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1巻
1-2
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「では、なんとお呼びすれば?」
「名前で」
「名前?」
「巧でいい」
「巧、さん?」
「……さんはやめろ」
「……巧くん?」
「それでいい」
真尋は『本当にこの男面倒、面倒、面倒!』と心の中で何度も唱えた。
以前からなんとなく、面倒そうな男だとは思っていたけれど、やはり真尋の予想は大的中だ。
「では、よろしくお願いします」
それでも真尋はそんな心の声はおくびにも出さず、笑みさえ浮かべて頭を下げてやった。
巧と一緒に部屋に戻るのは嫌で、真尋は少し遅れて行くことにした。
近所の公立高校であれば歩いて通えたのに、皇華に通うとなると電車通学になるのだろうか。そんなことをつらつら考えながら部屋に入ると、早速真尋の進学先について話し合いが行われていた。
母は困惑したような表情で「真尋、皇華に進学するの?」と聞いてくる。
それはそうだろう。
今まで真尋の口から、皇華の『こ』の字さえ出てきたことなどない。
巧が結婚の条件に提示してきたからなんて、さすがに言えるはずもなく「さっき薦められて……まあ検討するぐらいなら」と言いつつ巧を見れば、彼は素知らぬ顔でデザートの羊羹を口に運んでいた。
なんとなく先手を打たれた気がする。
「皇華の大学部には興味があったし……高等部から進学する選択肢もあるかなって思って。それに湯浅家の女子は皇華に通うのが基本だって言われたから」
ちょっとでも仕返しになればと、あえて巧をちらりと見る。
すると、仁はなんとなく状況を読んだようで、
「巧の言う通り……うちは女の子であれば皇華進学を薦める。かといって無理に行く必要はないんだ。真尋ちゃんは進学先を皇華に変更していいの? 巧の言うことは気にしなくていいんだよ」
と優しく言ってくれた。
息子とは違って、やはりこの人になら母を任せても大丈夫だと真尋は思う。
ここで正直に、巧から結婚の条件だと言われたからと暴露して、二人の結婚話を混乱させるのは本意ではない。
それに実際、皇華の大学部には興味があったのだ。
数年前に「看護科」が新設されて、そこには国際的に活躍する看護師を育成するコースができた。さらに他学部には「医療通訳」に関する授業があったり、必要単位を取得すれば「院内学級の先生」を目指すこともできるらしい。
進路選択に対して、柔軟に対応していると評判がいいのだ。
真尋は母と同じ看護師にも関心があったので、質の良い教育を受けられる皇華の看護科には憧れも抱いていた。
途中で「医療通訳」や「院内学級の先生」などに進路変更したとしても、融通が利きそうなところも魅力だったのだ。
巧には絶対言わないけど。
「皇華に行くのは……構いません」
真尋の返事に、仁はにっこりとほほ笑む。
「そうか。真尋ちゃんが皇華に進学してくれるなんて嬉しいな。だったら、やっぱりうちで一緒に暮らそう。皇華なら高等部も大学部もうちから通うほうが近い」
真尋は話の矛先が妙な方向に進んだことに気づいた。
「あ、あの!」
「僕たちが結婚しても、真尋ちゃんは同居する気はない。それについては僕も千遥さんから聞いているよ」
結婚話が浮上した時から、真尋はずっと母にそう匂わせていた。
結婚には賛成する。でも結婚するのは母であって、自分ではない。
だから真尋は、祖父母の家に残って生活するつもりだと伝えてきた。
『もうすぐ、高校生になるから大丈夫』
『高齢になった祖父母が心配』
『お母さんは新婚生活を楽しんで』
『高校だってこっちのほうが通いやすいし』
など、など、曖昧な表情をする母親に構わず「結婚相手と私は同居しなくていいよね?」と暗に伝えてきたのだ。
「結婚するのに母親だけがうちにきて、娘はこないなんて、そんな体裁の悪いこと考えていたのか?」
呆れの中に、ほんの少し見下したような気配をまぜた口調に、真尋はその言葉の主である男を見た。
(体裁が悪い……?)
湯浅家との結婚話が浮上してから、何度となく悪意にさらされてきた。
仁はいい人だと思うし、母の選んだ相手だからと何度も言い聞かせた。
けれど、湯浅一族という背景は真尋にとっては厄介でしかない。
「巧!」
「そうだろう? 父さん。結婚したのに娘が一緒に暮らさないなんて、たとえ本人が望んだことでも、周囲はそうは見ない。父さんとの結婚のために娘を捨てたって言われる可能性だってある」
なんて悪意に満ちたものの見方なんだろう、と真尋は思わずにはいられなかった。
だが、現実は巧の言う通りだ。
二人が愛し合って結婚するのは確かなのに、真尋の母は「お金目当て」だと陰口を叩かれている。
「そんなつもりは……私はただ、おじいちゃんたちのことが心配だし、お母さんと一緒に暮らさなくても家族であるのは変わりないし、高校だって……」
近いし、と言いかけて『あ、皇華目指すって言っちゃったあとじゃん』と思い出す。
巧の出した条件は『皇華に進学する』ということだけのはずだったのに、なぜか真尋にとって嫌な展開になっている。
「叔父さんが同居していると聞いている。だから祖父母を心配する必要はない。家族になるなら一緒に暮らすべきだし、中学を卒業したばかりの娘と離れるなんて千遥さんも望んでいないはずだ。高校は皇華に行くんだろう? だったら、うちから通うのがいい」
淡々と巧に言い返されて、真尋は口を噤むしかなかった。
湯浅家となんか関わりたくない。面倒すぎて嫌気がさす。
なにより一番、この目の前の男と関わりたくない。
(言っちゃいけない、言っちゃいけないかもしれないけど……)
「そ、それに! 血の繋がりもない年の近い異性と一緒に暮らすのは抵抗があるもの!」
母が、真尋との別居に仕方がないと応じていたのは、そこに一番説得力があったせいだ。
高校生と中学生の男女。
年頃の二人が一緒に暮らすなんて、それこそ周囲がどんな穿った目で見てくるか。
名家の湯浅家だって、そんな風評被害を受けたくないはずだ。
「それは、俺がおまえに手を出すかもしれない、そう言いたいのか?」
真尋は一瞬怯む。
(え? なんでそうとるの?)
