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1巻
1-3
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美琴に触れて、これが気持ちのいい行為なのだと、恥ずかしがる必要はないのだと少しずつ教えてくれたのだ。
彼にキスをされると、下着が濡れることを知った。
そこにとても繊細な場所があって、優しく触れられると体に熱と痺れが生まれた。
最初は、下着を汚してしまうのがはしたなく思えて嫌だった。
けれど優斗は『美琴の体が俺を受け入れる準備をしているんだから、むしろ濡れたほうがいい』のだと教えて聞かせた。
ソファにもたれると、優斗は膝の間に美琴を抱き上げて背後から腕を回す。
舌を絡めるキスをして、互いの唾液を飲み合って、美琴の体から緊張が抜けるのを待つ。そして最初は下着の上から触って、少し湿らせてから脱がせるのだ。
「美琴、脚を開いて」
スカートで隠れるとはいえ、立てた膝を開くのは恥ずかしくてたまらなかった。けれどその恥ずかしささえ、いつしか快感に変化した。
優斗の綺麗な指が伸びて、スカートの陰に隠れる。すっかり濡れそぼったそこは、彼の指の動きを助けるかのように蜜を零し続ける。
「よかった、濡れている。濡れるのが早くなったし、量も増えた」
「い、わないで」
「なんで? 美琴が俺との行為に慣れてきた証拠だ。俺は嬉しいよ。美琴の体が俺を受け入れる準備ができ始めたってことだから。ほら」
表面に触れているだけなのに、粘着質な音が聞こえ始める。美琴自身も、彼の指の滑りのよさで濡れているのを自覚する。
軽い快感が背中をかけ上がるたびに、美琴は優斗の腕にすがりついた。優斗の指は強弱をつけて、美琴の敏感な場所を撫で続ける。
「ここも最初は小さくてわかりづらかったけど、今は膨らんでいる」
そこがそんな風になることも、彼に言われるまで知らなかった。
「いつか俺に美琴のココ、見せて。今は触るだけだけど、いつか見て味わって舐めつくしたい」
そう言って、その代わりのように美琴の耳たぶを舐める。彼らしくない卑猥な台詞さえも、いつしか美琴の体を燃え上がらせるスパイスになった。
優斗に導かれるままに、美琴は素直にのぼりつめる。
「あ……、ゆう、と」
「イきそう? じゃあ、まずはここで一度イこう」
多少力を込められても痛みなど一切なかった。優斗はすっかり膨らんだ敏感な粒を小刻みにしごく。
美琴はなんとか声を殺して、優斗の腕の中で大きく震えた。
「かわいい、美琴。ああ、どっと零れてきた」
「あっ……ふっ、優斗、だめっ」
美琴が達した瞬間、優斗は美琴の中へと指を滑らせる。最初は指が入るだけで怖くて、痛みさえあったのに今はすんなり呑み込めるようになった。それは美琴がその場所での快楽を覚えた証拠でもある。
「指が一気に二本入るようになった……やわらかくて熱くて、気持ちいい」
互いの熱い吐息が漏れて、先ほどよりもいやらしい蜜の音が大きく響く。
優斗の穏やかな声音も、さらに低く甘く耳に届く。
「はっ、あっ、優斗、んんっ」
「美琴、かわいい声いっぱい出して。俺に聞かせて」
「あっ、あっ、だめ、あ……」
優斗の指はゆっくりと美琴の中を探る。そうして美琴の体が反応する場所を繰り返し撫で続けるのだ。こうなると、もう声が抑えられない。こんな卑猥な声が自分から出るなんて嫌だと思うのに、抗えない。
「美琴、少し激しくするよ」
「優斗、だめ、怖い」
彼の腕をどけようと力をこめても入らない。むしろ美琴の体の中心は、幾度か経験した気持ち良さを貪欲に味わおうと蠢いている。優斗の指をきゅっと締めつけると、ますます痺れが走った。
「大丈夫。俺が抱きしめているから素直にイって。いやらしく啼いて」
優斗の言葉に誘われるように、美琴は素直に喘いで達した。彼にしがみついて、知らない場所に飛ばされそうな感覚に耐える。
「ゆう、と」
見上げれば、優斗も目を閉じて眉間に皺を寄せて熱い息を吐いていた。
「は……ごめん。このままじっとして」
「優斗……」
きっと本当は今すぐにでも挿入したいはずだ。美琴だって、何度となくそういう気持ちになった。今は羞恥や恐怖よりも、未知の世界を知りたいとさえ思っている。
「優斗、いいよ。私……多分大丈夫だ、から」
「とても魅力的な誘いだけど、避妊具はまだ準備していない。あればきっと我慢できなくなるから、戒めの意味で――だから美琴が大丈夫なら次はしよう。そろそろ俺も限界だしね」
うっすらと額に汗をかきながら、優斗が苦笑する。
美琴が行為に慣れるまでゆっくり進んでくれた。最初は余裕そうに見えたのに、今は彼の表情からそれがなくなっている。
「……私、大丈夫。避妊具はなくても」
「え?」
「高校生の時からピルを飲んでいるの。生理痛がひどくて、だから……」
優斗は驚いたように目を見開く。そしてしばらくの間固まっていた。
「……美琴。それ、俺以外の男の前では絶対に言わないで」
「優斗以外には言わないよ?」
「ピルを飲んでいても、避妊はしたほうがいい」
「うん、わかっている」
避妊具は妊娠だけではなく性病を防ぐためでもある。だから優斗が窘めてくれて、逆に安心する。彼は美琴との関係を真面目に考えているのだ。
「……ありがとう。俺のこと気遣ってくれたんだろう? でも俺はこうして美琴に触れられるだけでいいし、大丈夫だって言ってくれたのも嬉しい」
