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第32話

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 俺は階段をおりて寮の敷地から出ると、すぐに姉さんの後ろ姿を見つけた。
「姉さ――」
「夏樹くんっ!」
 姉さんを呼び止める俺の声は、別の声によって消された。
 振り返ると萩村が俺に駆け寄って来ていた。
「この前寮に遊びに来てもいいって言ったから来ちゃった! ご飯まだでしょう? いろいろ作って来たから一緒に食べようよ」
 屈託ない笑顔で萩村はおかずが入った袋を持ち上げる。
 俺は横目で姉さんの姿を追う。姉さんは道を曲がって見えなくなった。

 萩村を追い返すことも出来ずに俺は部屋にいれた。お茶を沸かすため、薬缶に火をかける。
「肉じゃがと春雨サラダと唐揚げでしょ、あと茄子の揚げ浸しに炊き込みご飯を作って来たんだ」
 袋から料理を次々と取り出してテーブルに並べる萩村をよそに、俺は姉さんのことをずっと考えたいた。
「へへへ、作りすぎちゃったかな」
「うん」
 姉さんは、今、柊さんと一緒にいる……。
「夏樹くん、苦手なものとかなかった?」
「うん」
 胸がきゅっと掴まれたように痛くなる。
「ちゃんと味見したから美味しいはずだよ」
「うん」
 だめだ、萩村の話に集中できない。
「……もしかして、私に来てほしくなかった?」
「うん」
 その時、ピーッと薬缶が沸いた音がして我に返った俺は顔をあげた。
 袋を握り締めながら、唇をぎゅっと真一文字に結んでいる萩村がいた。
「萩む……」
 萩村に声を掛ける。しかし。
「夏樹くんの馬鹿っ!」
 萩村は持っていた袋を俺に投げつけると部屋を出ていく。
 尚もお湯が沸いたことを知らせる薬缶の火を止めると、床に落ちた袋を俺は拾った。


 柊さんに呼び出されて、私は喫茶店に入った。柊さんは既に来ていて、コーヒーを飲んでいた。
「周防さん」
 私に気付くと、柊さんはコーヒーカップをソーサーの上に置いた。
「柊さん、目の下にクマができてますよ。大丈夫ですか、疲れているんじゃないですか」
 私は席につく。
「俺は君に酷いことをしたというのに、君は俺に優しい言葉を投げ掛けてくれるんだな」
「……確かに柊さんが私にしたことは許せないです。すごく怖かった。でも、柊さんは優しくて良い人だということを私は知っていますから」
「俺は結局、良い人止まりということか」
「ごめんなさい」
「謝らなくていい。俺の恋は叶わないってわかっていたから。それでも、自分の気持ちを君に伝えたくて仕方なかったんだ」
 柊さんは目を伏せる。切なげな顔に「柊さん」と私は名前を呼ぶ。
「俺のことは気にしなくていい」私の顔を真っ直ぐに見る。「初めて君に会った時、俺は君のことを助けたいと思った。でも、助けられていたのは俺の方だったのかもしれないな」

 当時、弁護士になったばかりの俺に、周防さんから連絡が来た。
「丁度今、桜が満開で綺麗ですよ。少しの時間でいいですから一緒に見ませんか?」
 息抜きがてら俺は周防さんの誘いに乗ることにした。

「ほら、綺麗でしょう?」
 満開の桜並木が続く道を、周防さんは俺より少し前を歩いていた。
 満開の桜を見て、春が来たということを俺は知る。ずっと仕事に忙殺されていて、移ろいゆく季節のことなんて、少しばかりも目にくれなかった。
「毎日お仕事大変ですか?」
「そうだな。大変と言えば大変だ」
 いつもなら弱音なんて吐かないが、この日、口に出してしまったのはきっと桜に魅入られていたからだ。
「大変な柊さんに、こんなことを言うのはあれですが、柊さんが弁護士になってくれて嬉しいです。困っている人は皆救われますから」
「そうだろうか」
「そうですよ。だって、柊さんに一番助けられている私が言うんですよ」
 宙に舞う花びらを周防さんは掴むと、くるりとこちらを振り返った。髪の毛がふわりと舞う。
「私、柊さんに出会えて良かったです」
 そう言いながら桜の木の下で満面に笑う君はとても美しかった。

「君にはあの笑顔でずっと笑っていて欲しい……だから」
 柊さんはそこで口を閉じると軽く溜息をついた。
「……俺の言いたいことはそれだけだ。さぁ、夏樹くんのところに行くんだ」
「でも……」
「周防さんは今、俺じゃなくて夏樹くんのそばにいたいんだろう?」
 私はそっと席を立つと、柊さんに頭を下げる。そして、喫茶店を後にした。

 喫茶店を出て行く周防さんを見送る。
 周防さんの姿が見えなくなると、ふぅ、と深く息を吐いて天井を仰いだ。
「フラれてしまったか……」
 まさか好きな人周防さん義理の弟夏樹くんのことを愛すとは思ってもみなかった。

 君にはあの笑顔でずっと笑っていて欲しい……だから――。

「だから……君は夏樹くんと幸せになるんだ」
 口にすることによって、自分の気持ちはもう、彼女に届くことはないと実感する。
 夏樹くんは俺のことを妬んでいたようだけれど、俺だって夏樹くんのことを妬んでた。
 本当はずっと、苗字じゃなくて名前で呼びたかった。だから夏樹くんが周防さんのことを名前で呼んでいて、すごく羨ましかった。
 あの時、春の訪れを君が教えてくれた。君が俺の前に春を連れてきてくれた。暖かな笑顔をする君に相応しい名前だと思った。
「――春妃」
 今だけ。今だけだから。今だけは、俺に名前を呼ばせて。


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