初恋調教

流月るる

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1巻

1-3

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 皇華は中高のカリキュラムに、裁縫さいほう、料理、掃除をはじめ、茶道、華道、着付けなどの日本文化、社交ダンス、テーブルコーディネート、英会話などマナースクール的なものが多く含まれている。そのせいで良妻賢母りょうさいけんぼを目指すような学校のイメージがあるけれど、実際は違う。
 むしろ夫の会社が倒産しても、解雇されても支えていけるような自立心のある女性の育成を掲げていた。
 だから大学になると、資格をとれる様々な学部が設置され、多くの選択肢をもてるように学部の垣根を越えて単位取得できるようになっていた。
 私のような、のほほんのんびり女子はどちらかといえば少数派。

「借金が終わらなければ、ずっとここにいる理由があったのにな」
『やめてもいい、やめなくてもいい。でも君が選んでいい』

 高遠さんはそう言ったけれど、考えてみれば私はいつも流されてきた。
 親の言うままに皇華に進学し、与えられた生活があたりまえだと思っていた。
 長期休みには海外旅行、連休には国内旅行。自宅に車は数台あったし、我が家にも執事まではいなかったけれど家政婦さんはいた。母は新作が出るたびにブランド品を買っていて、クローゼットに大量にあった。
 自宅を差し押さえられる前に、いくつか質屋に持っていったけれど、買い取り価格のあまりの安さにびっくりしたぐらいだ。
 限定品なんか、あんなに高かったのに。
 周囲がいいと言えばやって、ダメだと言ったらやらない。
 生徒会だって勝手に入れられたし、お屋敷のサロンだって祖母に言われて連れていかれただけ。
 そして今回も……高遠さんや結愛ちゃんに甘えてここにいる。
 ずっとずっと流れてきたから、今さら岸に上がっていいって言われても、いつどこに上がればいいのかわからない。
 それに、私は明樹くんには、海外に行くのだと嘘をついて別れた。
 金融業者に追われていたから、身を隠すために皇華の同級生にも同じことを伝えた。
 明樹くんも友人も、私が結婚して海外で生活していると思っているはずだ。
 それは私のちっぽけなプライドを守るためでもあった。
 お屋敷を出て、もし同級生に会ったら、もし明樹くんに会ったら、私は今度はどんな嘘をつくことになるんだろう。


     * * *


 今日はチャペルでの初めての結婚式。
 数日前から慌ただしくなって、屋敷内には珍しくたくさんの人が出入りしている。
 どうしても外部から人を入れないといけないので、斉藤さんからは警備員を増配していますと伝えられた。
 けれど、警備員とはあからさまにわからないようにお屋敷のスタッフと同じ格好をしているから、誰が臨時の手伝いで誰が警備員なのかわからない。
 とりあえずどちらだろうと、スタッフの格好をしている人には自由に指示をだしていいと言われたので、私も適当に声をかけて手伝ってもらっている。
 正直に言えば、私にはみんな警備員に見えるんだけどね……
 チャペルでの結婚式の参加者は親族のみだけれど、お食事会にはそれ以外にもお二人の関係者が数名参加する。
 それでも全部で二十名に満たない。
 一見ささやかなものに感じるけれど……すごくお金はかかっている。
 今夜お屋敷には、新郎新婦と新郎両親、新婦祖父母が宿泊予定だ。
 新婦祖父母と聞いた時点で、事情があるのだと言った結愛ちゃんの言葉を思い出した。
 新婦にはご両親がいないのかもしれない。
 世の中にはそんな人たくさんいそうだけれど、そのあたりにひっそりと結婚式をおこなう理由があるのかも。
 だってお金もかかっているけど、警備も厳重な気がするもの。
 結婚式やお食事会の会場準備や後片付けにはいろんな人が出入りできる。
 でも本番が始まったら、会場内に入れるのはごく一部の人だけだ。そのためか、なんと高遠さん自身も今日は結愛ちゃんのそばにいて手伝いをしている。
 私でさえも今日は会場内に入ることはできない。
 バックヤードメインで仕事をするように言われている。
 本音を言えば初めてお屋敷で実施する結婚式だから、せめてチャペル内での式のお手伝いぐらいはしてみたかった。
 花嫁さんのドレス姿とか式の様子とか見たかったなあって。
 私があからさまに残念そうにしていたからか、結愛ちゃんが『結婚式が終わってお屋敷に新郎新婦が移動する時はお手伝いをお願いできますか?』と命じてくれた。
 花嫁さんのベールを持って誘導をサポートするお役目だ。
 私は喜んで応じた。
 その代わり『見たこと聞いたことは口外禁止ですよ』と念押しされた。
 もちろんだ。
 元々、屋敷内で知りえたことは絶対口外しないという契約だってかわしているし。
 私は少し緊張しながら、チャペル外側の扉のそばで待機していた。
 雲一つない秋晴れのお天気。
 雨が降らなくて本当によかったと思う。気温は暑くもなければ寒くもないちょうどいい感じ。
 お庭には秋バラが咲き誇り、花々の香りが風にのって届く。
 チャペルからは、退場の合図でもあるピアノとバイオリンの優しい音色が流れてきた。
 扉が開くと、最初に出てきたのはカメラマンだった。
 私は姿勢を正して、式を終えた新郎新婦が出てくるのを待つ。そうしてささやかな拍手のもと、二人がチャペルから出てきた。
 カメラマンが「チャペル前でも撮りましょうか?」と声をかけている。
 前撮りするような時間はなかったから、本人たちが希望すれば写真撮影の時間も設けるとは聞いていた。
 うん! チャペル前ももちろん素敵だし、今日のお天気ならお庭での撮影もいいよ!
 きっといい写真になる。

