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第3話
しおりを挟むその日以来、夏樹くんの態度が変わった。親の前以外では私と関わろうとしなかったのに、二人きりでいる時も夏樹くんは私に話し掛けてくれるようになった。そして雨の日は必ず私のそばにいてくれた。私と夏樹くんは本当の姉弟かのように仲良くなった。
だけれど、私が十五歳の時――今度は父が亡くなったのだ。それも、雨の日に。
父が亡くなって精神的にまいっている私をお義母さんと夏樹くんは支えてくれたけれど、あの家に居づらくなった私は大学進学を機に家を出た。
それからというもの、家には帰っていない。
「周防さん、お客様のチェックイン落ち着いたから今日はもうあがっていいよ」
「では先に失礼します」
私の仕事はホテルのフロント受付だ。宿泊業というだけでハードワークに思われがちだけれど、バンケットやレストランのサービススタッフと違って宿泊が少ない日は残業もなく定時で帰れるし、休みもちゃんと週休二日ある。幸い上司や同僚、後輩にも恵まれて楽しくやっている。
雨はやんでいて、街は夏の蒸れた空気に包まれていた。
最寄駅から歩いて家に帰ると玄関前に男が立っているではないか。背が高くスラリと伸びた手足はまるでモデルのようだった。
「あの、ウチに何か……」
怪訝に尋ねると男は私の顔を見て二ッと口角を上げた。
「久しぶりだね、春妃」
私は目を見張った。この男を、私は知っている。
「夏樹……なの?」
「そうだよ。八年ぶりだよね? あれから家を出て行ったきり一度も帰ってこないなんて薄情にも程があるよ」
そう言うと夏樹は肩をくすめた。
「どうしてここにいるの」
「実は仕事で本社に異動が決まって」
「そうじゃなくて……どうして私の家を知っているの? お義母さんにも居場所を言ってないのに」
「探偵を使って探したんだよ」
ギラリと夏樹の目が光ったように見えた。恐怖で喉の奥がヒュッと鳴った。
「――というのは冗談で、たまたま街で春妃の姿を見掛けたから後をつけたんだよ。で、ここのマンションに住んでいることを知ったんだ」
「何それ……まるで――」
「ストーカーみたいって思った? ひどいな。俺たち姉弟なんでしょう? ねぇ春妃」
夏樹が私を見つめた。
姉弟。そう姉弟だ。でも夏樹はそうは思っていない。だって――。
十七歳の秋――。
その日は静かな雨が降っていた。薄暗い部屋で床に座りながら、いつものように夏樹が私に寄り添ってくれていた。
「雨が降る度にいつも夏樹に甘えちゃってごめんね。いつまでもこんなんじゃダメだよね」
私は隣に座っている夏樹の肩に頭をもたれながら言う。
「別にいいよ。俺はずっと春妃の隣にいるから」
いつの間にかお互いのことを“春妃”、“夏樹”と呼ぶようになっていた。
「それは無理でしょ」私は弱々しく笑うと、夏樹の肩に預けていた頭を起こした。「だって夏樹にいつか彼女ができるだろうし、私だって――」
「春妃、彼氏が欲しいの?」
そう言った夏樹の目が熱を帯びていたから、私は思わず目を伏せた。
私の手の上に重ねている夏樹の手が目に映る。ゴツゴツとして骨ばっていて男性の手をしていた。
静かな部屋に、外で降る雨音が聞こえる。薄暗い部屋に、雨粒が付いた窓の影が落ちる。
「春妃――」
夏樹が腰を浮かせると私の顔を覗き込む。最初に会った時はお人形のような可愛い顔をしていたのに、高校生にもなった夏樹の顔は可愛さなどなく彫刻のように綺麗で端正な顔をしていた。そして、その瞳は何かを狙っているような鋭い眼光がさしていた。
夏樹の顔が近い。これじゃまるで、キスをするかのような――。
「いやっ」
私は夏樹を突き飛ばした。
「春妃。俺――」
「いい。何も言わないで。私、これからはちゃんと雨の日でも大丈夫になれるようにするから……夏樹の――お姉ちゃんなんだもん。姉らしくしなきゃだよね」
それから私は夏樹のことを避けるようになった。そして、進学を理由にあの家を出たというのに。
「そうだ、春妃」
夏樹の声で私は現実へと戻される。
「俺、まだ住むとこ決まってないんだよね。しばらくの間、泊めてくれない?」
雨音が聞こえる。また、雨が降り出したようだ。
雨の日は嫌いだ。思い出したくない記憶を引き出させるから。私の心をかき乱すから。
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