「終わり」がくる、その日まで

流月るる

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第二章

第十八話

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 玄関の扉が開き、叔母が穏やかな笑みを浮かべて智晃を出迎えてくれた。

「よく来てくれたわね」
「ご無沙汰しております。それにご連絡ありがとうございました」

 玄関先で挨拶をすると智晃はすぐに悠花の様子を尋ねた。叔母に「今は休んでいるから、目覚めるまで待ってあげて」と言われリビングに案内される。
 叔母に会うのは正月以来だった。叔父の会社に行くようになって「いつでも遊びにいらっしゃい」と言われていたのに不義理をしていた。いや、悠花と叔父の関係を知ってから行きづらかったのもある。
 
 大きなソファに座って寛いでいた叔父は、智晃を見て「どうしておまえがここに」と驚きを露わにし、次に叔母に視線を向ける。その様子に、叔母が智晃の来訪予定を告げていなかったのだと気づいた。

「あなたが桧垣さんの味方をするなら、私は甥である智晃くんの味方をしますよ。これで公平ですね」

 叔母はにこやかに言い放つと、智晃にソファに座るように言ってキッチンへと消えていく。その言葉に勇気づけられて、智晃はわずかな緊張を抱えながらも叔父の向かいに腰をおろした。

「何しに来た」

 叔父が憮然とした表情でぶっきらぼうに呟く。

「悠花を、名月悠花さんを迎えに来ました。叔母さんからここにいるとお聞きしたので」

 智晃は姿勢を正して叔父と向き合った。身内といって差し支えない相手なのに、まるで恋人の父親に挨拶にきている気分になる。
 叔父は読んでいた新聞を乱暴に畳むと眼鏡をはずした。苦虫を潰したような表情で智晃をじっと見る。

「迎えなど頼んでない」
「それでも彼女が目覚めたら、僕のところへ連れて帰ります。それからこれも、お願いにきました」

 ここに来る前に区役所に寄ってきた。ほかに必要な書類は後日手配することにして、智晃はこれを見せることで自分の覚悟を示すつもりだった。
 叔父は目を大きく開いて、そのあと嫌そうに細める。

「なんだ、これは」

 見ればわかる代物なのに、あえて聞いてくるなんて彼らしくない。

「あなたの秘書に見せられたものと同じものです。お気に入りの秘書にも署名するぐらいです。僕のも当然お願いできますよね?」

 智晃は嫌味を込めて口にした。
 自分と悠花との関係を知りながら、桧垣の書類にサインした意味など知りたくもない。

「まさか彼女に無理やりサインさせるつもりじゃないだろうな」
「大丈夫です。そんなことはしません。ただ僕の覚悟を示したかっただけです。彼からの伝言も聞きましたから」

 智晃は一息いれるとまっすぐに叔父を見た。

「僕には中途半端な力しかないから彼女を守れないのだと」

 叔父の表情がすっと真顔になる。彼のまわりの空気が一瞬で変化する。
 そこには血縁などなくとも、世田の一族を背負う一員としての気配が漂っていた。
 ソファに背中をあずける仕草からも余裕が感じられて、智晃は内心舌打ちしたくなった。

「僕はどうして叔父さんが僕の味方をしないのか不思議だった。いろいろ画策しておきながら、掌を返すようにご自分の秘書の味方をする。彼女のことをダシにして、僕を世田に引き入れるのが目的だったんじゃないですか?」

 桧垣のあの言葉で気づかされた。
 なぜ、自分をコンサルタントとして会社に呼んだのか。
 悠花との付き合いを知っていて、何も言わなかったのか。
 中途半端な力しかないから守れない。
 つまり――悠花を守りたいなら、世田に戻ってこい――と暗に言いたかったのではないかと。

「私たちには子どもがいない。それはつまり世田側の後継者がいないということだ」

 おもむろに切り出された言葉に、智晃は口元を引き締めた。
 世田の会長は智晃の父方の祖父にあたる。後継者には自分の息子である智晃の父親ではなく、娘婿である叔父を選んだ。そしてそれは正しかった。不景気な時代にも関わらず、グループは成長し続けている。
 けれど彼らは子どもに恵まれなかった。
 そして自分たちは三人兄弟。

「おまえの兄の一人はうちに入ったが、もう一人は母方の方へ行った。最後の一人であるおまえの取り合いになるのは仕方がない。幸いあちらには他に後継ぎがいるようだし、それならおまえはやはりうちに欲しかった。実力があるなら血縁者でなくても構わないのはわかる。だが、身内に実力がある者がいるなら、できれば継いでほしいと思うのが自然だ。だから兄同様、おまえにもうちを手伝ってほしかった」
「世田は兄さんが継ぐ」

