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1巻
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しおりを挟む「……いつ作った?」
「各プロジェクトについては毎日更新しています。溝口さんには出勤されると同時に提出していました」
「……君は――」
彼はなにか言いたげな表情をしていたけれど、それ以上言葉を発しなかった。
私はドキドキしながら、今度は専属秘書室のロッカーからスーツケースを取り出す。
機内持ち込み可能なサイズの小さなスーツケースの中には、新しいシャツやネクタイ、男性用の下着や靴下、洗面道具に髭剃りまで一通り入っている。
サイズは溝口さんに合わせたものだけれど、大丈夫なはずだ。
「中身はすべて新品です。氷野さんの好みとはいきませんが、誰もが使えるようにベーシックなものを選んでいます。もしよろしければお使いください」
仕事にトラブルはつきものだ。だから急な出張に対応できるように常に準備していた。
「氷野さんの好みを教えていただければ、次回からはそれを準備します」
彼は呆気に取られたように私を見た後、大きくため息をついた。それから無言でスーツケースの中身を確認していく。
「そうだな。次からは俺が指定する」
余計なお世話だと言われなかったことに、ほっとする。
「君は――どうしてそこまで俺につくのを嫌がる? 役に立たない秘書を送り込んだ挙句、未経験の元受付嬢をあてがってくるぐらいだ。俺のCEO就任を快く思っていないのはわかっていたけれど、ここまで嫌がられる理由がわからない」
「え?」
私は冷や汗がだらだらと流れるのを感じた。
『余計なお世話だ』と怒鳴られないだろうかとハラハラしていたはずなのに、今は別の意味でハラハラする。
――確かに私は彼の専属秘書につきたくはなかった。
溝口さんを尊敬して、追いかけて入社した身として、彼以外がトップに立つ姿を、間近で見たくないと思っていたのは事実だ。だからと言って、困らせようとは思っていなかった。
……え? 他の秘書をつけたのを、嫌がらせだと思われているの?
ひだまりちゃんを抜擢したのは、癒しになればと思ったからで。
私はぶんぶんと首を横に振った。
……いや、いや、いや。
「私にそのような意図はありません。秘書課の他の子たちも仕事ができないわけではありませんし、専属秘書の経験もしてほしかっただけです。後任を育てるつもりでした。大川だって経験はありませんが一生懸命取り組んでいます」
そうだよ! なんだか私が意地悪したみたいな話になってるけど、あんたが気に入らなくて数々の秘書を追い出したから、ひだまりちゃんになったんじゃない! と心の中で突っ込んだ。
「一生懸命、ね。他人に仕事をまわすのは上手だし、すべては君がやったと正直に伝えてくる素直さは評価できるが」
ひだまりちゃん……私は思わず遠くを見つめた。
どうして素直にそんなことを言うんだろう。自分の手柄にしたって構わないのに、そういうずるさがないところが、かわいいんだけど。
「じゃあ君に俺への個人的な感情はないということだな」
「は……い?」
個人的な感情ってなに!? と思いつつ、とりあえず肯定した。
それからついでに、ほほ笑んでみせる。
その時、プルルッと内線が鳴って、私はすぐさま受話器を手にする。妙な空気を変えてくれた内線に大感謝だ。
電話を終えた私は、ビジネスモードな口調で彼に話しかける。
「飛行機の手配が完了しました。下に車をまわしますので、どうぞご準備されてください」
「とりあえず今後のスケジュールの調整は任せる。あとは追って指示をする」
「かしこまりました」
私は最後まで気を抜かないようにしながら、部屋を後にした。
* * *
あのあと、私はすぐに午後からの彼の予定をキャンセルし、別の日程に組み直した。
幸い、それほど重要度の高いものはなかったので、スムーズにできた。
今後のスケジュール調整は任せるという言質を彼から取ったので、私の思うように組み直すことができた。無駄なく効率よく、その上、休養時間も確保したのだ。
ついでに、急な予定変更のお詫びの品を送る手配もする。