真尋まひろ、せっかくだから撮ってもらおう」
「うん」

 ――え?
 私は聞こえてきた花嫁さんの名前に思わず顔をあげた。
 すぐさま視線を外して、無意識に結愛ちゃんを探してしまう。
 彼女と目が合うと、さりげなく首を横に振って目配せされた。
 私は慌てて花嫁さんのベールを綺麗に広げて整えた。繊細なレースで編まれたベールにはキラキラのスワロフスキーが飾ってある。
 すぐ近くで『最初は二人きりで撮って、それから家族みんなで撮ろう』とか『お庭もいいな』とかいった二人のやりとりが聞こえた。
 私は花嫁さんを知っていた。
 彼女は湯浅真尋ちゃん。結愛ちゃんの仲のいいお友達で湯浅先輩――巧さまの妹。
 父親の再婚によってできた巧さまの義理の妹だ。
 私は高校三年生になるとすぐ、明樹くん経由で巧さまから『春から義理の妹が皇華に入学する。注意して見てもらえないか』と頼まれた。
 その時に初めて巧さまと話をしたし、恐ろしいことに連絡先まで交換した。もちろん『俺の連絡先を売ったりしたらただじゃおかない』とおどされたうえで。
 初めて言葉をかわした時の巧さまの第一声は『ああ、君が明樹の……だったら使えるか』だった。
 巧さまの命令に逆らえるはずもなく、私は義理の妹である真尋ちゃんをこっそり見守って、ついでに定期的に学校での様子を報告していた。
 高等部からの入学の上、巧さまの義理の妹だと知られていた彼女は、最初こそトラブルにあっていた。
 でも、巧さまが自ら送迎するほどかわいがっているという認識が定着すると、夏休みに入る頃には落ち着いた。
 だから私のお役目も数か月程度で終了。
 もちろん彼女はそんなこと知らない。
 だからサロンで結愛ちゃんとともに彼女とも顔を合わせて挨拶をした時、皇華の先輩後輩であるという紹介はしあったけれど、なんとなく後ろめたくてあまりおしゃべりはできなかった。

「では撮ります。お二人見つめ合ってください」

 カメラマンの声に、私はベールをふわりと広げて整えると二人から離れる。
 真尋ちゃんの結婚式……だから結愛ちゃんはあんなに張り切っていたんだ。
 そうして新郎様の横顔を見て、私は時間が止まった気がした。
 彼女の結婚式なら当然、義理の兄である巧さまは出席しているだろうと思った。
 だけどまさか彼が真尋ちゃんの隣に立っているとは想像もしていない。
 だって二人は義理の兄妹。
 真尋ちゃんは巧さまの三つ下で、中学を卒業したばかりの彼女にはあどけなさが残っていた。
 巧さまに様子を見守るよう頼まれた時も、義理とはいえ妹になったから大事なんだろうと、よほどかわいがっているんだなとは思ったけれど。
 巧さまはあの頃より一段とカッコよさが増していて、大人の男性の色気と相変わらず強烈な存在感を放っていた。
 同時に、きっと誰も見たことがないだろう甘い蕩けるような眼差しで真尋ちゃんを見つめていた。
 そのまま誰に言われたわけでもないのに、彼は真尋ちゃんに口づける。
 優秀なカメラマンはシャッターチャンスを逃さずに、連写の音がしっかり響いた。

