46 / 57
第二章
第十七話
しおりを挟む
「悠花!」
抱きしめていた体がふわりと揺らいで桧垣は叫んだ。
「だ、いじょうぶです……」
「大丈夫じゃないだろうが! こんな時にまで強がるな!」
桧垣は悠花の肩を抱き寄せてしっかりと支えた。意識はあるけれど体はふらついている。すぐに部屋から出ると副社長夫妻に助けを求めた。
「副社長! 申し訳ありません。名月さんをどこかで休ませてあげてください」
「悠花ちゃん!」
「すぐにベッドを準備するわ」
夫人がバタバタと応接室から出ていく。桧垣は悠花をソファに座らせると彼女の頬に手をそえた。
涙で湿った頬は冷たく顔色は青白い。
急に仕事を辞めることになったせいで慌ただしく引継ぎ作業をしていた。そのために残業になることも多かった。精神的な苦痛を抱えて過ごした日々では食欲もなかっただろうし、睡眠だってろくにとれなかったのかもしれない。
「大丈夫、です。ちょっとくらくら、するだけ……」
悠花は気丈に呟くけれど、体には力が入っていなかった。
急な状況の変化に加えて、おそらく世田智晃と何かがあってひどく憔悴していたところに、副社長の呼び出し。 そしてあげくのはてに自分の気持ちを押し付けた。精神的にいっぱいになって傷ついている中追い打ちをかけた。
悠花はそれでも大丈夫だと言い張る。この期に及んで桧垣から離れようとする。
意地っ張りで、頑張り屋で、健気で……誰かを一途に愛することができる女。
惹かれずにいるなんて無理だと、あらためて桧垣は実感する。
「桧垣さん、悠花ちゃんを部屋までお願いできる?」
「もちろんです」
桧垣はゆっくりと悠花を抱き上げた。びくりと抵抗を示すように震えても、拒む気力はないようだった。
華奢で軽い体を抱きながら、こんなに弱い存在をどうして誰も守れないんだと思う。
守りたくてたまらないのに守らせてはくれない。
桧垣は悠花を大事に抱えて夫人の後をついていった。玄関を通り抜けて廊下を歩いたすぐ先にドアが見える。夫人が開けてくれたドアの向こうにはシンプルな洋室があった。ベッドカバーの色合いやカーテンの柄から女性らしい雰囲気が漂っている。
「悠花ちゃんが一時期うちにいたときに使っていた部屋なの。あとは私が看るから桧垣さんは夫と話していらして。いきなり海外転勤を希望するなんて言うから驚いているわよ」
悠花をそっとベッドに横たわらせると「すみません」と小さく声が聞こえた。「気にするな」と言うとあとを夫人に任せた。
副社長が彼女を特別視しているのは感じていた。けれど、ここで一緒に生活をするほど親しかったとは知らなかった。副社長が彼女を名前で呼ぶのを聞いたのも今日が初めてだ。
彼はきっと自分に「名月悠花」がどこまで特別か暗に知らしめたかったのかもしれない。
応接室に戻ると、副社長の表情には苦笑が浮かんでいた。できの悪い息子を見るような眼差しに居たたまれなくなる。
「申し訳ありません……」
「無茶はするな、と言ったはずだが。惚れている女があんなふうに逃げようとすれば、まあ仕方ないな」
桧垣は喉がからからに渇いているのに気づいて、カップにわずかに残っていた紅茶を飲んだ。冷えた苦味が後味の悪さを増長させる。
惚れている……のだと認めざるを得ないのだろう。
いつのタイミングで惹かれたのかも今は気づいている。
あの海の日だ。
海岸沿いの道で、副社長に無理やり車から降ろされて、会社とは違う名月悠花の姿を見たとき。
副社長は悠花に声をかけろと命じたわけじゃなかった。それは桧垣の意志に委ねられた。