留守中のプロジェクトの進行にも気を配る必要があるだろう。今回はなにせプロジェクト統括部長も同行したし。
私は久しぶりの秘書らしい業務を楽しんでいた。たとえ溝口さんの下で働けなくとも、私はこの仕事が好きだ。
トラブルが無事収束することを願いながらも、鬼のいぬ間になんとやらという具合に、せっせと仕事をこなした。
「――で、なんとかなったわけ?」
数日後の昼休み。カウンター席に横並びで座って、私と礼香は蕎麦をすすっていた。
梅雨入り間近なせいか湿度が高い日々が続いている。
くもりかと思えば晴れ間がさし、雨が降りそうな黒い雲が空を覆っていても、降ってこない。
季節もお天気も曖昧で、こんな時はあっさりしたものが食べたくなる。
「うん。統括部長からプロジェクトチームの担当者に連絡があったみたい。今日の午前中の飛行機を手配したから、お昼過ぎには戻ってくるんじゃないかな」
「――で、どうするの?」
「なにが?」
私はお蕎麦にちょんちょんっとわさびをつけてから、つゆに浸した。わさびのさわやかな風味が広がって、その後少しだけつーんとくる。蕎麦の甘みが増しておいしい!
「専属秘書……もうやらないわけ? ここ数日楽しんでいたじゃない」
大川さんは翌日には出勤してきた。
私は休んでいた分の引き継ぎと同時に、様々な業務を一緒にこなしながら、ついでに指導もした。私が秘書経験で培ってきた裏技的なものも教えた。
「大川さんも頑張っているからね。氷野さんからのクレームもないし、このままやってもらうつもり」
私がやれば、いつかは彼とぶつかりそうな気がするのだ。
それで互いに嫌な気分になるよりは、これまで通りのやり方でいいのではないかと思う。
「氷野さんへの認識、改めたんじゃなかった?」
礼香の言葉に、私は彼の留守中のことを思い出す。
彼の仕事ぶりを間近で見て、頑なになっていた自分の態度を反省したのは事実である。
――彼は私たち秘書課に、すべてのことをデータ化するよう命じてきた。
数字に強いとか、そこからの分析力に定評があると耳にしてはいたけれど、正直私は不快だったのだ。
溝口さんは人を大事にして会社を育ててきた人だった。
そこにいる人たちの繋がりを重要視したし、社員が互いに成長し合えるようなチーム作りに尽力した。
それぞれが所属する部署はあるものの、プロジェクトの内容に応じて部署を越えてメンバーを選定する。得意分野、人間関係、個々の能力、総合的に判断したチーム作りをして業績を伸ばしてきたのだ。
だから、数字ではなく人を見てほしい、そう思っていた。
でも、今回のトラブルをきっかけに彼の采配を間近で見て、悪いことばかりじゃないと気がついて――
時間単位で業務を区切らせることで、社員たちは集中して取り組むようになっていた。
データで客観的な数字が提示されたおかげで、曖昧な感覚で仕事を進めなくなった。
今までとは違う人間関係が築かれていた。
まだやり方に慣れていなくて、戸惑っているチームもあったけれど、若手を中心に柔軟に対応し始めている。
私があれこれ考えていると、礼香がさらに会話を続ける。
「私もね、人事の評定を数値化するなんて面倒な作業だなあと思っていたし、数字だけでなにがわかるんだ、って思っていたけど、意外に当たっていたのよね」
トップが変われば会社が変わるのは当然だ。そしてそれが成果を見せ始めている。
会社の業績に結びつくまでにはもう少し時間が必要だろうけれど、社内の雰囲気は急速に変化した。
「うん、経理の子も言っていた。あの人、光熱費削減のための数値目標まで出させたみたいね」
「経費の扱いも厳しくなったらしいし」
私たちは笑えるけど、部長クラスの人たちは戦々恐々としていた。
「あ、礼香、蕎麦湯お願いする?」
「うん。お願い」
そんな会話をしながらも、また彼のことを考えてしまう。
――『俺への個人的な感情はないということだな』――
そう言われた時、本当はドキッとした。
個人的感情なんかありまくりだ。
彼への評価を修正するたびに、私は溝口さんが作り上げた世界が失われていくのを感じている。
幼い頃からの初恋は、こういう時、厄介だ。
彼が作り上げた会社を存続させていくためには、冷酷だろうがやり方が違おうが優秀なトップが必要で、私もそのサポートをしていくべきだ。頭ではわかっている。