「こんな風に優斗に触られて、初めての感覚ばかりで戸惑うし恥ずかしい。でも私も優斗としたいよ」
「美琴――俺、今必死に耐えているから誘惑しないでくれ」
言いながら優斗は美琴の唇を塞いだ。美琴を強く抱きしめながら貪るように激しく。
今は、これから先に進まずに済むように。
施設に隣接するバスケットコートは、近隣の子どもたちも利用している。彼らと施設の子どもたちとの間でトラブルが頻繁に起きていた頃もあったけれど、地域との交流が密になるにつれて、皆で仲良く使えるようになった。長年の地道な活動の積み重ねのおかげだ。
優斗は小学生の頃からバスケットボールのクラブチームに所属していたらしい。中学でも学校の部活動ではなくそのままクラブチームで活動し、高校生の途中から海外のインターナショナルスクールへ通った。そのタイミングでクラブチームを辞めて、以降は趣味で楽しんでいる。
子どもたちは優斗が来ると、バスケットボールを教えてほしいと誘う。だから彼は大抵子どもたちとバスケットコートにいることが多かった。
その日、美琴は少し遅れて施設へ向かっていた。
バスケットコートでは思った通り、子どもたちの声とボールをつく音が聞こえる。優斗と子どもたちがバスケを楽しんでいるのだろうとそこを見れば、いつもとは違う光景が広がっていた。
「優兄ちゃん、頑張って!」
「もう一人の兄ちゃんも、すげーよ」
優斗と、見知らぬ同世代の男性が一対一で対戦している。
優斗が相手の男性をかわして、シュートする。やはり動きが軽やかで、いつ見てもそのフォームは綺麗だ。
子どもたちは応援に回っていたが、その中に綺麗な女性がいた。
「優斗、すごい! 航星も頑張って!」
「お姉ちゃんってどっちの味方なの?」
「ふふ、どっちもだよ」
少し茶色がかった髪は、綺麗なストレート。薄手のカーディガンを羽織ったフレアスカート姿はおとなしめの格好だが、上品だ。
「航星、ちょっと鈍ったんじゃないか?」
「俺は久しぶりなんだよ」
男性のほうは膝に両手をつくと、憎らしそうに優斗を睨む。すると、彼もまた意地悪そうに笑った。大学で見かける時の大人びて近寄りがたい彼でもなく、施設で子どもたちと接する時の優しい穏やかな彼でもない。
子どものような少年のような、そんな無邪気な姿を美琴は初めて見た気がした。
「航星、はい、お水。優斗も」
女性が、近くの自動販売機で購入したらしいペットボトルを二人に渡す。
「舞衣は? 水分とった?」
男性は勢いよく飲んだ後、残りを彼女に渡した。
「応援で立っているだけでも疲れるだろう?」
「これぐらいで疲れないよ。久しぶりに二人がバスケしている姿を見られて嬉しい」
舞衣と呼ばれた女性は、ふわりとかわいらしくほほ笑んで、優斗と男性を見上げる。
その笑みを見て優斗もまた、優しい眼差しで彼女を見つめて笑みを浮かべる。
この世の中で一番大事なものを見るお手本のように、それはとても綺麗で静謐で透き通っていて――
周囲には子どもたちもいるのに、そこに彼らだけしか存在していないような錯覚すら覚える。
明らかに特別な関係であるとわかる、三人の空気。
なによりも優斗が――まるで見知らぬ男性のようだ。
スリーポイントシュートを決めた姿を見た時と似た感覚が蘇る。それを不思議に思うと同時になぜか胸がざわついて、美琴はわずかに混乱した。
――見てはいけないものを見てしまったかのように。
不意に、舞衣が立ち尽くしたままの美琴の姿を認めて、軽く頭を下げた。
優斗が自然にその視線を追って、美琴の存在に気づく。彼は美琴を見て嬉しそうに笑いつつ、困ったように肩をすくめた。
優斗の空気が美琴の知っているものに変わった瞬間、美琴はひゅっと息を呑んだ。今まで無意識に呼吸を止めていたことに気づく。自分はいったい今、どんな気持ちなんだろう。
バスケットコートでは、今度は子どもたちがバスケを楽しんでいる。
その隅で、美琴は彼らと挨拶を交わしていた。
「こっちは小学校からの友人の浅井航星。同じく千本木舞衣。航星は国立大学の医学部に通っている。舞衣は俺たちと同じA大。そしてこちらは施設のボランティアで知り合った芹澤美琴さん、彼女もA大だよ」
浅井航星は優斗と同じぐらい背が高く、彼とは違うタイプのイケメンだった。
メガネをかけて美琴を見る目は少し冷たい感じがする。頭の良さそうなインテリな雰囲気は、医学部だと聞いたせいだろうか。
逆に千本木舞衣は、そんな航星の態度を気にしながらもにこやかだ。綺麗だけれど派手な感じは一切なく、真面目で優しい印象を受ける。
優斗の周囲ではあまり見ないタイプの女性だ。
「A大、ね。大学が先? こっちが先?」
「こっちが先だ」
「ふうん。それよりおまえがこういう場所に通っているなんて、全く気づかなかった」
「そのまま気づかなくてよかったんだけど」
こんなやりとりを聞いていると仲がいいとは思えないけれど、遠慮の必要がないぐらい親しいということなのだろう。美琴は航星の強い口調を少し苦手に感じた。
「あの、ね、電車で偶然優斗を見かけたの。それで、珍しい駅で降りていくから気になって後をつけちゃって……」
「いきなり背後から二人に声をかけられて、俺も驚いた」
美琴の困惑に気づいたのか、先回りして舞衣が説明し、優斗が補足する。美琴はこの状況をなんとなく理解した。
今まで、優斗が友人を施設に連れてきたことはない。美琴もそうだ。
