な部屋を歩く。電気を点けてクローゼットを静かに開けるとカーゴパンツに長袖の黒いTシャツを引っ張り出し、着替えた。マスクも必要かなと鞄の中を探ってポケットに突っ込む。

 鏡を見て髪が跳ねていないかチェックしているとスマホが振動する。

『…マジか…』

 窓を開けると少し離れた道路に見慣れた高級車がハザードランプを点けて停車している。

 そーっと部屋から抜け出して音を立てないように階段を降り、ゆっくりと玄関の扉を開いてサンダルを履きながら駆け出した。

 外の生温い風を感じて独特の匂いを嗅ぎながら走る。車に辿り着くと同時に扉が開き、すぐに乗り込めば滑るように発車した。

『顔向けろ』

『え?! わ、ボス…?!』

 入ってすぐにシートベルトをしようとしたら、それよりも先にボスによって両頬を挟まれてグッと引き寄せられる。バランスを崩してシートに手を着くもボスは迷いなく俺の顔を上げて、覗き込む。

『…チッ。見えねェ』

 左腕を引っ張られてから膝裏に手が入り、そのまま移動された先はボスの膝の上だった。あまりにも綺麗に回収されたせいで何の抵抗も出来ずにストン、と腰を下ろす。

 それからボスは間近で俺の顔を眺めると再び頬に手を添えた。まるで、今からキスをするように。吐息が当たってしまうんじゃないかという距離にいる。

 て、

 手は…

 キスを、する時は…手は、どこに置いたら良いんだろうか…?

『やっぱりか…。おい、例の場所向かえ』

『御意』

 んっ?!

 聞き馴染みのある声に驚いてバックミラーを見ると、運転手は刃斬だった。外から見ると中は全く見えないから、まさか刃斬の運転とは思わずみるみると赤くなったであろう顔のままボスの上で暴れる。

 ぎゃぁあああ!! こ、こんな恥ずかしい場面を見られるなんてっ! 不覚だ! 一生の不覚!!

『おい。暴れんな』

『おあーっ?!』

 隣のシートに帰ろうとしたのにボスに捕まって変な悲鳴が漏れる。車で暴れるのは良くない、そうわかってはいるが誰だって逃げたくもなる。

 俺は今、何者になれば良いんだ。あらゆる性別に変身できるのに…この人の前ではどうしたら良いかわからなくなる。

 誰か。教えてほしい、切実に。

『着きました。点灯の準備をして来るので少々お待ち下さい』

 車が何処かに停止すると、刃斬が車から降りて小さな小屋らしき場所にスマホを照らしながら入って行く。その間にボスは俺を抱えて外に出ると階段らしき場所を下って行き、俺を地面に下ろした。

 サク、と踏み締めた地面に違和感を感じると足元が全部砂だ。

『潮の、香り…』

 ボスと手を繋ぎながら歩いていると暗闇から昔、聴いたことのある音がした。

 波の音? ということは、海か…?

 だけど暗闇の中では波の音が大きくてどこからが海なのか全くわからない。闇と同化した海が怖くなってすぐに隣に立つボスにしがみ付く。

 耳がっ! 波の音が、大きくて痛い…!

『落ち着け。すぐ見えるようになる、…って、おい…』

 五感の中で唯一頼れる耳に神経が研ぎ澄まされたせいで痛み始める。バランサーからベータへと切り替えてボスの胸に張り付き、違う音を入れて緩和した。

 静かに心臓の音に耳を傾ける俺を、ボスは無言のまま抱きしめてずっと頭を撫でてくれる。

『ぁ、電気…』

 浜に設置されていたらしいライトが次々と点灯され、小屋からも一筋の光が放たれる。優しいオレンジ色の光に照らされると漸く、海が見えた。

『海…? わ、海だ…』

 姿形さえわかれば、もう怖くない。それでもボスの手を引きながら波打ち際まで行ってみると前に出ていた俺の足が海に浸かり、その冷たさに悲鳴を上げる。

 だけど、久し振りの海に段々とテンションが上がって来てボスの手を離して一人で波を追い掛けては追い掛けられてを繰り返し、楽しくなって笑ってしまう。

 波が跳ねて海水が飛んできて一人騒いでいると、振り返った先にはボスと戻って来た刃斬が並んでこちらを見ている。

『泳ぎたーい!』

『バカ』

 なんてシンプルな暴言。

 しかしそれを放った刃斬は笑いを噛み締めたような顔で仕方なさそうに溜め息を漏らす。海から戻ると羽織を脱いだボスがそれを浜に敷いてからそこに座ると、自分の足の間を指差す。

 す、座れ…と?