そう、わかっている。
これまでの経験もあるのだから、新CEOの専属秘書にも、私が一番の適任者だ。
その次が、ひだまりちゃん。
けれど、私はもう少し、溝口さんとの思い出を大事にしていたい。
十歳で初めて出会った時から憧れていた人。
二十歳も年上の男性に抱く思慕が、恋愛感情だと気づいたのは高校生の時だった。
出会った時から溝口さんは結婚していて、子どももいて、到底叶うはずのない恋。それなのに、私はその気持ちを葬ることができなかった。
せめて彼のそばにいて、手助けをして、仕事のサポートをする役目を担いたいと考え、仕事にあたってきたのだ。
私にとって専属秘書という立場は、邪なものを含んでいる。
――溝口さんが会社を去った今を、ひとつの区切りにしなければならないのだろう。でも、まだしばらくは、彼の幻影に縋りついていたい。
そう考えながら蕎麦湯をすすり、私は午後の仕事に向かった。
* * *
アイスキングが戻ってくると、社内の空気がぴしっと緊張する。
いまだに緊張を与え続けられる彼をすごいと思えばいいのか、慣れない社員に呆れればいいのか微妙なところだ。かくいう私も、やっぱり顔が強張る。重い気分でプレジデントルームの部屋をノックしていた。
「関崎です。お呼びと伺いました」
「入れ」
ひだまりちゃんに『氷野さんがお呼びです』と言われる前から呼び出されるかもしれないと思ってはいた。できれば予想がはずれてほしかったのに、残念だ。
「スーツケースは助かった。活用させてもらった」
「お役に立てたならよかったです。片づけは私どもでいたしますので、そのままにしておいてください」
「ああ」
出張帰りの彼は、どことなく疲れているように見えた。
就任してから初めての大きなトラブルだったし、厳しい交渉だったはずだから当然だけど。
「明日からの俺のスケジュールを組み直したのは君か?」
「大川さんに指導しながら一緒に行いました」
予想通りのことを聞かれて、私は準備していた答えを述べる。
けれど、彼にはご満足いただけなかったようで、ものすごくあからさまに顔をしかめられた。
「……土日に予定がないのは久しぶりだ。急な予定変更で厳しいスケジュールになるはずだったのに、君が配慮したんだろう」
休みが確保できて嬉しいと素直に喜べばいいのに、余計なことをしやがってと言いたそうだ。
「差し出がましいとは思いましたが、氷野さんはスケジュールを詰め込み過ぎです。仕事なので必要であることはわかりますが、きちんと休養も取ってください。会社のトップが倒れれば、会社も危なくなるんです」
それは溝口さんの入院で嫌というほど思い知った。なにせ、一時的に銀行からの融資が打ち切られそうな事態にまで陥ったのだ。新CEOが誰か知れるや、それはなくなったけど。
「俺は命じたことをやってくれるなら誰が秘書でもいいと思っている。もちろん、一番役に立つ者がいい。たとえそれが、俺のことを必要以上に避けようとしている奴だったとしてもだ」
なんとなく話がすり替えられた気がして、私は笑みを浮かべながらも、頭の中は疑問だらけだった。
「とにかく。俺は君のように、いろいろ考えて動くのは性に合わない。スケジュール管理は他の者にしてもらったほうが楽だ。だから今後は君に一任する。それから、これらの資料を早急にまとめなおしてくれ。そして――」
「ちょっと待ってください! 指示は専属秘書の大川にお伝えください。スケジュール管理も本来なら彼女の仕事です」
なんか、話の流れがおかしくなったと思い、私は待ったをかけた。
「言ったはずだ。俺は仕事ができるなら誰がやってもいいと。役に立つとわかっている人間に任せるのが一番だ。大川には彼女にできる仕事を命じている。君には君のできる仕事を命じる。専属だろうがなかろうが関係ない」
私は呆気にとられながらも、異を唱えられなかった。まったくもってその通りだから。
私がなにも言わないのをいいことに、奴はつらつらと仕事の指示を出していく。
私は反射的にメモを取りながら、なんとか反論材料を探してみたものの、見つけられずにすごすごと秘書課に戻る羽目になった。
……余計なことした? もしかして自分で自分の首を絞めちゃった?