優斗と出会ってからは、この場所はボランティアのためだけではない、二人にとって特別な場所だと思っていた。
二人が出会った場所だから――
「それで、あんたは? 優斗のなに? ただのボランティア仲間?」
「ちょっと、航星! いきなり不躾だよ」
「舞衣も気になっているだろう?」
「……それは、そうだけど」
先ほど彼が困ったように美琴を見たのは、こういうことだったのだろう。優斗は『どうする? 黙っていたほうがいい?』という風に再び美琴を見やった。
彼らが優斗の友人でなければ、誤魔化してもよかったのかもしれない。
でも、不意に思う。
優斗こそ、いいのだろうか、と。
彼らに自分たちの関係が知られて、彼は困らないだろうか、と。
だから美琴は、判断を優斗に委ねるべく小さく頷く。
「美琴とは付き合っている。でも、ここでも大学でも秘密にしてほしい。騒がれたくない」
「それはそうだな……。まあ、俺が誰かに言うことはない」
「私もだよ。優斗の大学での人気はすごいもの。……騒がれたくない気持ちはわかる」
美琴は曖昧にほほ笑んだ。
美琴が一言も発することなく彼らの会話は進む。なぜかこの場所で自分だけが異質に思えて、優斗は目の前にいるのにやっぱり知らない人に見える。
大学にいる時の彼以上に、小学校からの友人の前の彼は近寄りがたい気がした。
――『あの子だけが特別』
その言葉が指す対象が彼女であると思い出したのは、その日の夜だった。
A大は、小学校から大学までエスカレーター式で進学することができる。小学校からの内部進学者同士の結束が外部生の想像以上に固いのだと知ったのは、優斗と付き合い始めてからだ。
あまり噂話は好きではなかったけれど、彼らと顔を合わせてから美琴は内部生にさりげなく話を聞いた。
知りたかったのは千本木舞衣について。
優斗からは、航星と舞衣は付き合っているのだとその日のうちに教えてもらっていた。
『舞衣ちゃんはね、お兄ちゃんがバスケのクラブチームのエースだったの。それがきっかけで、クラブチームメンバーの同級生の男の子たちと仲が良かったのよ』
それが優斗や航星たちだ。
その年のクラブチームメンバーは優秀な上に、イケメンぞろいだったようで、小学生の頃から同級生の間でも彼らは憧れの存在だったらしい。
兄の繋がりでメンバーと仲が良かった舞衣は、周囲から嫉妬と羨望の眼差しを浴びていた。
嫌がらせもあったようで、だからこそ余計にチームメンバーは舞衣を庇っていたのだという。兄世代のチームメンバーもそれに加わり、舞衣はまさしく騎士に守られるお姫様のような立ち位置だった。
『いつ、誰と付き合ってもおかしくない感じだったけど、黒川くんが高校の時に海外に行ってからしばらくして、浅井くんと付き合いだしたの』
舞衣が誰と交際するかは注目の的だったようで、ようやく航星と付き合ってくれて周囲は安心したという。舞衣が選ばなかった他の男の子たちにアプローチしやすくなったからだ。
ただ、優斗だけは海外に行っていたので、女の子たちが群がることがなかった。
『元々、黒川くんは年上の女性と付き合っているとか、頻繁に彼女が変わるとか噂はいっぱいあったけど、いつだって舞衣ちゃん優先だったから、内部生の女の子たちは早々にあきらめていたんだって』
そして大学進学と同時に、航星は国立の医学部へ進学した。
優斗が大学へ戻ってきて、再び彼と舞衣が大学構内で一緒にいるのを見かけるようになって、本当はどっちと付き合っているのかと内部生の間では時折話題になっていたらしい。
『黒川くんにとって舞衣ちゃんは特別だから』
なにをもってして『特別』なのか不明でも、優斗の舞衣への接し方は明らかに他の女の子とは違うというのが、内部生の共通認識だ。
最初にその噂を耳にした時、『特別』なのは小学校からの幼馴染だからだと安易に思っていた。
でもきっと、そんな単純な話ではないのだろう。
(だって……あんな表情、彼女にしか見せない)
バスケットコートで戯れる三人を見た時に抱いた感覚。
優斗が舞衣を見る目や、語りかける声音、無邪気に笑う顔――すべてが、美琴の知らない優斗の姿。子どもたちと遊んでいる時でさえ、彼は兄のような態度を崩さない。美琴の前でも、いつも落ち着いて穏やかだ。
これまで優斗の気持ちを疑ったことはなかった。彼に大事にされていると、きちんと実感していた。
でも、それは美琴が優斗の恋人だからだ。
おそらく、優斗は恋人が美琴でなくても同じように優しく大事にするだろう。
優斗が舞衣に恋愛感情を抱いているのかどうかはわからない。でも彼にとって舞衣は、恋人とも友達とも違う次元の存在なのだと思う。
まさしく『特別』。
もし美琴と舞衣が一緒にいたら、彼は無意識に彼女を優先させるはずだ。
(あの時、私は部外者だった)
この先、優斗と自分の関係が破綻しても、おそらく舞衣との関係が破綻することはない。
あの日、美琴にそう思わせるほど強固な絆を感じたのは錯覚ではないだろう。
「舞衣、こっち」
優斗が仲間たちと集まる学食のテラス席。パラソルの下の日陰の席へと優斗は舞衣を誘う。他にも人がいるのに、彼が率先して自ら声をかけるのは舞衣に対してだけだ。
「ありがとう、優斗」
恋人である航星がそばにいない代わりに優斗が彼女を守っているのだと、ある内部生は話していた。
『小学生時代からずっとそうだったからその延長線上なんだろうけど、あれじゃあ知らない人が見たら、黒川くんが恋人みたいだよね』
