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青年期:魔界編
帝国にて
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人類生存圏内と呼ばれる人の生きる場所の最も端、四大国として最も大きい面積を魔界や亜人の国と隣接している人類の盾帝国。
そんな帝国で最も働いているのは誰だろうか。
答えは誰だって知っている事だ、帝国を統一しその武勇で領土を拡大した天才覇王と呼ばれた伝説の男、モナルカは書類に頭を悩ませていた。
いまこの世界で書類と戦っていない王など存在しない。
剣を握る戦場からペンを握る戦場へと場所を変えただけで、いつだってモナルカの人生は戦争の真っ只中にある。
戦地に生まれて戦地に死ぬ、それを定められたモナルカの前にモナルカが唯一戦いたくない相手が現れる。
「皇帝陛下、少々宜しいでしょうか?」
扉を隔てた先に来た来客者、その気配をモナルカが間違えるわけがない。
隙間からどろりと入ってくる気配はいつだってモナルカの神経をすり減らすのには十二分に効果を表してくれる。
「──入れ。どうしたんだ? 何か問題でも起きたか」
「龍の谷との交渉ですが、何故私が向かってはならないのでしょうか」
「またその件か。理由は語っただろう、あそこはいまや人類が最も手を出してはならない場所だ。
そんなところにお前を派遣するのは許容できない」
「私の身が心配だからですか?」
「心配して欲しいならもう少し大人しくしていてくれ」
モナルカが言葉を投げつけるのは愛娘であり帝国第一皇女であるエモニ。
精神が狂ってきた人物を見たことは多くある、先天的だろうと後天的だろうと狂ってしまった人間というのはどうしても異質に見えてしまうものだ。
だがエモニは狂っていない、狂っていないが狂っている。
己自身が狂おうとして狂っているのだ、自分の娘のことながら自ら狂気に身を染めるような人間の考えることは到底モナルカには理解ができない。
いまだってやってきた理由は龍の谷への交渉権について、何度も担当者を指名しては命の危機を感じるから辞退させてくださいと断られた場所だ。
これが第二皇女や第三皇女ならば喜んでモナルカも送り出しただろう、だがエモニを龍の谷へと送り込んでしまう危険性を知らないわけではない。
それは帝国にとってよくないことだ。
「こちらでもお前のここ最近の動きは調べ上げている。少なくとも二度エルピスと関わろうとしているな、アレには関わるなと言っていただろうに」
龍の谷はいまやその権力を人類に対して大いに奮っている。
食料から始まり寝床用の材木、いくつかの貴重な鉱物資源などなど。
人類との不戦の契りの中で生活に必要だからと後から足された条文は人類が支払うには容易い金だが、一個が背負うには相当なものである。
帝国が他国に対してその事情を説明する事は無理だ、四大国の面子という厄介な代物が関わってくる以上はどうにかする事はできない。
帝国内で解決する必要がある問題、担当者の首をねじ切ってやりたくなるような問題に対し、モナルカは世界会議への出席許可と一部空域の飛行許可を出す事で無理やり解決していたのだった。
そしてそれは全てがエルピスによって定められた条文であるとモナルカの調べではついている、実際はどこぞの姉妹が暗躍している結果なのだがそうしてモナルカのエルピスに対する警戒度はさらに跳ね上がっていたのだ。
「でもそれって、良くないことだと思うのお父様。私の可能性を潰すのは、たとえお父様であったとしても許容できないわ、私の物はお父様も手を出さない。そう約束してくれた筈だよ?」
「これは父娘の話ではない、皇帝と第一皇女の会話だ。そこにお前の私物が挟まる余地など存在しない」
家族の情に訴えかけてきた娘に対して、モナルカはここに立つのは原帝王であり覇王と呼ばれた男である事を再確認させる。
そうして区切られて仕舞えば家族の情は、もはや意味を持たないどころか不利な状況に持ち込まれる可能性すらある。
それを嫌ったエモニは嫌そうな顔をしながら爪を噛み言葉を投げかける。
「……理由だけは聞いても?」
「アレはこの世界のルールを知った気になった部外者だ。下手に暴れる理由を作らせたくない、分かるだろう?」
転移者だの転生者だの、そのような存在に対してモナルカは嫌悪に近い感情を抱いていた。
