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第29話

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 萩村に無理やり引っ張られ、俺は今、萩村のアパートにいる。もっと詳しく言うと風呂場でシャワーを浴びている。
 アパートに着くなり、雨に濡れた俺を萩村が洗面所に押し込んだのだ。
「退院したばかりなのに風邪を引かれたら困るじゃん、シャワーを浴びて温まって」とのことだ。
 今日は姉さんとケンカするし雨に降られるし散々な日だ。俺は天気にまで嫌われているのか。
 シャワーを浴び終えると、俺は萩村が用意してくれた着替えを借りる。
「夏樹くんの服、今乾燥機で乾かしているから……あ。お兄ちゃんの服ちょうど良かったね」
 洗面所から出た俺に萩村は声を掛けると、冷たいアイスコーヒーを出してくれた。
「いろいろとありがとうな」
「別にこのくらいいいよ」
 コロはサークルの中で気持ちよさそうに眠っていた。
「呑気でいいな、お前は」
 俺はコロの鼻をくすぐると、コロはフガフガと鳴く。
 ラグが敷かれた床に座って外を眺める。雨はしばらく止みそうになかった。ズキっと頭が痛む。
「流れで無理やり私の家に連れて来ちゃったけど、夏樹くん用事とかなかった?」
 それ今言うか、と俺は心の中で萩村に突っ込んだ。でも、そんなところが萩村らしくて憎めない。
「大丈夫だよ。姉さんと映画を観た帰りだったし」
「春妃さんと?」
 どうしてだろう。萩村が異常に反応したような気がする。
「でも途中でケンカしちゃってさ。姉さんが怒って帰った直後に萩村と会ったわけ」
 雨脚が強まって、雨音がよく聞こえる。胸がひりひりする。頭の痛みも、強くなる。
「あのさ、春妃さんと夏樹くんって義理でも姉弟なわけじゃん?」
 萩村が遠慮がちに俺を見た。
「それが、どうした」
 頭が痛い。俺は頭を押さえる。
「その、変な話をするかもだけど、夏樹くんを見る春妃さんって……」
 雷が光った。そして、空が裂けるような激しい音がした。
「いやぁっ」
 萩村の叫び声と共に停電し、部屋が暗くなる。
 どくどくと胸の音が鳴る。頭の痛みはいつの間にか引いていた。
「夏樹、くん? どうして……」
 震える萩村の声。無理もないだろう。萩村は今、俺の腕の中で抱かれているのだから。
「俺にもわからない。雷に怯える萩村をなぜだか守りたくて、気が付くと身体が勝手に動いていたんだ」
 どうして俺は、雨や雷に、こんなに反応してしまうんだろう。
「ふぅん。守りたいんだ」萩村は腕を伸ばすと俺の顔を両手で包み込む。「じゃあ夏樹くん、私の彼氏になってよ」
 そう言うと、萩村佳奈は、くすっといたずらっぽく笑った。


 柊さんは私がどうして泣いていたのか訊かずに、私の隣を歩いている。
「あの、柊さん。柊さんは何か用事があったんじゃないんですか?」
 そう言って私は柊さんを自分から遠避けようと誘導する。
「本当は映画を観に行きたかったんだ」
 柊さんは溜息をついた。
「じゃあ今からでも行ってください! 私は大丈夫なんで」
「でも一緒に行くはずだった人に別の予定が入ってしまって行けなくなったんだ。だから君を家まで送るのが俺の用事だ」
 私の目論見は虚しく散った。だからどうして私のことを送ることが柊さんの用事になるんだろう? と首を傾げながらも、私は「はあ」と相槌を打つしか出来なかった。
 柊さんは玄関まで送ってくれた。
「ありがとうございました」
「うん。それじゃあ」
「あの」私は柊さんを見上げる。「どうして私が泣いていたか訊かないんですか?」
 いつもなら。そんなこと、柊さんに問うことなんてしないのに。
 柊さんは腰を屈めると私と目線を合わせた。
「君が訊いてほしいなら、俺は訊くよ?」
 いつもなら。やっぱり大丈夫です、って答えるはずなのに。
 夏樹とケンカしたせいだからか、今日の私は何だかおかしい。
「訊いて、欲しいです」
 私は柊さんを家の中に入れた。

 柊さんが私の部屋にあがるのは引越しの手伝いに来たのが最後だ。
 緊張しているのか、柊さんは居心地が悪そうに椅子に座っていた。私は柊さんと向かい合わせに座っている。
「付き合わせてしまってごめんなさい」
「謝らなくていい。あんなに泣いていたんだ、悲しいことがあったんだろう?」
「ちょっと、夏樹とケンカしてしまって。酷いこと言っちゃった」
 思い出すと、また泣けてきた。涙が滲む。これ以上、柊さんにみっともないところを晒したくなくて、気を紛らわそうと窓の外に目をやる。
「あれ、いつの間にか雨が降ってる」
 私は立ち上がると窓辺に近付く。柊さんも一緒に窓辺に近付くと空を見上げた。
「しばらく止みそうにないな」
 雨……か。憂鬱になっていくのがわかった。雨は嫌い。嫌なことを思い出すから。
「周防さん、顔色が悪いけど大丈夫か?」
 柊さんが私の顔を覗き込む。
「夏樹とケンカして……疲れちゃったみたい」
「横になって休んだ方がいい」
 柊さんが私を支えようと腕を伸ばしたその時、空が光った。部屋が稲光に包まれ、轟音が響く。
「きゃあっ!」
 反射的に柊さんに抱きついてしまった。停電して部屋が薄暗い。
「ご、ごめんなさい。びっくりして……」
 私はすぐに離れようとした。でも、足がすくんでしまって身体が言うことを聞いてくれない。
 どうしてこんな時に限って雨が降るの、雷が落ちるの……。もう、いやだ。
「柊さん私、足がすくんでしまって動けないので柊さんから離れてくれませんか?」
 すると、柊さんは私の手を取った。
「周防さんの手、震えてる」
「柊さん、離れて――」
「離れたくない。放したくもない」柊さんが、私を抱き締める。「君のことは妹みたいなものだと思っていた。でも違う」抱き締める腕に力が加わる。
「……好きだ」
 柊さんが、呟いた。
 



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