美琴は遠くからその場面を眺める。
現実の舞衣と知り合ったせいで、彼らの情報を仕入れたせいで、今までは何気なく見過ごしていた些細なことが、やけに目につくようになった。
美琴は初めて誰かを嫌いだと思った。
優斗は、企業主催のアントレプレナーシップイベントの選考に残ったことで、一段と忙しくなった。しばらくは施設へのボランティアにも来られないし、なかなか会えないかもしれないのだという。
ただ、彼からは部屋の合鍵を渡されて、美琴が来たい時にいつでも来ていいからと告げられた。
美琴もちょうど保育士の実習が入るため、お互いやるべきことに集中しようと話していたところだった。
美琴の学部は、授業単位をいくつか取って実習へ行くことで保育士の資格を取得できる。
今保育士になりたいわけではないけれど、いつかそういう道に進みたいと思った時のために資格は取っておいたほうがいいと考えてのことだ。将来、児童養護施設で働く可能性があるなら、なおさら保育士の資格はあったほうがいい。
美琴はしばらくはボランティアに来られないことを伝えるために、その日一人で施設を訪れていた。
「……千本木さん」
子どもたちに囲まれていたのは舞衣で、美琴はびっくりした。
いつの間にか子どもたちに「舞衣ちゃん」と呼ばれていて、今日が初めての訪問ではないことにも気づく。
「芹澤さん。私もボランティア登録させてもらって、週一回ペースでここに来ているの」
優斗が施設に来ていると知ってから、子どもたちのことが気になったのだと舞衣は続ける。
「今日、優斗は来ないよ」
舞衣がそう教えてくれる。
まるで自分だけが優斗のスケジュールを把握しているかのように、美琴には聞こえた。
「あ……知っています。私もしばらく来られないからそのことを伝えに」
「えー、美琴ちゃん来られないの? どうして?」
子どもたちがびっくりしたように問いかけてくる。
「ええと、保育実習へ行くのよ」
美琴が答えると、それなら仕方ないわね、と施設の職員が小さな子どもたちを宥める。
子どもたちに「折り紙教えてー」と言われた美琴は、すぐにそちらに対応することにした。
笑顔を見せながらも、心の中にはもやもやしたものがどんどん広がっていく。
施設としては人手は多いほうがいい。舞衣が興味を持ってボランティアをしてくれるならありがたい。それなのに、この場所に舞衣がいるのが嫌で嫌でたまらない。
ここは美琴にとって大事な場所だ。
幼い頃の思い出も含めて、中学生の頃から母とともにずっと通ってきた。
そして優斗と出会った場所でもある。
その特別な場所に舞衣がいるのがたまらなく嫌で、同時にそんな身勝手な感情を抱く自分にも嫌悪を覚える。
不意に美琴の腕が作業テーブルの端に当たり、ガチャンと色鉛筆がケースごと落ちて床に散らばった。
「あ、ごめん」
「いいよー、芯折れてないといいけど」
小学生の女の子が拾ってくれる。美琴も慌ててそれらを拾い上げた。
「はい」
足元に転がった色鉛筆を舞衣が差し出す。
「ありがとう」
「ねえ、私も美琴ちゃんって呼んでいい?」
舞衣の申し出に、美琴は咄嗟に言葉に詰まった。
施設のボランティアは、子どもたちが呼びやすいように呼ぶのを優先しているので、下の名前で呼び合うようになるのは自然なことだ。だから、断る理由がない。
「私も舞衣でいいから」
「……はい」
「同級生だから敬語もなしね」
「……うん」
それからなんとはなしに、美琴は舞衣も交えて子どもたちと遊ぶことになった。
今日、施設に行くことは優斗に伝えていた。その帰りに彼の部屋に寄ることも。
けれど美琴は今、施設から駅までの道を舞衣とともに歩いている。
もう日が落ちる時間が早くなっており外は暗いが、駅までの道は大通りに面していて明るかった。
「美琴ちゃんは、優斗といつから付き合っているの?」
「二年の終わりぐらいから」
美琴は迷いつつ素直に答えた。
舞衣がぽつりと「結構、長いんだね」と呟く。
「あ、優斗って、その、モテるから結構女の子のサイクル短い印象があって」
優斗が女の子に慣れているのは最初からわかっていた。でもそんな情報はいらない。
舞衣は良きにつけ悪しきにつけ、思ったことをすぐに口にする素直なタイプなのだろう。
「それだけ美琴ちゃんが大事なんだね……いいな」
「舞衣ちゃんも彼と長いんでしょう?」
「航星? うん、高校から付き合い始めたから。でも大学違うし、医学部の勉強が忙しいみたいで。大学四年生になったら臨床実習も始まるから多分、ますます会えない」
舞衣は寂しそうに言った。
「ほら、私たち内部進学だから、小学校からずっと一緒だったの。優斗が海外に行った時も寂しかったし、航星が別の大学に行くって決めた時もすごく辛かった。まあ、でも好きな人の夢は応援しないと、ね」
自分に言い聞かせている舞衣の姿を見ていると、彼女がどれほど航星を好きか伝わってくる。
(そうよ、彼女が好きなのは優斗じゃない)
幼馴染から恋人になった、長い付き合いの相手がいる。その存在を美琴も知っている。
でも美琴にはそんな幼馴染のような存在はいないから、彼らの絆の強さがどれほどかは想像できない。
「美琴ちゃんは、このまま優斗と付き合っていることは秘密にするの?」
「……そのつもりだけど」
「でも、今も優斗、たくさん告白されているよ。自分が彼女です! って言ったほうが牽制にならない?」
「浅井くんもモテそうだけど、舞衣ちゃんがいるからって告白されないの?」
