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1巻

1-2

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 その仮説を周囲に力説し、なんとか同意を得た。そして『最終兵器』を投入して数週間――

「あの! 取引先へ土産みやげを用意するように言われました。それから、この年度のデータをそろえてまとめてほしいそうです。あと、この書類の準備も頼まれました!」

 専属秘書室から飛び出してきた彼女の名前は大川おおかわひまり、通称『ひだまりちゃん』と呼ばれている、我が社の元受付嬢だ。
 そう、彼女こそが私の『最終兵器』、社内随一のいやし系女子である。
 ――実は私には特技がある。
 父が商店街の代表をしていた関係で、小さい頃から我が家にはいろんな大人が出入りしていた。たくさんの大人を見ていると、人の相性や力関係がだんだんわかってきて、『この人とこの人が一緒にやればうまくいきそうだな』とか『この人とこの人はダメだけど、こっちの人を入れたらバランスがいいかも』とかひらめくようになったのだ。
 学校生活でも、そういった自分の勘がどこまで通用するか常に試していた。
 学校ではグループ活動が多い。グループ間でトラブルが起きると、私はさり気なく人を誘導してそれらを解決したり、活動性の高まるグループ編成を提案したりした。
 この会社に入社をしてからの数年間は、仕事を覚えるのに精いっぱいだったけれど、慣れてくると人間観察ができるようになる。
 私は、溝口さんに社内の情報をスムーズに伝えるために、社内の人間関係から業務内容まですべてを把握はあくするように努めた。
 そこで気づいたことを彼に伝えていっているうちに、人事関係のオブザーバーを任されるようになったのだ。
 当時の人事部長は、私の提案に胡散臭うさんくさそうな目を向けていたけれど、いつもトラブルを抱えていた部署が円滑にまわるようになったり、思いもしない能力を発揮する社員が出始めたりしたことで、少しずつ認めてくれた。
 溝口さんの専属秘書についてからは、新入社員の配属先を決める場にも同席していた。彼が退任した今、私はその場でメインに動いている。
 氷野須王の専属秘書を決める際も、私は任命権を与えられていた。就任前に彼と話す機会はなかったので、彼の経歴や雑誌などの記事から得られた情報を考慮して最良と思える人選をしたつもりである。
 だが、選んだ社員がことごとく部屋から泣きながら飛び出してくる有様ありさまだ。
 ……まさか秘書課が全滅するとは思わなかったんだよね。
 そうして最終手段で見つけたのが彼女、大川ひまりだ。
 ひだまりのような温もりを感じるよな、と誰かが言ったことから、『ひだまりちゃん』と命名された彼女。
 ふんわりした髪も、小柄な体形も、優しく穏やかな性格を表すような顔立ちも、とてもかわいらしい。
 彼女を受付から離したことで、社内だけでなく社外からもなげきの声が聞こえたけれど、背に腹は替えられない。
 最近では、異動先がCEO専属秘書室だと知った者たちから、『アイスキング』の氷を溶かすのは『ひだまりちゃん』だけだ! と期待もされている、はずだ。
 ひだまりちゃんは、専属秘書を打診した当初『私にはなんの資格も経験もありません! お役に立てるかどうかわからないし、自信もないです』と、不安そうだった。
 私は『氷野さんが求めているのは、自分の仕事のサポートをする人材なの。でも専属秘書一人で対応できることじゃないから秘書課全員で取り組みたい。氷野さんの要望を私たちに伝える伝達役になってほしい』とお願いした。
 伝書鳩でんしょばとのような仕事ならやりたくないと反発を受ける覚悟もしていたけれど、お通夜のように沈んだ秘書課の雰囲気に同情してくれたのか、彼女は『わかりました。言われたことは忠実にやるように頑張ります』と引き受けてくれた。
 ――こうして、ひだまりちゃんが氷野須王の専属秘書になったのが数週間前。
 私は今日も彼女からの伝達事項に、手のいている秘書の子を探して仕事を振り分ける。そして大川さんには取引先の確認をして、土産みやげ一覧の資料を見せた。
 大川さんの今のメイン業務は伝達係だが、少しずつ秘書としての仕事を覚えていけばいい。
 いずれ彼女も自分でできる仕事は自分でこなし、対応できない時は他の人に手伝ってもらうという方法を取れるようになるはずだ。
 私は氷野須王のスケジュールをタブレット端末で確認して、他にも土産みやげの用意を依頼される可能性がないかチェックした。