「たっ、巧くん!」
「おまえがかわいすぎるのが悪い……真尋、もう一回」
「ばっ、みんないるんだよ! 家族の前だよ!」
「だから、俺たち二人だけで式しようって言ったのに」

 言い合っている間にもシャッターは切られている。
 真尋ちゃんは恥じらいながらも、拒むことなく再度口づけを受け止める。絡み合う視線はどこまでも甘く、浮かぶ笑みは幸せに満ちている。
 愛し愛されているのが伝わってくる。
 巧さまのお父様らしき人が「巧! いいかげんにしなさいっ」と叫んだ。
 親族のお子様なのか、幼稚園か小学校低学年ぐらいの女の子が「真尋ちゃんチューしている」と言うと「子どもは見ちゃいけません」と父親らしき人が目隠ししていた。
 カメラマンが「次はお庭で撮りましょうか?」とすかさず甘ったるい空気を変える。
 巧さまは真尋ちゃんを抱き上げると、結愛ちゃんが誘導するほうへと歩いていった。
 ドレスのすそとベールがふわりと広がった。スワロフスキーが陽の光に反射してきらめく。
 優しい色の緑の木々と、色鮮やかなバラの花、真っ白なドレス、そして二人のまばゆい笑顔。
 家族は涙ぐみながらも温かな眼差しで二人を見守っている。
 二人は祝福されている。
 たとえ義理の兄妹の関係であっても――――
 結愛ちゃんが、事情があると言って名前を伏せてきたのも、厳重な警備体制が敷かれているのも、結婚式の参列者が親族のみで、食事会が少人数なのもそのせいなのだろう。
 湯浅製薬はつい数か月前、お家騒動で会社分裂! みたいな記事が出て騒がれていた。インターネットサイトのニュースでもいろいろ書かれていた。
 そんな中での結婚式。
 きっと厳しい決断だったろうな。
 だって、巧さまの立場からすると義理の妹との結婚なんて醜聞しゅうぶんになりかねない。
 それでも二人はこうして今日結婚式を挙げている。
 うらやましいと素直に思った。
 結愛ちゃんのそばに高遠さんが近づき、そっと肩を抱き寄せる。
 うらやましい……好きな人とずっと一緒にいる約束を交わした二人が。
 写真撮影を終えてお屋敷へ向かう二人の背後を、私はベールを持って歩いた。
 お食事会の会場まで見送った後、私はすぐさまチャペルの片付けへと戻った。
 なんとなく、これ以上幸せそうな二人を見ていられなかったから。


     * * *


 チャペル内には生花がふんだんに飾られている。
 一応、お食事会が終わるまではこの状態。
 今日の参加者の中に希望者がいればチャペルの見学も可能になっているのだ。
 フラワーシャワーで散らばった床は片付けたほうがいいだろうと、私はほうきを手にする。ステンドグラスのいろんな色が床に映って、すごく幻想的な空間になっていた。
 ほうきでかき集めた花からもいい香りがする。このまま処分するのはもったいないなあと思ってとりあえず、水を張ったバケツにいれてみた。
 祭壇側は全面ガラス張りで、高遠家ご自慢のお庭が広がっている。
 ここだけ切り取るとまるで外国にでもいる気分。
 私はほうきで掃き終えると、今度はモップで床を磨いた。
 壁際の床に光るものを見つけて手にとった。
 キラキラがたくさんついた、かわいらしい髪飾り。もしかしたら参列していた小さな女の子のものかもしれない。
 後で誰かに預けようと、スカートのポケットにしまう。
 見学者がいつ来てもいい状態にし終えて、掃除道具を片付けると私はそっと祭壇に近づいた。
 バージンロードは新婦の父親に手をひかれるんだっけ?
 それからここに並んで、誓いの言葉をかわすんだよね。
 指輪の交換が先かな、後かな?
 何度か参加した結婚式を思い出す。
 私もいつか誰かとここに立てる日が来るのかな。
 愛を誓いたい相手と出会えるのかな。
 いまだに、想像する時に私が思い浮かべてしまうのは明樹くんだ。
 彼以外の人と結婚するイメージがわかない。
 だから私はたぶん、ここに立つ日は来ない気がする。
 ――っていうか明樹くんだって、もうとっくに誰かと結婚しているかもしれないよね。
 だって巧さまが結婚したんだもの……
 そこで、ん? と思ったのと、扉を遠慮がちにノックする音が聞こえたのは同時だった。

