恋するフェロモン

流月るる

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1巻

1-2

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「香乃はかわいいよ。確かに目立つほうじゃないけど、香乃の優しくて控えめな雰囲気とか、魅力的だと思うけど」

 千鶴は口紅を取り出して、綺麗に塗り直した。彼女に似合いのローズピンクがつややかに唇をいろどる。お姉さんっぽいしっかりした雰囲気がふんわりとやわらぐ。
 たとえ友人の贔屓目ひいきめだったとしてもそう言ってもらえるのは嬉しい。でも自分が男だったら、やっぱり美咲や千鶴みたいなタイプを選ぶだろう。
 決して自分ではない。

「笹井さんは……すごくモテそうだよね」
「うん。むしろモテすぎて、選びたい放題に見えるね」

 千鶴がポーチに口紅をしまいながらにっこり笑った。誰が見たって響也は女性に困るタイプじゃない。千鶴の言うとおり、モテすぎて困っていそうな人だ。

「ああいうの、困る。どうしていいかわからない」
「そうね。あんな自分の魅力を理解していそうな人に強引に来られたらこばめないね。でも、香乃にそう思わせた時点できっと笹井さんが勝っている」

 姉のようにいつくしみのこもった千鶴の眼差しに、香乃はそれ以上の言い訳が浮かばなかった。
 大学時代からずっと仲良くしてきた千鶴は、香乃の『痛い』恋も知っている。だからこそ彼女は、香乃の揺れる心を見抜いているのかもしれない。
 香乃は両手で頬を包むとパチンと軽く叩いた。
 こんな風に落ち着かないのは、酔っているせいだ。おいしいワインにも彼の視線にも酔わされて、体も気持ちもふわふわしているだけ。
 酔いからめれば、夢からも覚める。

「千鶴ちゃん、行こう!」

 何か言いたげな千鶴に先に声をかけて香乃はパウダールームを出た。


 今日は平日だから、明日はみんな仕事だ。週末であればこのあと別のお店でも――という可能性もあったけれど、美咲が「さあ帰ろうね」と先手を打ったのですんなりお店を出られた。
 彼女は事前にしっかりタクシーを呼んでいたらしく「私たちタクシーを予約しているので、来るのを待ちますね」と男性陣に帰宅をうながす。
 香乃の部屋は駅からそう遠くないので、この時間ならまだ電車を使って帰ることができる。
 だが美咲は、タクシーで恋人の家に向かうついでに送ってあげる、と太っ腹なことを言って香乃の遠慮を退しりぞけた。
 先ほどの千鶴同様、美咲も香乃のことを心配してくれているのだろう。今夜は本当は、彼氏と別れた千鶴に新たな出会いをもうける場だったのに、かえって二人に気を遣わせてしまった。

「じゃあ、また」

 と弘人が響也の肩を叩いて背を向ける。このまますんなりとお開きになりそうで、香乃は少しほっとした。
 名刺をもらい彼の名前や連絡先を知った。
 じっと見つめられて、親しげに名前を呼ばれた。
 けれど、それだけだ。きっともう会うことはない。

「あ、来た」

 美咲が予約したタクシーを見つけてつぶやく。香乃もつられてそちらを見たときだった。

「香乃ちゃん!」

 響也がきびすを返して走ってきた。ゆるんだネクタイが首元で乱暴に揺れる。
 響也が香乃の前に立つのと、タクシーが横に滑り込んでくるのは同時だった。

「香乃ちゃん、連絡先を教えてほしい」

 美咲がドアの開いたタクシーに向かって「すみません。少し待ってください」と告げた。千鶴は香乃の隣に立って、黙って展開を見守っている。

「俺の連絡先を教えても……君から連絡が来るとは思えない。俺はたぶん、なんとかして君と連絡を取ろうとすると思う。それなら今ここで直接連絡先を聞いたほうがいいと思った」