「いつも関崎さんに頼りっぱなしですみません。本当はこういったことを自分でできるようにならないといけないんですよね……」

 しゅんとした様子で、大川さんが呟いた。
 ああ、太陽に雲がかかっちゃったよ。
『ひだまりちゃん』はいつもぽかぽか、にこにこ笑顔が似合っているのに。奴の冷気にあてられて凍っていた私たちを暖めてくれたのは、あなたなんだよー!

「大川さんは一生懸命頑張っているし、私たちは助かっている。仕事はゆっくり覚えればいいから、ね」

 ――私が関わっていた新入社員の配属決めの目処めどが立ったので、自分の業務にも余裕ができ始めた。
 そのため社内で再度、彼の専属秘書には私がつけばいい、という声が出ているようだけれど聞き流している。
 自分勝手なのは承知しているが、できれば、このまま大川さんに継続してもらいたい。
 彼女は氷野須王に意見もしなければ口答えもしない。あくまでも伝達係に徹して仕事をしている。
 だから彼は怒鳴ることもなく、『役に立たない』と追い出すこともなくなって、ようやく秘書課も落ち着き始めたのだ。
 秘書課のメンバーも、大川さんのサポートをこころよく引き受けてくれている。おかげでうまくまわっていると思う。
 だから、これでいい。
 でも――
 私は奴のスケジュールを見て、眉をひそめた。当然ながらスケジュール管理は本人がしている。彼は仕事ができるし、処理スピードも速い。能力があるからこそ、効率よく仕事を組み込んでいるんだろうけれど、それでもこのスケジュールはきつきつで、余裕がないように見える。
 CEOとして就任した気負いからか、急激に社内の変革に取り組んでいるためにそうなってしまっているのかもしれないけれど。
 もし私が専属秘書としてついていれば、嫌がられるとわかっていても苦言を呈するだろう。
 車で移動する間に食事をとったり、仮眠の時間を確保したり、少しでも休養がとれるような提案もする。……なんて、思い切り私情から、その役を降りておいて勝手すぎるけれど。
 大川さんは『氷野さんは忙しそうですね』と言うけれど、特に気にはしていないようだ。
 そこはきっと配慮が足りない部分かもしれないが、少し前までまったく違う課にいたのだから仕方ないことでもある。
 ……大川さんにそれとなく進言する? まあ、でも大川さんがそんなことを言ったら奴は嫌がりそう。きっと『余計なお世話だ』と冷たく突き放すに違いない。

「……さん? 関崎さん?」

 大川さんの呼びかけに、私ははっとする。

「あ、ごめんね。えーと、日持ちのする土産みやげをいくつか準備しておきましょうか? もしかしたら他にも、氷野さんから依頼があるかもしれないから」
「はい。わかりました」

 大川さんはメモを取りながら、真剣に資料を見てスケジュールと照らし合わせている。
 ――『アイスキング』は私の配慮なんか必要としてない。
 だから、せめて彼女がそばにいることで、やされればいい。
 過密なスケジュールを見ながら、ほんの少しだけそう思った。


