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第六話 旦那様の「アリシア」

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 絵の少女に触れた途端、ミーシャの頭に記憶が蘇ってくる。
 小さな孤児院で育ち、スノーグース領にメイドとして雇われた一人の少女。鮮やかな赤毛にそばかす、深いエメラルドグリーンの瞳。

「『私』の名前は……アリシア。そう、アリシアよ!」

 ミーシャはそう叫ぶと、脱力してロッキングチェアに座り込んだ。

 全て、全て思い出した。
 「アリシア」の人生の記憶を。

 孤児院でシスターや子供達と、家族のように育った大切な時間も。メイドとして旦那様──レイモンドと過ごした、愛しい年月も。

「私……何者でもなかったわけじゃない。旦那様を愛し、愛された……『旦那様のメイドのアリシア』だわ」

 ミーシャ──今は「アリシア」だと自覚した少女の目から、大粒の涙がとめどなく溢れ落ちる。
 
 ミーシャの体になってから八年間、自分が自分でないような……心にぽっかりと空いた穴に苦しんでいた。
 空っぽの自分に、愛を注ぎ込んでくれる人もいなかった。誰かに認められて、自分がこの世界に存在して良い理由が欲しいと、いつも願っていた。

「私はもう、大丈夫。愛された記憶があるんだもの」

 アリシアは涙で濡れた頬で微笑むと、スクッと立ち上がる。確固たる自分が手に入り、初めて地面をしっかりと踏み締めることが出来た気がした。今なら出来ないことなんてない、そんな気持ちだった。

「そうだわ! 旦那様に、私がアリシアだって伝えないと!」

 アリシアの最後の記憶……恐らく「死」の記憶だけは、ひどく曖昧だった。それにミーシャの体に、自分の魂が乗り移った理由は不明だったが……とにかく早く、大切な旦那様に「アリシア」が戻ってきたことを伝えたい。

 ・・・・・
 
 アリシアは階段を駆け上がると、レイモンドの執務室の前で立ち止まる。

「……ノックは四回。トン、トトトンのリズム」

 リズミカルにノックをすると、扉が一人でに解錠された。勢いのまま部屋に飛び込み、執務机に座っていたレイモンドの手を取る。

「旦那様、私……アリシアです! アリシアが戻ってきました!」

 レイモンドは目を見開いて固まった後、大きく腕を振り払った。その勢いでアリシアは後ろの本棚にぶつかり、頭上からは本が降り注いできた。

「お前……俺に触れるなと言っただろう! 死にたいのか!?」

 レイモンドは真っ青な顔でそう叫んだ。アリシアに触れた右手の震えを隠すように、左手で力の限り握りしめている。

「旦那様、安心してください。手袋をなさっていますから、そんなに恐れなくても……」

「……誰の入れ知恵だ?」

「……はい?」

 レイモンドは立ち上がると、座り込んでいるアリシアの背後の棚に、勢い良く腕をついた。
 彫刻のような整った顔がスレスレまで近づき、冷気で頬がヒヤリとする。

 (ああ、旦那様……大きくなって。最後に見た時はまだ、十六歳の少年だったのに。)

 レイモンドの成長に目を潤ませていると、顔がグッと近づいてきた。怒りのあまり眉間には深く皺が刻まれ、こちらを睨みつける美しい青の瞳は凄みを増していた。

「誰がお前に、『アリシア』の真似をしろと言った? ヨゼフか?」

 冷えた息と共に発せられた言葉は静かで、それでいて抑えきれない怒りが込められていた。
 
「いえ、ですから私……貴方のメイドのアリシアで……」

「アリシアの名を騙るな!!」

 レイモンドはドンッ!と、本棚に拳を叩きつける。衝撃でまた本が落ち、ビリビリと響く振動にアリシアは思わず目を瞑った。

「扱いに不満があったのか? お飾りの妻が嫌で、アリシアに成りすます作戦をとったのか? 二度とアリシアの名を騙るな。彼女は八年前……死んだのだ」

 レイモンドはふいと顔を背けてアリシアから離れると、椅子にドサリと腰掛けた。

「でも、旦那様……」

「俺を『旦那様』と呼ばないでくれ。アリシアと同じ呼び方で……」

 窓ガラスには、ドウドウと吹き荒む吹雪が打ち付けている。レイモンドは長い前髪をかき上げ、深いため息を吐いた。

「ヨゼフからお前を、『家族から虐げられた哀れな女』だと聞いていたが……これほど厄介だったとは」

 騒ぎを聞きつけたヨゼフが慌てて執務室に飛び込んできて、青ざめた顔で間に入る。

「どうなさいました!? 何の騒ぎで……」

「……この女が、自分がアリシアだと言い張るのだ」

 ヨゼフは驚きの表情のまま、レイモンドとアリシアの顔を交互に見比べる。アリシアは何も言えず、困った顔で微笑んだ。
 ヨゼフはアリシアの微笑みに困惑の表情を浮かべながら、ゆっくりと膝をつき……土下座をした。