 ハザードランプを点滅させているタクシーも、少し離れたところにいる響也の同僚たちも、そして美咲や千鶴のことも気になって、香乃は咄嗟とっさに何をどう答えればいいかわからなかった。
 ただただ心臓がばくばく激しい音を立てている。
 いや、本当は簡単なことだ。
 連絡先を教えたくなければ「ごめんなさい。教えられません」とはっきり断ればいい。
 そうすれば、彼がどんなにコンタクトを取ろうとしても、美咲や千鶴が香乃の連絡先を教えることはない。
 言うべき言葉はわかっている。
 なのに、なぜかその一言がなかなか出てこないのだ。
 千鶴がそっと香乃の腕に触れた。はっとして隣を見ると「香乃が決めるんだよ」と言っているような視線と目が合う。
 迷いつつ香乃は目の前の響也を見た。
 彼は焦りと不安のまじった色を瞳にのせながらも、目をそらすことなく香乃を見つめている。その一歩も引かない強い眼差しには、彼の真剣さが感じられた。
 そのせいで、香乃はますます混乱してしまう。
 どうして彼ほどの人が、自分にこんな視線を向けてくるのかわからない。
 興味、好奇心、気まぐれ? 
 彼にはそのどれも当てはまらない気がして、香乃の戸惑いは増すばかりだ。
 心臓の音がうるさいほど鳴っている。
 待っているタクシーも、千鶴と美咲や男性陣の視線も気持ちを焦らせて、香乃は口をぱくぱくしながら言葉を探した。
 迷うことなんかない。
 断りの言葉を告げればいい。
 不意に、千鶴が言った「笹井さんが勝っている」という言葉を思い出す。
 その意味を今更ながらに香乃は自覚した。
 響也は香乃を見つめたまま、じっと返事を待っている。
 香乃はぎゅっと手を握りしめて、バッグからスマホを取り出した。そして、震える手で自分のメールアドレスを表示させる。

「メールアドレスでいいですか?」

 そう言った瞬間、響也の表情がほっとゆるんだ。口元に浮かんだやわらかな笑みに、香乃はドキッとしてしまう。
 彼は自分のスマホにメールアドレスを入力すると、打ち間違いがないか確認してから香乃を見た。

「ありがとう。必ず連絡する」
「…………」

 あまりに恥ずかしくて顔をそむけると、美咲と千鶴が面白そうに笑っている。少し離れたところでは、響也の友人たちが手を叩き合わせていた。
 それを見た香乃は、ますます小さくなる。
 羞恥しゅうちに縮こまっている香乃とは裏腹に、響也は落ち着いた声音こわねで「お待たせして申し訳ありません」と、美咲たちやタクシーの運転手に声をかけた。
 さらに香乃たちが全員タクシーに乗り込むまでそこにいて、ずっと見送ってくれた。
 タクシーがレストランから離れると、香乃はぎゅっと胸に片手をあてた。一向に治まらない心臓の音が、車内に聞こえてしまいそうだ。

「香乃……頑張ったね」
「何かあったらすぐに私たちに相談するんだよ」

 二人はからかったりすることなく、香乃をはげます言葉を贈ってくれた。
 これから何が始まるのか、どうなっていくのか香乃には想像もつかない。
 響也に連絡先を教えてしまった自分の行動の意味さえもわかっていない。
 香乃は、もう片方の手につかんだままのスマホを――響也とのつながりを示すそれを――力強く握りしめた。


