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青年期:帝国編
レネス対エルピス
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「エルピス、約束の時だ」
朝日が差し込む食堂で食事を楽しんでいるのは私服に身を包むエルピスとニル。
執務がない時は一日中寝巻きで過ごす事もあるエルピスだが、今日は何処かにいく予定でもあるのかしっかりとした服を着用している。
愛刀を手に持ち今にも斬りかからんばかりの声音でそう言ってくるレネスの事を一瞥すると、エルピスは何事もなかったように再び食事を始めた。
「約束した覚えはないですけどね。んー、今日も美味しいね、ありがとうニル」
「最近ようやくエルピスの好みが分かってきたよ、ラテアートとかも出来るけどやってみる?」
「あれ崩すのに抵抗あるから俺はいいや、ありがと」
まるで声が聞こえていないかのようなエルピスの返答に対して、我慢ならないレネスが視線の先に手を出して注意を引こうとしてみるが少したりとも意識がレネスに向く事はない。
ならばと両目を隠してみるが〈神域〉を所持するエルピスからしてみれば視界が閉ざされたところで何の問題もなく、優雅にニルが出した珈琲を口に含んでゆったりとした朝を過ごしていた。
「ちょっとちょっと、私の話は無視か」
「無視しているわけじゃないですよ、聞いていないだけです」
冗談めかして言葉を口にするエルピスに対してレネスの方は真面目な顔を崩さず、それを見てエルピスも意識を切り替える。
これまでレネスはエルピスがレネスと一対一の模擬戦を断っても文句を言う事は無かったし、なんだかんだフィトゥス達を引き摺り回して遊ぶのにも意欲的だったように少なくともエルピスの目からは見えた。
だと言うのに今日に限ってレネスの表情は真面目そのものであり、何かを決心した様なその顔に場の空気は徐々に重たいものへと変わっていく。
「戦闘訓練は全て終え、それ以外でも私が教えられることは全て教えた。後に残るのは気持ちのぶつかり合いだ、頼むエルピス。仙桜種の新たなる高みへ至る道を示してくれ」
「……新たなる高みですか。それって戦うことでしかわからないものなのでしょうか? それに俺が師匠に何かを教えられるとはとても思えませんが」
「私は戦うことしか知らない。だから答えはそれで見つける」
目を見つめ、言葉を交わしてエルピスが受け取ったレネスの真意は、もはや彼女に我慢できるほどの時間がないと言う事を教えてくれた。
仙桜種の新たなる高みとはいったい何なのか、彼女の言葉をエルピスが理解する事は出来ないが、求めるものがあるのならばそれに答えないわけにはいかない。
執務ばかりで固まってしまった重い腰ではあるが、命をかけて模擬戦をするのには悪い日ではないだろう。
「……分かりました。それなら場所を変えましょう、ここじゃ周りに被害が出ますし」
「もちろんだ」
「うーん。早速僕置いてけぼりだね」
明確な戦闘意欲を見せる二人に対して、低血圧で朝の怠さに耐えられないニルは乗り気ではない様である。
朝食を片付け今日の予定を代わりのものに任せたエルピスは、時間を惜しむ様にしてそのまま転移魔法を使用し三人は遥か遠くへと飛んでいく。
時間にして数秒、転移した先はエルピスにとっては見慣れた場所だがレネスからしてみれば見たことのない森林である。
「ここは?」
「龍の森最深部、龍の里のさらに奥にある魔法実験施設を俺が改造したものです」
かつてはよくエキドナと共に戦闘訓練を行っていた場所であり、随所にいまだエルピスが残した傷跡が見て取れる。
神の力の行使の仕方を必死になって覚えた場所だ。
ここならばよほどの戦闘をしない限り外部に被害が漏れることはない。
「耐魔力に対物理攻撃用の障壁、魔法陣だけで既存の魔法学を根底から覆せる人類種には過ぎた代物だね」
「ここなら多少無茶をしても問題はないでしょう」
刻まれている魔法陣の全ては、魔神の力によって作り出された人外未知の物である。
人類だけではない。魔法を用いて戦う生命体全てにとって命と引き換えにしてでも手に入れたい至宝、魔法というこの世界での学問の答えがそこには記されていた。
そんな至宝の上で軽く準備体操を行い手足をフラフラとさせたエルピスは、何もないところから己の愛刀を手に取る。
刀身は黒く光り輝いており、エルピスの魔力が宿ると一瞬鋼色に光輝きまた元の黒さに戻っていく。
久々に手にしたにもかかわらずしっくりとくるその感触に納得しつつ、レネスと戦闘を開始するのに十分な距離を取る。
「さてと。もちろんですが、殺す気で行きます」
「ああ。私も全力で殺しにかかる、死なないように気を付けてほしい」
「僕は邪魔にならないようにはけておくよ、試合終了は僕が邪魔に入ったらで。それじゃあどうぞ」
ニルが腕を軽く下げると、爆風が辺り一帯に吹き荒れていく。
一秒という時間が遥か長く感じられる程に剣戟は続けられ、刀身が触れるたびに何度も何度も爆風が吹くのでニルは細目でその戦闘を眺めるしかない。
お互いがお互いに本気で相手を殺しに行っているので、急所に対しての攻撃が目に見えて多かった。
一つ間違えれば死んでしまう、そんな戦闘の中でエルピスが無造作に大振りをすると、それを受けたレネスがその圧倒的な力に負けて壁に吹き飛ばされる。
「ーーーーぅ!」
「ここは龍の森ですよ? 龍神の俺が強くなる場所です」
轟音を上げてレネスが壁に激突し、エルピスはそれを眺めながら付近の魔法陣の輝きに目を細める。
刻まれた紋章は全てエルピスが刻んだ物、そして込められた魔力もエルピスの物であり、付近にはエルピスを信仰する龍種達が住んでいるのだ。