あれらは結局のところ別世界からの侵略者、文化形態を変貌させ権力図を書き換えて悦に浸ることが得意な世界にとっての癌である。
その癌を上手く扱い良い細胞へと変化させるのは貴族や共に過ごす女子供もしくは友の役目、モナルカの役目はいずれ暴走するであろうそれを排除することに他ならない。
だからこそ帝国では異世界人の使役を法律で禁止している、法国での召喚に帝国のものが関わっているのを知ったときにモナルカが問答無用で貴族を殺害したため、それでパニックになった異世界人が逃げ出したのは記憶に新しい事だ。
転生者でありあれだけの力を持つエルピスという存在が暴れる口実が生まれるのはどこの国だって嫌だ、帝国にそれを押し付けられるなど考えるだけでも頭が痛い。
「龍の谷にいまいるあの龍は我々の考えも見抜いたつもりだろうさ、お前が雄二とやらと裏で会話をしていた事すら把握されている。それが公表されれば帝国は一気に人類の敵になるだろう」
それに帝国はいまやエルピスに飼い慣らされているも同義だ。
数日前に届いた魔法によって刻まれたインクで書かれた手紙には、破壊された学園の写真と全てを知っているという書き置きだけが描かれていた。
聞けばその書簡はエルピスが残していった召使い達の集団から送られてきたものだという、どうやらエルピスは情報を握っているという事を少しも隠す気がないらしい。
消されると考えなかったのか──そう言いたくなるがあれを消せるのであればとっくの昔に他国の者がそうしているだろう。
「我らが帝国も、そうなってしまっては破滅は免れませんか」
「ただでさえここが世界会議の会場になった事自体おかしいんだ、裏で誰かが手を引いているとしか考えられん」
さすがにそれはエルピスではないだろうが──そう思うがそうだったとしてもモナルカに不思議という感覚はない。
いくら亜人達の世界に接しているとはいえ、帝国は人類にとっても魔物よりは少しマシなだけの敵という扱いである。
良き隣人とはなれないはずの帝国に対し、今回の会議だけは随分とまた滞りなく会議の開催が決まったのだ。
本来ならば人類という種の存続をかけた戦争をするのであれば、神を祀り神の力にあやかる法国に他国の王達を集めるのが得策のはずだろう。
わざわざ人類を裏切った帝国に対してそうしてくるあたり、次裏切るかどうかを見定めていた節すらある。
怯えていると言っても差し支えのないもなるかの前で、不敵に笑うのはエモニだ。
「何かあっても大丈夫ですよ、私には良い切り札がありますもの」
「切り札……?」
「そう。私、エルピス氏のご友人を騎士として迎え入れているの。だから私に何かをすることはあり得ないわ」
そんなエモニの言葉に一筋の光明を見出していたと思っていたモナルカは酷く落胆する。
眩い光だったと思っていたそれは結局水面に映る月明かり、実際の月を持って来なければ手でかけば消えるだけだ。
「甘い考えだな。お前を殺してその友人と別の国に行くことも考えられるだろう」
「いえそんなことあり得ないわ。だってあの人、甘いもの」
「直接会ったのか?」
「いえ、でも次女が会話したそうですけど殺されてませんもん。私ならあんな態度を取られたらきっと殺してしまいますわ」
リスク管理を行うエモニにしては珍しい、そう思いながら発したモナルカの言葉は切って捨てられる。
家族を身代わりにしたことに一瞬深い憤りを感じるが、エルピスなどよりよほど危険なニルを相手にしていたのだから実際はエモニの方がやはり危険な場所にいただろう。
それを知るのはエモニだけだ。
「お前はもう少し倫理観を覚えろ。姉妹を犠牲にする様な方法を取るんじゃない」
「でもお母様──」
「──そう呼ぶなと、そう言ったな第一皇女よ。二度目はない、首を飛ばされても文句は言うなよ」
口に出してはいけない言葉。
この帝国をして最大の秘密を口にしたエモニは、おそらく人生でも珍しく自らの行動を反省する。
腰にかかった手は明らかに明確な殺意が宿されている、エモニだって最高位の冒険者相手に勝てると思うほど思い込みの激しい性質ではない。何かをするよりも早く自分が死ぬ事をわかっているからこそ、エモニは黙って後ろに下がると頭を下げて非礼を詫びる。
興奮していたからと言って失言する自分に驚いたエモニは、それだけ事をせいでしまっているのだろう。