なぜか巧は、いつも真尋の想定外のことを言い出してくる。
「同居すれば、俺が女子中学生に手を出すと? そんな節操のない男だと言いたいのか?」
巧は冷めた目で真尋を見ながら、さらに畳みかけてきた。
「中学生を相手にするほど困っていると?」
「そ、そんなこと、言ってない……」
「じゃあ、同居するのに問題なんかない。おまえが自意識過剰にならなきゃいいだけだ」
問題ありまくりだ。
親が結婚して名字が変わるぐらいよくある話である。
でも義兄妹になる相手が湯浅巧だと問題しかない。
この男はとにかく有名人なのだ。友人の片想いの相手でもある。
同居するなんて知られたらどんな目に遭うか、想像するのも面倒だ。
「真尋ちゃん。結婚にあたって君がいろいろ不安を抱えているのはわかる。でもこれからは家族になるんだ。僕としてはせっかくできたかわいい娘と、できれば一緒に生活したいと思っているんだけど。僕の願いを叶えてもらえないかな?」
冷ややかな巧とは対照的な仁の頼みに、真尋は拒む術を持たなかった。
* * *
顔合わせから数か月後、二人はひとまず入籍を済ませた。そして真尋の高校合格後、ごく親しい人たちだけでささやかな結婚式を挙げた。親族へのお披露目パーティーはまた別に設けるらしい。
そして真尋の中学卒業と同時に、湯浅家へと引っ越してきた。
双方の子どもたちの了承を得られるとすぐに、仁は自宅を大々的にリフォームした。
洋風建築だった建物は、モダンな家に生まれ変わり、両親の部屋は一階に、子どもたちの個室は二階に配置されて、さらに各個室に専用のバスルームや洗面室が備えつけられた。
顔合わせ時の真尋の発言を考慮したのか、年頃の子どもたちの同居への配慮からか、プライバシーが守られる空間づくりをしてくれたのだ。
個室には鍵がつけられ、巧と真尋の部屋は階段脇の共用スペースを境に左右に分けられている。
一階にもリビングダイニングがあるが、そちらは家族全員で過ごすスペース。
二階の共用スペースが第二のプライベートリビングのような形になっており、そこにもソファやテレビが設置されている。
上下階に分かれた二世帯住宅のような作りになっていた。
元々巧が自分にどうこうする心配などしていなかったが、それでもプライバシーを確保できることに感謝した。
おかげで一緒に生活し始めてからも適度な距離が保たれていて、思ったよりも同居生活はスムーズに進んでいる。
そして今日、真尋は皇華の入学式を迎える。
入籍後も中学卒業までは旧姓で通していたので、これから新しい名字を名乗る生活が始まるのだ。
湯浅真尋――と、何度も頭の中で繰り返しながら、真尋は制服に着替えた。
皇華の高等部の制服は、清楚で可憐だと評判だ。
真っ白な丸襟ブラウスに紺色のジャケット。襟元には細い臙脂のリボン。Aラインに広がるスカートは膝が隠れる長さで、裾に白いラインが一本入っている。指定の靴もローファーではなくラウンドトゥのストラップシューズだ。
髪を染めるのとパーマは禁止だけれど、結んでいなければならないという規則はない。
だから真尋も、脇の下まで伸びた髪をハーフアップにした。毛先にゆるいくせがあるため軽くカールがかって見える。
鏡で制服姿を確かめたあと、真尋は階段を下りていった。
義父と巧はコーヒーを飲んでいた手をとめて、制服姿の真尋を見る。母は目を細めてほほ笑んでいる。
「真尋……馬子にも衣装だな」
「真尋ちゃん! かわいい! 元々かわいいけど、皇華の制服はさらにかわいらしさを引き立てている! さすが千遥ちゃんの娘!」
「真尋、すごく似合っているわよ」
義父も母もカメラ、カメラと叫びながらバタバタと動き始めた。
すると、巧がすっと近づいてきて、真尋の目の前に立った。
一足先に大学の入学式を終えた巧は、ついこの間まで高校生だったとは思えないほど大人びた服装をしている。
制服を着なくなっただけで一気に少年っぽさが消えた。
春休み中に車の免許も取ったらしい。
すっと伸びた手が、真尋の制服のリボンをほどいた。
皇華のリボンは昔ながらの結ぶタイプのものだ。
巧は器用に結び直して綺麗な蝶々をつくった。
胸元に触れるわけではないのに、大きな手がすぐそばで動いて真尋は知らず息を止めた。
「髪……染めてないよな」
「染めてない。校則違反だから」
「元々明るめの色なのか……紺色の制服のせいか余計に明るく見える。一筆千遥さんに書いてもらったほうが安全かもな」
「髪の色?」
「そう。皇華は他の学校とは禁止事項がいろいろ違う」