これ以上ない程にエルピスが有利な環境であり、そこにレネスを引き込んだ時点でエルピスは大分とアドバンテージを取れている。
仙桜種というエルピスよりも圧倒的に戦闘経験が豊富な種族を相手取る上にすでに一度は負けた相手なのだ、絶対に勝てる状況を用意するのは何もおかしなことではないだろう。
「卑怯ーーとは言えないだろうね。戦闘を望んだのは私だ、受ける君が有利な場所を選ぶのは当然の権利だとも思う」
「その割には随分と嫌そうな物の言い方ですね」
「そうかーーなっ!」
刀を地面に突き刺し、格闘戦の構えを見せたエルピスに対してレネスも同じ型を取りながらジリジリとにじり寄っていく。
とはいえ完全に同じというわけではなくエルピスの方は母であるクリムの戦闘スタイルを織り交ぜており、エルピスが僅差でレネスを押し返せているのはクリムの戦闘スタイルがそれだけ龍神に適しているという事だろう。
とはいえ何も馬鹿正直に殴り合う気などエルピスにはこれっぽちもない。
自分が武器を手放したからといって相手が武器を手放す保障などないし、レネスが武器を持っても問題ないからエルピスは剣を手放したのだ。
つぶやくのは必勝の言葉、たとえ相手がなんであれ勝利が確約される魔法の言葉。
「魔神の名においてーー」
「させない――罠か!?」
天災級魔法をこの回避行動がとれない空間で食らえばさすがのレネスも瀕死は免れ得ない。
焦りから前に無理な格好で前に飛び出したレネスはそう来ることを想定していたエルピスによって投げ飛ばされ、エルピスの対面の壁際に打ち付けら得る。
「詠唱しなきゃ使えないのは天災魔法、神級は別ですよ〈神炎晒〉」
そうしてエルピスが構えを解かないまま魔法名だけを唱えると、付近一体の魔素が全て消失し代わりに一つの魔法が行使される。
赤く煌めいた炎が一瞬白く見えたかと思うと、眩しいほどの青さを見せて空間全体を削り取る様に燃やしていく。
もし生物がいたならばその原型を瞬きの間すら保つことも難しいだろう。
神であろうとも耐えきれないであろうその火を前にして、レネスは武器を手に取りなんとか魔法をいなそうとする。
「熱っづ!?」
「半径数千キロを瞬時に焦土に変えうる魔法の味はどうですか?」
これで決着が着くとはエルピスも思っていない。
何も用意をさせずに魔法を直撃させたのであればその効果も期待できただろうが、今回はレネスに意識がある上に魔力も十分に保持しきれている。
自分の周囲の空間を断絶し、多様な魔法と魔道具によって自分の身体を守り切った彼女は無傷でそこに立っていた。
仙桜種が怖いのはここだ。
上位種の癖に、人なんかよりよっぽど強いくせに平気で道具や自分以外が作った物を適切に一切の狂いなく問題なく活用する。
「柔い肌に傷が着いちゃったよ」
「説明文と実際の効果に差異がありますね。クレーム物ですよ」
魔法攻撃が終われば再び始まるのは剣による戦だ。
この完全に閉鎖された空間内であれば魔法による圧倒的な物量破壊も可能ではあるが、それをしてしまえばレネスと戦っている必要性がなくなってしまう。
(口ぶりはいつも通りだけど、刀のキレはあんまりないな。師匠らしくもない)
だからこそレネスとの戦闘は真面目に行いたいのだが、相手がこれであれば戦う必要もないだろう。
本気の殺し合いを望むというからこの場に来たのに、相手がこちらを本気で殺す気がないのであれば時間と資源の浪費だ。
「ーーー師匠、やめません?」
そう思い立ったエルピスは刀を虚空に戻してその場に腰を下ろした。
完全に戦闘する意欲を無くしたその姿に対して、レネスは怒りの感情を見せる。
戦闘中に武器を自ら放棄するなどあってはならない事だ、答えを求めて命をかけて戦っているというのにその相手がこれでは思うところがあるのも当然だろう。
だからこそレネスはかつてエルピスに対してそうしたように、同じように彼に対して激情と共に発破をかける。
「戦いはまだまだこれからだぞ!」
「言語域にまで不具合出てますよ、一旦落ち着きましょう。師匠俺より体調が表に出やすいタイプなんですから」
レネスの言葉を発するまでのプロセスは全て借り物だ、少しでもレネスのないはずの感情が触れない限りは冷静沈着なままの彼女のはずである。
だと言うのに激昂しているような口調になるのは、それほど彼女が切羽詰まっている証だ。
地面を踏み抜かんばかりの勢いでエルピスに対して近づいたレネスは、そのまま胸ぐらを掴みエルピスですら一切抵抗できないほどの力で壁に押し当てる。
その目は明らかに殺意が宿っており、エルピスは静かに刀を手に持つ。
「ーーっ、師匠、下手したら死にますよ?」
「私が君如きに殺されるとでも?」
「……ニル、もうちょっと下がってて」
小さくそう言葉を落としたエルピスが腕を振るうと、エルピスを掴み上げていたレネスの両の手がぼとりと地面に落ち、エルピスの足は地面の感触を踏みしめる。
先程までよりも更に一段階早い、急激すぎる成長の原因はエルピスが持っている才能が原因だ。
それにいち早く気がついたのは腕を切られたレネスである。
「ーーっ!? もう解放できたのか!」
「えぇ!? まだ僕なんもしてないのに!」
もう生えている腕で愛刀を手に持ち構え直したレネスに一瞬遅れて、近くでエルピスを眺めていたニルもエルピスの変化の原因に気づく。
精霊と妖精、その二つを統べる森霊種や窟暗種に取っての神とも言える存在、妖精神。
単純な膂力の増加に加えて付近の精霊や妖精達は全てエルピスの物となり、その両目に備わった力もようやく完全な形として現れる。
妖精神の目は未来を見通すことができる、それは存在する全ての可能性の可視化であり、不意打ちはもはや不可能だと言ってもいいだろう。
