恋火

流月るる

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第四話

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 美綾が初めて御嵩貴影の名前を知ったのは高等部入学前の春休み――改装中の『SSC』のビルを見学に行った時だ。由功が高等部入学と同時に起業を考えていること、その準備を仲間とともに進めていることを、中等部の生徒会の任期が終わる直前に教えられた。
 『ずっと迷っていたけど、やっぱり美綾にも手伝ってほしい』そう言われても最初は自信がなくて断った。それでも由功に『美綾が必要だ。君なら絶対できる』としきりに説得されて、生徒会と同様、由功の手伝いとしてならと承諾したのだ。
 そして改装中のビルに案内されたときに、仲間の一人だと言って紹介された。

 あの日の衝撃を美綾は今でも覚えている。
 さらりとした艶のある黒髪。整った顔立ちと、硬質な雰囲気は由功とはまた異なる存在感を放つ。
 『はじめまして』と互いに挨拶した時に、自分の胸に小さな火が灯ったことにはすぐに気がついた。
 生まれた感情を大事にして、少しずつ彼との距離を縮めていけたらいいと思っていた。
 けれどそんな矢先に、彼の横で笑い、眼差しを受け止め、彼を下の名前で呼ぶことができる存在を知ったのだ。

 彼にはすでに特別な存在がいる。

 そうと知っていながら告白する女の子たちもいた。けれど彼女たちは一様に玉砕していった。
 そのうち、彼は彼女をとても大事にしている、二人の間には誰も入り込めない、告白しても無駄だという噂が広がった。
 想っても無駄な相手、告白しても叶わない相手――それが御嵩貴影だ。

 だから生まれた火は消さなければならなかった。放っておいても消える程度のものだと思いたかった。いずれ消えることを願っていた。

 けれど由功のそばにいれば、必然的に彼との接触も増える。近づくほどに火は勝手に勢いを増す。
 消えかけたかと思えば、些細な瞬間に燃え盛る。
 美綾は貴影と出会ってからずっと自分のそんな感情に翻弄され続けてきた。
 それが嫌で、必要以上に近づかないようにした。意識して距離をおいた。
 それなのに由功は今回美綾に、彼のそばにいることを命じた。
 その理由を美綾は、気づきたくもないのに気づいている。

――いいかげんあきらめろ――おそらくそれが由功のメッセージ。

 貴影の恋人という言葉だけだった存在が、今、美綾の目の前に実物として現れて、なおかつ見つめ合う二人を眺める羽目になっている。

「これからまだ仕事?」
「ああ、今から戻ってミーティング」
「そっか……大変だね」
「悪い。しばらく相手できなくて」

 貴影と華乃の恋人同士の会話を、美綾はこれ以上聞きたくないと思った。それなのに弾む彼女の声がやけに耳につく。不意に視線を感じて見ると、塚本連がじっと美綾を見つめていた。目が合うと彼はにっこり笑ったけれど、美綾は自分の感情の揺れに気づかれたような気まずさを覚えて、なんとか表情を取り繕う。

 彼らがいくつか言葉を交わした後去って行くまで、美綾は自身に平静を課した。


 ***


 『SSC』に戻ると、すぐにミーティングが始まった。
 貴影が今日の『青桜』でのプレゼンテーションの報告と、ほぼこちらの提案通りになりそうな感触であることを伝える。正式な結果が出るまで数日待つ必要があるが、どちらになってもいいように準備は進めていこうという結論になった。

「じゃあ、バイト募集かけるぞ。夏休みに入れば準備や当日も含めて人は集まりやすいと思う。いつものように長期勤務が可能な中からリーダー作って、中心になってやってもらおうと思っているけど……メンバー次第かな。できれば慣れた連中が来てくれると助かるけど」

 今回は司が中心となってバイト生の統括をする。どうやら顔見知りや経験者にまずは声をかけて、足りないようなら募集をかけるようだ。

 『SSC』の社員は流動的だ。学校や家庭が協力的なおかげで長く働ける人もいるが、途中で反対されたり、成績が急激に下がったりして辞める人も多い。今回のチームメンバーは初期から長くいる人たちばかりだけれど、長期休みにのみや、イベント内容に興味があったり、タイミングが合えばという形で単発で参加する人もいる。

 基本的にはチームメンバーは社員で固め、それ以外に必要な人員はバイト募集をかける。最初の頃はバイトスタッフも知人や友人などに声をかけて募っていた。そこから社員になった人もいれば、バイトだけに参加する人もいる。幸いと言えるのか『SSC』の知名度があがるごとにバイトの応募者は増えており、以前に比べると人手は確保しやすくなった。
 同時にトラブルも多発してはいるけれど、それは仕方がないのだろう。
 人が集団になればなんらかの問題は必ず起こる。由功はそれさえも自分たちの経験則になると考えている。
 彼にとって『SSC』は実験の場であり遊びの場であり――大人になるための通過点にすぎない。『SSC』のサイトには『新たなビジネスモデルの構築を目指して――』なんて文言もあるけれど……

「バイトに関するすべてはおまえに任せる。面接には、そうだな高階も参加して。配置もすべて二人でやってくれ」
「勇はいいのか?」
「……今回はいい。もう少し経験積んでからのほうが見る目が養われるだろう」
 