「……私たちは大学が違うから。でも航星は告白されてもきちんと断ってくれるし――そうね、優斗も一緒か」
彼にキスをされると、下着が濡れることを知った。
そこにとても繊細な場所があって、優しく触れられると体に熱と痺れが生まれた。
最初は、下着を汚してしまうのがはしたなく思えて嫌だった。
けれど優斗は『美琴の体が俺を受け入れる準備をしているんだから、むしろ濡れたほうがいい』のだと教えて聞かせた。
ソファにもたれると、優斗は膝の間に美琴を抱き上げて背後から腕を回す。
舌を絡めるキスをして、互いの唾液を飲み合って、美琴の体から緊張が抜けるのを待つ。そして最初は下着の上から触って、少し湿らせてから脱がせるのだ。
「美琴、脚を開いて」
スカートで隠れるとはいえ、立てた膝を開くのは恥ずかしくてたまらなかった。けれどその恥ずかしささえ、いつしか快感に変化した。
優斗の綺麗な指が伸びて、スカートの陰に隠れる。すっかり濡れそぼったそこは、彼の指の動きを助けるかのように蜜を零し続ける。
「よかった、濡れている。濡れるのが早くなったし、量も増えた」
「い、わないで」
「なんで? 美琴が俺との行為に慣れてきた証拠だ。俺は嬉しいよ。美琴の体が俺を受け入れる準備ができ始めたってことだから。ほら」
表面に触れているだけなのに、粘着質な音が聞こえ始める。美琴自身も、彼の指の滑りのよさで濡れているのを自覚する。
軽い快感が背中をかけ上がるたびに、美琴は優斗の腕にすがりついた。優斗の指は強弱をつけて、美琴の敏感な場所を撫で続ける。
「ここも最初は小さくてわかりづらかったけど、今は膨らんでいる」
そこがそんな風になることも、彼に言われるまで知らなかった。
「いつか俺に美琴のココ、見せて。今は触るだけだけど、いつか見て味わって舐めつくしたい」
そう言って、その代わりのように美琴の耳たぶを舐める。彼らしくない卑猥な台詞さえも、いつしか美琴の体を燃え上がらせるスパイスになった。
優斗に導かれるままに、美琴は素直にのぼりつめる。
「あ……、ゆう、と」
「イきそう? じゃあ、まずはここで一度イこう」
多少力を込められても痛みなど一切なかった。優斗はすっかり膨らんだ敏感な粒を小刻みにしごく。
美琴はなんとか声を殺して、優斗の腕の中で大きく震えた。
「かわいい、美琴。ああ、どっと零れてきた」
「あっ……ふっ、優斗、だめっ」
美琴が達した瞬間、優斗は美琴の中へと指を滑らせる。最初は指が入るだけで怖くて、痛みさえあったのに今はすんなり呑み込めるようになった。それは美琴がその場所での快楽を覚えた証拠でもある。
「指が一気に二本入るようになった……やわらかくて熱くて、気持ちいい」
互いの熱い吐息が漏れて、先ほどよりもいやらしい蜜の音が大きく響く。
優斗の穏やかな声音も、さらに低く甘く耳に届く。
「はっ、あっ、優斗、んんっ」
「美琴、かわいい声いっぱい出して。俺に聞かせて」
「あっ、あっ、だめ、あ……」
優斗の指はゆっくりと美琴の中を探る。そうして美琴の体が反応する場所を繰り返し撫で続けるのだ。こうなると、もう声が抑えられない。こんな卑猥な声が自分から出るなんて嫌だと思うのに、抗えない。
「美琴、少し激しくするよ」
「優斗、だめ、怖い」
彼の腕をどけようと力をこめても入らない。むしろ美琴の体の中心は、幾度か経験した気持ち良さを貪欲に味わおうと蠢いている。優斗の指をきゅっと締めつけると、ますます痺れが走った。
「大丈夫。俺が抱きしめているから素直にイって。いやらしく啼いて」
優斗の言葉に誘われるように、美琴は素直に喘いで達した。彼にしがみついて、知らない場所に飛ばされそうな感覚に耐える。
「ゆう、と」
見上げれば、優斗も目を閉じて眉間に皺を寄せて熱い息を吐いていた。
「は……ごめん。このままじっとして」
「優斗……」
きっと本当は今すぐにでも挿入したいはずだ。美琴だって、何度となくそういう気持ちになった。今は羞恥や恐怖よりも、未知の世界を知りたいとさえ思っている。
「優斗、いいよ。私……多分大丈夫だ、から」
「とても魅力的な誘いだけど、避妊具はまだ準備していない。あればきっと我慢できなくなるから、戒めの意味で――だから美琴が大丈夫なら次はしよう。そろそろ俺も限界だしね」
うっすらと額に汗をかきながら、優斗が苦笑する。
美琴が行為に慣れるまでゆっくり進んでくれた。最初は余裕そうに見えたのに、今は彼の表情からそれがなくなっている。
「……私、大丈夫。避妊具はなくても」
「え?」
「高校生の時からピルを飲んでいるの。生理痛がひどくて、だから……」
優斗は驚いたように目を見開く。そしてしばらくの間固まっていた。
「……美琴。それ、俺以外の男の前では絶対に言わないで」
「優斗以外には言わないよ?」
「ピルを飲んでいても、避妊はしたほうがいい」
「うん、わかっている」
避妊具は妊娠だけではなく性病を防ぐためでもある。だから優斗が窘めてくれて、逆に安心する。彼は美琴との関係を真面目に考えているのだ。
「……ありがとう。俺のこと気遣ってくれたんだろう? でも俺はこうして美琴に触れられるだけでいいし、大丈夫だって言ってくれたのも嬉しい」
「こんな風に優斗に触られて、初めての感覚ばかりで戸惑うし恥ずかしい。でも私も優斗としたいよ」
「美琴――俺、今必死に耐えているから誘惑しないでくれ」
言いながら優斗は美琴の唇を塞いだ。美琴を強く抱きしめながら貪るように激しく。