   * * *


 取引先との会議を終えて部屋に戻ると、俺――氷野須王はその部屋の有様ありさまにふっと息を吐いた。
 プレジデントルームの前の住人である溝口さんの趣味か、この部屋はシンプルでモダンだ。
 ウォールナットの机や書棚をはじめ、全体的に木の温もりを感じさせる家具で統一されている。
 綺麗きれいに整理整頓せいとんされていれば、センスのいいしつらえだ。
 なのに、今はその面影もなく雑多に散らかっていた。
 つい数週間前までならば、専属秘書が俺の留守の間に気を利かせて片づけていただろう。
 でも今回、俺についた秘書はかなり配慮に欠けているようだ。
 元受付嬢で秘書経験など皆無かいむだと聞いていたし、質問も言い訳も一切せずに、言われたことをこなしている分、今までよりも扱いやすいとは思っていた。
 けれど、この部屋の状態を見ても放置し続けるなんて、かなり神経が図太いのかもしれない。
 ため息をつきながらスーツの上着を脱いでハンガーにかけると、机の上にそろえられた資料に気づいた。

「大川」

 前室で待機しているはずの秘書を呼ぶと「はいっ」と上ずった声がして、おずおずといった風情ふぜいで大川ひまりが姿を現した。

「この間頼んだ資料、もうデータ化できたのか?」

 かなり大量の資料を、大川の机の上に置いていたはずだ。
 め切りは十日以内にしていたのに、三日と経たずに仕上がっている。

「あ、まだすべてそろったわけではありません。優先順位の高いものから取り組んで、できあがったものをそちらに置いています。パソコンにもデータを転送しています」

 資料を手にしてざっと目を通したところ、彼女の言う通り確かにすべてがそろっているわけではなさそうだ。
 だが、め切り日を伝えただけで、優先順位など決めていなかった。

「俺は優先順位なんて指示していなかったはずだが」
「関崎さんが判断してくださいました」

 大川は悪びれもせず、にっこり笑って告げる。

「……また、関崎か」
「はいっ! 氷野さんに依頼されたものは、すべて関崎さんの判断をあおいでいます。私一人では到底できませんし、関崎さんはものすごく優秀ですから!」

 秘書課の他のメンバーに仕事を割り振っているのも関崎さんです! と彼女は張り切って続ける。
 大川ひまりには専属秘書としてのプライドなど微塵みじんもないのか、そう素直に言ってくる。
 これまでの秘書たちは、自分ですべてを抱え込んで、できなかった、難しかったと弁解して泣き出し、この部屋を飛び出していった。
 そのたびに、理由を尋ねにきていた彼女を思い出す。
 溝口さんの元専属秘書であり、秘書課の中心人物。
 俺は大川が用意した書類を置き、その隣にあった新入社員の配属先についての資料を手にした。
 人事部長が主体となっているはずだが、責任者の欄には「関崎凛」の名前も入っている。
 資料に名前がない場合もあったが、どの部署のどの案件においても彼女の存在は感じてきた。
 裏で会社の采配さいはいをふっているのは彼女に違いない。
 なんとなく確信を持ち、嫌な気分になる。
 これだけ秘書が途中交代しても、関崎凛自身が俺の秘書につこうとする気配はない。
 秘書課が全滅して、元受付嬢まであてがってきたのだ。
 どことなく挑戦的なものを感じて不快になる。
 ――肩までの真っ直ぐな髪にノンフレームのメガネで、華やかさの欠片かけらもない女。真面目さだけが取り柄のような彼女の雰囲気は思い出せても、顔立ちまでは浮かばなかった。

「あの……」
「なんだ」

 いちいち、びくっとおびえるなと言いたいけれど、ふんわりとしたやわらかな外見をしている大川は、それを躊躇ためらわせる。
 綿菓子みたいな噛みごたえのなさが、なんとなく俺に苦手意識を抱かせる。

「関崎さんを、秘書になさろうとは思わないんですか?」

 どうやらこの綿菓子娘も、関崎凛をしたっているようだ。
 俺は緩く腕を組み、彼女に向き合った。

「仕事さえしてくれるなら、秘書だろうが元受付嬢だろうが構わない。どうやら大半の仕事を彼女がこなしているようだが、君を伝達役に置くぐらいだ。俺の秘書をする気なんかないんだろう?」
「関崎さんは、新入社員の研修を担当していてお忙しかったからだと思います! 最近はそれも落ち着いたので、きっとお願いすれば」