「まさか。ですが私なりに帝国のことを考えての行動です、それに口を挟まれるのであれば私はこれ以上何もせず、置物の皇女にでもなりましょう」
「……分かった、好きにしろ。ただし今後エルピスと接触する際は私に声をかけろ、それが絶対条件だ」
「もちろんでございます」
微笑みを浮かべるエモニの姿は事実上の勝利宣言、毒だと分かっていたとしてそれを飲み込まなければならないほどに帝国の政治は腐敗している。
冒険者として大成したモナルカが帝王として君臨できるのは、率直に言ってエモニの援護あってこそ。
拾い子である彼女ら姉妹のその誰もが欠ければ帝国の崩壊を招きかねない。
お互いのちょうど良いところで話し合いを終えたエモニはそのまま部屋から退出すると、スキップをしながら自分の部屋へと戻る。
戻ってみれば窓際で本を読みながら外を眺める青年が一人、少女のようにも見えるが声を聞けば男性であることがわかる。
「まさかお母さまからも警告が出るなんて、随分と面白いおもちゃなのね貴方の幼馴染は」
「なんのことかさっぱりですね。私の幼馴染は晴人です、エルピスなる人とは戦った事しか関係がありませんよ」
本を閉じるが幹の視線は街の方にしか向けられていない。
彼の目が探しているのは困っている人物、自らが殺した人物達を供養する為にそれ以上の人物を幸福にさせる事を己に課した責務とする彼はいつだってそうしている。
彼が一番最後に助けるのはきっと彼自身なのだろう、だからこそ彼は見えているものを見えていないふりをしているのだ。
「分かっていながらそう口にする理由は本人が正体を教えてくれないからかい?」
「……それで今日はこれだけでいいのかい?」
「そうだね、今日の私の生命の危機はついさっき無事に過ぎ去ってくれたところだよ」
どうせ本気で母上が殺しに来ればいくら幹でも瞬殺される、それを分かっているからこそ連れていかなかったのだが今日の生命の危機はこれにて終了。
いまからエモニが行うのは策略だ。
数日前からその兆候が見られたからこそエモニはさらにその思想が強くなるように誘導し、そして今日皇帝へと一言口を添えろという言葉すらもらっている。
それはつまり一口添えれば行っても良い、さらには付き添いだから仕方がない。
「なら私は今日は自由に動かせてもらっても?」
何故彼が直接エルピスに合わないのかは知らない。
知らないがここ数日何度か軽く話しかけた時にエルピスという名前に対しての反応は確認しているし、帝国内部にある教会にいる冒険者達と会話しているところも見ている。
ならば気になっているのだろう、彼のことが。
ならば向かってくれるのだろう、彼の元へと。
そして彼の元に向かえずとも彼の話を聞くために向かってくれると信じていた。
「龍の谷に行くのかい?」
「ええ。エルピスという人物の事も気になっているので、龍の話を聞きに行きたいところです」
「それなら私も行こう」
「エモ二様も?」
「ああ、あそこの龍とは私もあってみたかったからな」
こうしてエモニの計画は無事に遂行されていく。
馬車に乗り、時間をかけて進めば龍の谷はその存在をあらわにする。
「ここのはずですが……」
割れた山の間に出来た崖、そこに住まう龍達は前迄ならばもっと早く馬車に向かって襲いかかってきていた。
だというのに首を曲げなければ分からないほどに山が高く見えるこの状況は、ひとえにそれだけ龍が襲ってきていないことの証明である。
ばさばさと羽ばたく音が耳に聞こえてくると同時に影が辺り一体を覆い、一匹の龍がその姿を表す。
人が勝てぬ龍の中でも谷に住まう龍は成熟した者が多い、この龍もまたその一匹なのだろうということがびりびりと肌に突き刺さる感覚で理解できる。
「──よく来たな客人たちよ。来た目的は分かっている。」
「初めまして幹と申します。こちらは帝国の第一皇女エモ二様です」
「初めまして」
白銀の鱗を身に纏う龍、エキドナは頭を下げて一瞬二人の匂いを嗅ぐと鼻から火を出しながら嫌そうな顔を見せる。
他種族である幹が分かるほどの嫌悪の表情、それは相当なものなのだろう。
「ああ、聞いているよお前の事は。第一皇女とやらはどうでもいいが幹とやら、貴様には少しだけ興味がある。貴様だけならば奥に入ることを許可しよう」
「龍よ、申し訳ないがこちらの人物は私の騎士だ。彼がいいなら私もよいとは思わないか?」
「皇女様、この人相手にはさすがに守れないよ」
「構わないわ、下がっていて」
そして龍の嫌悪感は皇女が言葉を紡ぐほどに増していく。
