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第一章 黒瑪瑙の陰陽師

《八月十六日、午後五時四十八分》

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 円環に舞台を舞い、十二を指し示す方向に舞師は止まる。

 静かに佇む黒い顔の白い御姿。
 舞師はその場で一巡し力強く、前を見据える。
 龍の轟きが笛の音色となって、終幕に向かっていく。
 彼は最後に天に向かって手をかざす。

 斉天。
 未だ全容を見せない隠された聖人。

 かの大聖がどこへ向かったか、大衆はみな知り得ない。
 大衆は祈り、聖の祝福を乞い願う。
 彼はその在り方に引導を渡すべく、舞台に立とうとする。
 斉天の在り方を覆し、舞楽の頂点に立つ。

 祈ることを知らない彼の野心。
 だが、今この時だけは。
 渇望の手を天に指し示し、二人の無事を彼は乞い願った。

 粛々と太鼓の拍子が木霊する中、舞師は手をゆっくりと下ろす。
 舞台の終演。

 友人たちの無事が分からないまま終わった舞台。
 不安のもやを胸に残し、自身の未熟さも胸に残し。
 舞師が客席を背にした合図に、最後の音色が静まりかえる。

 振り返った彼の視線の先には、

Bravo!春明ィ!

 青い眼の検非違使と、黒い眼の結界整備師。
 彼ら二人の拍手の喝采が出迎えていた。

「……っ!」

 少年は猿面で表情を隠し、思わず反対方向に身体を向け直す。
 じっと誰もいない客席の方を見つめ、二人の方へ視線を合わせようとしなかった。

「おーい、春明くーん」

 桜下の呼び声に、少年は目頭が熱くなる。
 少年の後ろ姿を見守る、二人の友人。
 やがて彼は付け紐を緩め、白い被りごと猿面を取る。
 現れた緋色の髪が、優雅になびく。
 衣装の汚れを気にせるそぶりもみせず、腕で顔を拭うとようやく二人の視線に振り返った。

「来るのが遅えんだよ! ブァーカァ!」

 春明は目元を仄かに赤く滲ませ、ギッ睨みつける。
 そして、火がついたように二人の下に走っていった。

「カムオン! 春明!」

 両手を広げて待ち構えるシリウス。
 だが、春明の走りは僅かに左にずれ、隣にいる桜下の胸元に飛び込んだ。

「……ちゃんと観ていたか?」
「うん、いい特等席を貰ったよ」
「そうか……」

 顔を埋める春明の頭を桜下は優しく撫で下ろす。
 シリウスは、虚しく両手を下ろしその光景を傍観するほかなかった。

「けど凄かったよ。音を遮断させたとは言っても周りは妖魔だらけ。よく最後まで舞ってみせたね」

 そうでなければ、演目の途中で妖魔の動きを抑制させることは出来ない。
 桜下は春明の舞に、感服した表情を見せる。
 当初、演目の終演をきっかけに場の霊力数値を安定させ、妖魔たちの動きに影響を与えると踏んでいた。

 が、実際はそれ以上の効力を発揮させる。

 春明の一つ一つの動き。
 堂々とした立ち振る舞い。
 斉天にかける意識と執念が、春明の実力を発揮させた。

「いや、全然だめだ」

 しかし、春明は自分の未熟を噛み締めて悔しさを漏らす。
 埋めた顔を上げれは、斉天を追いかける舞師の顔なっていた。

「俺が目指す斉天に近づけたのかも分からねぇ、結局は振本通りに動きに頼って別のこと考えちまうし……けどな、なんでだろうな……」

 ――斉天はあやふやで、曖昧な、訳が分からない存在なんだよ。

 斉天を模した漫画を指でなぞり、淡々と語った桜下の姿。
 あの人形のような表情が、春明の脳裏に強烈な印象を残していた。

、それで良しとするよ」

 ありがとう、と舞いを演じきった春明は肩をすくめながらも、満足そうに笑みを浮かべた。
 雨上がりの日差しのような笑みに、桜下も釣られて口角を上げる。

「難しいことはさっぱりだけど……今日この日が、春明君の何かを掴むきっかけになったのなら、私も頑張った甲斐があったよ」

 斉天を演じるよりずっと前。
 とある海辺の街にある大結界を整備した、あの時から。
 桜下は密かに春明の活躍に胸躍らせていた。

 その彼に力を貸せたのであれば、占田と鳥前であればこう述べるであろう。
 推し冥利に尽きる。

「春明ィ、僕だって頑張ったんだよ?」

 完全な蚊帳の外。
 二人の様子を眺めていたシリウスは、たまらず言葉を挟む。

「ねぇ、ねぇったら」
「ありがとう。お前がいなかったら、ここまで来れなかった」

 彼に結んだ緋色の三つ編みを揺らしながら、春明は深々と頭を下げた。
 予想と反する態度に、シリウスは全く予測できず青い眼を大きく見開く。

「エ……春明がマジでデレた……」
「何だよ、挨拶は大事だってお前が言ったんじゃねぇか」
「エ……覚えててくれたんだ……やだ、春明がいい子になって、僕ハッピー過ぎて泣いちゃう……」
「おい、そのテキトー構文はなんとかしろ」

