線香花火

流月るる

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 流れている音楽がクリスマスソングだと気がついたとき、もうすぐクリスマスが近いのだと実感する。どんな場所にもクリスマスツリーやリースやイルミネーションが飾られて、世の中すべてがその色に染まる。
 何かに踊らされていることがわかっているのに、それでも浮足立ってしまうのは、世間にクリスマスが浸透している証拠だろう。




 空気が冷たい。今年の冬は暖冬だと言われていたはずなのに、雪がちらちら舞い落ちるほどの寒い日々が続く。それにも関わらず、街にあふれる人の数は週末が来るたびに増えている気がした。
 皆が手に持っているのは、このシーズン専用にデザインされた紙袋。私の手にも似たようなものがいくつかぶら下がっていた。
 契約社員の身になってからボーナスは出なくなった。それまでに貯めたお金や、色がつけられた退職金には急な出費でもない限り手を出さなかった。けれど今回だけは特別だからと自分に言い訳して、いつもよりも散財している。こんなとき正社員として優遇されていた頃はよかったなと、仕事を辞めたことを後悔することがある。

 それでも、あの人のそばに何事もなかったように居続けられるほど、強くなかった。

 こんな何気ない瞬間に、不意にあの人のことを思い出すことが増えた。
 クリスマスが近いせいか、そのクリスマスをあの人以外の男性と過ごすと決めたせいなのか私にはわからない。ただ、無邪気にクリスマスを楽しみに待つ、街行く人々のようには浮かれてはいられなかった。待ち遠しいと思う反面、憂鬱な気持ちが生じてくる。明るい場所に行ったかと思えば暗い場所に向かっていたみたいな感じで、出口のない迷路をうろうろしている。

 クリスマスイブデート用の洋服を買った。靴やバッグは手持ちのものを合わせる。ただ首にまくための華やかなファーは購入した。風の冷たさも過去の記憶もこれで防ぐことができる。
 そして、彼へのクリスマスプレゼントも一応準備した。渡すか渡さないかは当日の流れで決めればいいだろう。イブ当日に会うのだから、なにも準備しないよりはしたほうがいい、その程度の感覚なはずなのに、選ぶのには時間がかかった。

 あの人と積み重ねてきた時間を、彼は塗り替えていくのだろうか。
 私は、あの人との時間が過去になってしまうことを本当に心から望んでいるのだろうか。

 時間だけは確実に進んでいて未来に向かっているのに、私の心はいつまでもその場でぐるぐる回っているだけのような気がする。
 たとえ煌びやかなイルミネーションが行く道を照らして、その先を示していたとしても、私がその道に踏み出せるかどうかはわからない。
 やっと火がついた線香花火だって、パチパチ弾けだす前に、火の玉がすーっと地面に落ちていくことだってある。
 火は確かに点けられて、私の中にふわりと灯っている。揺らさないように、風に吹き消されないように大事に大事に守ることができるのか、守りたいと思っているのか、それさえも見えずに私はクリスマスイブを迎えた。



 ***



 待ち合わせの指定場所のメールが来た時に、装う場所をどこにするかは決めていた。クリスマスイブだからといって、朝から華やかな格好で会社に行くわけにはいかない。かといって会社での地味な装いのまま会いたくはない。彼にはイブ当日ではなく、お休みである前日に会ってはどうかと提案してみた。けれど彼は「イブだから意味があるんだよ」と言って、当日にこだわった。恋人同士でもない私たちがこの日を一緒に過ごしていいのか、ためらいはある。それは私が特別な日を特別な人とだけ過ごしてきたせいかもしれない。

 外資系ホテルのロビーには、中央に大きなクリスマスツリーがあって、宿泊客らしき人たちが笑顔で写真を撮っている。青白い電飾がきらきら煌めき、赤と金色のリボンが緑の木に映えている。
 これから食事に向かうカップルも余所行き仕様の服装で、私も首に巻いたファーを整えながら服装が浮いていないといいなと思った。
 髪はアップにして、スワロフスキーと黒いサテンのリボンのバレッタで止めた。オフホワイトのカシミアのコートに、アクセントに赤いバッグを選んだ。そして、すこし大きめのトートバッグも私の手には握られている。