 俺は、じろりと綿菓子娘をにらんだ。
 彼女がびくっとして口をつぐむ。

「俺がお願いするのか?」
「あの……いえ、言葉を間違えました。申し訳ありません……」

 直接関わってはいないのに、俺のまわりには常に関崎凛の存在がちらついている。
 それでいて本人は、俺に直接対峙たいじしてきたりはしない。
 そんな胡散臭うさんくさい女を、そばに置く気になるわけがない。

「もういい。仕事に戻れ」

 彼女はすんなりまわれ右をした、と思ったら、ふたたび俺に向き直った。

「あの……」
「まだなにかあるのか?」
「関崎さんが……このお部屋の掃除の許可を得たほうがいいと……あの、片づけてもよろしいですか?」

 彼女がちらりと部屋全体を見まわした。
 関崎が指摘しなければ、自分から言い出すことなどなかった様子がありありと感じられる。俺はため息をついて「俺の留守の間に片づけておいてくれ」と答えた。


   * * *


 なにをしても、うまくいかない日というのがある。
 最初のケチは家を出る間際にストッキングの伝線に気づいたことだった。それで、いつもより遅めの電車に乗る羽目になり、さらにその電車がトラブルで遅延した。
 慌てて秘書課に飛び込んだ途端、課の人たちが待ってましたとばかりに駆け寄ってくる。

「関崎さん!」
「メールもして電話もしたんですけど、気づきませんでしたか?」
「大変なんです!」

 それぞれに矢継やつばやに話されて、思わず後退する。

「みんな、落ち着いて! どうしたの?」
「大川さんがお休みなんです!」
「風邪をひいたみたいで、連絡がありました」
「どうしましょう!」

 私が最初に思ったのは『ああ、ひだまりちゃん風邪ひいちゃったんだ。大丈夫かな?』だった。
 その後、みんなの慌てぶりに、つまり彼女がお休みしたということは、専属秘書がいないということだと気づく。
 私の表情の変化を、彼女たちも敏感に察知したようだ。

「私、今日は他の役員の方のお手伝いがあります!」
「私も早急に処理しなければならない仕事があります」
「私は……私には無理です! すみません」

 彼女たちにすがるように見つめられて、私はなにも言えなくなった。
 新入社員の研修も終わり、彼らの配属先も決まったので、私には余裕がある。

「……今日は私が氷野さんにつきます。大川さんが明日以降もお休みするようなら、また検討します」
「ありがとうございます!」

 彼女たちは声をそろえて頭を下げると、ほっとしたようにほほ笑んだ。
 秘書課の人間の反応としてはどうかとは思うけれど、三人とも奴に泣かされてきたのだ。気持ちはわからないでもない。
 慣れない秘書業務に、気の休まる時間などなかった大川さんが体調を崩すのも仕方がない。
 私は自分の机に向かい、まずスマホをチェックした。
 彼女たちの慌てぶりがうかがえる着信履歴やメールの内容に苦笑する。
 それから、彼のスケジュールを確かめる。
 今日は、午前中は社にいるが午後からは外出する。ついでに明日の予定も見ると、相変わらずの詰め込み具合だ。
 私はとりあえず、プレジデントルームに向かった。
 まだ彼は来ていないようだったので、まずカーテンと窓を開けて空気を入れ替えた。
 この間この部屋に資料を置きにきた時は、その散らかりぶりに驚いた。それについて大川さんに聞いたところ『最初に、余計なことはするなと言われたので、お部屋の掃除はしていません』とあっさり答えられた。
 あの有様ありさまを放置できる大川さんにも驚いたけれど、あれだけ散らかしても指示しない彼にもあきれた。
 今は、さすがに彼女の手が入ったのか、雑多な感じではあるものの散らかってはいない。
 ――プレジデントルームの家具は、溝口さんのお気に入りのものばかりだ。そしてそれらの家具は、今もそのまま使われている。
 あるじが変わったことで起きた部屋の変化と、そんな中わずかに感じられる溝口さんの名残なごりに、私はちょっとだけ複雑な気分になった。
 氷野須王が余計なことをされると嫌がるタイプであることはわかっている。
 でも、私が専属秘書だった頃、プレジデントルームを整えるのは朝一番の私の仕事だった。
 机の上やセンターテーブル、書棚を雑巾で拭く。
 ファイルを整え、各社の新聞や雑誌を並べ、観葉植物に水をやり、ゴミ箱はからにする。
 その後は給湯室で、コーヒーの準備をおこなう。
 上司が不快になるようなことは、すべきじゃないとわかっている。
 そう思いながらも、あえて私は溝口さんの時と同じように部屋を整えた。
 ――文具を置く位置が違う。部屋に残る香りが違う。溝口さんがこの部屋に戻ってくることはない。