 わざとらしく無く素振りを見せるシリウスに、春明は眉間に皺を寄せ深くため息をつく。

「……」

 しかし、春明が改めてシリウスを見ると怒る気力も失せていく。
 彼の紺色の軍服は妖魔の血に染まり所々赤くなり、オールバックに整った金髪も、今はホコリが混じり乱れている。
 帝魔を倒した過程は、彼の身なりで過酷さを物語っていた。

「お前ボロボロじゃん。服だって、血が付いてるし……」
「オー、心配ノッシング。ほとんど僕のじゃない、帝魔のだよ」
「え?」
「少しずつだけど、取れてる方なんだよ?」

 シリウスの言葉に、春明は首を傾げる。

 妖魔は自身が消滅する間際、痕跡を残さず大地に還る生命体。
 帝魔といえその理から逃れることは出来ず、衣類に付着した血痕も当然肉体の消滅を機に消え去っていく。

 まだ帝魔が生きているのではないか、と。
 春明は身構えるも、横で様子を見ていた桜下がすかさず否定する。

「違う、違う。シリウス君は帝魔をやっつけた。それでも妖魔の体液が残っているのは、まだ肉体が消滅しきっていないからだよ」
「……どういうことだ?」
「うーん……ちょっとショッキングな絵図だけど……首チョンパ、大丈夫なら見る?」
「チョ……」

 つまり斬首。
 春明はシリウスに首を斬られた妖魔の骸がまだ近くにある事実に身を引く。
 だが、理由を知りたい意欲が彼の中では勝っていた。

「見る。魚を捌く時に首の切断なんて見慣れている」
「そっか。春明君は肝が据わっているね」

 ノンノン、三枚下ろしとはまた別だと思うけどなァ……。

 シリウスが内心で口を挟んでも彼ら二人に聞こえるはずも無い。
 春明は桜下に誘導され、舞台のこうらんまでやってくると、柱の真下で倒れている獣の姿があった。

「なんだ、ありゃ」

 宣言通り、転がる帝魔の首に怯える様子もなく。
 春明はまじまじと、倒された獣の骸を観察する。
 すると、すぐに異変に気がついた。

「ちょっとずつ、消えているのか?」

 足先、鉄に覆われた尾、尖った耳。
 帝魔は横たわり、身体の一部から徐々に霧散し大地に溶けていく。

「そう。膨大な霊力を持った妖魔は倒されたあとすぐに消えるわけじゃない。肉体を結合させる霊力が強いせいで、緩和する時間も遅い。だから倒したはずでも、あんな風にじわじわと身体が崩れるみたいになるんだよ」

 帝魔の骸は段々と大地に溶け込み長期に渡って霊力の糧となる。
 それは、大地の繁栄を願い支える重要な要因ファクターとなっていた。
 春明は仕留めた帝魔を確認し終わると、反対側の方向へ場所を移動する。
 ちょうど舞台を挟み、妖魔の対角線上には瓦礫と化したテムイが残されていた。

「結局、なんで妖魔が出てきたのか分からず仕舞いだったな」

 物寂しくなった空いてしまった客席を、春明は遠い目をしながら眺めていく。

「テムイって、まだ設置台数少ねえけど……どこかの帳の近くにあるなんて、あり得ないよな?」

 本来、帳とは人の生息域と一線を引き日本各地に存在する妖魔の生息域。
 帳の近くに、人間の造りし物があるはずがない。
 春明は考えるものの、それ以外の原因を思いつけなかった。
 悩む少年の隣では、桜下も壊れたテムイを静かに見つめている。

「私もテムイがどこに設置されているかなんて知らないけど、仮に帳の近くに置いてあったとしたらもっと頻繁に災禍事件が発生しているはず。私としてはたまった物じゃないよ」
「まあ、そうだよな……」