 その手に滲むのはしっとりとした汗。外の寒さとは裏腹の暖かな空調で整えられたロビーの温度のせいだけでなく、わずかに走る緊張のせい。だからただツリーの電飾をぼんやり眺めている。
 リズミカルに点滅するそれらを見ていれば、余計なことは考えなくていい気がした。
 今夜はクリスマスイブで、私はいつも「会いたい」と思っている人と今夜も会える。
 金曜の夜でも、バーでもなく、いつもと違う特別な日に特別な場所で。

「……さん、ナツさん」

 ぽんっと肩を叩かれて振り返った。自分の名前だという認識がないせいで、呼ばれたのが自分だとは思わなかった。何より、仮の名前をつけたものの互いに呼んだことがなかった。
 彼もそのことに気が付いているのだろう。いつもと同じ困った表情で私を見るけれど、どこか違和感がある。

「こんばんは、少し待たせちゃったかな?……どうかした?」
「……メガネが……」

 こんばんは、と返すより先に違和感の原因を口にしてしまって慌てて挨拶する。

「……あ、ああ。ごめん。今夜はこっちにしてみたんだけど、おかしいかな?」

 私は彼に見惚れたままゆるりと首を左右に振った。少しシャープな形のメガネは普段の穏やかさを抑えクールな印象を与える。メガネだけのせいじゃない。ムースで固められた髪や仕立てのいいコートの襟元にかかる濃紺のマフラーも、普段のやわらかな感じよりも大人の男性の落ち着きが滲んでいた。
 知っている人のはずなのに、見慣れない感じがしてこれまでとは違う緊張で胸がドキドキする。

「あなたも……今夜はとても綺麗だ……」

 そんなことをすんなり言われるとは思わなくてうつむいた。いつもよりおしゃれに着飾ってほしいと言われたから自分なりに頑張ってはきた。メイクも髪型も手を加えて、大人の彼に似つかわしいと思われるように背伸びをして……。褒められるのは嬉しいはずなのに恥ずかしさのほうが勝る。

「ホテルに預ける荷物はこれ?フロントに預けてくるよ」
「あ、はい。お願いします」

 名前を教えあわないとしても、本当なら些細なきっかけで名前なんか簡単に知ることはできる。彼の後をついていってフロントに荷物を預けるために名前を言うのを聞くだけでも。だから私はそこには近づかずに彼が戻ってくるのを待った。
 今夜はこのホテルに泊まる。そして明日はここから会社へ向かう。
 彼とはそう約束をした。これからの時間、夜もそして明日の朝もいつもより長く彼と過ごすことになる。

 イブの夜も、クリスマスの朝も。

 私のそばに来た彼が差し出してきた手を、私はすんなりと受け止めて恋人同士のように指をからませあった。
 最初の夜にずっと繋いでくれていた手は、季節を経ても私のそばにある。過去とは違う感触を私の指先は覚え始めていた。



 ***



 ホテルからワンブロックだけ歩いたビルの地下にそのフレンチレストランはあった。私も名前だけは知っている老舗のそこに誘われて、おそるおそる階段を下りていく。「今夜は僕がするどんなことにも遠慮しちゃだめだよ」と、ここに歩いてくるまでの短い時間にそう言われていた。扉はやっぱり店側から自然に開けられて、そこでコートを預かってもらう。スーツ姿の彼には慣れているはずなのに脱ぐ仕草にさえドキッとした。

 ヒールの音も響かないこげ茶色の絨毯が敷き詰められたフロアのテーブル席には、着飾った男女が談笑している。シックなシャンデリアは淡い光を注ぎ、白いテーブルクロスには小さなバラのアレンジメントとキャンドル。けれど私たちが案内されたのは、こじんまりとした個室だった。
 足を踏み入れた時から、歴史を感じさせる重厚な空気に圧倒されていたので、空間に二人残されてほっと息をつく。

