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1巻
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プロローグ
――今でも、時々夢に見る。
あれは、私、梨本音々が大学四年生の頃のこと。
「別れてほしいの」
告白をしたのは私からだった。
高校一年生で初めて会った時に一目惚れした、一つ上の男の子。
ずっと見ていることしかできなくて、彼が医学部に合格したのを機にダメ元で告白した。
彼は私の気持ちにはとっくに気づいていて、その時はさらりと流されたっけ……
のらりくらりとかわされながらも、ゆっくりと時間をかけて関係が続いて、いつしか私たちは付き合うようになった。
それなのに……いまだ大好きな人なのに、私はこうして電話で別れ話を切り出している。
「婚約者が海外転勤になったから、結婚してついてきてほしいって言われたの。明樹くんが卒業するのはまだ先だし、研修医になったら忙しくて結婚どころじゃないよね。奨学金の返済もあって経済的に落ち着くまで時間もかかるんでしょう? 私、貧乏は嫌だし、そこまで待てないから」
余計なことまで口にしちゃった気がしたけれど、とにかく彼に怪しまれないようにするのに必死だった。
会って別れ話なんかできなかった。
だから電話で済ませようと思った。
声が震えないように、嘘だってバレないように、余計な追及されないように。
鼻をすすると泣いているのがバレそうだから、鼻水が垂れていくのも我慢した。
『そうか……』
電話の向こうで呟いた彼の声は、こんな時でも相変わらず落ち着いている。いきなりの別れ話でも一切動じない。
ううん、忙しい中いきなり電話してきて内容がこんなので、内心呆れているのかもしれない。
『まあ、君の言う通り大学を卒業したからって僕はすぐには結婚できない。君の望みは叶えてあげられないと思う。君が向こうを選ぶなら僕は身を引くよ』
予想以上にあっさりと、彼は私からの別れ話を受け入れた。
それどころか、お嬢様育ちの私に婚約者もどきの相手がいることにさえ、気づいていたみたいだ。
もし問い詰められたらどうしようと思っていたのに必要なかったよ……
「じゃ、じゃあ、さようなら」
吐きそうなほど緊張して気合いをいれて電話をしたのに、こうして別れ話は呆気なく終わった。
通話と同時に緊張の糸も一緒に切れて、私はくずおれるようにして座り込んだ。
「う……うっ……うわぁん‼」
涙も鼻水も垂れ流しながら、私は子どものように泣きわめいた。
引き留めてほしかった。理由ぐらい聞いてほしかった(いや、聞かれたら困るけど)。少しぐらいは動揺してほしかった。
それなりに長い付き合いだったのに、こんなに呆気なく終わったことが信じられないよ。
でも、これでよかったのだと私は必死に言い聞かせた。
だって私は、もうお嬢様じゃなくなったのだ。
借金まみれで怪しい金融業者に追われる身。
父はお金の工面をしてくるからと言い残してどこかへ行ってしまったし、借金の原因になった母は入院中だし、当然、婚約者もどきだってそそくさと逃げ去った。
怪しい金融業者は一人娘の私を追いかけまわし、あろうことか私の恋人にまで手を伸ばそうとした。
『お嬢ちゃん、借りたお金はきちんと返さないとね。借金返済ができるように仕事先は俺たちが紹介してやるよ。ああ、そういえばあんたには恋人がいたなあ。いっそ恋人にお金を工面してもらっちゃどうだい? 紹介する仕事が嫌なら――恋人に肩代わりしてもらおうか?』
お金は一生懸命働いて返しますって言っているのに、彼らはいつのまにか私の恋人の存在まで把握して魔の手を伸ばそうとしていた。
そんなの、ダメだよ!
だって彼は母一人、子一人。高校も大学も奨学金で通い、学業とバイトを両立して頑張っている苦学生なのだ。そんな彼に迷惑かけたくない!
『仕事、仕事しますからっ! 彼のところには行かないでください!』
『でもなあ……お嬢様育ちのあんたに、いかがわしい仕事ができるかい? 恋人だって許さないんじゃないかい?』
いかがわしい仕事がどんなものかはわからない。
でも、私の家庭事情のとばっちりを彼にまで受けさせるわけにはいかない。
なによりこんな惨めな現実知られたくない!