「行きますよ師匠」
「かかってこい」
再び全てを崩壊させていく鍔迫り合いが始まっていく。
だが先程までと比べて明らかにエルピスの方が有利性を保っており、レネスもその事に気づいているのか普段の様な余裕は感じられない。
だがエルピスが出来たのはそこまで、余力を残したレネスを余力を残していないレネスにする所までが限界だ。
「はぁぁっ!!」
だが余裕がないと言うことはつまり考えるスペースが脳に足りていないと言うことでもある。
余裕を失ってしまったレネスの姿はここ数年間のエルピスが戦ってきた時と同じ、常に全力を持って相手と対峙し、己の実力では勝つことさえできない相手に対して勝利しようとするが故の張り詰められた一本の糸。
それは圧倒的な強者に勝つ可能性と同時に、弱者にすら足元を掬われかねない危うさも持っている。
エルピスの障壁に存在する刹那の隙を縫う様にして、レネスは駆け出していきそしてーー
「トドメだッ!」
「ーー罠ですよ師匠」
レネスがエルピスだと思って切りつけたのは、妖精神の権能によって作り出された実体を伴う完璧な変わり身である。
いくらこの世界に干渉し物理的に存在する分身のようなものとはいえ、普段の彼女ならばその冷静さでもって対処できただろう。
だがいまこの瞬間できなかったという事実は彼女の敗北を確定させる。
「ーーなっ!?」
「はい、そこまで。危ない危ない」
ビタりと首元からほんの数ミリ離れたところでエルピスが握る刀が止められた。
あと数瞬ニルが止めるのを躊躇っていたので有れば、レネスの首は飛んでいたであろう。
そう確信できるほどの威力と殺意を持って放たれた一撃をこうしてニルが止められるのは、同じようにニルもまたエルピスの強化を経てその力を手に入れたのだ。
「大丈夫レネスさん、死んでない?」
「あ、ああ。大丈夫………だ」
「これに勝っても勝ったって言えないよなぁ……どうしたの師匠」
苦笑いとも取れる笑みを浮かべ、落ち着かなく刀に触るエルピスの心情は『こんな事で勝ったところで』と言ったところだろうか。
エルピスが求めたのは全力のレネスと命を賭けあって、それでいて勝利を収める事である。
だがレネスからしてみればそんな事は関係ない、不敗で彩られた彼女の人生の中で初めての敗北。
しかも感情を持たないはずの自分が感情によって揺さぶられ、本来の実力を発揮できないままに自らが教えた技術によって敗北する。
それは彼女に取ってどれだけの苦痛であるかーーいや、その苦痛を感じることすら、敗北に対しての屈辱という感情を感じさせ、彼女に新たな苦痛を運ぶ。
両の膝を地面に突き、顔を地面に見せながら過呼吸する彼女の姿はまさに敗者のそれである。
「負けた……のか、私は」
「師匠は負けたよ。完敗に近いかな勝負内容的には、でも今日は調子が悪そうだったしーー」
「ーーそんな事はどうでもいいッ!!」
王国で、帝国で、冒険者組合で、挑まれた勝負の全てを買い、そして薙ぎ払ってきたエルピスは慰めの言葉などもはやかけ慣れた物だと思っていた。
だがエルピスが言葉を投げかけた彼等とレネスは違う。
プライドが、生きてきた年月が、戦士としての矜持が、ただ記念になるだろうからなどといった適当な理由で戦闘を仕掛ける者達とは断じて違うのだ。
激昂する彼女を見てエルピスはその事を遅れて認識していた。
「エルピス、ここは僕に任せて一旦離れてて。エルピスがここに居たら拗れそうだし」
「……ごめん、任せたニル」
だから下を向きエルピスはその場を後にする。
もはや彼にできる事は何もない、全能であっても全智でない彼ではーーいや、もはや何を言うまでもなく彼は言葉選びを失敗した。
エルピスが居なくなった空間に残ったニルは座り込むレネスのそばに立つと、後ろから優しく彼女を抱きしめる。
「それでどうしたんだいレネス、叫ぶだなんて君らしくもない」
「私は感情を失った筈だ、なのに今の激情は……私は……私の存在意義は……負けてしまった私の生きる意味は…………」
「……君はそう言うタイプか。僕は思考の海を外に投げ出すことで整理するけれど、君は己の中でその海を整理しようとしているんだね」
長く生きると大体物事の考え方は二極化される。
溜め込むか、そのまま外に流すか。
他人に話したり思考を放棄したりはたまたナニカから啓示でも受け取るか、そんな事をするのは無駄だと頭で理解しているからだ。
自分の考えに答えを出せるのは結局自分だけで、他人はそれを補助することはあっても決定することはない。
「確かに君には殆ど感情が無かった、それは愛を司る僕が証明しよう。初めは驚いた、思考して言葉を交わして、それでいてなを感情を模倣することだけで終わらせる君と言う存在を。
だがそもそも思考がある以上いつかは生まれるはずの感情を、君はどうやって消失させたのだろうか」
疑問提起に対して答えが返ってくる気配はないが、それは彼女が思考の海に浸っているからだ、それでいい。
荒れ狂う海となった彼女の思考をさらにかき混ぜる様にして、ニルは彼女がその海の中で求めようとするものを提示する。
「答えは無いと思い込んでいた、が正解だ。感情がないのではなく何も思おうとしていなかった、激情に駆られたのはその思い込みよりも強い自責の念があったから。今日の君が本調子では無かったのは僕に感情の存在を示唆されたからだ」
そこにあった答えをそのまま伝えれば彼女はそれを飲み込んでくれる。
ニルはレネスの中に生まれた変化を優しく掬い上げ、本人が気が付かないままに表面にその心を上げていく。
「私に感情がある…? そんな馬鹿な話が……私は仙桜種の里で確かに感情を捨てたはずーー」