 子どものいない叔父夫婦の後継ぎ候補として兄は世田に入社した。そして母方の会社には次男が。だから智晃は自分で会社を立ち上げたのだ。それで丸く収まったのではなかったか。

「もちろんそうだ。あいつがうちのグループを拡大していく。だが、既存のものを守る者も欲しい。私はあいつとおまえ二人に世田を任せたいと思っていた」

 そう言ってもらえるのはありがたい気もしたし、迷惑な気もした。同時にそう感じる自分の身勝手さもわかっていた。兄たちは他の道を模索する余裕もなく道を決められた。自由にしてこられたのは兄たちが庇ってくれていたからだ。三男として甘やかされてきた自覚はある。

「だが、おまえはおまえでうまくやっている。無理強いするつもりはなかった。社内で優秀な人材を発掘して育てていく方法もある。だから私は桧垣くんに期待していた」

 彼をかわいがっているだろうとは思っていたが、そこまで期待しているとは考えていなかった。
 叔母がそっとコーヒーを運んでくる。叔父の話の内容に驚きを見せないところをみると、叔母も了承済なのだろう。

「そして桧垣くんに会社も、そしていずれは彼女――悠花ちゃんも任せたいと考えていた」

 智晃はひゅっと息を呑んだ。一瞬呼吸の仕方がわからなくなる。
 優秀で策略家の叔父がそんなことまで計算していたとは思ってもみなかった。
 彼女を会社に雇い入れたのも、あのマンションの手配をしたのも叔父だと知った時から、叔父と彼女との間に親密な関係があるとは思っていた。だが彼女の結婚相手まで考えていたとは予想外だ。

「桧垣くんには彼女がうちで働くことになったとき、おまえが手に入れた調査書と同じものを何の説明もせずにそのまま見せた。彼女への仕事の指導も彼に任せた。彼がそこからどう判断して動き、彼女と関わっていくか見極めたかったからだ。うまくいきそうにないなら仕方がない。だが桧垣くんが彼女の本質を見極めて認めることができたなら、そして悠花ちゃん自身の気持ちが落ちついたら……少しずつ二人の距離を縮めて……そうして二人をゆっくりと見守って行くつもりだった。それなのにおまえだ」

 最後のセリフには責める響きが込められていた。智晃は思わず肩を強張らせる。

「まさか彼女がおまえと出会って、関係をもつなど思わなかった。それもはっきりしない妙な関係だ。私がどれほど衝撃を受け、やきもきしたかおまえにわかるか? 彼女自身が愛せる男を見つけたならその男との幸せを願うつもりだった。だが……」

 叔父は言葉を切るとコーヒーを口にする。
 智晃は喉がからからに渇いていくのを感じても、指一本動かせない。
 叔父の言うことはもっともだった。素性を明かさず体の関係だけを持つ……それが他人にはどういうふうにうつるか。彼女を見守っていた叔父からすれば、智晃の関わり方は不快でしかなかっただろう。

「おまえは素性を隠すべきじゃなかった。彼女が初めから知っていれば、決しておまえを選んだりはしなかったはずだ」
「それは僕が世田一族の人間だからですか?」
「そう……彼女が愛した男、神城穂高くんと似た立場だからだ。彼女は彼をとりまく世界に排除された、傷つけられた。仕事も友人も家族も何もかもを失った。恋人も……未来も。おまえの立場を知っていれば全力で避けた筈だ。その証拠にあの子はお前の素性を知って吐いた。そして私に、恩を仇で返して申し訳ありませんと、おまえと別れると謝罪してきた。土下座でもしかねない勢いでだ!」

 智晃はぎゅっと拳を握りしめると俯いた。
 駅で待ち合わせした時の、彼女の絶望に近い表情を覚えている。
 「関係をやめたい」と言ってきたのは、自分が「世田の御曹司」だと知ったせいかもしれないとは思っていた。
 素性を知って吐くほど苦しんだ? 叔父に別れると謝罪して、土下座しかねない勢いだった?
 それほどに自分の素性は――彼女にとっては衝撃だったのだと、今初めて智晃は思い知らされていた。
 悠花は何度も「怖い」と「苦しめたくない」と言った。
 その言葉に隠された本当の意味を考えようとしただろうか?
 彼女の苦しみに寄り添ったことがあっただろうか?
 ただ悠花を手放したくなくて、言葉巧みに誘導しただけではなかったのか?