だから『彼とは別れます! 私とは無関係の人になります! だから、だからっ、彼にまで取り立てに行かないでください! 言われた仕事はなんでもやりますからっ』と言うしかなかった。
『じゃあ、明日必ずここにおいで。そうすれば恋人には黙っといてやる』
そうして怪しげな名刺を押しつけられたのだ。
私には彼との別れを選ぶ以外、選択肢は残されていなかった。
「別れたくない……別れたくなかったよぉ」
だって、大好きだったのだ。
ずっと片思いをしていて、やっと告白できて、運よく付き合うことができた相手なのだ。
だからもし彼と別れることがあるとすれば、振られるのは私のほうだと思っていたのに。
まさかこんなことになるなんて。
私は、その日大好きだった彼に別れを告げ、裕福なお嬢様育ちから一転、転げ落ちていったのだった。
第一章
「別れたくないよぉ」
そんな自分の声で目覚める朝……私の顔は大抵、あの日と同じ涙と鼻水まみれになっている。
頻度は減ったけれど、いまだに未練たらしい夢を見てしまう。
夢の中の私は、底なし沼にどんどん沈んでいったり、地下牢のような場所で一人飢えていたり、見たこともない化け物に追いかけまわされたりと散々な目にあう。
でも現実の私は、いかがわしい店で働きながら借金返済に勤しんでいる――わけではなく、地獄へ転げ落ちる一歩手前で救われた。
私は桐ダンスからたとう紙を取り出すと、そっと紐を解いた。
あの日の夢を見るたびに、私はこの振袖を取り出すようにしている。
祖母が私の成人式のために準備してくれた。著名な友禅作家さんに依頼して、図柄を何度も打ち合わせて、数年がかりで制作したとても豪華な代物。
ちなみにお値段は八桁。
そしてこの振袖が、地獄へ落ちかけていた私の窮地を救った。
モチーフは伝統的な古典柄で、白生地は華やかな赤や黄にしようかと思っていたのに、祖母の一言で深い青になった。
私にはシックな気がしたけれど、実際身に着けてみたら童顔が大人びて見えたのを覚えている。
それを着た私を見て、嬉しそうだった祖母の顔も思い出す。
そもそものきっかけは、その祖母の死だった。
会社経営をしていた祖父は意気消沈し、後を追うように病に倒れ、急遽父がその跡を継いだ。
けれど、人の好さだけが取り柄の父には、祖父のような会社経営の才能はなかったようで、私にもよくわからないうちに業績悪化を理由に会社を追い出されてしまったのだ。
そこまでで終わっていれば、多分まだなんとかなったのだと思う。
でも、いきなり父が無職になったせいで、お嬢様育ちだった母はショックを受けた。
お金もないのに生活レベルを落とすこともできず、ストレス発散からますます散財するようになり、気づいた時には借金まみれ。
怪しい金融業者にお金を借りていたため、借金はものすごい額になっていた。
自宅を差し押さえられ、金融業者は私にまで借金返済を迫り、いかがわしいお店で働けと脅してきたのだ。
あの日、恋人と別れ、なにもかもを失くして大号泣していた私に、かかってきたのは一本の電話。
電話をくれたのは高遠結愛ちゃん。
彼女は中高大一貫のお嬢様学校である皇華学園の二つ下の後輩。
高校時代にはあまり接点がなかったけど、大学時代に高遠家のお屋敷で開催されていたサロンで知り合いになった。
――高遠家のお屋敷。
大企業高遠グループの創業家が所有する、歴史の趣を感じさせる海外様式の豪奢なお屋敷のことだ。
祖母に連れられてお屋敷で開催されていたサロンに参加したのは、私が皇華大学三年生の夏休み。
お屋敷で長年家政婦を勤めていた女性は優秀な人で、彼女に指導を受けられるならと祖母に勧められ、私は月に二回のペースで参加していた。
その時お屋敷で働いていたのが結愛ちゃんだった。
彼女が高校卒業後、大学進学もせずに高遠家のお屋敷で働いていると知った時、私は素直に『すごいなあ』と感心した。
けれど周囲は違った。
『ほら、あの子実は……』とか『皇華の出身なのにあんなに落ちぶれるなんて惨めね』なんて声が、噂に疎い私の耳にもちらほらと入ってきた。
実際は、結愛ちゃんは高遠グループの御曹司である高遠駿さんの婚約者で、彼の意向を汲んでそのご実家で、花嫁修業を兼ねてお手伝いをしていたにすぎなかったんだけど。
けれど私は祖母の死をきっかけにサロンに通うような状況ではなくなった。
そしてあの日、久しぶりに結愛ちゃんから電話がかかってきたのだ。
『あの、梨本さん。呉服屋さんからご自宅に連絡がつかないとお聞きしたので、梨本さんの携帯のほうにお電話したんですが』
その頃は、金融業者の嫌がらせの電話がうるさかったので自宅の電話線は抜いていた。
サロンでは着付けも学べて、そこに出入りしていた呉服屋さんは我が家も贔屓にしていたところだった。
『梨本さんが呉服屋さんに依頼していた振袖のお手入れが終わったそうなんです。ご都合の良い時にお店へいらしてくださいって伝言をお預かりしたんですけど……』
それがこの振袖。
成人式の後、親族の結婚式で着たのでお手入れに出していた。ついでにと他にも数着お願いしていたのだ。
金目のものはすでに処分した後だったので、私には換金できるものがもう手元にはなかった。
お手入れに出していた振袖と数着の着物、それを売れば少しは……そう思った私は電話口で再び大号泣した。
祖母に申し訳ない気持ちと、背に腹は代えられない状況と、少しでも借金の足しになるならという希望みたいなものがないまぜになって。