「自らを刃とし、神に対して剣を振るう武力としてあろうとする君の姿勢には僕も感服だ、だけれど前にも言った通り創生神は創造性から生まれた神、そんな神に手ずから作られた君達がその創造性を捨てられるわけがないんだよ」
ニルの話はまだ続く。
事実だけを羅列し、淡々と列挙する彼女を前にして耳をふさぐことすらできない。
「里から離れた仙桜種達はそれに気付いているはずだ、現に土精霊の所にいた仙桜種は明確な感情を持っていた。君にもその兆候は見られたんだよ」
「私にも……ですか?」
「連日に及ぶエルピスとの戦闘要求、これはエルピスを強くしろと言う命令があると言う建前を経た事で君が手に入れた、感情を発露する言い訳だ。
理由はただ戦いたかったから、そしてこうして敗北した事で緩んでいたその枷が外れた」
「ニルさん、私は一体どうすれば良いんだろうか」
彼女がニルの事を名前で呼ぶのはいつ以来の事だろうか。
個人に対しての呼びかけは個性が現れる場所でもある、それを無意識で避けようとしているのだろう。
レネスの顔は何よりも焦燥感と不安に満ちており、ニルの言葉次第では彼女という存在をどうにでもできそうな気さえしてくる。
膝を折っている彼女を起こし、服に付着している泥を払いながらニルは言葉を伝えた。
「自己性の確立こそが感情を発露する最大の条件だよ。トリガーはもう引かれた、後は君がどうあろうとするかが君を変えていくだろう」
「私がどうあろうとするか……か」
「君の口調も他者に対しての呼称も全ては真似事、感情を抜き取るこの世界での禁術を君が犯す前の、その感情さえあれば完全な自己性の確立は為されるけれど、それを為すためにはここじゃちょっと無理だね」
感情を抑え込む魔法であろうと生まれた時からの性質でないのならば神の力さえあれば変更はそう難しい話ではない。
ただ彼女の感情が消された場所、つまりは桜仙種の里にでも行かなければ完全な修復はニルにも不可能である。
もしかすれば姉であるセラとエルピスを助けようとした時と同じように協力して行動すれば何とかなるかもしれないが、里に向かえば済むような話に姉を巻き込む必要もない。
判断を下したニルの前でレネスは思い返すようにして天井を眺めていた。
「感情を失う前の私……一体どれ程前の事だったろうか」
「世界創生の時代から居た仙桜種、だがその最も新しい命にして最強の存在である君だ。それほど長い時間は経過していないはずさ」
「ニルさん……いや、ニル。私の感情を取り戻す手伝いをしてくれないかい?」
「良いよ。完全に取り戻すまでそうやって僕の口調を真似すればいい、大丈夫。君の自己性は消えはしない。そこに立って」
自らの感情を取り戻す決意を固めたレネスを施設の中心部に移動させ、ニルはほんの少しだけ笑みを浮かべると手を上に向かって高く掲げる。
そうすると彼女の手の平に小さな球体が現れ、それはゆっくりと漂うようにしてレネスの方へと流れ着きそして胸の間に入り込んでいく。
「特殊技能〈天埜改変〉」
それはきっとこんなことがなければ永遠に使用されなかったであろう、ニルがこの世界以外から持ち込んだ特殊技能。
効果は対象に対象者にかけられた全ての効果の消失、または軽減である。
文字にしてみれば大したことのないように見える能力であるが、特殊技能は個人の認識によってその性質が変化するのは既にエルピスの〈神域〉やその他の能力でも実証済みだ。
であるならばニル自身がもし、死という概念すら他人から与えられた効果の一つであると考えるとすれば死さえも彼女の手の内である。
「エルピスにも見せてない僕のとっておき。君にかけられた魔法は外しておいたよ、とりあえずここ数日の間にいままでの感情が全てフラッシュバックするからろくに動けないだろうね」
「全ての感情がフラッシュバック? どういう事だ?」
「消失していたわけじゃなく、気にしないようにしていただけって言ったろ。今やったのは君にかけられた術の解除と、全ての記憶の洗い直し。せいぜい好意、悪意、善意、恐怖、怒り、失望、幸福感、全能感、喪失感、羞恥。いくつあるか分からない感情全てをその身に味わうといい」
今まで味わったものをそのまま受け取れていなかったレネスに対して、そのまま受け取らせることは相当の負荷がかかることだろう。
仲間を失ったとすればその時の喪失感が、恋人がいたとすればその時の幸福感が、別れたのであれば絶望感も同時にもう一度すべての感情を受け取らなければいけない。
辛さも喜びも忘れて生きる人間にはとてもではないが耐え切れないその感情の濁流の中にレネスは足を踏み出していく。
「それって……精神が保つのかな」
「生物はそう言ったものを経験して生きていくんだよ。保ってくれないと困る。とりあえずエルピスに謝ってきなよ、気にしてるんだろ?」
「そうするよ、ありがとうニル」
「いいよ。ライバルは応援するのが僕の心情だからね、多分喋ってる最中に始まると思うから頑張って」
突き放すような物言いをニルがレネスに対してするのはきっとあと少しの間だけだろう。
感情を取り戻し、桜仙種としてあるべき姿に戻るレネスはきっとニルが見過ごせない強敵になるはずである。
それを待ち遠しく思いながらも自らの心のうちで暴れそうになる衝動をニルは何とかして抑え込む。
(ああエルピス。お願いだから早く終わらせてほしい、きっと僕はもうこれ以上我慢が聞かない。早くいつものようなだらだらとした空気に戻ろうよ)
胸の内にあるどす黒い感情を今の今まで我慢できたのはセラが同行を許可してくれたから。
ニルにとってこの世界はどうでもいい、そんなどうでもいいもののためにエルピスの意識が割かれている今の現状の方がニルにとっては世界よりも重要な課題だ。