 唯一一年生の勇にはできるだけいろんな経験をさせたいようだ。だが、それが負担になっては元も子もない。勇もどこかほっと肩をなでおろしていた。

「それで試験期間だけど、休みの希望はあるか?」

 高校によって期末試験の日程は異なる。これでも学業優先を謳っているので、希望者には試験一週間前からの休みが与えられることになっている。勇が手をあげて、陽司と司は首を横に振った。真夏はうーんと悩んでいる。

「高階……対策してやろうか」

 司の申し出に真夏は再びうーんと考え込んだ。

「私は試験三日前からお休みさせて」

 美綾がそう言うと、真夏も「じゃあ私も。ついでに対策もよろしく」と後半は司に向かって告げる。

「じゃあそれぞれ試験期間と休みはスケジュールであげておいて」
「貴影、おまえは? 試験期間ぐらい彼女といてやれば」

 思い出したくもないのに、鮮やかに彼女の残像が浮かび上がる。

「ああ、そうだよね。今御嵩くん全然休みとってないよね? 夏休み中も厳しいだろうから、御嵩くんは試験休みなんかいらないかもしれないけど、少しは彼女に時間をとってあげたら?」
「――相談してみる」

 貴影は少し考え込んだ後、そう答えた。確かに別れ際の彼女は寂しそうだった。試験期間など関係なく、週末に少しでも休みをとってもらえたら彼女だって喜ぶに違いない。
 美綾は息苦しさを覚えて、視線をさ迷わせた。不意にホワイトボードにあえて忘れないように掲げている今回のコンセプト――『彼が選ぶ彼女の口紅』の文字が目に飛び込んでくる。

 貴影はあの彼女のために口紅を選ぶ。彼はどんな色を彼女の唇を彩るために選ぶのだろうか。
 『初恋』がテーマの……甘酸っぱいティーンズライン。恋が叶わない女の子は、選んでくれる彼がいない女の子はどうすればいいのだろうか。

「『彼女が選ぶ彼女の口紅』もあればいいのに……」

 五人の視線が一斉に集まって、美綾は自分の思考が口をついて出てしまったことに気づいた。

「あ、ごめんなさい。ただの独り言」
 
 気にしないでほしいのに視線はずっと美綾に留まったままだ。美綾は恥ずかしくなって俯いた。 

「えーと……だから、彼がいる女の子は口紅を選んでもらえるけど、彼がいない女の子は選んでもらえないじゃない? 自分で選べばいいけど、それもちょっと切ないし。でも口紅って彼がいない女の子も欲しいでしょう? だから彼がいない女の子同士が、女友達のために口紅を選ぶのもいいかなって思ったんだけど」

 美綾は咄嗟に思いついた言い訳を並べる。そう、自分で選ぶのはちょっと惨めな気もする。美綾はだったら里音と選び合いっこしようかなとぼんやり思った。なかなかいいアイデアに思えてくる。

「そう、だね。私も選んでくれる彼は、えと、いないから。女友達に口紅プレゼントするってかわいいなあと思う」

 真夏が少し照れつつも賛同するように深く頷いて続ける。

「そうだよ。そうすれば彼のいない女の子もイベントに来やすいんじゃない? 女友達同士連れ立ってイベント行くの」
「まあ確かに……そのほうが集まりやすいかもな」

 司も答えて、そして貴影を見た。

「そうだな……九条の案も考慮して再度クライアントに提案してみよう」
「ごめんなさい。ただの思いつきなのに」
「そんなことない! 大事だよ。彼がいなくったって選ばなきゃ」
「この場合の彼って、まあ恋人に限定しなくても、男友達でも身内でもいいとは思うけどな」

 真夏は司の足を思い切りふんずけていた。
 陽司と勇が呆れたように見て、そして笑いだす。空気が変わって美綾は安堵した。

「じゃあ、他になにもなければミーティングはこれで終わりだ。計画書は担当ごとに明日までに提出して随時すすめて。進行状況は必ずオレに報告を頼む」

 予想外に周囲が受け止めてくれたことに多少後ろめたさを覚えつつ、少しだけ救われる気もした。

(きっと私みたいな女の子もいるだろうし……)

「でも、意外でした。九条先輩から彼のいない女の子のための案が出てくるなんて思わなかったから」

 勇の言葉に美綾は苦笑する。

「どうして? 私だって彼のいない女の子なのに」

 再び一斉に視線が降り注いで、美綾は今度こそ両手で口を覆った。
 貴影の彼女に会ったせいだろうか。あまりにも余計な発言をしすぎている。

「え!? だって九条先輩って――由功先輩と付き合っているんじゃないんですか!?」

 陽司が即効、丸めた資料で勇の頭をたたいた。

「何するんですか! 陽司先輩」
「おまえは、プライベートに口を挟むんじゃない!」

 由功と付き合っているのだろうと周囲に誤解されていることには気づいていた。
 美綾はずっと由功のそばにいたし、彼は彼で特別扱いを隠さなかった。そして否定も肯定もせずに曖昧に濁してきた。あえてそうした事情があったからだが、それを説明する気はなかった。

「そっかあ、彼いないのかあ……」

 勇が感慨深げに呟きをもらす。
 美綾はもの言いたげな複数の眼差しに気づきながらも、そこから逃げたくて部屋を出た。
 特に貴影の反応は知りたくなかった。
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