電話の向こうで、いきなり泣き出した私に彼女は慌てて、今では旦那様である高遠さんとともに私を迎えにきてくれたのだ。
『振袖を売りたい。手配してくれる呉服屋さんを紹介してほしい』と泣きながら頼む私から、結愛ちゃんと高遠さんは辛抱強くこれまでの状況を聞きだした。
そして私は藁にも縋る思いで、高遠さんにすべてを打ち明けて委ねたのだ。
高遠さんは借金を肩代わりしてくれただけでなく、両親の支援までしてくれた。
祖母の形見の振袖が繋いでくれた縁のおかげで、私はいかがわしいお店で働く必要がなくなり、なんとか大学も無事卒業できた。
いろいろ片がついた頃、高遠さんからはもう身の危険はないから大丈夫だと思うよ、と言われたけれど、私はこのままお屋敷で働かせてほしいとお願いした。
だって私はなにも知らなかった。なにもできなかった。
のほほんと親のお金で生活をして、お嬢様学校に通って、あたりまえのようにそのまま大学に進学した。
どうせすぐに結婚するかもしれないから、それまで親の会社に入るか家事手伝いをすればいいのだと、まともに就職活動さえしなかった。
大好きな恋人が大学を卒業すれば、結婚してもらえるのではないかと思っていた。
ううん、身勝手に願っていた。
夢ばかり見て、幻想の世界にどっぷり浸かっていた。
家をなくして仕事もなくて、借金まみれになって恋人とも別れて、堕ちるところまで堕ちるしかないギリギリの状態になるまで。
お手入れに預けていたのは振袖と祖母のお気に入りの訪問着と大島紬。
そしてその呉服屋さんには、私の嫁入り道具として祖母が準備してくれていた着物が数着注文されていた。
どれも素敵な着物ばかり。そして祖母の残してくれた大事な形見。
だから、私はこうして春と秋に虫干しをしてお手入れをしている。
私は祖母のお気に入りだった大島紬を肩に羽織った。
幸い私は小柄なので、祖母のものもなんとか着ることができる。
着物好きな祖母は『大島紬のシャリッとした感触が好きなのよ』とよく言っていた。腰紐を結ぶ時の衣擦れの音を聞かせながら。
「おばあさま。おばあさまのおかげで私、なんとか生きているよ」
あれから三年、私は二十五歳になった。
着物にそっと触れると、私は衣桁にかけた振袖に向かって静かに両手を合わせた。
* * *
「チャペルで結婚式を挙げようと思います!」
高遠家お屋敷内にある休憩室で昼食後のティータイムを楽しんでいると、結愛ちゃんが仁王立ちになって突然叫んだ。
高遠家の若奥様となった彼女は現在、このお屋敷の運営に関するすべての責任を負う立場にある。
もちろんまだ若いし経験も浅いので、周囲のサポートのもと、高遠さんからの支援や助言を受けながら試行錯誤で取り組んでいる。
お屋敷ではスーパー家政婦清さん中心のサロン運営の手伝いをして、時折高遠グループ関係者であるVIPの、宿泊のお世話やおもてなしをする。
数年前に敷地内にできたレストランのオーナーも彼女だ。
レストラン経営が軌道に乗り始めると、そこで結婚式を挙げられないかという問い合わせがくるようになった。
結愛ちゃんはしばらくの間悩んでいたけれど、とりあえず敷地内にチャペルを建築することにしたらしい。
このとりあえず、がすごいんだけどね……高遠さんは損得関係なしに結愛ちゃんの希望は基本叶える方針だから。
彼女は意外にもいろいろこだわるタイプだったようで、事前にたくさん調べたうえでチャペルを設計してもらった。
自宅もレストランもすごいけど、チャペルはそれ以上のこだわりよう。
建物の大きさ自体はこぢんまりしているものの、装飾や内装がとにかく豪華。
ステンドグラス窓のデザインも凝っていて、時折見惚れてしまうぐらい。
そんなこだわり満載チャペルができあがってしばらく経つのに、一向に使用する気配がなかったから、どうするのだろうとは思っていた。
今この場にいるのは高遠家の執事である斉藤さん、家政婦の清さん、レストラン料理長の奥さんで使用人でもある碧さん、そして私。
私以外の人たちは基本的にお屋敷関係の仕事が中心だ。
私はお屋敷とレストランどちらの雑務も引き受けている。
お屋敷に住み込みなので、休憩時間はレストランではなくお屋敷の休憩室で過ごしていた。
「まあ、日にちが決まったの?」
碧さんが嬉しそうにほほ笑む。
たった今、結愛ちゃんのスマホに連絡が入ったようで、彼女はめずらしく興奮露わにうんうんと何度も深く頷いていた。
「お仕事の調整がようやくついたみたいなんです! あ、でも本当にお身内だけの結婚式をっていうご希望なんですけど……」
「披露宴はレストランでやるの?」
「いいえ。披露宴というより大事な人だけをお呼びしてお食事会みたいにしたいらしいんです。できればビュッフェ形式の気楽な雰囲気で。ご招待する人数も少ないようなので、お屋敷でしようかなと思っているんですけど……ああ、でもお料理は料理長にお願いしたいです!」
「もちろん、レストランおやすみしてでもこっちを優先させるわよ」
結愛ちゃんと碧さんが嬉しそうにやりとりをする。
「チャペル第一号のお客様は結愛ちゃんのお知り合いですか?」
初めてあのチャペルで結婚式を挙げる上に、少人数のお食事会とはいえお屋敷ですると決めたのだ。結愛ちゃんにとって、よほど大事な人なのかなと思って聞いたところ、なぜか周囲がしんと静まり返って一斉に私を見る。
え? なんだろう。
結愛ちゃんはうーんと首をかしげて考える。他の人たちも顔を見合わせている。
え……私、聞いちゃいけないこと聞いちゃったのかな?