肩に落ちていた真尋の髪に巧が手を伸ばす。背中に優しく流すその仕草に『近い、近いよ!』と心の中で叫ぶものの、表情には一切出さないように耐えた。
一緒に暮らし始めてすぐに敬語は禁止された。
妹だと簡単には認めないみたいなことを言っていた割には、巧の対応は冷たくはない。
いや、むしろ――――
こうして制服のリボンを直したり、簡単に髪に触れてきたりする。
こんなに男の子に近づかれたこともなければ髪を触らせたことなんかもない。きっと普通なら手を振り払っているはずだ。
けれど、巧は平然として慣れたように触れるので、振り払えば自分だけが意識しているように思えて、真尋は動けなかった。
(妹だから? この距離の近さは妹だからなの⁉)
「真尋……明日から皇華には俺が大学に行くついでに送るから」
「え? だって、園部さんは?」
湯浅家にはお手伝いさんも運転手さんもいる。園部は湯浅家お抱えの運転手だ。
皇華には変わったきまりがたくさんあって、通学は車が基本だ。
駅から離れた閑静な場所にあるせいで狭い路地や見通しの悪い道路が多く、生徒の安全確保のため徒歩や自転車通学は禁止されている。学校説明会でも『車送迎ができることは必須条件です』と言われた。
さすがに大学には、そんなきまりはないが。
だから、真尋も園部の運転する車で通えばいいと言われていた。義父の出勤時間と重なる懸念もあったが、『大丈夫だよ』と言っていたので深く考えなかった。
大丈夫って、もしかしてこういうことだったのだろうか。
「園部さんは父さんを送る。時間をずらせば大丈夫だって最初は言っていたけど、しばらく忙しくて早めに出たいらしい。どうせ俺は車で行くし皇華は途中だ。帰りは園部さんが迎えに行くけど、時間帯が合えば俺も行く」
巧に送迎を頼むなんて、できれば遠慮したい。
車通学が原則でなければ丁重にお断りしたいところだ。
だが、車通学は大前提。
「でも、巧くんの負担になるんじゃ……」
遠慮ではなく迷惑なんだけど、という気持ちで言ってみる。
巧は敏感にその意図を感じ取ったくせに、じろりと真尋を睨んで譲らない。
「俺がいいって言っている。余計なことを考えるな」
そう言われると真尋はなにも言い返せない。これまでの短い付き合いの中で反論しても無駄なことを真尋は学んでいる。
「……じゃあ、よろしくお願いします」
渋々、小さく頭を下げた。
車通学は楽だと安易に思っていたけれど、こうなると放課後、自由に遊びに行く機会がないのでは? と思ってしまう。
皇華はそういうことも暗に禁止したかったのかもしれない。
「巧、真尋ちゃん、写真撮ろう!」
「俺の入学式の時は、そんなこと言わなかったくせに」
「息子なんて撮ってもつまらないだろう! ああ、千遥ちゃん、娘っていいねえ。皇華の制服着た娘を見られるなんて最高だよ! 真尋ちゃんは、ものすごくかわいいし、制服もすごく似合っているし」
湯浅製薬社長とは思えない発言を繰り返す義父に、真尋は苦笑した。
会社では威厳ある姿なのだろうけれど、ここではかわいいおじさまだ。一緒に暮らし始めてから、母が義父を選んだ理由がなんとなくわかった。
そうして庭に出て、お手伝いの頼子に写真を撮ってもらった。
義父と母と義兄と一緒に……それは紛れもなく幸せそうな家族の写真だった。
* * *
皇華への朝の送迎を運転手の園部ではなく、巧にしてもらうことになったので、真尋は早目に学校へ行くことにした。
巧は最初『なんでそんなに早くに行くんだ?』と文句を言っていたけれど、一度送迎の渋滞に巻き込まれそうになってからは黙っている。
入学して初めて知ったが、巧の在籍していた高校とこの皇華は提携校で、特に高等部は交流が盛んだったらしい。
巧は生徒会役員をしていたため、皇華との関わりが多くあり、その存在は校内でも広く知られていたことが発覚した。
もっと早く知っていれば入学を考え直したのに、と思わなくもない。
確かに真尋の中学でも巧は有名だった。
だから、提携校と知ってからはなおさら、湯浅巧の義理の妹になったことを、いつまでも隠し通せるとは思っていなかった。
だからって入学して早々に、動物園のパンダの赤ちゃんのような気分を味わうことになるとは。
初日から『あれが巧さまの義理の妹?』という好奇と嫉妬混じりの視線にさらされたのだ。
巧さま――真尋の中学でも巧は、こっそりそう呼ばれていた。
まさか皇華でも同じように呼ばれているとは思わず、最初は呆れ驚いたけれど。
真尋は『巧さま』人気を侮っていた。
(なんでホームルームが延びた日に限ってお迎えなのよ!)