「今回の件だって詳しい事情は知らないんだろう?」

 智晃は迷いつつ頷いた。
 桧垣から聞かされた話から想像はついても真相は不明だ。身勝手に腹を立てて傷ついて、彼女がどんな気持ちだったか考えることができなかった。
 話をしに来た彼女を傷つけて帰らせた。
 自分の器の小ささと不甲斐なさを見抜かれた気がしてますます情けない気分になる。

「だろうな。彼女がうちを辞めることになったのに、おまえからは何の反応もなかったからな。彼女はおまえにまだ話していないのだと思っていたよ。そのうえ今日のあの子の様子を見れば……おまえがどれだけ役に立たないかもわかる」

 厳しい叔父の声は、釈明も謝罪も無意味だと暗に語る。
 「結婚できない」と言わせたこと、そして今叔父の家で倒れて眠っていることは、自分が悠花を支えるどころか追い詰める側に回った証拠なのだ。
 智晃はぎりっと奥歯を噛みしめた。

「でなきゃこんなもの、堂々と見せられるはずがない」

 叔父は智晃の持ってきた書類をびりびりと破った。紙片がテーブルの上に落ちていく。
 叔父の静かな憤りが針のように全身に突き刺さる。

「過去の噂のせいで苦しんでいるのは彼女だ。なのに、おまえに迷惑がかからなくて良かったと、もうこれ以上誰の負担にもなりたくないから、遠く離れたところに行くと。これ以上の手助けはしないでほしいとあの子は言ったんだ!!」

 胸がひどく痛んで息苦しかった。
 傷ついていた彼女をいたわるどころか、最終的な止めを刺したのは自分自身。
 智晃の脳裏に過去までもが蘇ってくる。
 ……迷惑をかけたくない。負担になりたくない。離れたい。手助けは必要ない。
 晴音にも同じようなことを言われた。
 好きだからそばにいたい、支えたい、苦しみを一緒に抱えたい。そう言った智晃に、晴音はただ首を横に振るだけだった。
 悠花に対してまた同じことを繰り返している自分がいる。
 好きだと、愛していると言葉だけ告げて、自分の気持ちを押しつけている。
 一方的な感情の押しつけではだめだとわかっているのに、いつもどうすればいいかわからない。
 愛し方がわからない。

「智晃、今日は帰りなさい。これ以上彼女を追い詰め混乱させるのは許さない。ましてや大した覚悟もなく結婚など口にしてほしくない。私は、悠花ちゃんがおまえから離れたいと望めばそれを叶えるつもりだ」
「叔父さん! 僕は!」
「名前さえ教えず、素性を隠して曖昧な関係を続けた――そんな男を信用できると思うのか? おまえが身内でなければ、そして私が彼女の家族なら即座に別れさせただろう。味方などできるわけがない」

 冷めた眼差しと冷たい口調は、それが叔父の本音であることを語っていた。
 智晃の頭の中を、様々な言い訳がぐるぐるとまわっていく。だが何を言っても自己保身の言い訳にしかならない気がして、言葉をのみこむ。
 叔父の不可解な行動の原因は、おそらく悠花との曖昧なはじまりかたにあるのだ。
 
 けれど……僕たちは、ああいう始まり方しかできなかった――

 どんなに悔いても、おそらく二度目を繰り返したとしても同じだったに違いない。
 自分の心の中には晴音がいたし、彼女の心の中にはあの男がいたのだから。
 智晃は細く長く息を吐いた。テーブルや床に散らばった紙片を集める。

「確かに僕たちのはじまりかたは……叔父さんには受け入れ難かったと思う。それで信用できないのも仕方がない。でも僕は、どんな彼女も現実も受け入れると決めた。それで僕が傷つくことになったとしても、僕が傷つくことに彼女自身が傷つくとしても――」

 悠花の本名を知った時から智晃はずっと断崖に立っている。
 ささやかな風にさえ足をとられかねないギリギリの位置。
 けれど足を滑らせて落ちても必死に指先でしがみつく。
 そしてたとえ奈落に落ちたとしても這い上がる。

「僕は彼女とともに生きていく。絶対に……手放したりしない」

 ――たとえ、彼女自身がそれを望まなかったとしても。

 そう心の中で付け加えると、智晃はソファから立ち上がって、そして静かに頭を下げた。

「今日のところは帰ります。悠花をよろしくお願いします」
「……おまえに頼まれずとも、彼女は私が守っていく」

 憮然とした叔父の声に少しだけ熱が入った。今は受け入れられなくても、いつかわかってもらえればいい。誠意を尽くしていくだけだ。
 後ろ髪引かれる思いを抱いたまま、智晃は叔父の家を出た。
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