思い悩みつつ、数時間前、彼に言いつけられた仕事の手は止めない。
量が膨大すぎるので、ある程度は秘書課の他のメンバーに振り分けた。それから大川さんにも仕事を分担しながら、指導していくつもりだった。特に奴のスケジュール管理とか! 専属秘書の重要な業務だ。
けれど、彼女は彼女でいろいろな宿題を与えられたらしく、本当に心からすまなそうに『関崎さん! 申し訳ありませんが、私もいっぱいで……スケジュール管理までできそうにありません』と言ったのだ。
そう言われてしまっては、私がやるしかない。いつの間にかCEO秘書としての仕事が、私のところに積み上がっていく。
さっき彼に言い渡された仕事の中には、プロジェクト全体が確認できるまとめ資料を継続して作成することも含まれていた。
出張前に渡した資料が役に立ったようで、よかったと思うべきか、彼と関わる機会が増えたことを嘆くべきか。
だから金曜日の夜だというのに、こうして私は秘書課で一人残業をする事態に陥っている。
本当は手伝いを頼もうと思ったけれど、どうやら今夜は合コンらしい雰囲気をみんなに醸し出され、言い出せなかった。
私みたいに初恋をこじらせて二十九まで独り身でいるよりも、今のうちに出会いを掴み取るべきだと思うしね。
「明日のお見舞いはなんの差し入れしようかな……」
私はふとキーボードを叩く手をとめて、呟いた。
毎週末行くと、溝口さんも申し訳なさそうにするので、適度に空けるようにしている。
検査ばかりで退屈だと言っていたけれど、もうそろそろ詳細な検査結果も出る頃だ。今後の治療方針やら手術の予定やらが決まっていく。そういうのを支えるのは、私じゃない。彼の家族だ。溝口さんとは近いうちに、今より会いにくくなるだろう。
だから会いたいのに、会いに行くのには勇気がいる。
今は、会社のことを伝えるという名目がなくなってしまったから。
「まだいたのか」
しんと静まり返っていたオフィスにいきなり低い声が響いて、私はびくっとした。
振り返ると、上着を腕にかけて首元のネクタイを緩めている氷野須王の姿が目に入る。
彼の今日の予定は、出先からそのまま帰宅となっていた。私がそうしたのだから間違いない。
まさか明日から休みが取れるのをいいことに、逆に会社に仕事をしにきたんじゃないだろうな!