なのに、声をかけてしまったのは。
暖かな陽気に包まれた明るい海辺に立つ彼女が、儚く揺らいでいるように見えたから。
予想外のかわいらしい私服姿に、どきっとさせられたから。
「君が海外に行くのは困るんだがな」
さきほど夫人にも言われて、自分たちの声が筒抜けだったことには気づいた。当然悠花への告白も聞かれたに違いない。もちろんそうでなければ微妙な関係にある男女を、隣室とはいえ二人きりにしないだろうけれど。あれ以上暴走しなくてよかったと安堵すると同時に、副社長の自宅だということも忘れて感情的になった自分を不甲斐なく思った。
それでも発した言葉に嘘はない。
「彼女が誰も知らないところへ行きたいと言うのなら、オレが連れて行きます」
桧垣ははっきりと言葉にして自覚する。
彼女が一人になろうとするのなら誰に遠慮する必要もない。強引にでも無理やりにでも一人にはさせない。ああいうタイプは見守るだけじゃだめだ。
「同情でないと言い切れるか? 逃げようとするから追いかけるただの執着じゃないのか?」
副社長の問いに、自分の我儘な思考が見抜かれた気がして桧垣はぴくりと震えた。
「……わかりません。オレは世田智晃が彼女を守れるならそれが一番いいと思っていた。彼らは愛し合っている。オレの出る幕なんかない。そう、自分に言い聞かせてきました。そんなふうに言い聞かせなければならないほど、今は彼女に感情を揺さぶられています。同情か執着かなんて区別はつきません」
何度も世田智晃に牽制してきた。
悠花の答えなどわかりきっているのに、苦しめると気づいているのに自分の気持ちを吐露した。らしくない行動の源を探ることさえもうできない。
桧垣は膝に肘をついて、額に手の甲をあててうつむいた。
ふわりと自身から甘い香りが漂う。今日何度となく悠花を抱きしめてきた。きっとそのせいで移った香り。会社では決して纏わないだろう香りは、素の彼女に触れて初めて感じ取ることができるもの。
一緒にいた数年、華奢な体で抱え続けたであろう苦悩を桧垣は知ろうとも思わなかった。きっともっと早く彼女の本質に目を向けていれば、誰よりも近くで支えていけたのに。そうすればこんな状況に陥らせなかった。持てるすべての力を使って彼女を守った。
「オレは副社長を恨みます」
「桧垣くん」
「周回遅れで気づかされるような感情なんか、抱くべきじゃなかった」
すべてが後手にまわっている状況では、そんな願いは浅ましいだけ。
「そうかな? 以前の彼女ならきっと誰からのどんな気持ちも受け入れなかった。頑なに殻に閉じこもっていて、本来の彼女の姿など見られなかったんだから君が気づくはずがない。彼女自身がようやく外へ出てきて本当の姿をさらしたから君の中にも生まれた感情だ。早いも遅いもない」
だがきっと、その頑なな殻を破ったのは世田智晃なのだ。
「たとえ君が自分の感情に気づいていなかったとしても、上司としての役割だったとしても、私には君が彼女を見守っているように見えた。だからいつか君と彼女がうまくいけばいい、そう思っていたんだがな」
桧垣が顔をあげると、遠くを見つめるような副社長の横顔があった。それは会社で仕事をしているときには決して見せない弱り切った表情。そして何かを慈しむかのような表情。
「子どものいない私にとっては、君も彼女も我が子同然だ。ただ幸せになって欲しい、願うのはそれだけだ。だがそれが難しい」
ふっと扉がノックされて、お手伝いの女性が入ってくる。温かなコーヒーが運ばれて、桧垣はその温もりに縋るように口にした。
「彼女は、今日は?」