そうして彼女はいいアイデアを思いついた時の表情をして、にっこり笑った。
うん、あいかわらず、かわいいなあ。
高遠さんが愛でるのもわかるよ!
「音々さん、今回はちょっと事情を抱えている方なんです。なので当日まで、できるだけ秘密にしたいと思っています。お名前は伏せてご新郎様ご新婦様で通そうと思うんですけど構いませんか?」
(よほどのVIPなんだろうな)
お屋敷で宿泊のお客様をお迎えする時も、時々あえて名前を伏せたり仮名で対応したりしていた。
最初は不思議だったけれど、高遠グループ関係者ともなれば、公にできない人たちもいるんだろうなとか、このお屋敷でのルールなんだろうなと思って、これまでもすんなり受け入れてきた。
だから今回も特に問題はない。私は素直に頷く。
「他のみなさまもいいですか?」
もちろん他の人たちも頷いていた。
今の私は、世の中には様々な事情を抱えている人がいるのだということを知っている。
高遠家の奥様として幸せそうにしている彼女も複雑な事情を抱えていたし、今となっては私もそういう立場だ。
「というわけでみなさま、ご協力よろしくお願いします!」
どんな事情を抱えていたとしても、きっと結愛ちゃんにとっては特別な人なんだろうな。
それだけは、なんとなくわかった。
* * *
お屋敷に一週間滞在していたお客様をお見送りして、私は宿泊していたお部屋の掃除に向かった。
今現在二階で使用できる客室は三部屋。
すべてスイートルームタイプの豪華なお部屋で、それぞれテイストが異なる。
お客さまの好みに合わせてどの部屋を使用するか決めるのは、結愛ちゃんのお仕事だ。
海外のお客様ならみんな和風がいいのかな、なんて私だったら思うけど、そう単純な話じゃない。
たとえば足腰が悪い方ならベッドや椅子があるほうがいいし、旅館によく泊まる人ならあえてモダンなお部屋を準備する。
今回のお客様はフランスの方で長期の滞在予定だったので、ご自宅のように寛いでもらうためにフレンチテイストのお部屋を用意した。
ここに宿泊するお客様はみんな上品だ。
毎朝お部屋のお掃除に入るけれど、水回り以外ほとんど汚さない。
部屋もあまり散らかさないし、外出する前には簡単に片付けてくれるお客様も多い。
ベッドのシーツだって軽くしわを伸ばしている。
「音々ちゃん。どこまで済んだ?」
「あ、トイレとバスルームは終わりました」
「了解」
碧さんは手際よく掃除をすすめていく。
掃除に段取りがあることや、綺麗にするコツなどを、私は碧さんに教えてもらった。
皇華も清掃活動は大事にしているから私も最低限はできたけれど、学校でみんなと一緒に分担してやるのと、広い部屋を少人数で整えるのはやっぱり違う。
「結愛ちゃんは、今日は?」
本当は結愛ちゃんじゃなくて、奥様って呼ばないといけないんだろうけれど、お屋敷の人たちが人前以外ではそう呼ぶのと、彼女本人が『奥様はやめてください!』と固辞したので、下の名前で呼んでいる。
高遠さんはもちろん『旦那様』だけど。
「しばらくは結婚式の準備に集中したいみたい。お客様の予約もしばらく入っていないし、突然入らない限り、こっちは私たちでなんとかなるしね」
「ふふ、夢中になれるものができてよかったですね」
「……うん、少しは気分が切り替わるといいんだけど」
最近の結愛ちゃんは、ずっと調子が悪かった。
仕事が忙しいのもあるけれど、一番の理由は精神的なもの。
高遠さんと結愛ちゃんは、彼女が二十歳の時に結婚した。
元々幼い頃からの婚約者同士で、彼女が二十歳になったら結婚する約束だったという、ものすごくロマンチックな関係の夫婦だ。
高遠さんがずっと海外生活で離れていたこともあって、結婚後しばらくは夫婦二人の生活を楽しんでいた。
そうして一年前ぐらいに、そろそろ子どもが欲しいねという話になったのだ。
私たちもいつ彼女が妊娠してもいいように、勤務体制をととのえていた。
結愛ちゃんは若い。
だから私たちもすぐに授かれるものだとばかり思っていた。
でも現実は、まだ彼女のもとにコウノトリは運んできてくれない。
不妊治療の開始の目安は子作りをはじめて二年だという。
二人はまだ一年だから焦る必要はない。
でも子どもが欲しい夫婦は一年できないだけで不安になる。
彼女も最初は気にしていなかったけれど、一年経ってもできなくて最近悩み始めていた。