 今から二年半前。
 大学を卒業した香乃が就職したのは大手の製薬会社だった。 海外企業と提携していたそこは英語力の高い人材を欲していて、香乃はその能力を見込まれて採用された。英会話よりも翻訳にけていたので、書類処理をメインにおこなう業務についた。
 そこで出会ったのが同じ課の先輩だった男性社員だ。五歳年上の彼は、留学経験があったせいかレディファーストが板についていて、香乃にいつも優しく接してくれた。
 初めての社会人生活は、慣れないことばかりだった。様々な仕事を覚えて、先輩の女子社員との関係に気を遣い、自分の父親のような社員とも円滑に業務をこなさなければならない。毎日が精一杯で、緊張感に包まれている中で、彼の存在が香乃の支えだった。
 いつも目立たぬように仕事のフォローをしてくれて、週末にはおしゃれなレストランに連れて行ってくれる。お酒の飲み方も彼に教えてもらった。
 大学時代にも仲良くなった同級生の男子はいたけれど、女子高出身の香乃はおままごとみたいなお付き合いしかしてこなかった。
 だから初めてとも言える大人の男性との恋愛に、香乃はすぐにのぼせた。
 恋愛に慣れていない香乃を手玉に取るのは、さぞや簡単だったことだろう。
 彼が誰にでも優しくて、特に初心うぶそうな新入社員の女の子を狙って遊んでいると知ったのは別れたあとのことだ。彼には本命の恋人がいたし、香乃はていのいい浮気相手でしかなかった。
 これまでうまくやっていた彼のお遊びを、本命の彼女に知られたことが悲劇の始まりだった。
 香乃との関係がバレたとき、彼は香乃にしつこくされて困っていたのだと嘘をついた。そして、同じような言い訳を、会社の人間にもしたのだ。
 それによって香乃は、二股をかけられたかわいそうな浮気相手ではなく、恋人のいる男に手を出した女に仕立て上げられた。

『大人しそうな雰囲気で男を誘う』
『ストーカー一歩手前で、迷惑していた』
『断ると、泣いて取り乱したから、仕方がなかった』

 彼は人当たりが良く、仕事もできる人だったから、当然周囲は新人の香乃よりも、彼の言葉を信じた。香乃の評判は一気にちて、ありとあらゆる悪口を社内にばらまかれた。
 ただ好きになっただけ。
 恋をしただけ。
 それに夢中になっただけ。
 けれど、初めて夢中になった恋は『痛い』結末で終わった。
 香乃は会社に行くのがつらくなって、結果的に逃げてしまった。
 会社を辞めて、引っ越しをして、就職してからの人間関係を全てリセットした。
 運よく今の会社に採用された当初、香乃は極力、他人と関わらないようにしようと思っていた。
 誰とも関わらなければ、恋をすることもない。恋をしなければ傷つくこともない。
 社員数も少なく、年配者の多い小さな会社は、若い男性との出会いなどなかった。傷ついた香乃にとって、新しい会社はとても望ましい環境だった。
 だが、他人に深入りするつもりのない香乃にも、そこは思った以上に優しい場所だった。
 肩肘張って強がって、淡々と仕事に取り組んでいた香乃を、なぐさめるでもいさめるでもなく、さりげなく声をかけて徐々に緊張をほぐしてくれた。
 必要以上に他人と関わらず、週末も家に引きこもっていた香乃を引っ張り出してくれたのは、大学時代の友人とこの会社の主婦たちだった。
 新しい環境で出会った人たちのおかげで、ようやく気持ちが落ち着いてきたところなのだ。
 そんな中、新しい恋をしようなんて気持ちにはまだなれない。
 いつかまた誰かを好きになれたらいいとは思っても、今のところ積極的な出会いは求めていなかった。ワイン会だって千鶴のためだと思ったから男性たちとの相席に同意したのであって、自分のためじゃない。
 なのにどうして響也の申し出を断れなかったのか。
 あの夜の自分の行動を思い出すと、香乃は居たたまれなくなる。そして酔っていたせいだと言い訳したくなる。
 ワインと彼の視線に酔っていたせい――
 香乃はスマホの画面を見て、ため息をついた。
 ワイン会以降、響也からはコンスタントにメールが送られてくる。
『連絡先を教えてくれてありがとう』というお礼の言葉から始まって『時間ができたら食事でもどうかな』という自然なお誘い。
 恋人も好きな相手もいないのだから、食事の誘いぐらい受けるものなのかもしれない。
 けれど、そうした誘いに深く考えずにのったせいで、かつての香乃は『痛い』思いをした。
 もうそんな思いはしたくない。
 そんなことをぐるぐる考えているうちに返信が遅れ、結局必要最低限の短文を送ってしまう。
『今週の金曜日は空いていますか?』と届いたメールに、香乃は迷った末に『予定があります。すみません』と短い返事を送るのだった。