真尋は、園部からの『今日は巧さんがお迎えに行かれます』というメッセージが入ったスマホを睨みつけた。
朝は巧が送ってくれるが、時間帯が早いので生徒と会うことなどない。
それに帰りの送迎は園部の担当だ。
『巧さまの義理の妹』なんて一度見れば満足するだろうし、嫌な視線もいずれ消えるだろうと思っていたのに、こんな風に時折ふらりと巧が迎えに来るせいでいつまでも収束しない。
巧のお迎えは、あくまでも気まぐれだ。
大学の授業が休講になっただとか、園部さんが忙しそうだからだとかで、いきなり園部経由で連絡が来る。
迎えに来るなとは言えないので、真尋はせめて利用者の少ない第五駐車場で待つようにお願いした。
車送迎必須の皇華では、いつも列の連なるロータリー以外にも、広い駐車場が完備されている。ロータリーの利用は屈指のお嬢さま方優先だが、大半の生徒は昇降口に近い大駐車場を利用する。
第五駐車場は校舎から離れているだけでなく、大通りからも遠く道も狭いため利用者が少ない。
だから巧が迎えに来るとわかっている日はそこに停めてもらい、速攻で教室を飛び出して、見つからないように努力してきた。
けれど最近『巧さまが義理の妹の送迎をし、第五駐車場を利用しているらしい』という噂が広まり始めたのだ。
お嬢さま方が送迎されている車は大きいので、第五駐車場まで車で進入してくることはないが、わざわざ歩いて寄り道する女子生徒の数は少しずつ増えていった。
ひとえに真尋を迎えに来るかもしれない巧を見るためだ。
そしてホームルームが大幅に延びた今日に限って、巧がすでに迎えに来ている。
巧はきっと、いつもの時間に駐車場で待っているに違いない。
そして、皇華の中でも強者女子たちは遠慮なく彼のまわりを取り囲んでいることだろう。
案の定、駐車場に近づくにつれて黄色い声が聞こえてきた。
巧は周囲を女子高生に囲まれて、小さな車のそばに立っていた。
これだけ騒がれているのに、巧はあまり愛想がよくない。
群がる女の子たちに笑いかけたりもしないし、話しかけられても無視をする。
それでもなお女の子たちはきゃあきゃあ言いながら話しかけているが、巧は口を結び睨みはしないものの、視線はそらしたままだ。
真尋はその場面を見て、どうしてみんな彼の発する空気を読まないのだろうとため息をついた。
(不機嫌だ、ものすごーく不機嫌だ)
この面倒な男の相手をするのは、最終的に真尋になる。
車送迎必須でなければ歩いて帰りたいと切に願いながら、おそるおそる近づいた。
巧は真尋を見つけると、無表情をガラリと変えて、見たこともないような笑顔を向けてきた。
「真尋!」
(誰⁉ あいつは誰! 怖い、とにかく怖い!)
爽やか王子とでも言えそうな笑顔は、周囲の女子生徒たちの頬を薄桃色に染めて、真尋の顔面を蒼白にした。
巧はほほ笑みを張りつけたまま、長い足を優雅に繰り出して近づいてくる。
そうして立ち尽くす真尋の前にくると、なんのためらいもなく手を伸ばして真尋の腰を抱く。
「真尋……いつもより遅いから心配した。なにかあったのか?」
もう片方の手は真尋の頬にそえられて、さも心配そうな眼差しを向ける。
「な、なにも? ホームルームが延びた、だけ、です」
あまりの恐怖に、思わず敬語になってしまう。
よほど長い間、女の子たちに囲まれていたのだろうか。いつも以上に不機嫌さに拍車がかかっている。
だったら車の中にいればよかったのに。
それよりも抱きしめているような体勢が、近すぎる顔が、甘ったるい空気を放った。
「よかった。真尋帰ろう」
キラキラした笑みとともに、甘い声が真尋の耳元に届く。
そうして真尋の腰を抱いたまま、女の子たちが茫然と立ち尽くす中を車に向かって歩いていく。
恥ずかしい、恥ずかしすぎる。
さすがに真尋も、こんなことをされれば無表情ではいられない。
女の子たちの巧へ向ける甘い視線と、自分に向ける冷徹な視線とを受けて、そそくさと車に乗り込んでその場から逃げた。
明日からの学校が怖い。女子の噂は凄まじい。
今日の巧の様子を見て、彼女たちがどんな噂を広めるのか想像もつかない。
真尋はそっと巧の横顔を盗み見た。
女の子たちに囲まれて随分不快そうだったから、怒っているかと思えば、むしろご機嫌に見える。
(え? なんで?)
それはそれで、あやしい気がして真尋は思わず注視してしまった。
「なんだ?」
「あ、うん。大変だったら無理してお迎えに来なくても……」
最終手段でタクシーという手もあるのだ。
「大変って、なにが?」
「だって、女の子たちに囲まれて大変そうだったじゃない」
「あー、まーうるさかったな」
「嫌だったんじゃないの?」
「んー、嫌だけど、ああいうのは慣れている。まあ、大学生よりはマシだよ。皇華だし節度はあるほうだ」
そうですか、そうですか! そうですか!!