「はい!」

 もう見学希望者だろうか。
 だって食事会始まって、そう時間たってないよ。

「すみません。こちらに髪飾りの落とし物はありませんでしたか? 小さな女の子用でキラキラしているらしいんですが」

 そう言いながら扉を開けて入ってきたのは、フォーマルスーツを着た男性だった。
 私はさっき見つけたばかりの髪飾りをポケットからとり出す。
 よかった、とりにきてもらえて。

「落とし物ありましたよ。こちらではありませんか?」
「ああ、僕は落とし物がなかったか見てきてくれと頼まれただけなので、ちょっとわからないんですけど。だから椎名しいな先生が探しにくればよかったのに……」

 相手に近づいて、てのひらにのせた髪飾りを見せる。
 見上げて男性と目が合った瞬間、私は固まった。
 男性のほうも私同様、固まっている。
 本日二度目だ……時間が止まった気がするの。
 巧さまがいると気づいた時点で、私はもっと想像力を働かせるべきだった。
 真尋ちゃんの結婚式をうらやんでいる場合ではなかった。
 だって、巧さまの結婚式ってことは――仲のいい彼が来る可能性は充分あったのだから。

「は、るきくん……」
「……ねね? 音々か?」

 私が行動を起こすより早く、髪飾りを握った手首を掴まれる。そして顔を確かめるかのように明樹くんの手が私の頬に触れた。
 巧さまもすごくカッコよくなっていたけど、明樹くんもものすごくカッコよかった。
 少し明るめの髪は、ちょっとチャラそうな雰囲気。
 でも穏やかで優しそうな好青年から、落ち着いた紳士的な大人の男性になっている。
 なのに目が……彼の目だけが驚愕きょうがくに見開かれ、複雑な色をにじませつつ強い威圧感を放っていた。

(は、明樹くんだ……まさか、まさかこんなところで再会するなんて‼)
「音々。なんで君がここに……この格好、ここで働いているのか? いや、そもそもなんで日本にいる」
「ひ……人違い」
「そんなわけないだろう!」

 反射的に誤魔化そうとしたのをしかられる。
 う、う、彼に本当は怖いところがあるって知っているのって私だけかなあ。
 そのうえ明樹くんは掴んでいた私の左手をじっくり見て指輪がないことまで確認した。
 仕事が素早すぎる。

「そもそも結婚して海外にいるはずの君が、どうして日本にいて働いているんだ! 答えて音々!」

 なにをどう言えばいいのだろう。
 どんな嘘をつけば誤魔化されてくれるのだろう。
 あの時は精神的におかしかったせいか、必死だったせいか、逆にするするとうまい嘘をつけた気がするのに、今の私にはなんの名案も思い浮かばない。

「は、明樹くん、腕痛い」
「あ、ああ。悪い」

 明樹くんの剣幕に怯えつつ告げると、彼は力を緩めてくれたものの離しはしなかった。
 というか、どうしてこんなに明樹くんは怒っているんだろうか。
 確かに私は嘘をついて明樹くんを振った形にはなったけど、彼は彼でけっこうあっさりしていたのに。

「い、いろいろ、いろいろあってね。今はここで働いているの」
「それは結婚式関係の仕事?」
「ええと、このお屋敷での仕事」
「お屋敷って、高遠家ってこと?」

 渋々頷いた。
 お屋敷内で知ったことは口外禁止だけど、働いていることまで秘密にしなきゃいけないわけじゃない。ただ誰にも言う必要がなかったから言ったことがなかっただけで。

「明樹くんは、この落とし物を取りに来たんでしょう? それに今お食事会の最中なんじゃないの? 戻ったほうがいいと思うよ」
「……音々にしてはもっともなことを言うね。確かに椎名先生のお嬢さんが泣いているから、これは早めに届けたほうがよさそうだ。巧はどうでもいいけど、椎名先生と姫にはきちんと礼は尽くしたい」