「ああ、このままうちで預かろう。今は彼女も混乱している。落ち着いて今後どうするか決まったら、また君に頼むことになるかもしれない」
「いつでもご連絡ください」
手を伸ばして捕まえることのできる存在であれば、どんな強引なことをしても手に入れる。
でもきっと彼女はそう安易に考えていい相手じゃない。
彼女の幸せを願うならきっと、自分の両手はないほうがいい。
必要とされないほうがいい。
彼女へ告げた今日の言葉が、枷になることなく、ただの逃げ場になってくれればいい。
かすかにでも思い出してくれればいい。
今はまだそう願える自分に、少しだけ安堵すると桧垣はそこをあとにした。
***
智晃はシャワーを浴びて体をすっきりさせると、部屋に溢れるアルコールの匂いの強さに気づいた。カーテンと窓をあけて、自分が散らかしたテーブルや床の散乱物を見てため息をついた。
かすかに頭痛はするもののシャワーを浴びたおかげですっきりしている。そうして冷静になると自分がどれだけ悠花にひどい態度をとり言葉を吐いたか思い出す。
そして彼女が部屋を出てすぐに追いかけなかった自分の不甲斐なさと無様さを。
追いかけられなかった。
ひどく傷ついて泣いている彼女を引き留められなかった。
そばにいれば傷つけてしまう、そう思った自分の弱さが憎らしい。
今だってこんなことをしている場合じゃないと頭ではわかっている。彼女の話をきちんと聞いて、今後どうするつもりなのか意志を確認する。でも行動は伴わない。
智晃はグラスの破片を集めて、軽く掃除機をかけた。目の前にあるものに対応することで、行動を先延ばしにしている自覚はあった。体は動くようになっても思考は止まっている。
ふと、カウンターの上の買物袋が目に入った。
智晃は袋の中身をおもむろに取り出していく。
肉にハム、ニンジンや玉ねぎやじゃがいも……キュウリやレタス、カレーでも作るつもりだったのだろうかと思えば、糸こんにゃくが出てきて智晃は手を止めた。「肉じゃがが食べたい」いつか悠花にそうリクエストしたのは智晃だ。きっと今夜作ってくれるつもりだったのだろう。
悠花は家事が嫌いではないらしく、外食しようと言っても智晃の体調を気遣って家で過ごすことを望む。
智晃は袋から出したものを適当に冷蔵庫に突っ込むと携帯を手にした。
頭を冷やして、冷静になって、少し時間をおいたほうがいいとシャワーを浴びながら思っていた。今会っても、また彼女を傷つけしまうのではないかと不安だったから。
でも、それではきっと彼女を失う可能性の方が高い。
誰かのために働くことが好きで、他人のことばかり思い遣る。そんな優しい彼女に「結婚できない」なんて言葉を吐かせた。自分にはそんな資格はないと思わせた。
「悠花……ごめんっ!!」
繋がらない電話に智晃は叫ぶ。耳に響く無機質な音色を聞きながら智晃は崩れ落ちた。
「男と噂になったから会社を辞めざるを得なかった」「過去まで暴かれそうになっている」
そんなことを簡単に説明できるわけがないのだ。
「迷惑をかけたくない」「いつか傷つけてしまう」
そう怯えて何度も何度も泣いていた。
「好きでいていいか」と智晃に許可まで求めてきた。
「傷つけていい」と答えておきながら、いざそうなって嫉妬に狂って八つ当たりした。
「悠花! 頼むから電話に出てくれ」
悠花の携帯は留守電には切り替わらない。残されるメッセージで嫌な思いをしたからと聞いていた。電話自体あまり好きでない。
自分の着信に気づいて折り返してくれる可能性はあるのか。
カードキーを置いて行った意味は?