慣れているとさらりと言えるあたり、さすがですね! と心の中で称賛してやった。
「ま、大変になるのはおまえだろう?」
にやりと巧は笑って真尋を見た。
巧が選んだ車は小さなイタリア車だ。ドイツ車に乗ってくるのかと思っていたら、今は小回りが利いて、やんちゃなのがいいと言う。
だから車内は狭く、距離が近い。
「わざと? さっきの、わざと私に笑顔向けたんでしょう! なんでっ」
「湯浅巧には義理の妹ができた。彼はできたばかりの妹を溺愛しているらしい。だから特定の恋人は必要ない」
「なに、それ?」
「俺の大学で広まっている噂。女に告白されるのが面倒で、おまえを引き合いに出したら落ち着いた。皇華にも広まれば俺の周囲は安泰だな」
「はあっ? 犠牲になるのは私じゃない!」
「兄が妹をかわいがってなにが悪い? 俺はできたばかりの妹に夢中だろう? 毎日皇華まで車送迎しているんだからな。それに、高校内のいざこざぐらい、おさめられなくてどうする? どうせこれからも、俺の義理の妹で湯浅令嬢になったってだけで周囲からはいろいろ言われるんだ」
「名前で」
「名前?」
「巧でいい」
「巧、さん?」
「……さんはやめろ」
「……巧くん?」
「それでいい」
真尋は『本当にこの男面倒、面倒、面倒!』と心の中で何度も唱えた。
以前からなんとなく、面倒そうな男だとは思っていたけれど、やはり真尋の予想は大的中だ。
「では、よろしくお願いします」
それでも真尋はそんな心の声はおくびにも出さず、笑みさえ浮かべて頭を下げてやった。
巧と一緒に部屋に戻るのは嫌で、真尋は少し遅れて行くことにした。
近所の公立高校であれば歩いて通えたのに、皇華に通うとなると電車通学になるのだろうか。そんなことをつらつら考えながら部屋に入ると、早速真尋の進学先について話し合いが行われていた。
母は困惑したような表情で「真尋、皇華に進学するの?」と聞いてくる。
それはそうだろう。
今まで真尋の口から、皇華の『こ』の字さえ出てきたことなどない。
巧が結婚の条件に提示してきたからなんて、さすがに言えるはずもなく「さっき薦められて……まあ検討するぐらいなら」と言いつつ巧を見れば、彼は素知らぬ顔でデザートの羊羹を口に運んでいた。
なんとなく先手を打たれた気がする。
「皇華の大学部には興味があったし……高等部から進学する選択肢もあるかなって思って。それに湯浅家の女子は皇華に通うのが基本だって言われたから」
ちょっとでも仕返しになればと、あえて巧をちらりと見る。
すると、仁はなんとなく状況を読んだようで、
「巧の言う通り……うちは女の子であれば皇華進学を薦める。かといって無理に行く必要はないんだ。真尋ちゃんは進学先を皇華に変更していいの? 巧の言うことは気にしなくていいんだよ」
と優しく言ってくれた。
息子とは違って、やはりこの人になら母を任せても大丈夫だと真尋は思う。
ここで正直に、巧から結婚の条件だと言われたからと暴露して、二人の結婚話を混乱させるのは本意ではない。
それに実際、皇華の大学部には興味があったのだ。
数年前に「看護科」が新設されて、そこには国際的に活躍する看護師を育成するコースができた。さらに他学部には「医療通訳」に関する授業があったり、必要単位を取得すれば「院内学級の先生」を目指すこともできるらしい。
進路選択に対して、柔軟に対応していると評判がいいのだ。
真尋は母と同じ看護師にも関心があったので、質の良い教育を受けられる皇華の看護科には憧れも抱いていた。
途中で「医療通訳」や「院内学級の先生」などに進路変更したとしても、融通が利きそうなところも魅力だったのだ。
巧には絶対言わないけど。
「皇華に行くのは……構いません」
真尋の返事に、仁はにっこりとほほ笑む。
「そうか。真尋ちゃんが皇華に進学してくれるなんて嬉しいな。だったら、やっぱりうちで一緒に暮らそう。皇華なら高等部も大学部もうちから通うほうが近い」
真尋は話の矛先が妙な方向に進んだことに気づいた。
「あ、あの!」
「僕たちが結婚しても、真尋ちゃんは同居する気はない。それについては僕も千遥さんから聞いているよ」
結婚話が浮上した時から、真尋はずっと母にそう匂わせていた。
結婚には賛成する。でも結婚するのは母であって、自分ではない。
だから真尋は、祖父母の家に残って生活するつもりだと伝えてきた。
『もうすぐ、高校生になるから大丈夫』
『高齢になった祖父母が心配』
『お母さんは新婚生活を楽しんで』
『高校だってこっちのほうが通いやすいし』
など、など、曖昧な表情をする母親に構わず「結婚相手と私は同居しなくていいよね?」と暗に伝えてきたのだ。
「結婚するのに母親だけがうちにきて、娘はこないなんて、そんな体裁の悪いこと考えていたのか?」
呆れの中に、ほんの少し見下したような気配をまぜた口調に、真尋はその言葉の主である男を見た。
(体裁が悪い……?)
湯浅家との結婚話が浮上してから、何度となく悪意にさらされてきた。
仁はいい人だと思うし、母の選んだ相手だからと何度も言い聞かせた。
けれど、湯浅一族という背景は真尋にとっては厄介でしかない。
「巧!」
「そうだろう? 父さん。結婚したのに娘が一緒に暮らさないなんて、たとえ本人が望んだことでも、周囲はそうは見ない。父さんとの結婚のために娘を捨てたって言われる可能性だってある」
なんて悪意に満ちたものの見方なんだろう、と真尋は思わずにはいられなかった。
だが、現実は巧の言う通りだ。
二人が愛し合って結婚するのは確かなのに、真尋の母は「お金目当て」だと陰口を叩かれている。
「そんなつもりは……私はただ、おじいちゃんたちのことが心配だし、お母さんと一緒に暮らさなくても家族であるのは変わりないし、高校だって……」
近いし、と言いかけて『あ、皇華目指すって言っちゃったあとじゃん』と思い出す。
巧の出した条件は『皇華に進学する』ということだけのはずだったのに、なぜか真尋にとって嫌な展開になっている。
「叔父さんが同居していると聞いている。だから祖父母を心配する必要はない。家族になるなら一緒に暮らすべきだし、中学を卒業したばかりの娘と離れるなんて千遥さんも望んでいないはずだ。高校は皇華に行くんだろう? だったら、うちから通うのがいい」
淡々と巧に言い返されて、真尋は口を噤むしかなかった。
湯浅家となんか関わりたくない。面倒すぎて嫌気がさす。
なにより一番、この目の前の男と関わりたくない。
(言っちゃいけない、言っちゃいけないかもしれないけど……)
「そ、それに! 血の繋がりもない年の近い異性と一緒に暮らすのは抵抗があるもの!」
母が、真尋との別居に仕方がないと応じていたのは、そこに一番説得力があったせいだ。
高校生と中学生の男女。
年頃の二人が一緒に暮らすなんて、それこそ周囲がどんな穿った目で見てくるか。
名家の湯浅家だって、そんな風評被害を受けたくないはずだ。
「それは、俺がおまえに手を出すかもしれない、そう言いたいのか?」
真尋は一瞬怯む。
(え? なんでそうとるの?)