高遠さんは、不妊治療はお互いに精神的な負担が大きいから、あまり急ぎたくないようだけれど。
彼ら夫婦は十歳の年の差がある。
結愛ちゃんは若くても、高遠さんは三十三歳――ちょうどいい年齢だ。周囲も高遠グループの跡継ぎ誕生を心待ちにしている。
そういう外からのプレッシャーが彼女を追いつめている。
――今でも、時々夢に見る。
あれは、私、梨本音々が大学四年生の頃のこと。
「別れてほしいの」
告白をしたのは私からだった。
高校一年生で初めて会った時に一目惚れした、一つ上の男の子。
ずっと見ていることしかできなくて、彼が医学部に合格したのを機にダメ元で告白した。
彼は私の気持ちにはとっくに気づいていて、その時はさらりと流されたっけ……
のらりくらりとかわされながらも、ゆっくりと時間をかけて関係が続いて、いつしか私たちは付き合うようになった。
それなのに……いまだ大好きな人なのに、私はこうして電話で別れ話を切り出している。
「婚約者が海外転勤になったから、結婚してついてきてほしいって言われたの。明樹くんが卒業するのはまだ先だし、研修医になったら忙しくて結婚どころじゃないよね。奨学金の返済もあって経済的に落ち着くまで時間もかかるんでしょう? 私、貧乏は嫌だし、そこまで待てないから」
余計なことまで口にしちゃった気がしたけれど、とにかく彼に怪しまれないようにするのに必死だった。
会って別れ話なんかできなかった。
だから電話で済ませようと思った。
声が震えないように、嘘だってバレないように、余計な追及されないように。
鼻をすすると泣いているのがバレそうだから、鼻水が垂れていくのも我慢した。
『そうか……』
電話の向こうで呟いた彼の声は、こんな時でも相変わらず落ち着いている。いきなりの別れ話でも一切動じない。
ううん、忙しい中いきなり電話してきて内容がこんなので、内心呆れているのかもしれない。
『まあ、君の言う通り大学を卒業したからって僕はすぐには結婚できない。君の望みは叶えてあげられないと思う。君が向こうを選ぶなら僕は身を引くよ』
予想以上にあっさりと、彼は私からの別れ話を受け入れた。
それどころか、お嬢様育ちの私に婚約者もどきの相手がいることにさえ、気づいていたみたいだ。
もし問い詰められたらどうしようと思っていたのに必要なかったよ……
「じゃ、じゃあ、さようなら」
吐きそうなほど緊張して気合いをいれて電話をしたのに、こうして別れ話は呆気なく終わった。
通話と同時に緊張の糸も一緒に切れて、私はくずおれるようにして座り込んだ。
「う……うっ……うわぁん‼」
涙も鼻水も垂れ流しながら、私は子どものように泣きわめいた。
引き留めてほしかった。理由ぐらい聞いてほしかった(いや、聞かれたら困るけど)。少しぐらいは動揺してほしかった。
それなりに長い付き合いだったのに、こんなに呆気なく終わったことが信じられないよ。
でも、これでよかったのだと私は必死に言い聞かせた。
だって私は、もうお嬢様じゃなくなったのだ。
借金まみれで怪しい金融業者に追われる身。
父はお金の工面をしてくるからと言い残してどこかへ行ってしまったし、借金の原因になった母は入院中だし、当然、婚約者もどきだってそそくさと逃げ去った。
怪しい金融業者は一人娘の私を追いかけまわし、あろうことか私の恋人にまで手を伸ばそうとした。
『お嬢ちゃん、借りたお金はきちんと返さないとね。借金返済ができるように仕事先は俺たちが紹介してやるよ。ああ、そういえばあんたには恋人がいたなあ。いっそ恋人にお金を工面してもらっちゃどうだい? 紹介する仕事が嫌なら――恋人に肩代わりしてもらおうか?』
お金は一生懸命働いて返しますって言っているのに、彼らはいつのまにか私の恋人の存在まで把握して魔の手を伸ばそうとしていた。
そんなの、ダメだよ!
だって彼は母一人、子一人。高校も大学も奨学金で通い、学業とバイトを両立して頑張っている苦学生なのだ。そんな彼に迷惑かけたくない!
『仕事、仕事しますからっ! 彼のところには行かないでください!』
『でもなあ……お嬢様育ちのあんたに、いかがわしい仕事ができるかい? 恋人だって許さないんじゃないかい?』
いかがわしい仕事がどんなものかはわからない。
でも、私の家庭事情のとばっちりを彼にまで受けさせるわけにはいかない。
なによりこんな惨めな現実知られたくない!