会社を辞めた今……住む場所を引き払って引っ越しでもしてしまえば、彼女はどこへ姿を消すかわからない。
思考がどんどんマイナスにすすんで、智晃はいても立ってもいられなくなった。車のキーを掴んで外に飛び出そうとして、響いた着信に相手も確認せずに携帯を手にする。
「智晃くん?」
聞こえてきた声が一瞬誰だかわからなくて、智晃は言葉に詰まった。
「叔母さん?」
「そう、智晃くん、今電話でお話しできる? 実は悠花ちゃんが、ええと名月悠花さんが今うちにいるのよ」
父の姉である叔母の言葉に智晃は全身から力を抜いて壁にもたれた。
「夫がね、彼女をうちに呼び出したの。智晃くん……あなた悠花ちゃんとお付き合いしていたんでしょう? 彼女ね、今ボロボロなの。体調を崩して我が家で休ませているわ。甘えたくない、迷惑かけたくないって泣くの。夫はね、あなたじゃ頼りないからって桧垣さんを推しているんだけど、私はね、甥であるあなたを応援したいわ。ねえ、もう悠花ちゃんとはお別れしたの?」
「別れていません!! 僕は悠花が好きです。叔母さん……彼女を迎えに行きます」
「ええ、ええ、そうしてあげて。悠花ちゃんね、本当にいい子なの、素敵なお嬢さんなのよ。こんなに傷つけられるような子じゃないの。私はね、もうこの子がボロボロになる姿なんて見たくないの」
くぐもった叔母の声が胸をつく。智晃は目頭が熱くなるのを感じて目を閉じた。
悠花が叔母のところへいた安堵と、倒れるほど苦しんでいる事実と、その引き金を引いた自分の愚かさと、いろんな感情が溢れてごちゃ混ぜになる。
守るのは難しい。
それは晴音のときにも嫌というほど思い知らされた。彼女の抱えた病を、肩代わりすることなどできなかったから。苦しむ彼女の姿を見守ることしかできない不甲斐なさを味わいつづけた。
悠花の過去を……智晃は多分守れない。
でも未来は守っていける。その力が自分にはある。
「智晃くん、彼女を守ってあげて」
「叔母さん、知らせてくれてありがとう。すぐにそちらへ伺います」
「ええ、久しぶりに智晃くんの顔を見られるのを楽しみにしているわね」
電話が切れると智晃はゆっくりと目を開けた。メガネをはずしてぼやけた視界を拳で拭い覚悟を決める。
「悠花の未来を守るのは僕だ」
「終わり」になんかさせない。
智晃は先ほどと違った心意気で車の鍵を再びぎゅっと握りしめた。
抱きしめていた体がふわりと揺らいで桧垣は叫んだ。
「だ、いじょうぶです……」
「大丈夫じゃないだろうが! こんな時にまで強がるな!」
桧垣は悠花の肩を抱き寄せてしっかりと支えた。意識はあるけれど体はふらついている。すぐに部屋から出ると副社長夫妻に助けを求めた。
「副社長! 申し訳ありません。名月さんをどこかで休ませてあげてください」
「悠花ちゃん!」
「すぐにベッドを準備するわ」
夫人がバタバタと応接室から出ていく。桧垣は悠花をソファに座らせると彼女の頬に手をそえた。
涙で湿った頬は冷たく顔色は青白い。
急に仕事を辞めることになったせいで慌ただしく引継ぎ作業をしていた。そのために残業になることも多かった。精神的な苦痛を抱えて過ごした日々では食欲もなかっただろうし、睡眠だってろくにとれなかったのかもしれない。
「大丈夫、です。ちょっとくらくら、するだけ……」
悠花は気丈に呟くけれど、体には力が入っていなかった。
急な状況の変化に加えて、おそらく世田智晃と何かがあってひどく憔悴していたところに、副社長の呼び出し。 そしてあげくのはてに自分の気持ちを押し付けた。精神的にいっぱいになって傷ついている中追い打ちをかけた。
悠花はそれでも大丈夫だと言い張る。この期に及んで桧垣から離れようとする。
意地っ張りで、頑張り屋で、健気で……誰かを一途に愛することができる女。
惹かれずにいるなんて無理だと、あらためて桧垣は実感する。
「桧垣さん、悠花ちゃんを部屋までお願いできる?」