「氷野さんこそ、どうされたんですか?」
「忘れものだ。君も遅くならないうちに帰れ」
かすれた声で言い放った後、プレジデントルームに向かっていく。
……帰れないのは、あなたが大量の仕事を命じたせいですけどね。
後は東南アジアからのメール待ちなのだ。それが確認できさえすれば、気兼ねなく週末を過ごせる。海外で勤務経験のある彼のおかげで、海外への販路を検討していた老舗のお醤油屋さんのアジア進出が現実味を帯びてきたのだ。そういうところはやっぱりすごいと思う。
溝口さんが後継者に彼を指名したのには、海外進出することで地方企業の販路を拡大する狙いもあったのだろう。
私はようやくきたメールの内容を確認して、帰り支度を整えた。
戸締りは氷野さんにお願いしていいだろうか、と部屋に近づいた時、がたがたっと大きな音がする。
「氷野さん! どうされました? 氷野さんっ!」
ノックをして声をかけたけれど返事がない。どうしようか迷ったのは一瞬で、私はドアを開けた。
「氷野さんっ!」
見れば床に膝をついている彼の姿があって、私は慌てて駆け寄る。
「大丈夫だ……なんでもない」
ひどくかすれた声に、思わず顔をのぞき込む。
額には汗が浮かび、顔色がかなり悪い。
立ち上がろうとする彼を支えるために手を伸ばし、ソファまで誘導した。彼は、だらりと体をソファに預ける。どう考えても大丈夫じゃない。
「大丈夫だ。戸締りはしておくから君は帰れ」
「……熱はあるんですか?」
「……君には関係ない」
「タクシーを呼びます。今夜開いている病院を調べてきます」
「病院は必要ない。明日は休みだし、家に帰って休めばなんとかなる。ここで少し休んだら帰るから、君は気にせず帰れ」
口調にも覇気がないくせに、なにを言っているんだろうと思う。
こんなふうになっても、彼は他人に甘えたり、頼ったりすることができないのだろうか?
溝口さんはこういう時、遠慮せず私を頼ってくれたのに。
溝口さんとは違う、そう思った時、当たり前だ、と気づいた。
だって、私とこの人の間には、上司と部下としての信頼関係さえない。
上司の体調管理も秘書の仕事の一部だとわかっていたのに、私は専属秘書じゃないからという理由でその配慮を怠った。
甘えられないんじゃない。頼れないんじゃない。私が彼にそうさせているんだ。
彼は片手で額を押さえて、それ以上なにも言わなかった。きっと私に、これ以上なにかを言う元気もないのだろう。
私はパタパタと動いて、常備していた体温計を持ってきて彼の前に差し出した。
「熱、測ってください。できないなら私が無理やり測りますけど、よろしいですか?」
「君は……」
「病人は黙って言うことを聞いてください。救急車呼びますよ」
私の脅しに屈したのか、彼は奪うように体温計を取り上げた。肩がわずかに上下している。息も少し荒いし、高熱があるに違いない。
私は彼が熱を測っている間に、タクシーを呼び、戸締りを確認する。
すべてをチェックし終えて部屋に戻ると、体温計がセンターテーブルに置かれていた。
私は体温をチェックして、ため息をついた。
「病院……」
「病院は行かない」
随分きついだろうに、そこだけは断言する。余程、病院が嫌いなのだろう。子どもみたいだ。点滴を打てば楽になるだろうけど、それは最後の手段のようだ。
「立てますか? それとも警備員を呼びますか? 私が手を貸すのでもいいですか?」
「警備員を呼ぶなんて勘弁してくれ。自分で立てる」
私は自分の荷物と、彼の荷物を手にして、それから少しだけためらったものの、彼の腕を取り立ち上がらせる。さすがに彼は振り払いもせず、文句も言わず歩いた。
『アイスキング』も熱を出すこともあるんだな、とバカなことを思いながら、私はなんとか彼と一緒にタクシーに乗り込んだ。
* * *
氷野須王の住まいはイメージに違わず、会社近くの高級マンションの高層階にあった。距離的にタクシーを呼ぶほどじゃなかったかなと思ったけれど、病人だから仕方がない。
タクシーを降りる頃には彼は無言で、体温がどんどん上がっているように感じられて気が気じゃなかった。