 ゆっくりと近付いてからお尻を下ろしてそこに座る。すると刃斬が目の前で膝を付くと俺のサンダルを脱がせてから持っていたタオルで丁寧に足を拭いてくれた。

『ぁ、兄貴そんなことしなくても…!』

『アホ。こんな足で車に乗せられるか』

 確かに。磯臭い奴を高級車に乗せるなんて、論外だろう。

 足を拭いてもらうと静かな海を二人並んで眺めて、その少し後ろに刃斬が立ったまま待機している。

『…聞かないんですか。様子が変だったって…、どうして大して理由も聞かずに此処に俺を連れて来たんです?』

 弐条会の所有しているであろうビーチで、こんな時間に、こんな風に好きに遊ばせてくれた。理由も聞かずに深夜。

 何故?

『話したくなった時に話しゃ良い。それよりも問題は、お前がショボくれてるってとこだ。海なんかに連れて来ただけでお前が笑うってンならいくらでも連れて来てやる』

 …それは。

『もう少ししたら海開きだ。そォしたら存分に泳ぐなりなんなりしろ。ちったァ気も晴れるだろォよ』

 それは、あまりにも狡くないだろうか。

『…飯、美味うまかった。また作ってくれるか?』

 ああ。どうしてだ。どうして…俺はこの人にこの気持ちを上手く言葉にして贈れないような関係なんだ。どうして、この有り余る幸福と感謝をこの人に伝えられない立場なんだ。

 もどかしい。

 この気持ちを伝える最良の言葉が、わからない。

 …理解してもそれを押し付けたところで、きっと迷惑になる。

『ボ、ボスの…』

 全然、わかんない。頭真っ白。

『好きなものを…教えていただけるならっ、喜んで』

『好物だァ? そうさな。…肉、か。肉料理は好きだぜ』

 いっぱい作る!! 絶対に今度から肉料理いっぱい作ってやる! 帰ったらレパートリー増やそっ!

 後ろを振り向いて刃斬を見れば言いたいことがわかったのか観念したように肩を上下させる。

『和食』

 和食…! なるほど、それはもう少し技術を磨かなくちゃな。こっちも色々レシピ見て勉強しないとっ。

『おい。あんま興奮すンな、落ち着け。散歩に連れ出すとすぐこれだ。犬かお前は』

 後ろに寄り掛かって甘えるとすぐにボスの腕が身体に回って幸福で胸が満たされる。少し顔をズラしてボスの胸元に擦り寄ればやっぱ犬か、という優しい声が降って来る。

『で。テメェは何してんだ』

 ボスが振り向くので一緒になってそれを覗くように顔を出せば刃斬が目頭を押さえながらスマホをこちらに向けて写真らしきものを撮っていた。

 …なんか連写の音がするんだけど…。

『いえ、お構いなく。どうぞ続けて下さい』

『気でも狂いやがったか…』

 波の音と共に俺の笑い声が深夜の海に広がった。一頻ひとしきり笑った後にボスに顔を上げられるとニンマリ笑いながらなぁに、と問い掛ける。

『…珍しい色だと思ってな。光を反射する、綺麗ェな紫水晶だ』

『ボスの赤いのもカッコ良くて好きですよ!』

 間髪入れずにそう言った俺に瞳をよく見せるように額と額がコツン、とぶつかる。まるで赤と紫が混じり合うのではないかと思うほどに見つめ合ってから恥ずかしさを誤魔化すように笑う。

 それからアジトに帰るとボスのフロアでお風呂に突っ込まれ、ホカホカになってから仮眠室に放り込まれてボスの匂いで溢れたベッドに横になり眠る。

 早朝、洗濯してもらった服を着て静かに自宅へと帰宅した俺は自室の窓から見慣れた高級車が走り去るのをずっと見守っていた。


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