今は、これから先に進まずに済むように。
施設に隣接するバスケットコートは、近隣の子どもたちも利用している。彼らと施設の子どもたちとの間でトラブルが頻繁に起きていた頃もあったけれど、地域との交流が密になるにつれて、皆で仲良く使えるようになった。長年の地道な活動の積み重ねのおかげだ。
優斗は小学生の頃からバスケットボールのクラブチームに所属していたらしい。中学でも学校の部活動ではなくそのままクラブチームで活動し、高校生の途中から海外のインターナショナルスクールへ通った。そのタイミングでクラブチームを辞めて、以降は趣味で楽しんでいる。
子どもたちは優斗が来ると、バスケットボールを教えてほしいと誘う。だから彼は大抵子どもたちとバスケットコートにいることが多かった。
その日、美琴は少し遅れて施設へ向かっていた。
バスケットコートでは思った通り、子どもたちの声とボールをつく音が聞こえる。優斗と子どもたちがバスケを楽しんでいるのだろうとそこを見れば、いつもとは違う光景が広がっていた。
「優兄ちゃん、頑張って!」
「もう一人の兄ちゃんも、すげーよ」
優斗と、見知らぬ同世代の男性が一対一で対戦している。
優斗が相手の男性をかわして、シュートする。やはり動きが軽やかで、いつ見てもそのフォームは綺麗だ。
子どもたちは応援に回っていたが、その中に綺麗な女性がいた。
「優斗、すごい! 航星も頑張って!」
「お姉ちゃんってどっちの味方なの?」
「ふふ、どっちもだよ」
少し茶色がかった髪は、綺麗なストレート。薄手のカーディガンを羽織ったフレアスカート姿はおとなしめの格好だが、上品だ。
「航星、ちょっと鈍ったんじゃないか?」
「俺は久しぶりなんだよ」
男性のほうは膝に両手をつくと、憎らしそうに優斗を睨む。すると、彼もまた意地悪そうに笑った。大学で見かける時の大人びて近寄りがたい彼でもなく、施設で子どもたちと接する時の優しい穏やかな彼でもない。
子どものような少年のような、そんな無邪気な姿を美琴は初めて見た気がした。
「航星、はい、お水。優斗も」
女性が、近くの自動販売機で購入したらしいペットボトルを二人に渡す。
「舞衣は? 水分とった?」
男性は勢いよく飲んだ後、残りを彼女に渡した。
「応援で立っているだけでも疲れるだろう?」
「これぐらいで疲れないよ。久しぶりに二人がバスケしている姿を見られて嬉しい」
舞衣と呼ばれた女性は、ふわりとかわいらしくほほ笑んで、優斗と男性を見上げる。
その笑みを見て優斗もまた、優しい眼差しで彼女を見つめて笑みを浮かべる。
この世の中で一番大事なものを見るお手本のように、それはとても綺麗で静謐で透き通っていて――
周囲には子どもたちもいるのに、そこに彼らだけしか存在していないような錯覚すら覚える。
明らかに特別な関係であるとわかる、三人の空気。
なによりも優斗が――まるで見知らぬ男性のようだ。
スリーポイントシュートを決めた姿を見た時と似た感覚が蘇る。それを不思議に思うと同時になぜか胸がざわついて、美琴はわずかに混乱した。
――見てはいけないものを見てしまったかのように。
不意に、舞衣が立ち尽くしたままの美琴の姿を認めて、軽く頭を下げた。
優斗が自然にその視線を追って、美琴の存在に気づく。彼は美琴を見て嬉しそうに笑いつつ、困ったように肩をすくめた。
優斗の空気が美琴の知っているものに変わった瞬間、美琴はひゅっと息を呑んだ。今まで無意識に呼吸を止めていたことに気づく。自分はいったい今、どんな気持ちなんだろう。
バスケットコートでは、今度は子どもたちがバスケを楽しんでいる。
その隅で、美琴は彼らと挨拶を交わしていた。
「こっちは小学校からの友人の浅井航星。同じく千本木舞衣。航星は国立大学の医学部に通っている。舞衣は俺たちと同じA大。そしてこちらは施設のボランティアで知り合った芹澤美琴さん、彼女もA大だよ」
浅井航星は優斗と同じぐらい背が高く、彼とは違うタイプのイケメンだった。
メガネをかけて美琴を見る目は少し冷たい感じがする。頭の良さそうなインテリな雰囲気は、医学部だと聞いたせいだろうか。
逆に千本木舞衣は、そんな航星の態度を気にしながらもにこやかだ。綺麗だけれど派手な感じは一切なく、真面目で優しい印象を受ける。
優斗の周囲ではあまり見ないタイプの女性だ。
「A大、ね。大学が先? こっちが先?」
「こっちが先だ」
「ふうん。それよりおまえがこういう場所に通っているなんて、全く気づかなかった」
「そのまま気づかなくてよかったんだけど」
こんなやりとりを聞いていると仲がいいとは思えないけれど、遠慮の必要がないぐらい親しいということなのだろう。美琴は航星の強い口調を少し苦手に感じた。
「あの、ね、電車で偶然優斗を見かけたの。それで、珍しい駅で降りていくから気になって後をつけちゃって……」
「いきなり背後から二人に声をかけられて、俺も驚いた」
美琴の困惑に気づいたのか、先回りして舞衣が説明し、優斗が補足する。美琴はこの状況をなんとなく理解した。
今まで、優斗が友人を施設に連れてきたことはない。美琴もそうだ。
優斗と出会ってからは、この場所はボランティアのためだけではない、二人にとって特別な場所だと思っていた。
二人が出会った場所だから――
「それで、あんたは? 優斗のなに? ただのボランティア仲間?」
「ちょっと、航星! いきなり不躾だよ」