部屋の前に着き、彼の代わりにカードキーをかざしてドアを開ける。
「氷野さん、寝室はどちらですか?」
彼が顔を上げて示した場所に、連れて行く。
電気をつけると、十畳ほどの部屋の真ん中に、キングサイズの大きなベッドがあって、彼はすぐに横たわった。
ベッド横にサイドテーブルとスタンドライトがあるだけで、机も椅子もない。
私は自分の荷物と彼の荷物を床の端っこに置いて、これからどうするか悩んだ。
多分、彼の望みは私がこのまま帰ることだ。
かなり高熱ではあるけれど、いい大人なんだから、一人でなんとかできなくはない……多分。
「悪いが水がほしい。冷蔵庫にあるから頼めるか?」
「わかりました」
私は廊下の奥へ進んで、キッチンを探す。
壁の電気を適当につけると、リビングダイニングが広がっていた。この部屋もモデルルームのような生活感のなさだ。その奥にはフローリングの書斎があって、机と本棚が置かれていた。そこは本や資料で埋め尽くされている。
キッチンへ行き、冷蔵庫を開けると瓶のミネラルウォーターがあって、半分残っていたものとグラスを持って行く。
寝室に戻ってからグラスに水を注いで、彼に渡した。
彼はなんとか体を起こして、ベッドヘッドのクッションにもたれかかる。
「食事は終えたんですか? お薬はありますか?」
彼が水を飲み干すのを見計らって、私は聞いた。
そして、彼の答えを待たずに、次の質問もする。
「ご家族の方か、親しい方か、来てくれる人はいますか?」
「両親は海外。帰国して間もないから、日本の友人とはまだ連絡をとってない」
「……恋人は?」
ものすごく差し出がましいとは思ったけれどあえて聞いた。恋人がいるなら彼女に任せるのが一番だと思ったからだ。私だって心置きなく家に帰ることができる。
彼はふっと私を見上げた。熱のせいで潤んだ眼差しは、どことなく色っぽい。
「特定の恋人はいない。呼べば喜んで来そうな相手には何人か心当たりがあるが……見返りも相応に支払う必要がありそうだから、呼ばない」
すらすらと答えてくれるのは、きっと意識が朦朧としているからに違いない。だって普段の彼なら、こんなプライベートなことを答えたりしないだろう。それにしても、呼べば喜んで来そうな相手が何人もいることに驚きだ。
もちろん本人が望めば女性に不自由しないとは思うけど、礼香が女嫌いだと言っていたから、そんな相手はいないだろうと思い込んでいた。
「女嫌い、というわけではないんですね」
思わずポロッと漏らしてしまって、慌てて口を覆う。
「女嫌い……ね。嫌いというよりは信用していない、というのが正しい。女は男に近づく時、それ相応の見返りを望む。それが金か名誉か見た目か愛かの違いはあれど――」
氷野須王は私の迂闊な発言を気に留めることなく呟いた。
あまりにも重みのある発言で、恋愛経験皆無と言ってもいい私には理解できない。
「君は、俺になんの見返りを求める?」
「なにも求めませんよ。あなたが私の上司で、私が秘書だからやっているだけです。それより、食事はとりましたか? お薬はおうちにありますか?」
あえて見返りを求めるなら、給料に反映してくれないかな。でもそれは口にはしなかった。
彼はぼんやりと私を見つめた後、ふたたびベッドに横たわる。
「氷野さん!」
「食事はしてない。薬はどこかにあるだろうけど覚えてない。君はもう自由にしていい」
そのまま、すうっと目を閉じる。
意識を失ってしまったのかと焦って顔をのぞき込むと、寝息が聞こえてきた。
汗で前髪が額に張り付いている。ネクタイは外して、シャツの第一ボタンだけは開けているけど、このままの格好じゃ寝苦しいだろう。
ぐるりと部屋を見まわしてみる。クローゼットらしき扉は見つけたものの、そこから着替えを勝手に出すような勇気はない。かといって、このまま弱っている上司を放置するのは気が引ける。
「……あなたの言う通り……自由にさせてもらいます」
私は仕方なく彼の部屋のカードキーを手にし、いったん部屋を出た。
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