   * * *


 響也は香乃からの返信メールを見てふっと息を吐いた。向かい側で昼食を取っている裕貴が苦笑いを浮かべている。

「今回も見込みなし?」
「こういう返信は早いね。迷いなくばっさりだ」
「こんなに手ごわいの初めてじゃないか? 響也」

 毒のなさそうな優しい風貌をしているのに、裕貴は平気で痛いところを突いてくる。
 しかも、ワイン会での響也の様子からその後の悪戦苦闘具合まで、つぶさに観察されて、面白がられていた。
 響也としては連絡先を交換すれば、もっと簡単に彼女との関係が始まるのだろうと思っていた。
 メールで数回やりとりをして、互いの都合をつけてプライベートで会う。そうした時間を重ねていけば、関係なんて自然に始まるものだと楽観視していた。

「脈なさそうなら、あきらめたら」
「…………」

 日替わり定食のサバの塩焼きを食べながら、他人事ひとごとのように言った男を響也はじろりとにらむ。

「あの子の何を気に入ったのか知らないけれど、反応薄いんだろう? 付き合っている男はいないって言っていたけど、好きな男がいるのかも」

 その可能性は否定できない。
 何気なくメールでいろいろ聞いているが、質問をなかったことにされるか、当たり障りのない内容で誤魔化されてしまう。
 普段なら、裕貴の言うとおり早々に脈なしと判断してあきらめていただろう。
 響也はため息をついて、定食の豚汁を口にした。
 外資系商社ながら和食のメニューに力を入れている社食は、味もボリュームもコスパもいい。
 営業で外に出ることが多い響也は、社内にいるときは、必ずと言っていいほどここを利用している。

「よう」

 明るい声とともに、トレイを手にした弘人が裕貴の隣に腰掛けてきた。三人で顔を合わせるのはワイン会以来だ。

「出張だったのか?」
「ああ、中国まで」

 裕貴の問いかけに弘人が頷く。そのまましばらく仕事の会話が広がっていった。
 同期とはいえ部署はそれぞれ違うため、こういう機会に情報交換をおこなう。響也もいつもならもっと積極的に会話に加わるのだが、今は仕事以上に難しい案件で頭がいっぱいだった。

「そういえば、おまえが気に入っていた香乃ちゃん、だっけ? うまくいってる?」

 いきなり話題を振られて、響也は咳ばらいをする。
 その様子を見て「うまくいってない?」と聞いた弘人に、裕貴は神妙に頷いた。
 うまくいっていないのは確かでも、他人に指摘されるのは面白くない。

「あー、やっぱりそうか」

 弘人は一人納得したように頷いて、親子丼をかき込んでいる。いつもなら彼の豪快な食べっぷりは見ていて気持ちがいいけれど、今の響也は鼻についた。

「やっぱりって、どういう意味だ?」

 響也はにっこりと冷笑を浮かべて弘人に答えるよううながす。

「あ、いや、ほら美咲ちゃんがさ、あのあと俺に釘を刺してきたんだ。あんまり響也のアプローチがあからさまだったから、いい加減な気持ちで大事な友達に近づいてほしくない、って。俺も詳しくは聞き出せなかったけど、香乃ちゃん恋愛には消極的らしい」
「ふうん、なんか恋愛で嫌な目にでもあったのかな?」