増えていく圧力と物理的な事情にすら干渉するほど体から溢れ出る魔力は、臨戦体制へと彼かもしくは彼女が入り始めている事を如実に表している。
龍は不機嫌を隠そうともせず、だが口調だけは変わることなく要件を突きつけた。
「猫の皮をかぶっている人物は入れる気はないな」
「それなら仕方がないか――〈強制催眠〉」
「な、なにを!?」
一体何をし始めるのかと思い出せば幹も見たことのなかった能力が龍の頭部を貫く、それはかつて幹も食らったことのある特殊技能を使用した催眠とはなばかりの洗脳攻撃である。
戦闘中ならばいざ知らず、通常時であれば抵抗するのも困難なその攻撃は明確な攻撃でしかない。
龍の谷で一匹龍を操ったところで何になるというのだろうか。
人類にとっては凶悪な龍であろうとも龍にとっては多くいる中の一匹、むしろそれを洗脳などしてしまって彼等の種としてのプライドを傷つける方が恐るべきことだ。
こうした事をしでかすから皇帝は彼女をなんとかして問題ごとから遠ざけようとしているのだが、エモニからしてみれば自分の計画を変更する気はない。
むしろエキドナについて調べ上げていたエモニは彼女の力を使えば谷の制圧すら容易いと、そう考えてすらいた。
ただ問題が一つあるとすればいまのエキドナは龍神の権能を預かっている存在であり、エルピスが帝国を任せた龍であるという事をエモニが知らなかった事だ。
「すまないが私に技能も特殊技能も効かんよ。私を倒したいのであればただの人であることを辞めてからくるのだな」
洗脳される神など存在しない。
神が他者を洗脳することがあったとしても、神の思想を変えられる生命体など存在しないのだ。
誇り高き龍神の精神は不可侵の領域、それに土足で踏み入ろうとする行動は愚者としか形容する方法がない。
肌身に染みる絶望的な戦力差を感じながら、背後の谷から這い出てくる数十匹もの龍から皇女を庇うようにして幹は一歩だけ前に出る。
「――下がって」
「警戒のつもりか? 彼我の戦力差は絶望的だと思うが」
「先に攻撃を仕掛けたのはこちら側、非があるのはもちろん理解していますが彼女を助けることが僕の決めたルールです」
「そういう事だ、彼を殺すのはまずいだろう?」
「まずい不味くないの話ではないが、まあいいだろう。ここで話は聞いてやる、どうせ貴様は龍達を従えたかったのだろう?
彼らにその技能は効かん諦めるのだな」
だがエキドナは自らが龍神ではないからそれを気にする必要はないと判断していた。
もしこれで自らが龍神であったならば、使命感から目の前の二人を消し炭にして谷へと戻っていることだろう。
だが片方はその龍神と仲がよかったらしいもの、もう片方は龍神が安全を保障した国の皇女と来ている。
どこぞの悪魔が失態を犯して人の国の王を殺し面倒ごとになったのをエキドナは知っている、だからこそ殺さないよう意識して対応にあたっているのだ。
「それで幹とやら、用事は何だ」
「エルピスについて話を聞きたかったんだ」
「エルピスについてか? 別にいいが隣にいる人物に話を聞かせるわけにはいかないな、悪いが信用しろということ自体が難しい」
出会い頭に洗脳しようとしてくるものに心を許す者がいたとしたらよほどの馬鹿だ。
嫌とは言わせないと言葉尻を強めたエキドナを前にして、幹は生かして返してくれるだけで僥倖だと喜びを見せる。
「エモ二様、申し訳ありませんが」
「仕方がないな。私は後ろの方に居よう、監視役兼護衛役として誰かいただいても?」
「図々しいな、だがそれで命令を聞くというのであればヴルムを護衛につけよう」
エキドナが一瞬谷の方に目を向けると、中から人型の何かがこちらにやってくる。
それは人型ではあるが人ではない、亜人種のそれと同じ気配を感じ視線を送ればそれがなんなのかくらいはさすがに幹も当たりが付く。
年を重ねた龍の中でも技能を得ようと努力した結果人型を手に入れた龍人と呼ばれる彼らは、龍神に最も近い存在であるともいえるだろう。
「よろしくお願いします」
「皇帝の娘よ、貴殿の噂は耳にしている。何もできると思うなよ」
ぎろりとヴルムににらまれてしまえば人の行動はそれだけで制限されてしまう。
恐怖心というものをほとんどなくしてしまっているエモ二すらも恐怖を感じるほどのそれ、それを受けてしまえばさすがにここから行動を起こすことの愚くらいは理解できる。