『おはよう、関崎さん。今日も一日頑張ろうね』

 そう声をかけられることもない。我知らず、涙が込み上げる。

「ここで、なにをしている?」

 突然声をかけられて、私はびくっとして振り返った。
 ぼやけた視界に慌ててまばたきをして、咄嗟とっさに頭を下げた。
 ……ルーティンをこなしているうちに感傷にひたりすぎた!

「おはようございます。今日は大川が病欠ですので、私が隣室に控えます。御用がありましたらいつでもお申し付けください」

 無作法だけれど言い逃げようと、そのまま彼の横を通りかかった。途端に腕をつかまれる。

「この部屋を整えたのは君か?」

 低くすごみさえ感じる声に、ぞわっと背中に寒気がする。
 ……やっぱり余計なことするんじゃなかった!!

「申し訳ありませんでした!」

 反射的に謝罪する。私は頭を下げたまま『余計なことはするな』と言われるのを覚悟した。
 けれど予想に反して彼は無言だった。ついでに私の腕もつかんだままだ。
 彼の手に力が込められているわけじゃないけれど、振り払うことはできないし、やんわりどけることもできない。
 恐る恐る頭を上げると、彼は大きな窓の外をぼんやり見ていた。
 この部屋はオフィスビルの上階に位置するうえに、他のビルに視界をさえぎられることもないため、外の景色が見渡せる。
 溝口さんは、いつも都会の街並みと空を眺めて、『今日はいい天気だ』とか『雨が降りそうだね』などと呟いていた。
 今、外を眺めている氷野須王の横顔は、どことなくやわらいで見えた。
 ……こんな表情もするんだ。
 きっと彼は、この窓から見える景色を初めて見たのだと思う。
 ここの窓だけはブラインドではなくカーテンをひいてある。
 厚手のカーテンは開けても、レースのカーテンまでは開けなかったに違いない。
 するりと腕が離されると同時に「昨日頼んでいたものはできているか?」と聞かれる。
 私は我に返り、「すぐに確認します!」と答えてその場を去った。


 彼に資料を渡し終え、CEO専属秘書室の席につく。
 久しぶりにCEO専属秘書室に来たせいで、私はそわそわと落ち着かなかった。
 この場所に私がいた形跡などほとんどない。引き継ぎのために準備したファイルが一番上の引き出しに入っていることが唯一の名残なごりともいえる。
 机の上のリンゴの形の付箋ふせんが、ひだまりちゃんらしくてかわいい。
 まず初めに私は、彼のスケジュールを再度確認する。
 数日先までびっしり埋まっている内容に、もう少しなんとかならないものかと思案する。スケジュールはいまだに彼が自分で管理していて、わずかな隙間にも仕事を入れているようだ。
 彼から指示がない限り勝手なことはできないので、私は頭の中だけでこっそりスケジュールを組み直した。いくつかの業務の時間帯をずらして調整し直せば、き時間が作れそうだ。うまくすれば休日も確実に休みを取ることができる。
 けれど、彼がそれを望むかはわからない。
 スケジュール確認を終えた後は、各プロジェクトの進行状況をまとめ直す。
 ――溝口さんも精力的に仕事をこなす人だった。それぞれのプロジェクトからは随時報告がなされていたけれど、忙しい彼が短時間で進捗しんちょく把握はあくできるように、私はそれを見やすく一覧表にしていた。進行状況に遅れはないか、懸念材料はないかなどをチェックしたり、すでに終了したプロジェクトのアフターについても知らせたりしていた。
 身に着いたルーティンとは恐ろしいもので、誰に提出するでもないのに、私は今でもそれらの作業を続けている。
 今日の分もまとめ終えたところで、バタバタと扉の外が騒がしくなった。そうかと思えば、ノックと同時にドアが開けられる。