 裕貴がつぶやいた何気ない言葉に、響也は視線を伏せてスマホに目をやった。
 なかなか関係が進展しない原因が、恋愛で嫌な目にあったせいならば、自分のやっていることは彼女にとっては迷惑なことなのかもしれない。
 薄々感じていたことを再認識させられて響也は逡巡しゅんじゅんする。
 あのとき、タクシーを待たせて、さらには友人たちの足まで止めて、強引に連絡先を聞いた。
 香乃のようなタイプだと、あの状況で申し出を断るのは難しかっただろう。
 だからこそ、あえてああしたタイミングを狙ったのだけれど、もう少し別の手段を取ったほうが良かっただろうか。けれどあのときは、それ以外の方法を思いつかなかった。

「なあ、響也は本気なんだろう? だってあんなおまえ初めて見たし」

 親子丼の鶏肉を口に放り込んで、のんきそうに言っているけれど、あの夜、暴走しかける響也を何度となく止めてくれたのは弘人だ。
 裕貴は逆にとことん傍観者に徹して、響也の様子を観察して楽しんでいた。
 そんな二人が今、響也の返事を待っている。

「いい加減な気持ちじゃない」

 それだけははっきり言える。
 でなければ、脈なしだとわかっていてなお、これほどまでにあがいたりしない。
 弘人と裕貴は顔を見合わせると、弘人はにやりと笑い、裕貴はやれやれといった反応をした。
 弘人は食事の途中にもかかわらず、トレイにきちんとはしを揃えて置く。そして大きな背中をさらに伸ばすと、得意げな笑みを浮かべた。

「響也……おまえが本気ならいいことを教えてやる。だが、見返りはいただく!」

 弘人はやり手らしさをかもし出して、堂々と言い放った。その様子がなんともうざくて、本来なら無視するところだ。
 響也は胡散臭うさんくさげに弘人を見た。
 彼の言う「いいこと」は当てにならないし「見返り」を求められるというのも憂鬱ゆううつだ。
 だが、なり振り構っていられないほど切羽詰せっぱつまっている自覚もある。
 何度メールを送っても、おそらく香乃は響也の誘いに応じたりはしないだろう。
 自分が彼女について知っているのは、メールアドレスと名前だけ。
 どこに住んでいるのか、どんな仕事をしているのか、それさえもつかめていない。

「弘人……何か知っているなら教えろ」

 弘人を頼るなんて面白くないと思いつつ、響也はわらにもすがる思いでそう口にした。


 結局のところ、弘人から得た情報はかなり曖昧あいまいなものだった。けれど、他に手立てのない響也にとっては一筋の光明こうみょうに違いない。それに、見返りを成功報酬にさせたので成果がなければ何もしなくて済む。
 休憩時間はまだ残っていたが、響也は二人を置いて一足先に社食を出た。急いで仕事を調整しなければならない。金曜日に定時に上がるための仕事の算段を即座にはじき出す。
 時間がかかりそうな仕事は、頼りない気もするけれど後輩に振ろう。きっといい経験になるはずだ。頭の中でいろいろ計算をしていると女子社員に声をかけられる。

「笹井さん」

 仕方なく響也はその場で足を止めた。
 社食を出てエレベーターホールに向かうまでの間に、人目につきにくい場所がある。設計上のミスなのか、無駄にも思えるその空間は実のところ告白をするのにもってこいの場所になっていた。
 いつもは面倒を避けるため、足早に通り過ぎるようにしていたのだが、あれこれ考え事をしていたせいで歩調がゆるんでいたようだ。
 無駄な空間に意味を持たせようと置いたとしか思えないパキラの鉢を背にして、響也は腹をくくって目の前の女子社員と向き合った。

「この間はありがとうございました」
「いや、俺は特に何も」

 そう答えながら記憶を手繰たぐり寄せる。女子社員はご丁寧に、響也のおかげで助かったのだと経緯を説明してくれたので、なんとか思い出すことができた。
 しかし、自分が手助けした仕事の内容は思い出せても、助けた相手までは覚えていない。