だから『彼とは別れます! 私とは無関係の人になります! だから、だからっ、彼にまで取り立てに行かないでください! 言われた仕事はなんでもやりますからっ』と言うしかなかった。
『じゃあ、明日必ずここにおいで。そうすれば恋人には黙っといてやる』
そうして怪しげな名刺を押しつけられたのだ。
私には彼との別れを選ぶ以外、選択肢は残されていなかった。
「別れたくない……別れたくなかったよぉ」
だって、大好きだったのだ。
ずっと片思いをしていて、やっと告白できて、運よく付き合うことができた相手なのだ。
だからもし彼と別れることがあるとすれば、振られるのは私のほうだと思っていたのに。
まさかこんなことになるなんて。
私は、その日大好きだった彼に別れを告げ、裕福なお嬢様育ちから一転、転げ落ちていったのだった。
第一章
「別れたくないよぉ」
そんな自分の声で目覚める朝……私の顔は大抵、あの日と同じ涙と鼻水まみれになっている。
頻度は減ったけれど、いまだに未練たらしい夢を見てしまう。
夢の中の私は、底なし沼にどんどん沈んでいったり、地下牢のような場所で一人飢えていたり、見たこともない化け物に追いかけまわされたりと散々な目にあう。
でも現実の私は、いかがわしい店で働きながら借金返済に勤しんでいる――わけではなく、地獄へ転げ落ちる一歩手前で救われた。
私は桐ダンスからたとう紙を取り出すと、そっと紐を解いた。
あの日の夢を見るたびに、私はこの振袖を取り出すようにしている。
祖母が私の成人式のために準備してくれた。著名な友禅作家さんに依頼して、図柄を何度も打ち合わせて、数年がかりで制作したとても豪華な代物。
ちなみにお値段は八桁。
そしてこの振袖が、地獄へ落ちかけていた私の窮地を救った。
モチーフは伝統的な古典柄で、白生地は華やかな赤や黄にしようかと思っていたのに、祖母の一言で深い青になった。
私にはシックな気がしたけれど、実際身に着けてみたら童顔が大人びて見えたのを覚えている。
それを着た私を見て、嬉しそうだった祖母の顔も思い出す。
そもそものきっかけは、その祖母の死だった。
会社経営をしていた祖父は意気消沈し、後を追うように病に倒れ、急遽父がその跡を継いだ。
けれど、人の好さだけが取り柄の父には、祖父のような会社経営の才能はなかったようで、私にもよくわからないうちに業績悪化を理由に会社を追い出されてしまったのだ。
そこまでで終わっていれば、多分まだなんとかなったのだと思う。
でも、いきなり父が無職になったせいで、お嬢様育ちだった母はショックを受けた。
お金もないのに生活レベルを落とすこともできず、ストレス発散からますます散財するようになり、気づいた時には借金まみれ。
怪しい金融業者にお金を借りていたため、借金はものすごい額になっていた。
自宅を差し押さえられ、金融業者は私にまで借金返済を迫り、いかがわしいお店で働けと脅してきたのだ。
あの日、恋人と別れ、なにもかもを失くして大号泣していた私に、かかってきたのは一本の電話。
電話をくれたのは高遠結愛ちゃん。
彼女は中高大一貫のお嬢様学校である皇華学園の二つ下の後輩。
高校時代にはあまり接点がなかったけど、大学時代に高遠家のお屋敷で開催されていたサロンで知り合いになった。
――高遠家のお屋敷。
大企業高遠グループの創業家が所有する、歴史の趣を感じさせる海外様式の豪奢なお屋敷のことだ。
祖母に連れられてお屋敷で開催されていたサロンに参加したのは、私が皇華大学三年生の夏休み。
お屋敷で長年家政婦を勤めていた女性は優秀な人で、彼女に指導を受けられるならと祖母に勧められ、私は月に二回のペースで参加していた。
その時お屋敷で働いていたのが結愛ちゃんだった。
彼女が高校卒業後、大学進学もせずに高遠家のお屋敷で働いていると知った時、私は素直に『すごいなあ』と感心した。
けれど周囲は違った。
『ほら、あの子実は……』とか『皇華の出身なのにあんなに落ちぶれるなんて惨めね』なんて声が、噂に疎い私の耳にもちらほらと入ってきた。
実際は、結愛ちゃんは高遠グループの御曹司である高遠駿さんの婚約者で、彼の意向を汲んでそのご実家で、花嫁修業を兼ねてお手伝いをしていたにすぎなかったんだけど。
けれど私は祖母の死をきっかけにサロンに通うような状況ではなくなった。
そしてあの日、久しぶりに結愛ちゃんから電話がかかってきたのだ。
『あの、梨本さん。呉服屋さんからご自宅に連絡がつかないとお聞きしたので、梨本さんの携帯のほうにお電話したんですが』
その頃は、金融業者の嫌がらせの電話がうるさかったので自宅の電話線は抜いていた。
サロンでは着付けも学べて、そこに出入りしていた呉服屋さんは我が家も贔屓にしていたところだった。
『梨本さんが呉服屋さんに依頼していた振袖のお手入れが終わったそうなんです。ご都合の良い時にお店へいらしてくださいって伝言をお預かりしたんですけど……』
それがこの振袖。
成人式の後、親族の結婚式で着たのでお手入れに出していた。ついでにと他にも数着お願いしていたのだ。
金目のものはすでに処分した後だったので、私には換金できるものがもう手元にはなかった。
お手入れに出していた振袖と数着の着物、それを売れば少しは……そう思った私は電話口で再び大号泣した。
祖母に申し訳ない気持ちと、背に腹は代えられない状況と、少しでも借金の足しになるならという希望みたいなものがないまぜになって。
