恋火

流月るる

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第十五話

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 規則的に届いていた振動が途切れて美綾は目をあけた。泣いているうちにいつの間にか眠りについていたようだ。まぶたが重くて何度か瞬きを繰り返す。唯一手にしていたハンカチはしっとりと湿り気を帯びていた。

「起きたか」

 その声で、自分が今どこにいて、なぜここにいるのか一気に記憶がよみがえる。
 大きく鳴り響いたクラクションの先にあった車。窓から出された傘の柄。車の中に置き忘れていた傘をこの男は届けに来てくれたのだろう。

 『男の車に簡単に乗るな』と言われたのは昨日のこと。そう言った本人の車に美綾はまた自ら乗ってしまった。
 本当に少しだけ外の空気を吸うだけのつもりだった。ただ泣きたいだけだった。泣く場所を求めて外に出ただけ。
 それなのに現状は、仕事をさぼって荷物も持たずに飛び出して、男の車の助手席にいる。

(最低……無責任にもほどがある)

「あの……すみません。ご迷惑をおかけして」
「はは、最初がそれかよ」

 郡司は小さく笑う。昨日はとにかく恐怖と憤りしか覚えなかった相手だ。それなのに彼の雰囲気が昨日とはまったく違うせいで、最悪に思えた印象が少しやわらいでいた。

「あの、ここどこですか? それに私なにも言わずに出てきたので、携帯を貸して――」

いただけませんか、と続けるはずの言葉は出てこなかった。

 フロントガラスから見える景色はがらりと変わっている。最初に飛び込んできたのはカラフルな観覧車。ジェットコースターのレールも見える。どうやら車は遊園地の駐車場に停車しているようだ。

「うそ……遊園地?」
「そう。今から『SSC』に戻るには夕方の渋滞を考えても夜になる。さてどうする、お嬢さん」

 郡司は面白がるように言うと美綾の膝の上に携帯を置いた。

「連絡するならしろ。言い訳が必要ならオレもしてやる。どうせ……そんな状態で戻ったって仕事になんかならないだろう?」

 郡司の手が伸びて美綾の目元にそっと触れたあと、そのまま軽く頬をつまんだ。身構える間もなく、手はすぐに離れてかすかな痛みだけが残る。
 なにもかも壊れてしまえばいいと、あの場から逃げ出したいと思って咄嗟に車に乗ったものの、こんなところまで連れて来られるなんて思いもしない。

 今頃騒ぎになっているだろうか。
 いや車に乗るところを由功に見られたから、彼がうまく誤魔化しているかもしれない。
 どちらにしろ美綾がすべきことは、由功に連絡してチームのみんなに謝罪して『SSC』に戻ることだろう。
 たとえ夜遅くになっても、仕事になんかならなくても。

 覚えている番号は由功のものだけ。だから美綾は彼の番号を押して発信ボタンに触れた。なにを話そうとかどう言い訳しようとかさえ浮かばない。

『はい?』

 やや苛立つような声音がすぐに聞こえてきた。

「由功……」
『美綾! 美綾なのか! この番号どこからだ? 今誰とどこにいる! 誰の車に乗ったんだ!』

 矢継ぎ早に問われる。彼の焦りや不安が声からも伝わる。由功は基本感情表現が豊かなほうではあるけれど、弱みになるような姿はあまり見せない。どれほど心配をかけているかわかるのに、美綾の口からは言葉が出てこなかった。

(由功……ごめんなさい。私は結局あなたに甘えている)

『美綾、戻ってこい! いや迎えに行くから居場所を教えて!』
「由功、ごめんなさい。仕事をさぼって黙って飛び出したりして……」
『仕事のことはいい! それより今どこに――誰といる!?』

 美綾がなにかを言う前に、携帯がとりあげられる。

「玖珂由功だっけ? オレは『青桜』の青山郡司だ。今回のイベントの件で彼女と話をしたい。時間をもらうぞ。心配せずとも夜までには送り届ける』
『は? 青山って……あなたがどうして美綾と一緒なんだ!!』