「もちろんです」
桧垣はゆっくりと悠花を抱き上げた。びくりと抵抗を示すように震えても、拒む気力はないようだった。
華奢で軽い体を抱きながら、こんなに弱い存在をどうして誰も守れないんだと思う。
守りたくてたまらないのに守らせてはくれない。
桧垣は悠花を大事に抱えて夫人の後をついていった。玄関を通り抜けて廊下を歩いたすぐ先にドアが見える。夫人が開けてくれたドアの向こうにはシンプルな洋室があった。ベッドカバーの色合いやカーテンの柄から女性らしい雰囲気が漂っている。
「悠花ちゃんが一時期うちにいたときに使っていた部屋なの。あとは私が看るから桧垣さんは夫と話していらして。いきなり海外転勤を希望するなんて言うから驚いているわよ」
悠花をそっとベッドに横たわらせると「すみません」と小さく声が聞こえた。「気にするな」と言うとあとを夫人に任せた。
副社長が彼女を特別視しているのは感じていた。けれど、ここで一緒に生活をするほど親しかったとは知らなかった。副社長が彼女を名前で呼ぶのを聞いたのも今日が初めてだ。
彼はきっと自分に「名月悠花」がどこまで特別か暗に知らしめたかったのかもしれない。
応接室に戻ると、副社長の表情には苦笑が浮かんでいた。できの悪い息子を見るような眼差しに居たたまれなくなる。
「申し訳ありません……」
「無茶はするな、と言ったはずだが。惚れている女があんなふうに逃げようとすれば、まあ仕方ないな」
桧垣は喉がからからに渇いているのに気づいて、カップにわずかに残っていた紅茶を飲んだ。冷えた苦味が後味の悪さを増長させる。
惚れている……のだと認めざるを得ないのだろう。
いつのタイミングで惹かれたのかも今は気づいている。
あの海の日だ。
海岸沿いの道で、副社長に無理やり車から降ろされて、会社とは違う名月悠花の姿を見たとき。
副社長は悠花に声をかけろと命じたわけじゃなかった。それは桧垣の意志に委ねられた。
なのに、声をかけてしまったのは。
暖かな陽気に包まれた明るい海辺に立つ彼女が、儚く揺らいでいるように見えたから。
予想外のかわいらしい私服姿に、どきっとさせられたから。
「君が海外に行くのは困るんだがな」
さきほど夫人にも言われて、自分たちの声が筒抜けだったことには気づいた。当然悠花への告白も聞かれたに違いない。もちろんそうでなければ微妙な関係にある男女を、隣室とはいえ二人きりにしないだろうけれど。あれ以上暴走しなくてよかったと安堵すると同時に、副社長の自宅だということも忘れて感情的になった自分を不甲斐なく思った。
それでも発した言葉に嘘はない。
「彼女が誰も知らないところへ行きたいと言うのなら、オレが連れて行きます」
桧垣ははっきりと言葉にして自覚する。
彼女が一人になろうとするのなら誰に遠慮する必要もない。強引にでも無理やりにでも一人にはさせない。ああいうタイプは見守るだけじゃだめだ。
「同情でないと言い切れるか? 逃げようとするから追いかけるただの執着じゃないのか?」
副社長の問いに、自分の我儘な思考が見抜かれた気がして桧垣はぴくりと震えた。
「……わかりません。オレは世田智晃が彼女を守れるならそれが一番いいと思っていた。彼らは愛し合っている。オレの出る幕なんかない。そう、自分に言い聞かせてきました。そんなふうに言い聞かせなければならないほど、今は彼女に感情を揺さぶられています。同情か執着かなんて区別はつきません」
何度も世田智晃に牽制してきた。
悠花の答えなどわかりきっているのに、苦しめると気づいているのに自分の気持ちを吐露した。らしくない行動の源を探ることさえもうできない。
桧垣は膝に肘をついて、額に手の甲をあててうつむいた。
ふわりと自身から甘い香りが漂う。今日何度となく悠花を抱きしめてきた。きっとそのせいで移った香り。会社では決して纏わないだろう香りは、素の彼女に触れて初めて感じ取ることができるもの。