きっとまだあと少しは我慢が聞くだろう、この後も何もなければ……。
朝日が差し込む食堂で食事を楽しんでいるのは私服に身を包むエルピスとニル。
執務がない時は一日中寝巻きで過ごす事もあるエルピスだが、今日は何処かにいく予定でもあるのかしっかりとした服を着用している。
愛刀を手に持ち今にも斬りかからんばかりの声音でそう言ってくるレネスの事を一瞥すると、エルピスは何事もなかったように再び食事を始めた。
「約束した覚えはないですけどね。んー、今日も美味しいね、ありがとうニル」
「最近ようやくエルピスの好みが分かってきたよ、ラテアートとかも出来るけどやってみる?」
「あれ崩すのに抵抗あるから俺はいいや、ありがと」
まるで声が聞こえていないかのようなエルピスの返答に対して、我慢ならないレネスが視線の先に手を出して注意を引こうとしてみるが少したりとも意識がレネスに向く事はない。
ならばと両目を隠してみるが〈神域〉を所持するエルピスからしてみれば視界が閉ざされたところで何の問題もなく、優雅にニルが出した珈琲を口に含んでゆったりとした朝を過ごしていた。
「ちょっとちょっと、私の話は無視か」
「無視しているわけじゃないですよ、聞いていないだけです」
冗談めかして言葉を口にするエルピスに対してレネスの方は真面目な顔を崩さず、それを見てエルピスも意識を切り替える。
これまでレネスはエルピスがレネスと一対一の模擬戦を断っても文句を言う事は無かったし、なんだかんだフィトゥス達を引き摺り回して遊ぶのにも意欲的だったように少なくともエルピスの目からは見えた。
だと言うのに今日に限ってレネスの表情は真面目そのものであり、何かを決心した様なその顔に場の空気は徐々に重たいものへと変わっていく。
「戦闘訓練は全て終え、それ以外でも私が教えられることは全て教えた。後に残るのは気持ちのぶつかり合いだ、頼むエルピス。仙桜種の新たなる高みへ至る道を示してくれ」
「……新たなる高みですか。それって戦うことでしかわからないものなのでしょうか? それに俺が師匠に何かを教えられるとはとても思えませんが」
「私は戦うことしか知らない。だから答えはそれで見つける」
目を見つめ、言葉を交わしてエルピスが受け取ったレネスの真意は、もはや彼女に我慢できるほどの時間がないと言う事を教えてくれた。
仙桜種の新たなる高みとはいったい何なのか、彼女の言葉をエルピスが理解する事は出来ないが、求めるものがあるのならばそれに答えないわけにはいかない。
執務ばかりで固まってしまった重い腰ではあるが、命をかけて模擬戦をするのには悪い日ではないだろう。
「……分かりました。それなら場所を変えましょう、ここじゃ周りに被害が出ますし」
「もちろんだ」
「うーん。早速僕置いてけぼりだね」
明確な戦闘意欲を見せる二人に対して、低血圧で朝の怠さに耐えられないニルは乗り気ではない様である。
朝食を片付け今日の予定を代わりのものに任せたエルピスは、時間を惜しむ様にしてそのまま転移魔法を使用し三人は遥か遠くへと飛んでいく。
時間にして数秒、転移した先はエルピスにとっては見慣れた場所だがレネスからしてみれば見たことのない森林である。
「ここは?」
「龍の森最深部、龍の里のさらに奥にある魔法実験施設を俺が改造したものです」
かつてはよくエキドナと共に戦闘訓練を行っていた場所であり、随所にいまだエルピスが残した傷跡が見て取れる。
神の力の行使の仕方を必死になって覚えた場所だ。
ここならばよほどの戦闘をしない限り外部に被害が漏れることはない。
「耐魔力に対物理攻撃用の障壁、魔法陣だけで既存の魔法学を根底から覆せる人類種には過ぎた代物だね」
「ここなら多少無茶をしても問題はないでしょう」
刻まれている魔法陣の全ては、魔神の力によって作り出された人外未知の物である。
人類だけではない。魔法を用いて戦う生命体全てにとって命と引き換えにしてでも手に入れたい至宝、魔法というこの世界での学問の答えがそこには記されていた。
そんな至宝の上で軽く準備体操を行い手足をフラフラとさせたエルピスは、何もないところから己の愛刀を手に取る。
刀身は黒く光り輝いており、エルピスの魔力が宿ると一瞬鋼色に光輝きまた元の黒さに戻っていく。
久々に手にしたにもかかわらずしっくりとくるその感触に納得しつつ、レネスと戦闘を開始するのに十分な距離を取る。
「さてと。もちろんですが、殺す気で行きます」
「ああ。私も全力で殺しにかかる、死なないように気を付けてほしい」
「僕は邪魔にならないようにはけておくよ、試合終了は僕が邪魔に入ったらで。それじゃあどうぞ」
ニルが腕を軽く下げると、爆風が辺り一帯に吹き荒れていく。
一秒という時間が遥か長く感じられる程に剣戟は続けられ、刀身が触れるたびに何度も何度も爆風が吹くのでニルは細目でその戦闘を眺めるしかない。
お互いがお互いに本気で相手を殺しに行っているので、急所に対しての攻撃が目に見えて多かった。
一つ間違えれば死んでしまう、そんな戦闘の中でエルピスが無造作に大振りをすると、それを受けたレネスがその圧倒的な力に負けて壁に吹き飛ばされる。
「ーーーーぅ!」
「ここは龍の森ですよ? 龍神の俺が強くなる場所です」
轟音を上げてレネスが壁に激突し、エルピスはそれを眺めながら付近の魔法陣の輝きに目を細める。
刻まれた紋章は全てエルピスが刻んだ物、そして込められた魔力もエルピスの物であり、付近にはエルピスを信仰する龍種達が住んでいるのだ。
これ以上ない程にエルピスが有利な環境であり、そこにレネスを引き込んだ時点でエルピスは大分とアドバンテージを取れている。