「ごめん……緊張させたかな?」
「いえ、慣れてなくてすみません」
「ここは個室だからリラックスして食事を楽しんでもらえると嬉しい。食事もワインも素晴らしいから」

 細められた目には優しさが宿る。バーで一緒にお酒を飲むことやカフェで向かい合ったことはあったけれど彼と食事をするのは初めてだった。今夜は会う前からずっと緊張していてすでにお腹がいっぱいな気がする。飲み物もお料理もすべて彼に任せて、泡がたちのぼるシャンパンのグラスを掲げた。

「その服とても似合っている。そういう服着ると大人びて見えるよ」
「ありがとうございます」

 今夜は私にしてはめずらしいブラックドレスを選んでいた。胸元が開き気味にドレープが入り、ベルベッド素材のリボンでウエストマークしている。スカートもタイトなシルエット。

「あなたかどうか、少し迷ったよ」
「……アキさんも、素敵です」

 嘘の名前、それでも私しか呼ばない名前に彼は応えてありがとうと言ってくれる。
 運ばれてきたのは白いお皿にのせられた銀色の小さな三本のスプーン。それぞれに小さな前菜が盛られている。そのままお召し上がりくださいと言われて、口にした。キャビアの飾られたエビとアボガドのムース。ゼリー状に固められたニンジンは素材の甘みが凝縮していたし、さつまいもとクリームチーズを包んだ小さなパイはほんのり暖かい。
 味わいも温度も見た目もそれぞれ趣向をこらしていて、バラバラなように思えるのに口に運んでいくごとにバランスのよさが伝わってくる。

「すごく、おいしい」
「ああ、シャンパンもよく合う」

 シャンパンの甘みと酸味が口の中をさっぱりと整えた。

「ずっと聞きたかったんだけど……バーに来る日は夕食はどうしていたの?あっ……と答えづらかったら言わなくていいんだけど」
「途中のお店で適当に済ませていました」

 私たちは互いに知らないことの方が多い。個人的な情報をさらけださないためにどうしてもあたりさわりのない会話で埋まることが多かったし、セックスをしていれば会話は不必要なものだ。でも今夜は長く二人きりの時間を過ごす。話題が互いへの質問になってしまうことは当然のような気がした。

「たまには……こんなふうに食事に誘ってもいいだろうか……」

 遠慮を含んだ口調に私は曖昧にほほ笑むと視線を伏せた。彼との食事はきっと楽しいだろう。一緒にいることは苦痛じゃない。だから私の気持ちの上では「はい」と答えたかった。
 でも、応じていいかどうかは判断がつかない。
 彼と過ごす時間も状況も増やしていくことは、私たちにはいいことなの?
 聞きたいのに言い出せなくて彼を見ると、私の気持ちはわかっていると言いたげに頷く。それでも縋るように求めるように浴びせられる視線が心を揺るがす。

「……こんな高そうなお店でなければ……たまに、なら」
「ありがとう」

 遠ざかりたいと思う以上に、近づきたい、そう思う。
 彼のことをもっと知って、たくさんの時間を積み重ねて、何を感じているかどう思っているかわかりあいたい、そんな欲望は最初から抱いている。誰かにそう伝えれば、それは「恋」だと言われてしまうかもしれない。

 そうして体だけでなく心まで預けてしまってから、もし気持ちが離れてしまったら私はきっと二度と立ち上がれないだろう。もう誰かを心から想うようなことはできない。
 同時に、あの人に抱いていた以上の感情を彼に抱くことは、私の過去の想いを否定するような気もして怖い。
 ふたつの気持ちにひっぱられて、結局は身動きがとれずにいる。
 彼に「恋をしているかどうか」私にはいまだに確信が持てなかった。
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