 桜下のどこか冷たい言い方に、春明はただ相槌を打つしかなかった。
 殺風景になった客席を見渡し、穏やかな沈黙の中に二人は揺蕩たゆたう。

「黄昏ちゃってェ」

 その最中、二人の間に割り込み、シリウスは柵の上に腕をかける。

「シリウス君は気にならないの?」
「ファッツ?」
「妖魔がなんで出たのか」
「ウーン、そうだね」

 桜下の問いかけに、シリウスは今日の出来事を振り返る。
 春明の斉天に向ける熱い思い。
 未熟さを抱えながら舞台に向かった先での妖魔との邂逅。
 逃げて先で見つけた一筋の可能性。

 彼らと語り合い、再演リベンジを果たした夏の日の思い出。

「気になるけど、今はどうでもいいかな」

 青い眼は太陽に照らされた海のように輝かせ、桜下は続くシリウスの言葉に耳を傾ける。

「原因究明はもちろん必要なことだよ。じゃなきゃまた再発しちゃうし。けど今は、後回しでもいいと思う。過去を見直すんじゃなくて、頑張って乗り越えたんだから、ちゃんと三人でお疲れ様って言い合いたいな」
「……そっか」
「ま、それよりここから撤退するのが先だ。流石に櫂大尉キャプテンもじきに来るはず。それに、現場検証になったら、妖魔のことも分かるカモだしね」

 検非違使として、彼ら二人を無事外に避難させる役目がまだシリウスには残っている。
 健闘を讃えあいたいと本音を漏らすも、また三人でめぐり逢えるか、彼の勘では分からなかった。

 結界整備師。
 検非違使。
 舞師。

 本来交えることのなかった一時の奇跡に、シリウスは名残惜しさを噛み締める。

「行こう、二人とも」

 彼は口を結び、いつも通り明るい口調で呼びかける。
 別れの挨拶は笑顔で。
 この斉天祭で出会った友人たちに祝福を。
 シリウスの呼びかけに桜下は柵から離れようとするも、少年はまだ動こうとはしない。

「……春明君」

 桜下の瞳の先には、美しい緋色の髪を揺らし、公演が終わった舞台をぼんやりと眺める春明の姿が映る。
 舞台に上がった高揚より、舞台に上がるまでの冒険みちのりが春明の心に深く刻み込む。
 しばらくして、少年の目に桜下の姿が映る。

「おう、今行く」

 カランと、鳴る腰につけた猿面の音。
 春明を最後に役者たちは舞台に背を向け、出口に向かって歩いていく。
 一歩、一歩、彼らの時間を噛み締めて。

「……」

 しかし、もう一度だけ緋色の髪がふわりと揺れる。
 楽しかったあの一瞬に別れを告げるように。
 ありがとうと、感謝を胸に舞台に別れを告げようと、

 去り際に彼は見てしまった。


「……、……」


 八月十六日、午後五時四十八分。


 天の蟲が、音もなく少年の前に飛来する。


「……が、が」

 春明は言葉も続かず、白目を剥けそうになる。

 黒漆を連想させる滑らかな毛で覆われた、怪獣むし
 天井を覆い尽くすような翅は星のような紋様が散りばめられ、八本の強靭な手足で舞台に爪痕あしあとを残していく。

 剥き出しに晒された凶悪なあぎとは怒りに歯茎を見せ、複眼は細かな鏡が敷き詰められたようだった。
 視線の先には、

「さ、」

 一本の黒い手が、桜下に向かって伸びていく。
 ことの重大さに、春明は渾身の思いで我に返るも間に合わない。
 迫りくる脅威は尋常ではない速さで、桜下の頭上に降り注いだ。

「え」

 桜下は見上げた手の影に声を漏らしたのではない。
 剥き出されたかぎ爪が上から突き刺さるその間際。
 横から押し出された衝撃に、大きく目を見開く。
 
「逃げろッ」

 青い目の検非違使は刹那の間際に天に願う。
 瞬間、赤い流星痕を散らせ、音を立てながら舞台の外に突き落とされた。

「……シリウス!?」

 春明の劈く悲鳴が響く中、桜下はただ呆然と虚空を眺めていた。
 ひらひら、と。
 空中を漂う検非違使の軍帽。
 血に汚れた、彼の帽子が桜下の足下に落ちる。

「……」

 帽子を拾い上げながら、青年は考える。

 考えて、

 考えて、

 そして、結局何も出来ないまま。
 たった一つの感情だけが胸に残る。

「この害虫が」

 青年は彼が残したものを握りしめ、目の前にいるに向けて言い放つ。
 夜空のような眼は、ただ静かに震えていた。
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