なぜか巧は、いつも真尋の想定外のことを言い出してくる。
「同居すれば、俺が女子中学生に手を出すと? そんな節操のない男だと言いたいのか?」
巧は冷めた目で真尋を見ながら、さらに畳みかけてきた。
「中学生を相手にするほど困っていると?」
「そ、そんなこと、言ってない……」
「じゃあ、同居するのに問題なんかない。おまえが自意識過剰にならなきゃいいだけだ」
問題ありまくりだ。
親が結婚して名字が変わるぐらいよくある話である。
でも義兄妹になる相手が湯浅巧だと問題しかない。
この男はとにかく有名人なのだ。友人の片想いの相手でもある。
同居するなんて知られたらどんな目に遭うか、想像するのも面倒だ。
「真尋ちゃん。結婚にあたって君がいろいろ不安を抱えているのはわかる。でもこれからは家族になるんだ。僕としてはせっかくできたかわいい娘と、できれば一緒に生活したいと思っているんだけど。僕の願いを叶えてもらえないかな?」
冷ややかな巧とは対照的な仁の頼みに、真尋は拒む術を持たなかった。
* * *
顔合わせから数か月後、二人はひとまず入籍を済ませた。そして真尋の高校合格後、ごく親しい人たちだけでささやかな結婚式を挙げた。親族へのお披露目パーティーはまた別に設けるらしい。
そして真尋の中学卒業と同時に、湯浅家へと引っ越してきた。
双方の子どもたちの了承を得られるとすぐに、仁は自宅を大々的にリフォームした。
洋風建築だった建物は、モダンな家に生まれ変わり、両親の部屋は一階に、子どもたちの個室は二階に配置されて、さらに各個室に専用のバスルームや洗面室が備えつけられた。
顔合わせ時の真尋の発言を考慮したのか、年頃の子どもたちの同居への配慮からか、プライバシーが守られる空間づくりをしてくれたのだ。
個室には鍵がつけられ、巧と真尋の部屋は階段脇の共用スペースを境に左右に分けられている。
一階にもリビングダイニングがあるが、そちらは家族全員で過ごすスペース。
二階の共用スペースが第二のプライベートリビングのような形になっており、そこにもソファやテレビが設置されている。
上下階に分かれた二世帯住宅のような作りになっていた。
元々巧が自分にどうこうする心配などしていなかったが、それでもプライバシーを確保できることに感謝した。
おかげで一緒に生活し始めてからも適度な距離が保たれていて、思ったよりも同居生活はスムーズに進んでいる。
そして今日、真尋は皇華の入学式を迎える。
入籍後も中学卒業までは旧姓で通していたので、これから新しい名字を名乗る生活が始まるのだ。
湯浅真尋――と、何度も頭の中で繰り返しながら、真尋は制服に着替えた。
皇華の高等部の制服は、清楚で可憐だと評判だ。
真っ白な丸襟ブラウスに紺色のジャケット。襟元には細い臙脂のリボン。Aラインに広がるスカートは膝が隠れる長さで、裾に白いラインが一本入っている。指定の靴もローファーではなくラウンドトゥのストラップシューズだ。
髪を染めるのとパーマは禁止だけれど、結んでいなければならないという規則はない。
だから真尋も、脇の下まで伸びた髪をハーフアップにした。毛先にゆるいくせがあるため軽くカールがかって見える。
鏡で制服姿を確かめたあと、真尋は階段を下りていった。
義父と巧はコーヒーを飲んでいた手をとめて、制服姿の真尋を見る。母は目を細めてほほ笑んでいる。
「真尋……馬子にも衣装だな」
「真尋ちゃん! かわいい! 元々かわいいけど、皇華の制服はさらにかわいらしさを引き立てている! さすが千遥ちゃんの娘!」
「真尋、すごく似合っているわよ」
義父も母もカメラ、カメラと叫びながらバタバタと動き始めた。
すると、巧がすっと近づいてきて、真尋の目の前に立った。
一足先に大学の入学式を終えた巧は、ついこの間まで高校生だったとは思えないほど大人びた服装をしている。
制服を着なくなっただけで一気に少年っぽさが消えた。
春休み中に車の免許も取ったらしい。
すっと伸びた手が、真尋の制服のリボンをほどいた。
皇華のリボンは昔ながらの結ぶタイプのものだ。
巧は器用に結び直して綺麗な蝶々をつくった。
胸元に触れるわけではないのに、大きな手がすぐそばで動いて真尋は知らず息を止めた。
「髪……染めてないよな」
「染めてない。校則違反だから」
「元々明るめの色なのか……紺色の制服のせいか余計に明るく見える。一筆千遥さんに書いてもらったほうが安全かもな」
「髪の色?」
「そう。皇華は他の学校とは禁止事項がいろいろ違う」