仙桜種というエルピスよりも圧倒的に戦闘経験が豊富な種族を相手取る上にすでに一度は負けた相手なのだ、絶対に勝てる状況を用意するのは何もおかしなことではないだろう。
「卑怯ーーとは言えないだろうね。戦闘を望んだのは私だ、受ける君が有利な場所を選ぶのは当然の権利だとも思う」
「その割には随分と嫌そうな物の言い方ですね」
「そうかーーなっ!」
刀を地面に突き刺し、格闘戦の構えを見せたエルピスに対してレネスも同じ型を取りながらジリジリとにじり寄っていく。
とはいえ完全に同じというわけではなくエルピスの方は母であるクリムの戦闘スタイルを織り交ぜており、エルピスが僅差でレネスを押し返せているのはクリムの戦闘スタイルがそれだけ龍神に適しているという事だろう。
とはいえ何も馬鹿正直に殴り合う気などエルピスにはこれっぽちもない。
自分が武器を手放したからといって相手が武器を手放す保障などないし、レネスが武器を持っても問題ないからエルピスは剣を手放したのだ。
つぶやくのは必勝の言葉、たとえ相手がなんであれ勝利が確約される魔法の言葉。
「魔神の名においてーー」
「させない――罠か!?」
天災級魔法をこの回避行動がとれない空間で食らえばさすがのレネスも瀕死は免れ得ない。
焦りから前に無理な格好で前に飛び出したレネスはそう来ることを想定していたエルピスによって投げ飛ばされ、エルピスの対面の壁際に打ち付けら得る。
「詠唱しなきゃ使えないのは天災魔法、神級は別ですよ〈神炎晒〉」
そうしてエルピスが構えを解かないまま魔法名だけを唱えると、付近一体の魔素が全て消失し代わりに一つの魔法が行使される。
赤く煌めいた炎が一瞬白く見えたかと思うと、眩しいほどの青さを見せて空間全体を削り取る様に燃やしていく。
もし生物がいたならばその原型を瞬きの間すら保つことも難しいだろう。
神であろうとも耐えきれないであろうその火を前にして、レネスは武器を手に取りなんとか魔法をいなそうとする。
「熱っづ!?」
「半径数千キロを瞬時に焦土に変えうる魔法の味はどうですか?」
これで決着が着くとはエルピスも思っていない。
何も用意をさせずに魔法を直撃させたのであればその効果も期待できただろうが、今回はレネスに意識がある上に魔力も十分に保持しきれている。
自分の周囲の空間を断絶し、多様な魔法と魔道具によって自分の身体を守り切った彼女は無傷でそこに立っていた。
仙桜種が怖いのはここだ。
上位種の癖に、人なんかよりよっぽど強いくせに平気で道具や自分以外が作った物を適切に一切の狂いなく問題なく活用する。
「柔い肌に傷が着いちゃったよ」
「説明文と実際の効果に差異がありますね。クレーム物ですよ」
魔法攻撃が終われば再び始まるのは剣による戦だ。
この完全に閉鎖された空間内であれば魔法による圧倒的な物量破壊も可能ではあるが、それをしてしまえばレネスと戦っている必要性がなくなってしまう。
(口ぶりはいつも通りだけど、刀のキレはあんまりないな。師匠らしくもない)
だからこそレネスとの戦闘は真面目に行いたいのだが、相手がこれであれば戦う必要もないだろう。
本気の殺し合いを望むというからこの場に来たのに、相手がこちらを本気で殺す気がないのであれば時間と資源の浪費だ。
「ーーー師匠、やめません?」
そう思い立ったエルピスは刀を虚空に戻してその場に腰を下ろした。
完全に戦闘する意欲を無くしたその姿に対して、レネスは怒りの感情を見せる。
戦闘中に武器を自ら放棄するなどあってはならない事だ、答えを求めて命をかけて戦っているというのにその相手がこれでは思うところがあるのも当然だろう。
だからこそレネスはかつてエルピスに対してそうしたように、同じように彼に対して激情と共に発破をかける。
「戦いはまだまだこれからだぞ!」
「言語域にまで不具合出てますよ、一旦落ち着きましょう。師匠俺より体調が表に出やすいタイプなんですから」
レネスの言葉を発するまでのプロセスは全て借り物だ、少しでもレネスのないはずの感情が触れない限りは冷静沈着なままの彼女のはずである。
だと言うのに激昂しているような口調になるのは、それほど彼女が切羽詰まっている証だ。
地面を踏み抜かんばかりの勢いでエルピスに対して近づいたレネスは、そのまま胸ぐらを掴みエルピスですら一切抵抗できないほどの力で壁に押し当てる。
その目は明らかに殺意が宿っており、エルピスは静かに刀を手に持つ。
「ーーっ、師匠、下手したら死にますよ?」
「私が君如きに殺されるとでも?」
「……ニル、もうちょっと下がってて」
小さくそう言葉を落としたエルピスが腕を振るうと、エルピスを掴み上げていたレネスの両の手がぼとりと地面に落ち、エルピスの足は地面の感触を踏みしめる。
先程までよりも更に一段階早い、急激すぎる成長の原因はエルピスが持っている才能が原因だ。
それにいち早く気がついたのは腕を切られたレネスである。
「ーーっ!? もう解放できたのか!」
「えぇ!? まだ僕なんもしてないのに!」
もう生えている腕で愛刀を手に持ち構え直したレネスに一瞬遅れて、近くでエルピスを眺めていたニルもエルピスの変化の原因に気づく。
精霊と妖精、その二つを統べる森霊種や窟暗種に取っての神とも言える存在、妖精神。
単純な膂力の増加に加えて付近の精霊や妖精達は全てエルピスの物となり、その両目に備わった力もようやく完全な形として現れる。
妖精神の目は未来を見通すことができる、それは存在する全ての可能性の可視化であり、不意打ちはもはや不可能だと言ってもいいだろう。
「行きますよ師匠」
「かかってこい」
再び全てを崩壊させていく鍔迫り合いが始まっていく。