「お礼にお食事でもどうですか?」

 響也は目の前の女子社員を改めてじっと見た。
 肩までの真っ黒い髪はつややかで、メークにも派手さはない。けれど自分のかわいらしさを自覚して男好みによそおっているのがわかる。
 うつむいて照れた仕草でもすれば完璧だったのに、上目遣いで見つめてくるから裏が透ける。
 女の子は嫌いじゃない。
 駆け引きするあざとさもかわいいと思うし、こちらの気を引く手練手管てれんてくだにも努力を感じる。
 正直、どんなタイプの女の子とも、そこそこうまく付き合っていける自信があった。
 食事ぐらいなら構わないかと、以前なら彼女のアプローチにのったかもしれない。駆け引きを楽しんで、一緒に遊んで、一夜をともに過ごす。
 でも今の響也には、それをしたい相手が他にいた。
 響也はにっこり微笑むと、初対面も同然の女子社員の肩に触れた。そしてそっと彼女の耳元に顔を近づける。
 彼女は戸惑ったようにピクリと震えた。
 白くて細いうなじからはふわりといい香りがただよう。

「……ごめんね。仕事が忙しくて余裕がないんだ」

 鼻腔びこうをつく香りを吸い込んで、響也は甘ったるく彼女の耳元でささやいた。
 そうして、すまなそうに首を傾けて優しく微笑む。
 色気をただよわせてそうすれば、たいていの女の子たちは素直に引き下がっていく。
 彼女も「そ、そうですか」と頬を真っ赤に染めながら頭を下げてきびすを返した。
 ふわりと彼女が残した香りが周囲にただよう。

「いい匂いなんだけどね……君じゃない」

 響也は香乃を思い出す。階段で足を踏み外しかけた彼女を支えた瞬間、響也はかつてないほど自分が興奮しているのがわかった。
 あの衝撃と衝動はそう忘れられるものではない。
 初めてのあの感覚が偶然なのか、それとも彼女だからなのか確かめたい。

「香乃ちゃん……もう一度君に会いたい。会って俺は確かめたいんだ」

 だから弘人が与えてくれた曖昧あいまいな情報にもすがりつく。
 どんなチャンスでも逃すわけにはいかなかった。


   * * *


 終業を告げる『夕焼け小焼け』の音楽が余韻を残して流れ終わる。
 数字ばかりが並んだデータを入力していたせいで腕が疲れた香乃は、最後にうーんっと伸びをした。
 ってこりこりと音の鳴る肩に、今日のヨガ教室では存分に肩甲骨けんこうこつを動かそうと思う。
 ヨガを始めたきっかけは、智子と朝美にヨガ教室に誘われたからだ。
 転職からしばらくして、新しい仕事や人間関係に慣れてきた頃だった。今なら彼女たちが、ストイックに仕事をこなす香乃を心配して声をかけてくれたのだとわかる。

『運動不足にもストレス解消にもいいのよ』
『体験だけでもどう?』

 そう言われて一緒に行ったのが始まりだった。
 確かにパソコンにばかり向かっていると、背中や肩が強張こわばってしまうし、運動不足も気になってくる。彼女たちに勧められるままヨガ体験に参加した香乃は、体験後すぐに入会した。
 キャンペーン中で入会金が無料でレッスン費がお得だったこと。ヨガマットも無料で貸し出してくれて、ウエア以外必要ないこと。会社帰りに行きやすく、駅から近いこと。いろんなプラス面があったのも理由のひとつだ。
 岩盤浴がんばんよくヨガというスタイルのその教室は、曜日や時間帯によって様々なレッスンが準備されている。初心者向けのリラックスを中心としたレッスンから、本格的に体を動かすレッスンまで。
 暖かな空間の中、ゆったりとした音楽に合わせて、ヨガのポーズをとっていく。
 呼吸を整え、自分の体と心に向き合う時間は、香乃の心に余裕を持たせてくれた。おかげで今はヨガを通して体と心を見つめ直し、ストレスの緩和かんわに役立っている。


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