肩に落ちていた真尋の髪に巧が手を伸ばす。背中に優しく流すその仕草に『近い、近いよ!』と心の中で叫ぶものの、表情には一切出さないように耐えた。
一緒に暮らし始めてすぐに敬語は禁止された。
妹だと簡単には認めないみたいなことを言っていた割には、巧の対応は冷たくはない。
いや、むしろ――――
こうして制服のリボンを直したり、簡単に髪に触れてきたりする。
こんなに男の子に近づかれたこともなければ髪を触らせたことなんかもない。きっと普通なら手を振り払っているはずだ。
けれど、巧は平然として慣れたように触れるので、振り払えば自分だけが意識しているように思えて、真尋は動けなかった。
(妹だから? この距離の近さは妹だからなの⁉)
「真尋……明日から皇華には俺が大学に行くついでに送るから」
「え? だって、園部さんは?」
湯浅家にはお手伝いさんも運転手さんもいる。園部は湯浅家お抱えの運転手だ。
皇華には変わったきまりがたくさんあって、通学は車が基本だ。
駅から離れた閑静な場所にあるせいで狭い路地や見通しの悪い道路が多く、生徒の安全確保のため徒歩や自転車通学は禁止されている。学校説明会でも『車送迎ができることは必須条件です』と言われた。
さすがに大学には、そんなきまりはないが。
だから、真尋も園部の運転する車で通えばいいと言われていた。義父の出勤時間と重なる懸念もあったが、『大丈夫だよ』と言っていたので深く考えなかった。
大丈夫って、もしかしてこういうことだったのだろうか。
「園部さんは父さんを送る。時間をずらせば大丈夫だって最初は言っていたけど、しばらく忙しくて早めに出たいらしい。どうせ俺は車で行くし皇華は途中だ。帰りは園部さんが迎えに行くけど、時間帯が合えば俺も行く」
巧に送迎を頼むなんて、できれば遠慮したい。
車通学が原則でなければ丁重にお断りしたいところだ。
だが、車通学は大前提。
「でも、巧くんの負担になるんじゃ……」
遠慮ではなく迷惑なんだけど、という気持ちで言ってみる。
巧は敏感にその意図を感じ取ったくせに、じろりと真尋を睨んで譲らない。
「俺がいいって言っている。余計なことを考えるな」
そう言われると真尋はなにも言い返せない。これまでの短い付き合いの中で反論しても無駄なことを真尋は学んでいる。
「……じゃあ、よろしくお願いします」
渋々、小さく頭を下げた。
車通学は楽だと安易に思っていたけれど、こうなると放課後、自由に遊びに行く機会がないのでは? と思ってしまう。
皇華はそういうことも暗に禁止したかったのかもしれない。
「巧、真尋ちゃん、写真撮ろう!」
「俺の入学式の時は、そんなこと言わなかったくせに」
「息子なんて撮ってもつまらないだろう! ああ、千遥ちゃん、娘っていいねえ。皇華の制服着た娘を見られるなんて最高だよ! 真尋ちゃんは、ものすごくかわいいし、制服もすごく似合っているし」
湯浅製薬社長とは思えない発言を繰り返す義父に、真尋は苦笑した。
会社では威厳ある姿なのだろうけれど、ここではかわいいおじさまだ。一緒に暮らし始めてから、母が義父を選んだ理由がなんとなくわかった。
そうして庭に出て、お手伝いの頼子に写真を撮ってもらった。
義父と母と義兄と一緒に……それは紛れもなく幸せそうな家族の写真だった。
* * *
皇華への朝の送迎を運転手の園部ではなく、巧にしてもらうことになったので、真尋は早目に学校へ行くことにした。
巧は最初『なんでそんなに早くに行くんだ?』と文句を言っていたけれど、一度送迎の渋滞に巻き込まれそうになってからは黙っている。
入学して初めて知ったが、巧の在籍していた高校とこの皇華は提携校で、特に高等部は交流が盛んだったらしい。
巧は生徒会役員をしていたため、皇華との関わりが多くあり、その存在は校内でも広く知られていたことが発覚した。
もっと早く知っていれば入学を考え直したのに、と思わなくもない。
確かに真尋の中学でも巧は有名だった。
だから、提携校と知ってからはなおさら、湯浅巧の義理の妹になったことを、いつまでも隠し通せるとは思っていなかった。
だからって入学して早々に、動物園のパンダの赤ちゃんのような気分を味わうことになるとは。
初日から『あれが巧さまの義理の妹?』という好奇と嫉妬混じりの視線にさらされたのだ。
巧さま――真尋の中学でも巧は、こっそりそう呼ばれていた。
まさか皇華でも同じように呼ばれているとは思わず、最初は呆れ驚いたけれど。
真尋は『巧さま』人気を侮っていた。
(なんでホームルームが延びた日に限ってお迎えなのよ!)