 郡司は言いたいことだけを言うとさっさと通話を切り上げた。そのうえ電源を落とす。美綾は一連の流れをただ見ていることしかできなかった。

「ほら、上司の許可はとったぞ。これで気にせず遊べるな」
「遊べるって……」
「遊ぶために遊園地に連れてきたんだ。ほらクライアントの息子の機嫌を損ねるな。おまえにはオレのわがままに付き合ってもらう」

 わざわざ自己紹介をして……これも仕事だと誤魔化して、郡司が逃げ場を作ってくれたのがわかった。美綾が罪悪感を抱かずに済むよう、今から仕事に戻らずに済むように。
 本当なら今すぐ戻るべきだ。彼が送ってくれないのであれば、お金を借りてでも交通機関を使って戻ればいい。

「美綾」

 名前を呼ぶだけで有無を言わせぬ空気を発する。

「これも仕事だ。命令に従え」

 郡司は車を降りると、助手席のドアを開けて美綾のシートベルトをはずす。強引に腕をとられたとき美綾は抵抗することなく車外に出た。
 明るく軽快な音楽が聞こえる。セミの不協和音よりはこっちのほうがいいと思った。


 ***


 時間帯的に帰る人たちもいて、ゲートを出てくる人の流れに逆らいつつ美綾は郡司の後を歩いた。

「お仕事は大丈夫なんですか?」

 学生にとっては夏休み中でも今日は平日だ。なにより彼はスーツ姿だ。サマージャケットは着ていないけれどネクタイは締めている。郡司は嫌そうな表情をすると無造作にネクタイをはずしてズボンのポケットに押し込んだ。

「雑用のために会社には出たけど、オレは一応休暇を使って戻ってきている。だからおまえが気にしなくていいし――言ったろう、これも仕事だ」
 
 この男は誤魔化すのが上手だ。だからそれも嘘かもしれない。でもそれは少し優しい嘘だから美綾も追及はしなかった。
 郡司が入場チケットを購入するのを見て、財布もなにも持っていないことに改めて気づく。

「あの私今お財布がなくて……後でお支払いでいいですか?」
「は?」
「あの、後で」
「おまえは――! 金のことは心配しなくていい。オレが全部奢る。っていうかオレが連れてきたし、社会人だぞ。子どもは甘えていい!」
「……ありがとうございます」

 美綾はとりあえずお礼を言った。そうはいっても彼とは昨日知り合ったばかりだし、クライアントの息子だ。なんとなく気が引ける。後日、なにか別の形でお礼をすればいいだろうか。

「いいか、金のこともなにも心配せずに遊べ。昨日の――詫びとでも思えばいい」

 強引だけれど、命令口調だけれど、彼の気遣いが嬉しくて美綾は少しだけ気持ちが軽くなった。

「さあ、なにに乗る?」
「じゃああれがいいです」

 指で示した途端、郡司はものすごく嫌そうな顔をしたけれど、美綾は構わずにアトラクションに並んだ。

 遊園地は小学生以来だ。家族で来たのは低学年の頃だけで、あとは学校の行事だった気がする。園内には家族連れやカップル、そして高校生らしい集団もいる。それなのに自分たちは遊びもせず仕事ばかり。いつのまにそれがあたりまえになったのか。

(もしかしてうちってブラックなのかな……?)

 シフトできちんと休みは確保しているはずなのに、結局なぜかみんなあそこにいる気がする。

「おまえは、絶叫系ばかり選びやがって!」

 足元をふらつかせて郡司はベンチに座り込む。

「苦手ならおっしゃってくだされば」
「限度ってものがあるだろうが、限度ってものが!」
「青山さんって、おいくつですか?」
「オレはまだ二十七だ! じじい扱いするな!」