電話の向こうで、いきなり泣き出した私に彼女は慌てて、今では旦那様である高遠さんとともに私を迎えにきてくれたのだ。
『振袖を売りたい。手配してくれる呉服屋さんを紹介してほしい』と泣きながら頼む私から、結愛ちゃんと高遠さんは辛抱強くこれまでの状況を聞きだした。
そして私は藁にも縋る思いで、高遠さんにすべてを打ち明けて委ねたのだ。
高遠さんは借金を肩代わりしてくれただけでなく、両親の支援までしてくれた。
祖母の形見の振袖が繋いでくれた縁のおかげで、私はいかがわしいお店で働く必要がなくなり、なんとか大学も無事卒業できた。
いろいろ片がついた頃、高遠さんからはもう身の危険はないから大丈夫だと思うよ、と言われたけれど、私はこのままお屋敷で働かせてほしいとお願いした。
だって私はなにも知らなかった。なにもできなかった。
のほほんと親のお金で生活をして、お嬢様学校に通って、あたりまえのようにそのまま大学に進学した。
どうせすぐに結婚するかもしれないから、それまで親の会社に入るか家事手伝いをすればいいのだと、まともに就職活動さえしなかった。
大好きな恋人が大学を卒業すれば、結婚してもらえるのではないかと思っていた。
ううん、身勝手に願っていた。
夢ばかり見て、幻想の世界にどっぷり浸かっていた。
家をなくして仕事もなくて、借金まみれになって恋人とも別れて、堕ちるところまで堕ちるしかないギリギリの状態になるまで。
お手入れに預けていたのは振袖と祖母のお気に入りの訪問着と大島紬。
そしてその呉服屋さんには、私の嫁入り道具として祖母が準備してくれていた着物が数着注文されていた。
どれも素敵な着物ばかり。そして祖母の残してくれた大事な形見。
だから、私はこうして春と秋に虫干しをしてお手入れをしている。
私は祖母のお気に入りだった大島紬を肩に羽織った。
幸い私は小柄なので、祖母のものもなんとか着ることができる。
着物好きな祖母は『大島紬のシャリッとした感触が好きなのよ』とよく言っていた。腰紐を結ぶ時の衣擦れの音を聞かせながら。
「おばあさま。おばあさまのおかげで私、なんとか生きているよ」
あれから三年、私は二十五歳になった。
着物にそっと触れると、私は衣桁にかけた振袖に向かって静かに両手を合わせた。
* * *
「チャペルで結婚式を挙げようと思います!」
高遠家お屋敷内にある休憩室で昼食後のティータイムを楽しんでいると、結愛ちゃんが仁王立ちになって突然叫んだ。
高遠家の若奥様となった彼女は現在、このお屋敷の運営に関するすべての責任を負う立場にある。
もちろんまだ若いし経験も浅いので、周囲のサポートのもと、高遠さんからの支援や助言を受けながら試行錯誤で取り組んでいる。
お屋敷ではスーパー家政婦清さん中心のサロン運営の手伝いをして、時折高遠グループ関係者であるVIPの、宿泊のお世話やおもてなしをする。
数年前に敷地内にできたレストランのオーナーも彼女だ。
レストラン経営が軌道に乗り始めると、そこで結婚式を挙げられないかという問い合わせがくるようになった。
結愛ちゃんはしばらくの間悩んでいたけれど、とりあえず敷地内にチャペルを建築することにしたらしい。
このとりあえず、がすごいんだけどね……高遠さんは損得関係なしに結愛ちゃんの希望は基本叶える方針だから。
彼女は意外にもいろいろこだわるタイプだったようで、事前にたくさん調べたうえでチャペルを設計してもらった。
自宅もレストランもすごいけど、チャペルはそれ以上のこだわりよう。
建物の大きさ自体はこぢんまりしているものの、装飾や内装がとにかく豪華。
ステンドグラス窓のデザインも凝っていて、時折見惚れてしまうぐらい。
そんなこだわり満載チャペルができあがってしばらく経つのに、一向に使用する気配がなかったから、どうするのだろうとは思っていた。
今この場にいるのは高遠家の執事である斉藤さん、家政婦の清さん、レストラン料理長の奥さんで使用人でもある碧さん、そして私。
私以外の人たちは基本的にお屋敷関係の仕事が中心だ。
私はお屋敷とレストランどちらの雑務も引き受けている。
お屋敷に住み込みなので、休憩時間はレストランではなくお屋敷の休憩室で過ごしていた。
「まあ、日にちが決まったの?」
碧さんが嬉しそうにほほ笑む。
たった今、結愛ちゃんのスマホに連絡が入ったようで、彼女はめずらしく興奮露わにうんうんと何度も深く頷いていた。
「お仕事の調整がようやくついたみたいなんです! あ、でも本当にお身内だけの結婚式をっていうご希望なんですけど……」
「披露宴はレストランでやるの?」
「いいえ。披露宴というより大事な人だけをお呼びしてお食事会みたいにしたいらしいんです。できればビュッフェ形式の気楽な雰囲気で。ご招待する人数も少ないようなので、お屋敷でしようかなと思っているんですけど……ああ、でもお料理は料理長にお願いしたいです!」
「もちろん、レストランおやすみしてでもこっちを優先させるわよ」
結愛ちゃんと碧さんが嬉しそうにやりとりをする。
「チャペル第一号のお客様は結愛ちゃんのお知り合いですか?」
初めてあのチャペルで結婚式を挙げる上に、少人数のお食事会とはいえお屋敷ですると決めたのだ。結愛ちゃんにとって、よほど大事な人なのかなと思って聞いたところ、なぜか周囲がしんと静まり返って一斉に私を見る。
え? なんだろう。
結愛ちゃんはうーんと首をかしげて考える。他の人たちも顔を見合わせている。
え……私、聞いちゃいけないこと聞いちゃったのかな?