「氷野さんは?」

 プロジェクト統括部長が顔色を真っ青にして私に問うた。
 その直後、私の表情で彼が部屋にいることはわかったらしく、私の答えなど待たずに慌ただしくドアを叩いた。そして、中からの返事を聞いてすぐに飛び込んでいく。
 私は椅子から立ち上がり、ドアのそばに近づいた。
 よほど慌てていて閉め忘れたのか、隙間が数センチ開いていて、二人の緊迫した声が聞こえてくる。
 あんな統括部長の表情を見たのは、溝口さんの退任が決まった時以来だ。なんらかの問題が起こったに違いない。

「どうしてそんなことになった!」
「申し訳ありません。すべて私の確認不足です!」

 氷野須王はそれ以上、声を荒らげたりはしなかった。
 多分、怒鳴るよりも先にしなければいけないことがあると思ったのだろう。
 感情を押し殺した低い声で「先方には直接俺が行く」と言った後「関崎!」と呼ばれた。
 私は「はい!」と返事をすると、反射的にドアから離れて、盗み聞きがバレないようにする。

「すぐに飛行機の手配を! それから今日以降のスケジュールをすべて調整してくれ」

 行き先、人数、宿泊先の手配を矢継やつばやに命じられる。
 私は、行き先からどのプロジェクトでトラブルがあったのかすぐに気がついた。
 地方のさびれた温泉旅館街の再生プロジェクトだ。
 建物の老朽化に伴う観光客の減少、オーナーの高齢化に後継者不足。リフォームしようにも銀行からの融資がなかなかおりず、いくつかの旅館が廃業に追い込まれている。
 地域の再開発事業とあわせておこなうことで、官民一体のプロジェクトになる予定だった。
 資金面では助かるけれど、行政に提出すべき書類や許可を得なければならないことが多く、手間は格段に増える。
 担当チームは行政書士と連携して慎重に進めていたはずだが、そこでなにかトラブルが起こったようだ。

「私もすぐに同行の準備をいたします!」

 統括部長はそう言うと、来た時と同じぐらい素早く部屋を出ていった。
 私も秘書課の他のメンバーに、すぐに飛行機の手配をするよう内線で伝えた。同時にさっきまで作っていた、各プロジェクトの資料も印刷する。

「今日以降のスケジュールに関して優先順位はありますか?」
「いや。先方に合わせてもらって構わない」
「失礼ですが、出張の準備はご自分でなさいますか?」
「自宅に戻るような余裕はないだろう。必要なものは現地で調達する。それよりこのプロジェクトに関する資料はどこにある?」

 ひだまりちゃんが引き継ぎ書通りにファイルの片づけをしてくれていれば、キャビネットの右側にまとめて置いてあるはずだ。
 予想通り片づけてくれていたようで、私はすぐにそのファイルを見つけて彼に差し出した。
 それから印刷し終わったばかりの、私が作った資料も彼の手に渡す。
 余計なお世話かもしれない。でも、これを使うも使わないも彼次第だ。
 彼はいぶかしげに渡したものを見ていたけれど、すっと視線を上げて私を見た。

「これは?」
「差し出がましいとは思いましたが、私がまとめたものです」


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