「これでようやくまともに話せるだろう、どこから話してやろうか――」
エキドナは谷へと幹を案内しながら、その道中でエルピスとの思い出を語り始める。
そんな帝国で最も働いているのは誰だろうか。
答えは誰だって知っている事だ、帝国を統一しその武勇で領土を拡大した天才覇王と呼ばれた伝説の男、モナルカは書類に頭を悩ませていた。
いまこの世界で書類と戦っていない王など存在しない。
剣を握る戦場からペンを握る戦場へと場所を変えただけで、いつだってモナルカの人生は戦争の真っ只中にある。
戦地に生まれて戦地に死ぬ、それを定められたモナルカの前にモナルカが唯一戦いたくない相手が現れる。
「皇帝陛下、少々宜しいでしょうか?」
扉を隔てた先に来た来客者、その気配をモナルカが間違えるわけがない。
隙間からどろりと入ってくる気配はいつだってモナルカの神経をすり減らすのには十二分に効果を表してくれる。
「──入れ。どうしたんだ? 何か問題でも起きたか」
「龍の谷との交渉ですが、何故私が向かってはならないのでしょうか」
「またその件か。理由は語っただろう、あそこはいまや人類が最も手を出してはならない場所だ。
そんなところにお前を派遣するのは許容できない」
「私の身が心配だからですか?」
「心配して欲しいならもう少し大人しくしていてくれ」
モナルカが言葉を投げつけるのは愛娘であり帝国第一皇女であるエモニ。
精神が狂ってきた人物を見たことは多くある、先天的だろうと後天的だろうと狂ってしまった人間というのはどうしても異質に見えてしまうものだ。
だがエモニは狂っていない、狂っていないが狂っている。
己自身が狂おうとして狂っているのだ、自分の娘のことながら自ら狂気に身を染めるような人間の考えることは到底モナルカには理解ができない。
いまだってやってきた理由は龍の谷への交渉権について、何度も担当者を指名しては命の危機を感じるから辞退させてくださいと断られた場所だ。
これが第二皇女や第三皇女ならば喜んでモナルカも送り出しただろう、だがエモニを龍の谷へと送り込んでしまう危険性を知らないわけではない。
それは帝国にとってよくないことだ。
「こちらでもお前のここ最近の動きは調べ上げている。少なくとも二度エルピスと関わろうとしているな、アレには関わるなと言っていただろうに」
龍の谷はいまやその権力を人類に対して大いに奮っている。
食料から始まり寝床用の材木、いくつかの貴重な鉱物資源などなど。
人類との不戦の契りの中で生活に必要だからと後から足された条文は人類が支払うには容易い金だが、一個が背負うには相当なものである。
帝国が他国に対してその事情を説明する事は無理だ、四大国の面子という厄介な代物が関わってくる以上はどうにかする事はできない。
帝国内で解決する必要がある問題、担当者の首をねじ切ってやりたくなるような問題に対し、モナルカは世界会議への出席許可と一部空域の飛行許可を出す事で無理やり解決していたのだった。
そしてそれは全てがエルピスによって定められた条文であるとモナルカの調べではついている、実際はどこぞの姉妹が暗躍している結果なのだがそうしてモナルカのエルピスに対する警戒度はさらに跳ね上がっていたのだ。
「でもそれって、良くないことだと思うのお父様。私の可能性を潰すのは、たとえお父様であったとしても許容できないわ、私の物はお父様も手を出さない。そう約束してくれた筈だよ?」
「これは父娘の話ではない、皇帝と第一皇女の会話だ。そこにお前の私物が挟まる余地など存在しない」
家族の情に訴えかけてきた娘に対して、モナルカはここに立つのは原帝王であり覇王と呼ばれた男である事を再確認させる。
そうして区切られて仕舞えば家族の情は、もはや意味を持たないどころか不利な状況に持ち込まれる可能性すらある。
それを嫌ったエモニは嫌そうな顔をしながら爪を噛み言葉を投げかける。
「……理由だけは聞いても?」
「アレはこの世界のルールを知った気になった部外者だ。下手に暴れる理由を作らせたくない、分かるだろう?」
転移者だの転生者だの、そのような存在に対してモナルカは嫌悪に近い感情を抱いていた。
あれらは結局のところ別世界からの侵略者、文化形態を変貌させ権力図を書き換えて悦に浸ることが得意な世界にとっての癌である。
その癌を上手く扱い良い細胞へと変化させるのは貴族や共に過ごす女子供もしくは友の役目、モナルカの役目はいずれ暴走するであろうそれを排除することに他ならない。