真尋は、園部からの『今日は巧さんがお迎えに行かれます』というメッセージが入ったスマホを睨みつけた。
朝は巧が送ってくれるが、時間帯が早いので生徒と会うことなどない。
それに帰りの送迎は園部の担当だ。
『巧さまの義理の妹』なんて一度見れば満足するだろうし、嫌な視線もいずれ消えるだろうと思っていたのに、こんな風に時折ふらりと巧が迎えに来るせいでいつまでも収束しない。
巧のお迎えは、あくまでも気まぐれだ。
大学の授業が休講になっただとか、園部さんが忙しそうだからだとかで、いきなり園部経由で連絡が来る。
迎えに来るなとは言えないので、真尋はせめて利用者の少ない第五駐車場で待つようにお願いした。
車送迎必須の皇華では、いつも列の連なるロータリー以外にも、広い駐車場が完備されている。ロータリーの利用は屈指のお嬢さま方優先だが、大半の生徒は昇降口に近い大駐車場を利用する。
第五駐車場は校舎から離れているだけでなく、大通りからも遠く道も狭いため利用者が少ない。
だから巧が迎えに来るとわかっている日はそこに停めてもらい、速攻で教室を飛び出して、見つからないように努力してきた。
けれど最近『巧さまが義理の妹の送迎をし、第五駐車場を利用しているらしい』という噂が広まり始めたのだ。
お嬢さま方が送迎されている車は大きいので、第五駐車場まで車で進入してくることはないが、わざわざ歩いて寄り道する女子生徒の数は少しずつ増えていった。
ひとえに真尋を迎えに来るかもしれない巧を見るためだ。
そしてホームルームが大幅に延びた今日に限って、巧がすでに迎えに来ている。
巧はきっと、いつもの時間に駐車場で待っているに違いない。
そして、皇華の中でも強者女子たちは遠慮なく彼のまわりを取り囲んでいることだろう。
案の定、駐車場に近づくにつれて黄色い声が聞こえてきた。
巧は周囲を女子高生に囲まれて、小さな車のそばに立っていた。
これだけ騒がれているのに、巧はあまり愛想がよくない。
群がる女の子たちに笑いかけたりもしないし、話しかけられても無視をする。
それでもなお女の子たちはきゃあきゃあ言いながら話しかけているが、巧は口を結び睨みはしないものの、視線はそらしたままだ。
真尋はその場面を見て、どうしてみんな彼の発する空気を読まないのだろうとため息をついた。
(不機嫌だ、ものすごーく不機嫌だ)
この面倒な男の相手をするのは、最終的に真尋になる。
車送迎必須でなければ歩いて帰りたいと切に願いながら、おそるおそる近づいた。
巧は真尋を見つけると、無表情をガラリと変えて、見たこともないような笑顔を向けてきた。
「真尋!」
(誰⁉ あいつは誰! 怖い、とにかく怖い!)
爽やか王子とでも言えそうな笑顔は、周囲の女子生徒たちの頬を薄桃色に染めて、真尋の顔面を蒼白にした。
巧はほほ笑みを張りつけたまま、長い足を優雅に繰り出して近づいてくる。
そうして立ち尽くす真尋の前にくると、なんのためらいもなく手を伸ばして真尋の腰を抱く。
「真尋……いつもより遅いから心配した。なにかあったのか?」
もう片方の手は真尋の頬にそえられて、さも心配そうな眼差しを向ける。
「な、なにも? ホームルームが延びた、だけ、です」
あまりの恐怖に、思わず敬語になってしまう。
よほど長い間、女の子たちに囲まれていたのだろうか。いつも以上に不機嫌さに拍車がかかっている。
だったら車の中にいればよかったのに。
それよりも抱きしめているような体勢が、近すぎる顔が、甘ったるい空気を放った。
「よかった。真尋帰ろう」
キラキラした笑みとともに、甘い声が真尋の耳元に届く。
そうして真尋の腰を抱いたまま、女の子たちが茫然と立ち尽くす中を車に向かって歩いていく。
恥ずかしい、恥ずかしすぎる。
さすがに真尋も、こんなことをされれば無表情ではいられない。
女の子たちの巧へ向ける甘い視線と、自分に向ける冷徹な視線とを受けて、そそくさと車に乗り込んでその場から逃げた。
明日からの学校が怖い。女子の噂は凄まじい。
今日の巧の様子を見て、彼女たちがどんな噂を広めるのか想像もつかない。
真尋はそっと巧の横顔を盗み見た。
女の子たちに囲まれて随分不快そうだったから、怒っているかと思えば、むしろご機嫌に見える。
(え? なんで?)
それはそれで、あやしい気がして真尋は思わず注視してしまった。
「なんだ?」
「あ、うん。大変だったら無理してお迎えに来なくても……」
最終手段でタクシーという手もあるのだ。
「大変って、なにが?」
「だって、女の子たちに囲まれて大変そうだったじゃない」
「あー、まーうるさかったな」
「嫌だったんじゃないの?」
「んー、嫌だけど、ああいうのは慣れている。まあ、大学生よりはマシだよ。皇華だし節度はあるほうだ」
そうですか、そうですか! そうですか!!
慣れているとさらりと言えるあたり、さすがですね! と心の中で称賛してやった。
「ま、大変になるのはおまえだろう?」
にやりと巧は笑って真尋を見た。
巧が選んだ車は小さなイタリア車だ。ドイツ車に乗ってくるのかと思っていたら、今は小回りが利いて、やんちゃなのがいいと言う。
だから車内は狭く、距離が近い。
「わざと? さっきの、わざと私に笑顔向けたんでしょう! なんでっ」
「湯浅巧には義理の妹ができた。彼はできたばかりの妹を溺愛しているらしい。だから特定の恋人は必要ない」
「なに、それ?」
「俺の大学で広まっている噂。女に告白されるのが面倒で、おまえを引き合いに出したら落ち着いた。皇華にも広まれば俺の周囲は安泰だな」
「はあっ? 犠牲になるのは私じゃない!」
「兄が妹をかわいがってなにが悪い? 俺はできたばかりの妹に夢中だろう? 毎日皇華まで車送迎しているんだからな。それに、高校内のいざこざぐらい、おさめられなくてどうする? どうせこれからも、俺の義理の妹で湯浅令嬢になったってだけで周囲からはいろいろ言われるんだ」
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