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第9話

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「春妃」
 夏樹の声で私は我に返った。
「あ、気分はどう?」
 私は夏樹の額に当ててた手を離そうとした。しかし夏樹は私の手首を掴む。
「痛っ」
 夏樹に手首を掴まれ、反射的に声が出た。
「そんな強く掴んでないけど痛かった? 春妃の手、冷たくて気持ち良かったから、もう少し額にのせておきたくて」
 そう言うと夏樹は不思議そうにして私が着ているブラウスの袖を捲る。
「湿布……? これ、どうしたの春妃」
「えっと仕事でドジっちゃって」
 私は適当に誤魔化した。夏樹には心配かけたくなくて近藤様のことを話せなかった。
「春妃は昔からドジだよな。小学生の時だって――」
 夏樹は呆れたように笑うと、私の嘘を疑いもせず昔話に興じる。
「夏樹、食欲はある? 何か作るけど」
「じゃあオムライス食べたい。昨日食べ損ねたから」
「わかった」
 私は立ち上がるとオムライスを作るためキッチンへ移動した。


 翌日は、すっきりと晴れていた。今日は一日暑くなりそうだった。

「えっと……どうした春妃?」
 ネクタイを結ぶ手を止めて夏樹がこっちを向いた。スーツを着た夏樹をまじまじと見つめていたのがバレたようだ。
「あ……なんかスーツを着ている夏樹が新鮮で。つい見ちゃっていた」
「なんだ」夏樹は私に近付くと頭を撫でた。「てっきり春妃が心細くて俺を見ているのかと思ったじゃん」
 私は今、パジャマ姿で額に冷却シートを貼っている。どうやら夏樹から風邪を貰ってしまったらしい。
「何か必要なものがあったら連絡ちょうだい。帰りに買ってくるから」
「うん。気を付けて」
 夏樹が出ていくと部屋の中が急に静かになる。変だな……今までこれが当たり前だったのに。夏樹と一緒に暮らし始めて毎日賑やかなせいか、急に一人になると何だか物足りない感じがする。
 私はタオルケットの中に潜ると何も考えないよう眠ることにした。


 今日初めて異動先への出勤だったが、初日は挨拶やらで気疲れする。
「吉原」
 名前を呼ばれて振り返ると同僚の辻が立っていた。
「今日、お前の歓迎会をしようかって話になっているんだけどいいよな?」
「今日は無理だ」
 辻は人懐っこい笑顔をさせながら俺に気さくに話し掛けてくる。最初は敬語で話していたが「敬語だと何だか気持ち悪いからタメ口でいいぜ」と辻に言われてから対等に話している。
「えぇ⁉ そこは予定入っていても参加するべきだろう。女子社員もお前と話がしたいって色めき立っていたのに」
「別に……仕事の話以外することないし」
 俺は自販機でコーヒーを二つ買うと一つを辻に渡した。辻はお礼を言うとコーヒーのプルタブを開ける。
「そんな冷たいこと言うなよ……我が社の女子社員は美人揃いだ。お前程のイイ男なら選り取り見取りだろ」
「選り取り見取りって女子社員に失礼な言い方するなよ。そんなんだから女子社員に相手にされないんだ」
「うっ」
 図星だったようで辻は苦い顔をしていた。
「お願いだよ、お前がいないと女子社員が寄ってこないんだよ。だから頼むよ」
 俺に縋りつく辻を適当にあしらう。が、辻はしつこく俺にまとわりつく。
「わかった。今日以外でなら参加するから」
「よっしゃー! じゃあ明日にするから! 良い店を予約しとくから楽しみにしとけよ」ガッツポーズをする辻を横に俺は溜息をつくと、コーヒーを飲もうと口元へ缶を運ぶ。
「ちなみにお前、今日は何の用事があんの」
 ピタリと俺の動きが止まった。口に付けていた缶を離す。
「――姉、の看病」
「えっ。吉原って姉ちゃんがいんの? 可愛い⁉」
 俺は辻の広い額に思いっきりデコピンする。
「喋りすぎだ。仕事に戻るぞ」
「えー、可愛いかどうか教えてくれたっていいじゃんか」
 辻は赤くなった額を撫でながら唇を尖らせた。そんな辻を相手にせず、俺は背中を向けると廊下を歩く。「世界一可愛いに決まってるだろ」ぼそりと、そう呟きながら。


 玄関の鍵が開く音で目が覚めた。
「春妃、風邪の具合はどうだ? 桃のゼリー買ってきた。春妃の好きなやつ」
 夏樹が片手に袋をぶら下げながら様子を見に来る。
「ありがとう」
 私は起き上がると、ぐっしょりと寝汗をかいていることに気付いた。パジャマが湿っていて気持ちが悪い。
「先にシャワー浴びてくるね」
「……わかった」
 夏樹に告げると私は浴室へ向かう。

 浴室からするシャワーの音を聞きながら俺は椅子に深く座ると天を仰いだ。春妃の無防備っぷりに辟易する。寝汗をかいてぴったりとはりついたパジャマは春妃の身体のラインをはっきりと浮かび上がらせていた。俺がどんな気持ちで見ているのか春妃はきっと気付いてないだろう。
 すると、インターフォンが鳴った。面倒くさくて居留守を使ったが何度も鳴らされ、俺は重い腰を上げると玄関のドアを開ける。
 
 そこには男が立っていた。


 

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