 そんなつもりで聞いたわけじゃなかった。
 昨日会ったばかりの十歳も年上の男性と遊園地で遊んでいる現実が信じられないだけで。

 高校生であれば、関わる大人は親、教師、習い事や塾の講師ぐらいのものだ。けれど『SSC』の社員は仕事を通してそれ以外の大人と接することができる。
 真夏はそれが面白いのだと言っていた。
『いろんな高校の子と関わるとか、働いている大人の社会を垣間見るとか、まあいろいろあってもやっぱり楽しいんだよね。学校と家との往復だけでは知りえなかった世界を知られるから』と。
 好奇心旺盛な彼女らしい入社理由。

 美綾は『SSC』にはいても、由功のサポートが中心だったので実際に社会人の大人に接することは少なかった。せいぜい付き添いで行くパーティーやあいさつ回りで知り合うぐらいだ。そして大抵の場合それは親世代以上の年齢となる。
 だから今回初めてチームに参加して二十代三十代の大人と接したのだ。

「ほら、そこの自動販売機で飲み物買ってこい。オレはアイスコーヒーならなんでもいい。おまえも好きなものを買え」

 郡司にお金を渡されて、すぐ向かいにある自動販売機に向かった。適当にアイスコーヒーを選んで、美綾はペットボトルのウーロン茶を買った。
 少し離れたところにいる女の子二人組が、郡司をちらちら見ながらなにやら話している声が聞こえた。

「すごいカッコいいね」
「うん……カップル、じゃないよね。兄妹?」
「どうだろう」

 ベンチの背もたれにだらりと腕をあげた、だらけた姿勢なのに、確かに彼女たちの言う通りカッコいい。
 そのうえ『青桜』の御曹司で、仕事のできる有能な期待の後継者候補だという噂だった。
 きっとこんなところで子どもの相手をして遊園地で遊んでいてはいけないはずだ。

 美綾は買ったアイスコーヒーとお釣りを郡司に渡すと、少し距離を空けて隣に座った。ペットボトルの蓋をあけてウーロン茶を飲む。
 絶叫系ばかりに乗ったせいか、車に乗っていた時からだったのか髪が随分乱れている。美綾は結んでいた髪をほどいた。ふわりと風が毛先をさらう。

「綺麗な髪だな」
「え?」
「髪……そこまでの長さを綺麗に伸ばすのは大変だろう?」

――――『綺麗な髪だ、もったいないよ』

 声変わりの途中のような、かすれた声で彼もそう言った。
 中学一年の終わりの春休み、満員電車の中で庇うように伸ばされた腕。同年代の男の子とこんなに近づいたのは初めてでドキドキして緊張した。目線だって少し上なだけだった。
 だから綺麗な黒い目が印象的で、吸い込まれるように見惚れた。カーブで押されて体が触れて、彼のシャツのボタンに髪がからまったのはその時だ。
 脇まで伸びていた髪はその長さの分距離を縮める。彼は美綾を抱きかかえるようにしながら、からまった髪をはずそうと一生懸命になってくれた。からまるばかりで、とれそうにない様子にペンケースからはさみを取り出そうとした時、彼のほうが迷うことなくボタンを引きちぎった。
 そう言いながら――――

 それから髪を切ることができなかった。毛先だけは揃えながら、大事に手入れをして伸ばしてきた。
 彼が守ってくれた髪だから、綺麗だと言ってくれたから――――

 それは数駅分の出来事。彼が覚えていなくても仕方がないぐらい些細な邂逅。

 美綾は毛先に指を絡めた。するすると指の間を落ちていく。滑らかな感触がする。
 
「そんなことないです。髪なんて切らなかったら勝手に伸びていくんですよ」

 そうだ。勝手に伸びていった。勝手に気持ちは膨らんで、勝手に火は大きくなって。
 涙が滲みそうになって、美綾は空を見上げた。夕方の時間帯なのに真昼のように明るい空。ほんの少しだけ陽の光は和らいでいるものの熱気は残っている。
 美綾は無造作に髪をまとめて結んだ。

「そろそろ帰りましょう。今日はありがとうございました」

 髪は勝手に伸びていく。だから切らなければならない。
 勝手に生まれた気持ちも一緒に。
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