そうして彼女はいいアイデアを思いついた時の表情をして、にっこり笑った。
うん、あいかわらず、かわいいなあ。
高遠さんが愛でるのもわかるよ!
「音々さん、今回はちょっと事情を抱えている方なんです。なので当日まで、できるだけ秘密にしたいと思っています。お名前は伏せてご新郎様ご新婦様で通そうと思うんですけど構いませんか?」
(よほどのVIPなんだろうな)
お屋敷で宿泊のお客様をお迎えする時も、時々あえて名前を伏せたり仮名で対応したりしていた。
最初は不思議だったけれど、高遠グループ関係者ともなれば、公にできない人たちもいるんだろうなとか、このお屋敷でのルールなんだろうなと思って、これまでもすんなり受け入れてきた。
だから今回も特に問題はない。私は素直に頷く。
「他のみなさまもいいですか?」
もちろん他の人たちも頷いていた。
今の私は、世の中には様々な事情を抱えている人がいるのだということを知っている。
高遠家の奥様として幸せそうにしている彼女も複雑な事情を抱えていたし、今となっては私もそういう立場だ。
「というわけでみなさま、ご協力よろしくお願いします!」
どんな事情を抱えていたとしても、きっと結愛ちゃんにとっては特別な人なんだろうな。
それだけは、なんとなくわかった。
* * *
お屋敷に一週間滞在していたお客様をお見送りして、私は宿泊していたお部屋の掃除に向かった。
今現在二階で使用できる客室は三部屋。
すべてスイートルームタイプの豪華なお部屋で、それぞれテイストが異なる。
お客さまの好みに合わせてどの部屋を使用するか決めるのは、結愛ちゃんのお仕事だ。
海外のお客様ならみんな和風がいいのかな、なんて私だったら思うけど、そう単純な話じゃない。
たとえば足腰が悪い方ならベッドや椅子があるほうがいいし、旅館によく泊まる人ならあえてモダンなお部屋を準備する。
今回のお客様はフランスの方で長期の滞在予定だったので、ご自宅のように寛いでもらうためにフレンチテイストのお部屋を用意した。
ここに宿泊するお客様はみんな上品だ。
毎朝お部屋のお掃除に入るけれど、水回り以外ほとんど汚さない。
部屋もあまり散らかさないし、外出する前には簡単に片付けてくれるお客様も多い。
ベッドのシーツだって軽くしわを伸ばしている。
「音々ちゃん。どこまで済んだ?」
「あ、トイレとバスルームは終わりました」
「了解」
碧さんは手際よく掃除をすすめていく。
掃除に段取りがあることや、綺麗にするコツなどを、私は碧さんに教えてもらった。
皇華も清掃活動は大事にしているから私も最低限はできたけれど、学校でみんなと一緒に分担してやるのと、広い部屋を少人数で整えるのはやっぱり違う。
「結愛ちゃんは、今日は?」
本当は結愛ちゃんじゃなくて、奥様って呼ばないといけないんだろうけれど、お屋敷の人たちが人前以外ではそう呼ぶのと、彼女本人が『奥様はやめてください!』と固辞したので、下の名前で呼んでいる。
高遠さんはもちろん『旦那様』だけど。
「しばらくは結婚式の準備に集中したいみたい。お客様の予約もしばらく入っていないし、突然入らない限り、こっちは私たちでなんとかなるしね」
「ふふ、夢中になれるものができてよかったですね」
「……うん、少しは気分が切り替わるといいんだけど」
最近の結愛ちゃんは、ずっと調子が悪かった。
仕事が忙しいのもあるけれど、一番の理由は精神的なもの。
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元々幼い頃からの婚約者同士で、彼女が二十歳になったら結婚する約束だったという、ものすごくロマンチックな関係の夫婦だ。
高遠さんがずっと海外生活で離れていたこともあって、結婚後しばらくは夫婦二人の生活を楽しんでいた。
そうして一年前ぐらいに、そろそろ子どもが欲しいねという話になったのだ。
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だから私たちもすぐに授かれるものだとばかり思っていた。
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でも子どもが欲しい夫婦は一年できないだけで不安になる。
彼女も最初は気にしていなかったけれど、一年経ってもできなくて最近悩み始めていた。
高遠さんは、不妊治療はお互いに精神的な負担が大きいから、あまり急ぎたくないようだけれど。
彼ら夫婦は十歳の年の差がある。
結愛ちゃんは若くても、高遠さんは三十三歳――ちょうどいい年齢だ。周囲も高遠グループの跡継ぎ誕生を心待ちにしている。
そういう外からのプレッシャーが彼女を追いつめている。
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