だからこそ帝国では異世界人の使役を法律で禁止している、法国での召喚に帝国のものが関わっているのを知ったときにモナルカが問答無用で貴族を殺害したため、それでパニックになった異世界人が逃げ出したのは記憶に新しい事だ。
転生者でありあれだけの力を持つエルピスという存在が暴れる口実が生まれるのはどこの国だって嫌だ、帝国にそれを押し付けられるなど考えるだけでも頭が痛い。
「龍の谷にいまいるあの龍は我々の考えも見抜いたつもりだろうさ、お前が雄二とやらと裏で会話をしていた事すら把握されている。それが公表されれば帝国は一気に人類の敵になるだろう」
それに帝国はいまやエルピスに飼い慣らされているも同義だ。
数日前に届いた魔法によって刻まれたインクで書かれた手紙には、破壊された学園の写真と全てを知っているという書き置きだけが描かれていた。
聞けばその書簡はエルピスが残していった召使い達の集団から送られてきたものだという、どうやらエルピスは情報を握っているという事を少しも隠す気がないらしい。
消されると考えなかったのか──そう言いたくなるがあれを消せるのであればとっくの昔に他国の者がそうしているだろう。
「我らが帝国も、そうなってしまっては破滅は免れませんか」
「ただでさえここが世界会議の会場になった事自体おかしいんだ、裏で誰かが手を引いているとしか考えられん」
さすがにそれはエルピスではないだろうが──そう思うがそうだったとしてもモナルカに不思議という感覚はない。
いくら亜人達の世界に接しているとはいえ、帝国は人類にとっても魔物よりは少しマシなだけの敵という扱いである。
良き隣人とはなれないはずの帝国に対し、今回の会議だけは随分とまた滞りなく会議の開催が決まったのだ。
本来ならば人類という種の存続をかけた戦争をするのであれば、神を祀り神の力にあやかる法国に他国の王達を集めるのが得策のはずだろう。
わざわざ人類を裏切った帝国に対してそうしてくるあたり、次裏切るかどうかを見定めていた節すらある。
怯えていると言っても差し支えのないもなるかの前で、不敵に笑うのはエモニだ。
「何かあっても大丈夫ですよ、私には良い切り札がありますもの」
「切り札……?」
「そう。私、エルピス氏のご友人を騎士として迎え入れているの。だから私に何かをすることはあり得ないわ」
そんなエモニの言葉に一筋の光明を見出していたと思っていたモナルカは酷く落胆する。
眩い光だったと思っていたそれは結局水面に映る月明かり、実際の月を持って来なければ手でかけば消えるだけだ。
「甘い考えだな。お前を殺してその友人と別の国に行くことも考えられるだろう」
「いえそんなことあり得ないわ。だってあの人、甘いもの」
「直接会ったのか?」
「いえ、でも次女が会話したそうですけど殺されてませんもん。私ならあんな態度を取られたらきっと殺してしまいますわ」
リスク管理を行うエモニにしては珍しい、そう思いながら発したモナルカの言葉は切って捨てられる。
家族を身代わりにしたことに一瞬深い憤りを感じるが、エルピスなどよりよほど危険なニルを相手にしていたのだから実際はエモニの方がやはり危険な場所にいただろう。
それを知るのはエモニだけだ。
「お前はもう少し倫理観を覚えろ。姉妹を犠牲にする様な方法を取るんじゃない」
「でもお母様──」
「──そう呼ぶなと、そう言ったな第一皇女よ。二度目はない、首を飛ばされても文句は言うなよ」
口に出してはいけない言葉。
この帝国をして最大の秘密を口にしたエモニは、おそらく人生でも珍しく自らの行動を反省する。
腰にかかった手は明らかに明確な殺意が宿されている、エモニだって最高位の冒険者相手に勝てると思うほど思い込みの激しい性質ではない。何かをするよりも早く自分が死ぬ事をわかっているからこそ、エモニは黙って後ろに下がると頭を下げて非礼を詫びる。
興奮していたからと言って失言する自分に驚いたエモニは、それだけ事をせいでしまっているのだろう。
「まさか。ですが私なりに帝国のことを考えての行動です、それに口を挟まれるのであれば私はこれ以上何もせず、置物の皇女にでもなりましょう」
「……分かった、好きにしろ。ただし今後エルピスと接触する際は私に声をかけろ、それが絶対条件だ」
「もちろんでございます」