「舞衣も気になっているだろう?」
「……それは、そうだけど」
先ほど彼が困ったように美琴を見たのは、こういうことだったのだろう。優斗は『どうする? 黙っていたほうがいい?』という風に再び美琴を見やった。
彼らが優斗の友人でなければ、誤魔化してもよかったのかもしれない。
でも、不意に思う。
優斗こそ、いいのだろうか、と。
彼らに自分たちの関係が知られて、彼は困らないだろうか、と。
だから美琴は、判断を優斗に委ねるべく小さく頷く。
「美琴とは付き合っている。でも、ここでも大学でも秘密にしてほしい。騒がれたくない」
「それはそうだな……。まあ、俺が誰かに言うことはない」
「私もだよ。優斗の大学での人気はすごいもの。……騒がれたくない気持ちはわかる」
美琴は曖昧にほほ笑んだ。
美琴が一言も発することなく彼らの会話は進む。なぜかこの場所で自分だけが異質に思えて、優斗は目の前にいるのにやっぱり知らない人に見える。
大学にいる時の彼以上に、小学校からの友人の前の彼は近寄りがたい気がした。
――『あの子だけが特別』
その言葉が指す対象が彼女であると思い出したのは、その日の夜だった。
A大は、小学校から大学までエスカレーター式で進学することができる。小学校からの内部進学者同士の結束が外部生の想像以上に固いのだと知ったのは、優斗と付き合い始めてからだ。
あまり噂話は好きではなかったけれど、彼らと顔を合わせてから美琴は内部生にさりげなく話を聞いた。
知りたかったのは千本木舞衣について。
優斗からは、航星と舞衣は付き合っているのだとその日のうちに教えてもらっていた。
『舞衣ちゃんはね、お兄ちゃんがバスケのクラブチームのエースだったの。それがきっかけで、クラブチームメンバーの同級生の男の子たちと仲が良かったのよ』
それが優斗や航星たちだ。
その年のクラブチームメンバーは優秀な上に、イケメンぞろいだったようで、小学生の頃から同級生の間でも彼らは憧れの存在だったらしい。
兄の繋がりでメンバーと仲が良かった舞衣は、周囲から嫉妬と羨望の眼差しを浴びていた。
嫌がらせもあったようで、だからこそ余計にチームメンバーは舞衣を庇っていたのだという。兄世代のチームメンバーもそれに加わり、舞衣はまさしく騎士に守られるお姫様のような立ち位置だった。
『いつ、誰と付き合ってもおかしくない感じだったけど、黒川くんが高校の時に海外に行ってからしばらくして、浅井くんと付き合いだしたの』
舞衣が誰と交際するかは注目の的だったようで、ようやく航星と付き合ってくれて周囲は安心したという。舞衣が選ばなかった他の男の子たちにアプローチしやすくなったからだ。
ただ、優斗だけは海外に行っていたので、女の子たちが群がることがなかった。
『元々、黒川くんは年上の女性と付き合っているとか、頻繁に彼女が変わるとか噂はいっぱいあったけど、いつだって舞衣ちゃん優先だったから、内部生の女の子たちは早々にあきらめていたんだって』
そして大学進学と同時に、航星は国立の医学部へ進学した。
優斗が大学へ戻ってきて、再び彼と舞衣が大学構内で一緒にいるのを見かけるようになって、本当はどっちと付き合っているのかと内部生の間では時折話題になっていたらしい。
『黒川くんにとって舞衣ちゃんは特別だから』
なにをもってして『特別』なのか不明でも、優斗の舞衣への接し方は明らかに他の女の子とは違うというのが、内部生の共通認識だ。
最初にその噂を耳にした時、『特別』なのは小学校からの幼馴染だからだと安易に思っていた。
でもきっと、そんな単純な話ではないのだろう。
(だって……あんな表情、彼女にしか見せない)
バスケットコートで戯れる三人を見た時に抱いた感覚。
優斗が舞衣を見る目や、語りかける声音、無邪気に笑う顔――すべてが、美琴の知らない優斗の姿。子どもたちと遊んでいる時でさえ、彼は兄のような態度を崩さない。美琴の前でも、いつも落ち着いて穏やかだ。
これまで優斗の気持ちを疑ったことはなかった。彼に大事にされていると、きちんと実感していた。
でも、それは美琴が優斗の恋人だからだ。
おそらく、優斗は恋人が美琴でなくても同じように優しく大事にするだろう。
優斗が舞衣に恋愛感情を抱いているのかどうかはわからない。でも彼にとって舞衣は、恋人とも友達とも違う次元の存在なのだと思う。
まさしく『特別』。
もし美琴と舞衣が一緒にいたら、彼は無意識に彼女を優先させるはずだ。
(あの時、私は部外者だった)
この先、優斗と自分の関係が破綻しても、おそらく舞衣との関係が破綻することはない。
あの日、美琴にそう思わせるほど強固な絆を感じたのは錯覚ではないだろう。
「舞衣、こっち」
優斗が仲間たちと集まる学食のテラス席。パラソルの下の日陰の席へと優斗は舞衣を誘う。他にも人がいるのに、彼が率先して自ら声をかけるのは舞衣に対してだけだ。
「ありがとう、優斗」
恋人である航星がそばにいない代わりに優斗が彼女を守っているのだと、ある内部生は話していた。
『小学生時代からずっとそうだったからその延長線上なんだろうけど、あれじゃあ知らない人が見たら、黒川くんが恋人みたいだよね』
美琴は遠くからその場面を眺める。
現実の舞衣と知り合ったせいで、彼らの情報を仕入れたせいで、今までは何気なく見過ごしていた些細なことが、やけに目につくようになった。
美琴は初めて誰かを嫌いだと思った。