「旦那様……ミーシャ様は、ここに来たばかりです。長旅と吹雪に襲われた疲れで、精神が参っているのかもしれません。彼女はここを追い出されても、帰る場所が無いのです。どうか、温情を……」

 レイモンドはチラッとアリシアに視線を向け、静かに目を閉じた。

「お前がそこまで言うならば……仕方がない。しかし次おかしな真似をしたならば、容赦なく追い出すからな」

 アリシアは、コクコクと勢い良く頷いた。記憶を思い出したからといって、ここ以外に居場所がないという状況は変わりない。
 それにこんな扱いを受けても……やはり、レイモンドの側にいたいのだ。

「ありがとうございます、旦那さ……」

 そこまで言って、アリシアはハッと口を覆った。レイモンドは怒りを抑えこみ、冷ややかな微笑を浮かべて腕を組む。

「……気が変わった。そんなにアリシアの真似がしたいようなら……メイドとして働け。アリシアも昔は、メイドだったのだから」

「……メイドに?」

 立ち尽くすアリシアを押し退け、ヨゼフが焦った様子でレイモンドに駆け寄る。

「旦那様、それは……! 彼女は貴族の御令嬢なのですし、仮にも妻という方にそんな扱いは……」

「ありがとうございます!!」

「「……『ありがとうございます』?」」

 アリシアの言葉に、二人は思わず声を揃えて聞き返した。

「妻と言われても、何をして良いか分からなかったのです! 旦那さ……レイモンド様のために働けるのでしたら……メイド、大歓迎です! 喜んで勤めさせていただきます!」

 目を輝かせてそう言ったアリシアは、深いお辞儀カーティシーをする。向き直った顔には、穏やかで包み込むような笑みが湛えられていた。屋敷に来た時とは別人のようなその笑みに、レイモンドとヨゼフは息を呑む。

「おかしな真似をして、申し訳ございませんでした。ヨゼフ様の仰る通り、少々疲れていたのかもしれません。今後は大人しく、メイドとして励ませていただきます。それでは失礼して……」

 アリシアはもう一度お辞儀をすると、静かに執務室を出て行った。

 ・・・・・

 (そうよね、いきなり「アリシアです!」なんて言ったって、信じられるわけがないわ。だって外見は全くの別人なんですもの!)

 アリシアは顔を赤くしたまま急ぎ足で自室に戻り、バタンとドアを閉めた。鏡に映った自分の姿は、やはり「ミーシャ」の体だった。

「ミーシャは……綺麗な髪ね。アリシアの髪は、くるっくるの赤毛だった。それがコンプレックスで、いつも三つ編みにしていたけれど。それにこの、シミのない真っ白な肌! 今は自分の顔だけれど、羨ましいわ。アリシアはそばかすだらけだったもの」

 アリシアはそっと鏡の中の自分に触れ、語りかけるように呟いた。

「目の色は一緒。エメラルドみたいなコバルトグリーンね。でもアリシアの目には……あら?」

 アリシアは鏡にグイッと顔を近づけて、まじまじと見つめる。

「ひまわりがあるわ。ミーシャの目には無かったと思ったけれど……」

 アリシアの目はグリーンだが、よく見ると内側は明るい金色になっている。それが中心の瞳孔の黒と相まって、ひまわりの花のように見えるのだ。

 アリシアは生前、ひまわりが大好きだった。だからひまわりの花が咲いたように見える自分の目を、誇らしく思っていたのだ。

「今まではよく見ていなかっただけで、ミーシャの目にもひまわりがあったのかしら? ふふっ、少ないチャームポイントの一つだったから、嬉しいわ! それによく見ると……髪色やそばかす以外、顔立ちも昔のアリシアに似ている気がする」

 丸く大きな目の形や優しくカーブを描いた眉、高くはない鼻に小さく赤い唇。パーツだけ見ると、記憶の中の童顔なアリシアの顔に似ている。

「この体はミーシャのものだけれど……このまま、借りていて良いのかしら? 何故アリシアわたしがこの体に入ったのか分からないけれど……きっと神様の思し召しね。二度目の人生、今度こそしっかり旦那様のメイドとして全ういたします!」

 アリシアは指を組み、神に祈りを捧げた。

 (神様……大好きな旦那様の元にお帰しくださって、ありがとうございます!)

 祈りを終えると、アリシアはクローゼットを勢い良く開いた。

「この中で動きやすそうなものは……これね。エプロンは後で拝借するとして……」

 伸縮性の良いグリーンのドレスに着替えて屈伸をした後、結っていた髪をバラリと解く。

「本当は昔と同じ、三つ編みのおさげにしたいけれど……『アリシア』の真似をするなって、旦那様に怒られるかな。うーん……じゃあ」

 アリシアは慣れた手つきで髪をまとめ、一本の長い三つ編みに結い上げた。

「うん、これでヨシ! 新生アリシア、誕生です!」

 腰に手を当て、アリシアは満面の笑みで呟いた。
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