だが先程までと比べて明らかにエルピスの方が有利性を保っており、レネスもその事に気づいているのか普段の様な余裕は感じられない。
だがエルピスが出来たのはそこまで、余力を残したレネスを余力を残していないレネスにする所までが限界だ。
「はぁぁっ!!」
だが余裕がないと言うことはつまり考えるスペースが脳に足りていないと言うことでもある。
余裕を失ってしまったレネスの姿はここ数年間のエルピスが戦ってきた時と同じ、常に全力を持って相手と対峙し、己の実力では勝つことさえできない相手に対して勝利しようとするが故の張り詰められた一本の糸。
それは圧倒的な強者に勝つ可能性と同時に、弱者にすら足元を掬われかねない危うさも持っている。
エルピスの障壁に存在する刹那の隙を縫う様にして、レネスは駆け出していきそしてーー
「トドメだッ!」
「ーー罠ですよ師匠」
レネスがエルピスだと思って切りつけたのは、妖精神の権能によって作り出された実体を伴う完璧な変わり身である。
いくらこの世界に干渉し物理的に存在する分身のようなものとはいえ、普段の彼女ならばその冷静さでもって対処できただろう。
だがいまこの瞬間できなかったという事実は彼女の敗北を確定させる。
「ーーなっ!?」
「はい、そこまで。危ない危ない」
ビタりと首元からほんの数ミリ離れたところでエルピスが握る刀が止められた。
あと数瞬ニルが止めるのを躊躇っていたので有れば、レネスの首は飛んでいたであろう。
そう確信できるほどの威力と殺意を持って放たれた一撃をこうしてニルが止められるのは、同じようにニルもまたエルピスの強化を経てその力を手に入れたのだ。
「大丈夫レネスさん、死んでない?」
「あ、ああ。大丈夫………だ」
「これに勝っても勝ったって言えないよなぁ……どうしたの師匠」
苦笑いとも取れる笑みを浮かべ、落ち着かなく刀に触るエルピスの心情は『こんな事で勝ったところで』と言ったところだろうか。
エルピスが求めたのは全力のレネスと命を賭けあって、それでいて勝利を収める事である。
だがレネスからしてみればそんな事は関係ない、不敗で彩られた彼女の人生の中で初めての敗北。
しかも感情を持たないはずの自分が感情によって揺さぶられ、本来の実力を発揮できないままに自らが教えた技術によって敗北する。
それは彼女に取ってどれだけの苦痛であるかーーいや、その苦痛を感じることすら、敗北に対しての屈辱という感情を感じさせ、彼女に新たな苦痛を運ぶ。
両の膝を地面に突き、顔を地面に見せながら過呼吸する彼女の姿はまさに敗者のそれである。
「負けた……のか、私は」
「師匠は負けたよ。完敗に近いかな勝負内容的には、でも今日は調子が悪そうだったしーー」
「ーーそんな事はどうでもいいッ!!」
王国で、帝国で、冒険者組合で、挑まれた勝負の全てを買い、そして薙ぎ払ってきたエルピスは慰めの言葉などもはやかけ慣れた物だと思っていた。
だがエルピスが言葉を投げかけた彼等とレネスは違う。
プライドが、生きてきた年月が、戦士としての矜持が、ただ記念になるだろうからなどといった適当な理由で戦闘を仕掛ける者達とは断じて違うのだ。
激昂する彼女を見てエルピスはその事を遅れて認識していた。
「エルピス、ここは僕に任せて一旦離れてて。エルピスがここに居たら拗れそうだし」
「……ごめん、任せたニル」
だから下を向きエルピスはその場を後にする。
もはや彼にできる事は何もない、全能であっても全智でない彼ではーーいや、もはや何を言うまでもなく彼は言葉選びを失敗した。
エルピスが居なくなった空間に残ったニルは座り込むレネスのそばに立つと、後ろから優しく彼女を抱きしめる。
「それでどうしたんだいレネス、叫ぶだなんて君らしくもない」
「私は感情を失った筈だ、なのに今の激情は……私は……私の存在意義は……負けてしまった私の生きる意味は…………」
「……君はそう言うタイプか。僕は思考の海を外に投げ出すことで整理するけれど、君は己の中でその海を整理しようとしているんだね」
長く生きると大体物事の考え方は二極化される。
溜め込むか、そのまま外に流すか。
他人に話したり思考を放棄したりはたまたナニカから啓示でも受け取るか、そんな事をするのは無駄だと頭で理解しているからだ。
自分の考えに答えを出せるのは結局自分だけで、他人はそれを補助することはあっても決定することはない。
「確かに君には殆ど感情が無かった、それは愛を司る僕が証明しよう。初めは驚いた、思考して言葉を交わして、それでいてなを感情を模倣することだけで終わらせる君と言う存在を。
だがそもそも思考がある以上いつかは生まれるはずの感情を、君はどうやって消失させたのだろうか」
疑問提起に対して答えが返ってくる気配はないが、それは彼女が思考の海に浸っているからだ、それでいい。
荒れ狂う海となった彼女の思考をさらにかき混ぜる様にして、ニルは彼女がその海の中で求めようとするものを提示する。
「答えは無いと思い込んでいた、が正解だ。感情がないのではなく何も思おうとしていなかった、激情に駆られたのはその思い込みよりも強い自責の念があったから。今日の君が本調子では無かったのは僕に感情の存在を示唆されたからだ」
そこにあった答えをそのまま伝えれば彼女はそれを飲み込んでくれる。
ニルはレネスの中に生まれた変化を優しく掬い上げ、本人が気が付かないままに表面にその心を上げていく。
「私に感情がある…? そんな馬鹿な話が……私は仙桜種の里で確かに感情を捨てたはずーー」
「自らを刃とし、神に対して剣を振るう武力としてあろうとする君の姿勢には僕も感服だ、だけれど前にも言った通り創生神は創造性から生まれた神、そんな神に手ずから作られた君達がその創造性を捨てられるわけがないんだよ」