優斗は、企業主催のアントレプレナーシップイベントの選考に残ったことで、一段と忙しくなった。しばらくは施設へのボランティアにも来られないし、なかなか会えないかもしれないのだという。
ただ、彼からは部屋の合鍵を渡されて、美琴が来たい時にいつでも来ていいからと告げられた。
美琴もちょうど保育士の実習が入るため、お互いやるべきことに集中しようと話していたところだった。
美琴の学部は、授業単位をいくつか取って実習へ行くことで保育士の資格を取得できる。
今保育士になりたいわけではないけれど、いつかそういう道に進みたいと思った時のために資格は取っておいたほうがいいと考えてのことだ。将来、児童養護施設で働く可能性があるなら、なおさら保育士の資格はあったほうがいい。
美琴はしばらくはボランティアに来られないことを伝えるために、その日一人で施設を訪れていた。
「……千本木さん」
子どもたちに囲まれていたのは舞衣で、美琴はびっくりした。
いつの間にか子どもたちに「舞衣ちゃん」と呼ばれていて、今日が初めての訪問ではないことにも気づく。
「芹澤さん。私もボランティア登録させてもらって、週一回ペースでここに来ているの」
優斗が施設に来ていると知ってから、子どもたちのことが気になったのだと舞衣は続ける。
「今日、優斗は来ないよ」
舞衣がそう教えてくれる。
まるで自分だけが優斗のスケジュールを把握しているかのように、美琴には聞こえた。
「あ……知っています。私もしばらく来られないからそのことを伝えに」
「えー、美琴ちゃん来られないの? どうして?」
子どもたちがびっくりしたように問いかけてくる。
「ええと、保育実習へ行くのよ」
美琴が答えると、それなら仕方ないわね、と施設の職員が小さな子どもたちを宥める。
子どもたちに「折り紙教えてー」と言われた美琴は、すぐにそちらに対応することにした。
笑顔を見せながらも、心の中にはもやもやしたものがどんどん広がっていく。
施設としては人手は多いほうがいい。舞衣が興味を持ってボランティアをしてくれるならありがたい。それなのに、この場所に舞衣がいるのが嫌で嫌でたまらない。
ここは美琴にとって大事な場所だ。
幼い頃の思い出も含めて、中学生の頃から母とともにずっと通ってきた。
そして優斗と出会った場所でもある。
その特別な場所に舞衣がいるのがたまらなく嫌で、同時にそんな身勝手な感情を抱く自分にも嫌悪を覚える。
不意に美琴の腕が作業テーブルの端に当たり、ガチャンと色鉛筆がケースごと落ちて床に散らばった。
「あ、ごめん」
「いいよー、芯折れてないといいけど」
小学生の女の子が拾ってくれる。美琴も慌ててそれらを拾い上げた。
「はい」
足元に転がった色鉛筆を舞衣が差し出す。
「ありがとう」
「ねえ、私も美琴ちゃんって呼んでいい?」
舞衣の申し出に、美琴は咄嗟に言葉に詰まった。
施設のボランティアは、子どもたちが呼びやすいように呼ぶのを優先しているので、下の名前で呼び合うようになるのは自然なことだ。だから、断る理由がない。
「私も舞衣でいいから」
「……はい」
「同級生だから敬語もなしね」
「……うん」
それからなんとはなしに、美琴は舞衣も交えて子どもたちと遊ぶことになった。
今日、施設に行くことは優斗に伝えていた。その帰りに彼の部屋に寄ることも。
けれど美琴は今、施設から駅までの道を舞衣とともに歩いている。
もう日が落ちる時間が早くなっており外は暗いが、駅までの道は大通りに面していて明るかった。
「美琴ちゃんは、優斗といつから付き合っているの?」
「二年の終わりぐらいから」
美琴は迷いつつ素直に答えた。
舞衣がぽつりと「結構、長いんだね」と呟く。
「あ、優斗って、その、モテるから結構女の子のサイクル短い印象があって」
優斗が女の子に慣れているのは最初からわかっていた。でもそんな情報はいらない。
舞衣は良きにつけ悪しきにつけ、思ったことをすぐに口にする素直なタイプなのだろう。
「それだけ美琴ちゃんが大事なんだね……いいな」
「舞衣ちゃんも彼と長いんでしょう?」
「航星? うん、高校から付き合い始めたから。でも大学違うし、医学部の勉強が忙しいみたいで。大学四年生になったら臨床実習も始まるから多分、ますます会えない」
舞衣は寂しそうに言った。
「ほら、私たち内部進学だから、小学校からずっと一緒だったの。優斗が海外に行った時も寂しかったし、航星が別の大学に行くって決めた時もすごく辛かった。まあ、でも好きな人の夢は応援しないと、ね」
自分に言い聞かせている舞衣の姿を見ていると、彼女がどれほど航星を好きか伝わってくる。
(そうよ、彼女が好きなのは優斗じゃない)
幼馴染から恋人になった、長い付き合いの相手がいる。その存在を美琴も知っている。
でも美琴にはそんな幼馴染のような存在はいないから、彼らの絆の強さがどれほどかは想像できない。
「美琴ちゃんは、このまま優斗と付き合っていることは秘密にするの?」
「……そのつもりだけど」
「でも、今も優斗、たくさん告白されているよ。自分が彼女です! って言ったほうが牽制にならない?」
「浅井くんもモテそうだけど、舞衣ちゃんがいるからって告白されないの?」
「……私たちは大学が違うから。でも航星は告白されてもきちんと断ってくれるし――そうね、優斗も一緒か」
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