 私は同意の意味を込めてうんうん頷いた。

「そのうえ、高遠家か……お屋敷となると君の雇い主は高遠の息子さんのほうか」

 再度うんうん頷いた。
 明樹くんは少しの間考え込んだ後、「会場に戻ろう」と言ってなぜか私の手を掴んだまま、お屋敷へとひっぱっていった。


「明樹くん、明樹くん! 私チャペルでの仕事がまだあるっ!」
「今は、この敷地内で迷った僕を会場まで案内する仕事を優先すべきだ」

 さすが、かしこい明樹くんだ。
 立派な言い訳が成り立っている。
 私に反論も抵抗もできるはずがない。

「でもでも! 会場内に私は入っちゃいけないことになっているの!」

 明樹くんは、迷うことなくチャペルからお屋敷に入り、一直線に会場へと向かっていく。明樹くんが迷うわけないとは思っていたけど、私のほうがこうしてひっぱられていたら案内の言い訳にはならないよ。
 そうして会場外の扉の前に立つと、明樹くんは再び思案して中の誰かにまず髪飾りを預けた。そのうえで、なおかつ高遠さんを廊下に呼び出した。

「立花様、どうされました。うちのスタッフがなにか?」

 私がいるのを見て高遠さんが瞬時に雇い主の顔になる。
 お食事会には高遠さんも結愛ちゃんも客の一人として参加する。だから彼の装いもさっきとは違っていた。

「彼女と個人的に話をする時間をいただきたいんです。ご許可願えますか?」

 明樹くんは珍しく直球で切り出した。
 高遠さんは疑問をすぐにかき消して笑みまで浮かべる。
 さ、さすが高遠家の御曹司!

「梨本さん、立花様とはどういう関係かな」
「今はなんの関係もな――」
「元恋人です」

 私が否定しきる前に明樹くんが暴露ばくろする。

「大学時代に彼女と付き合っていました。結婚して海外にいるはずの彼女がどうしてこちらで働いているのか、その理由を知りたい。僕には知る権利があります」

 高遠さんの視線がさっと走って私を見る。
 私が大号泣して、嘘をついてまで別れた恋人だと、この一瞬で察知したのがわかった。
 高遠さんは私をじっと見た後、明樹くんを見つめた。
 二人の視線が絡んで、緊張感が走る。
 こんな怖い高遠さんから目をそらさないあたり明樹くんも負けていない。私はもう体のほうが勝手に震えそうなんだけど。

「立花様、彼女のプライベートにまで私が口を出すことはできません。また彼女が望まないようであれば私は雇用主として守る義務があります。今はおめでたい食事会の最中ですし、ここはひとまずあなたの連絡先を彼女にお伝えするのみとしていただけませんか?」

 高遠さんはそこで言葉を区切った後、私の腕を掴んだままだった明樹くんの手に触れた。

「彼女があなたとの話し合いを望むなら連絡するでしょうし、望まなければあきらめていただきたい」

 明樹くんはぴくりと震えると、高遠さんにうながされるままに私の腕を離した。
 そうしてため息をつく。
 明樹くんは、気を取り直したように名刺を取り出すと、連絡先を書いて私の手に押しつけた。

「音々。必ず連絡して」

 私は高遠さんの手前もあって、無言のままその名刺をポケットにしまった。

「梨本さん、仕事に戻りなさい」
「はい、かしこまりました。旦那様」

 背中に明樹くんの視線を感じつつも、今すぐ駆け出したい気持ちを抑えてお行儀よく廊下を歩いた。
 その場を離れるまで、私の心臓はうるさいくらい音をたてていた。


     * * *


 僕は静かにその場を去る音々の後ろ姿をずっと見つめていた。

「立花様、中へどうぞ」

 僕は高遠氏にうながされて仕方なく会場内に入った。
 彼は即座に立場を切り替えたようだ。部屋に入るとそれ以上なにも言わず聞かず、食事会の客人として奥方のところへと戻っていく。

「明樹おにいちゃま、髪飾りありがとう」

 さっきまで髪飾りをなくしたと泣いていた椎名先生のお嬢さんが、にこにこ笑って僕のところへやってきた。
 彼女の髪には、きちんとそれが飾られている。
 椎名先生は僕が勤務する病院の大先輩だ。そして友人である湯浅巧の妻、真尋ちゃんの叔父でもある。


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