微笑みを浮かべるエモニの姿は事実上の勝利宣言、毒だと分かっていたとしてそれを飲み込まなければならないほどに帝国の政治は腐敗している。
冒険者として大成したモナルカが帝王として君臨できるのは、率直に言ってエモニの援護あってこそ。
拾い子である彼女ら姉妹のその誰もが欠ければ帝国の崩壊を招きかねない。
お互いのちょうど良いところで話し合いを終えたエモニはそのまま部屋から退出すると、スキップをしながら自分の部屋へと戻る。
戻ってみれば窓際で本を読みながら外を眺める青年が一人、少女のようにも見えるが声を聞けば男性であることがわかる。
「まさかお母さまからも警告が出るなんて、随分と面白いおもちゃなのね貴方の幼馴染は」
「なんのことかさっぱりですね。私の幼馴染は晴人です、エルピスなる人とは戦った事しか関係がありませんよ」
本を閉じるが幹の視線は街の方にしか向けられていない。
彼の目が探しているのは困っている人物、自らが殺した人物達を供養する為にそれ以上の人物を幸福にさせる事を己に課した責務とする彼はいつだってそうしている。
彼が一番最後に助けるのはきっと彼自身なのだろう、だからこそ彼は見えているものを見えていないふりをしているのだ。
「分かっていながらそう口にする理由は本人が正体を教えてくれないからかい?」
「……それで今日はこれだけでいいのかい?」
「そうだね、今日の私の生命の危機はついさっき無事に過ぎ去ってくれたところだよ」
どうせ本気で母上が殺しに来ればいくら幹でも瞬殺される、それを分かっているからこそ連れていかなかったのだが今日の生命の危機はこれにて終了。
いまからエモニが行うのは策略だ。
数日前からその兆候が見られたからこそエモニはさらにその思想が強くなるように誘導し、そして今日皇帝へと一言口を添えろという言葉すらもらっている。
それはつまり一口添えれば行っても良い、さらには付き添いだから仕方がない。
「なら私は今日は自由に動かせてもらっても?」
何故彼が直接エルピスに合わないのかは知らない。
知らないがここ数日何度か軽く話しかけた時にエルピスという名前に対しての反応は確認しているし、帝国内部にある教会にいる冒険者達と会話しているところも見ている。
ならば気になっているのだろう、彼のことが。
ならば向かってくれるのだろう、彼の元へと。
そして彼の元に向かえずとも彼の話を聞くために向かってくれると信じていた。
「龍の谷に行くのかい?」
「ええ。エルピスという人物の事も気になっているので、龍の話を聞きに行きたいところです」
「それなら私も行こう」
「エモ二様も?」
「ああ、あそこの龍とは私もあってみたかったからな」
こうしてエモニの計画は無事に遂行されていく。
馬車に乗り、時間をかけて進めば龍の谷はその存在をあらわにする。
「ここのはずですが……」
割れた山の間に出来た崖、そこに住まう龍達は前迄ならばもっと早く馬車に向かって襲いかかってきていた。
だというのに首を曲げなければ分からないほどに山が高く見えるこの状況は、ひとえにそれだけ龍が襲ってきていないことの証明である。
ばさばさと羽ばたく音が耳に聞こえてくると同時に影が辺り一体を覆い、一匹の龍がその姿を表す。
人が勝てぬ龍の中でも谷に住まう龍は成熟した者が多い、この龍もまたその一匹なのだろうということがびりびりと肌に突き刺さる感覚で理解できる。
「──よく来たな客人たちよ。来た目的は分かっている。」
「初めまして幹と申します。こちらは帝国の第一皇女エモ二様です」
「初めまして」
白銀の鱗を身に纏う龍、エキドナは頭を下げて一瞬二人の匂いを嗅ぐと鼻から火を出しながら嫌そうな顔を見せる。
他種族である幹が分かるほどの嫌悪の表情、それは相当なものなのだろう。
「ああ、聞いているよお前の事は。第一皇女とやらはどうでもいいが幹とやら、貴様には少しだけ興味がある。貴様だけならば奥に入ることを許可しよう」
「龍よ、申し訳ないがこちらの人物は私の騎士だ。彼がいいなら私もよいとは思わないか?」
「皇女様、この人相手にはさすがに守れないよ」
「構わないわ、下がっていて」
そして龍の嫌悪感は皇女が言葉を紡ぐほどに増していく。
増えていく圧力と物理的な事情にすら干渉するほど体から溢れ出る魔力は、臨戦体制へと彼かもしくは彼女が入り始めている事を如実に表している。
龍は不機嫌を隠そうともせず、だが口調だけは変わることなく要件を突きつけた。