ニルの話はまだ続く。
事実だけを羅列し、淡々と列挙する彼女を前にして耳をふさぐことすらできない。
「里から離れた仙桜種達はそれに気付いているはずだ、現に土精霊の所にいた仙桜種は明確な感情を持っていた。君にもその兆候は見られたんだよ」
「私にも……ですか?」
「連日に及ぶエルピスとの戦闘要求、これはエルピスを強くしろと言う命令があると言う建前を経た事で君が手に入れた、感情を発露する言い訳だ。
理由はただ戦いたかったから、そしてこうして敗北した事で緩んでいたその枷が外れた」
「ニルさん、私は一体どうすれば良いんだろうか」
彼女がニルの事を名前で呼ぶのはいつ以来の事だろうか。
個人に対しての呼びかけは個性が現れる場所でもある、それを無意識で避けようとしているのだろう。
レネスの顔は何よりも焦燥感と不安に満ちており、ニルの言葉次第では彼女という存在をどうにでもできそうな気さえしてくる。
膝を折っている彼女を起こし、服に付着している泥を払いながらニルは言葉を伝えた。
「自己性の確立こそが感情を発露する最大の条件だよ。トリガーはもう引かれた、後は君がどうあろうとするかが君を変えていくだろう」
「私がどうあろうとするか……か」
「君の口調も他者に対しての呼称も全ては真似事、感情を抜き取るこの世界での禁術を君が犯す前の、その感情さえあれば完全な自己性の確立は為されるけれど、それを為すためにはここじゃちょっと無理だね」
感情を抑え込む魔法であろうと生まれた時からの性質でないのならば神の力さえあれば変更はそう難しい話ではない。
ただ彼女の感情が消された場所、つまりは桜仙種の里にでも行かなければ完全な修復はニルにも不可能である。
もしかすれば姉であるセラとエルピスを助けようとした時と同じように協力して行動すれば何とかなるかもしれないが、里に向かえば済むような話に姉を巻き込む必要もない。
判断を下したニルの前でレネスは思い返すようにして天井を眺めていた。
「感情を失う前の私……一体どれ程前の事だったろうか」
「世界創生の時代から居た仙桜種、だがその最も新しい命にして最強の存在である君だ。それほど長い時間は経過していないはずさ」
「ニルさん……いや、ニル。私の感情を取り戻す手伝いをしてくれないかい?」
「良いよ。完全に取り戻すまでそうやって僕の口調を真似すればいい、大丈夫。君の自己性は消えはしない。そこに立って」
自らの感情を取り戻す決意を固めたレネスを施設の中心部に移動させ、ニルはほんの少しだけ笑みを浮かべると手を上に向かって高く掲げる。
そうすると彼女の手の平に小さな球体が現れ、それはゆっくりと漂うようにしてレネスの方へと流れ着きそして胸の間に入り込んでいく。
「特殊技能〈天埜改変〉」
それはきっとこんなことがなければ永遠に使用されなかったであろう、ニルがこの世界以外から持ち込んだ特殊技能。
効果は対象に対象者にかけられた全ての効果の消失、または軽減である。
文字にしてみれば大したことのないように見える能力であるが、特殊技能は個人の認識によってその性質が変化するのは既にエルピスの〈神域〉やその他の能力でも実証済みだ。
であるならばニル自身がもし、死という概念すら他人から与えられた効果の一つであると考えるとすれば死さえも彼女の手の内である。
「エルピスにも見せてない僕のとっておき。君にかけられた魔法は外しておいたよ、とりあえずここ数日の間にいままでの感情が全てフラッシュバックするからろくに動けないだろうね」
「全ての感情がフラッシュバック? どういう事だ?」
「消失していたわけじゃなく、気にしないようにしていただけって言ったろ。今やったのは君にかけられた術の解除と、全ての記憶の洗い直し。せいぜい好意、悪意、善意、恐怖、怒り、失望、幸福感、全能感、喪失感、羞恥。いくつあるか分からない感情全てをその身に味わうといい」
今まで味わったものをそのまま受け取れていなかったレネスに対して、そのまま受け取らせることは相当の負荷がかかることだろう。
仲間を失ったとすればその時の喪失感が、恋人がいたとすればその時の幸福感が、別れたのであれば絶望感も同時にもう一度すべての感情を受け取らなければいけない。
辛さも喜びも忘れて生きる人間にはとてもではないが耐え切れないその感情の濁流の中にレネスは足を踏み出していく。
「それって……精神が保つのかな」
「生物はそう言ったものを経験して生きていくんだよ。保ってくれないと困る。とりあえずエルピスに謝ってきなよ、気にしてるんだろ?」
「そうするよ、ありがとうニル」
「いいよ。ライバルは応援するのが僕の心情だからね、多分喋ってる最中に始まると思うから頑張って」
突き放すような物言いをニルがレネスに対してするのはきっとあと少しの間だけだろう。
感情を取り戻し、桜仙種としてあるべき姿に戻るレネスはきっとニルが見過ごせない強敵になるはずである。
それを待ち遠しく思いながらも自らの心のうちで暴れそうになる衝動をニルは何とかして抑え込む。
(ああエルピス。お願いだから早く終わらせてほしい、きっと僕はもうこれ以上我慢が聞かない。早くいつものようなだらだらとした空気に戻ろうよ)
胸の内にあるどす黒い感情を今の今まで我慢できたのはセラが同行を許可してくれたから。
ニルにとってこの世界はどうでもいい、そんなどうでもいいもののためにエルピスの意識が割かれている今の現状の方がニルにとっては世界よりも重要な課題だ。
きっとまだあと少しは我慢が聞くだろう、この後も何もなければ……。
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