「猫の皮をかぶっている人物は入れる気はないな」
「それなら仕方がないか――〈強制催眠〉」
「な、なにを!?」
一体何をし始めるのかと思い出せば幹も見たことのなかった能力が龍の頭部を貫く、それはかつて幹も食らったことのある特殊技能を使用した催眠とはなばかりの洗脳攻撃である。
戦闘中ならばいざ知らず、通常時であれば抵抗するのも困難なその攻撃は明確な攻撃でしかない。
龍の谷で一匹龍を操ったところで何になるというのだろうか。
人類にとっては凶悪な龍であろうとも龍にとっては多くいる中の一匹、むしろそれを洗脳などしてしまって彼等の種としてのプライドを傷つける方が恐るべきことだ。
こうした事をしでかすから皇帝は彼女をなんとかして問題ごとから遠ざけようとしているのだが、エモニからしてみれば自分の計画を変更する気はない。
むしろエキドナについて調べ上げていたエモニは彼女の力を使えば谷の制圧すら容易いと、そう考えてすらいた。
ただ問題が一つあるとすればいまのエキドナは龍神の権能を預かっている存在であり、エルピスが帝国を任せた龍であるという事をエモニが知らなかった事だ。
「すまないが私に技能も特殊技能も効かんよ。私を倒したいのであればただの人であることを辞めてからくるのだな」
洗脳される神など存在しない。
神が他者を洗脳することがあったとしても、神の思想を変えられる生命体など存在しないのだ。
誇り高き龍神の精神は不可侵の領域、それに土足で踏み入ろうとする行動は愚者としか形容する方法がない。
肌身に染みる絶望的な戦力差を感じながら、背後の谷から這い出てくる数十匹もの龍から皇女を庇うようにして幹は一歩だけ前に出る。
「――下がって」
「警戒のつもりか? 彼我の戦力差は絶望的だと思うが」
「先に攻撃を仕掛けたのはこちら側、非があるのはもちろん理解していますが彼女を助けることが僕の決めたルールです」
「そういう事だ、彼を殺すのはまずいだろう?」
「まずい不味くないの話ではないが、まあいいだろう。ここで話は聞いてやる、どうせ貴様は龍達を従えたかったのだろう?
彼らにその技能は効かん諦めるのだな」
だがエキドナは自らが龍神ではないからそれを気にする必要はないと判断していた。
もしこれで自らが龍神であったならば、使命感から目の前の二人を消し炭にして谷へと戻っていることだろう。
だが片方はその龍神と仲がよかったらしいもの、もう片方は龍神が安全を保障した国の皇女と来ている。
どこぞの悪魔が失態を犯して人の国の王を殺し面倒ごとになったのをエキドナは知っている、だからこそ殺さないよう意識して対応にあたっているのだ。
「それで幹とやら、用事は何だ」
「エルピスについて話を聞きたかったんだ」
「エルピスについてか? 別にいいが隣にいる人物に話を聞かせるわけにはいかないな、悪いが信用しろということ自体が難しい」
出会い頭に洗脳しようとしてくるものに心を許す者がいたとしたらよほどの馬鹿だ。
嫌とは言わせないと言葉尻を強めたエキドナを前にして、幹は生かして返してくれるだけで僥倖だと喜びを見せる。
「エモ二様、申し訳ありませんが」
「仕方がないな。私は後ろの方に居よう、監視役兼護衛役として誰かいただいても?」
「図々しいな、だがそれで命令を聞くというのであればヴルムを護衛につけよう」
エキドナが一瞬谷の方に目を向けると、中から人型の何かがこちらにやってくる。
それは人型ではあるが人ではない、亜人種のそれと同じ気配を感じ視線を送ればそれがなんなのかくらいはさすがに幹も当たりが付く。
年を重ねた龍の中でも技能を得ようと努力した結果人型を手に入れた龍人と呼ばれる彼らは、龍神に最も近い存在であるともいえるだろう。
「よろしくお願いします」
「皇帝の娘よ、貴殿の噂は耳にしている。何もできると思うなよ」
ぎろりとヴルムににらまれてしまえば人の行動はそれだけで制限されてしまう。
恐怖心というものをほとんどなくしてしまっているエモ二すらも恐怖を感じるほどのそれ、それを受けてしまえばさすがにここから行動を起こすことの愚くらいは理解できる。
「これでようやくまともに話せるだろう、どこから話してやろうか――」
エキドナは谷へと幹を案内しながら、その道中でエルピスとの思い出を語り始める。
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