一緒にいた数年、華奢な体で抱え続けたであろう苦悩を桧垣は知ろうとも思わなかった。きっともっと早く彼女の本質に目を向けていれば、誰よりも近くで支えていけたのに。そうすればこんな状況に陥らせなかった。持てるすべての力を使って彼女を守った。
「オレは副社長を恨みます」
「桧垣くん」
「周回遅れで気づかされるような感情なんか、抱くべきじゃなかった」
すべてが後手にまわっている状況では、そんな願いは浅ましいだけ。
「そうかな? 以前の彼女ならきっと誰からのどんな気持ちも受け入れなかった。頑なに殻に閉じこもっていて、本来の彼女の姿など見られなかったんだから君が気づくはずがない。彼女自身がようやく外へ出てきて本当の姿をさらしたから君の中にも生まれた感情だ。早いも遅いもない」
だがきっと、その頑なな殻を破ったのは世田智晃なのだ。
「たとえ君が自分の感情に気づいていなかったとしても、上司としての役割だったとしても、私には君が彼女を見守っているように見えた。だからいつか君と彼女がうまくいけばいい、そう思っていたんだがな」
桧垣が顔をあげると、遠くを見つめるような副社長の横顔があった。それは会社で仕事をしているときには決して見せない弱り切った表情。そして何かを慈しむかのような表情。
「子どものいない私にとっては、君も彼女も我が子同然だ。ただ幸せになって欲しい、願うのはそれだけだ。だがそれが難しい」
ふっと扉がノックされて、お手伝いの女性が入ってくる。温かなコーヒーが運ばれて、桧垣はその温もりに縋るように口にした。
「彼女は、今日は?」
「ああ、このままうちで預かろう。今は彼女も混乱している。落ち着いて今後どうするか決まったら、また君に頼むことになるかもしれない」
「いつでもご連絡ください」
手を伸ばして捕まえることのできる存在であれば、どんな強引なことをしても手に入れる。
でもきっと彼女はそう安易に考えていい相手じゃない。
彼女の幸せを願うならきっと、自分の両手はないほうがいい。
必要とされないほうがいい。
彼女へ告げた今日の言葉が、枷になることなく、ただの逃げ場になってくれればいい。
かすかにでも思い出してくれればいい。
今はまだそう願える自分に、少しだけ安堵すると桧垣はそこをあとにした。
***
智晃はシャワーを浴びて体をすっきりさせると、部屋に溢れるアルコールの匂いの強さに気づいた。カーテンと窓をあけて、自分が散らかしたテーブルや床の散乱物を見てため息をついた。
かすかに頭痛はするもののシャワーを浴びたおかげですっきりしている。そうして冷静になると自分がどれだけ悠花にひどい態度をとり言葉を吐いたか思い出す。
そして彼女が部屋を出てすぐに追いかけなかった自分の不甲斐なさと無様さを。
追いかけられなかった。
ひどく傷ついて泣いている彼女を引き留められなかった。
そばにいれば傷つけてしまう、そう思った自分の弱さが憎らしい。
今だってこんなことをしている場合じゃないと頭ではわかっている。彼女の話をきちんと聞いて、今後どうするつもりなのか意志を確認する。でも行動は伴わない。
智晃はグラスの破片を集めて、軽く掃除機をかけた。目の前にあるものに対応することで、行動を先延ばしにしている自覚はあった。体は動くようになっても思考は止まっている。
ふと、カウンターの上の買物袋が目に入った。
智晃は袋の中身をおもむろに取り出していく。
肉にハム、ニンジンや玉ねぎやじゃがいも……キュウリやレタス、カレーでも作るつもりだったのだろうかと思えば、糸こんにゃくが出てきて智晃は手を止めた。「肉じゃがが食べたい」いつか悠花にそうリクエストしたのは智晃だ。きっと今夜作ってくれるつもりだったのだろう。
悠花は家事が嫌いではないらしく、外食しようと言っても智晃の体調を気遣って家で過ごすことを望む。
智晃は袋から出したものを適当に冷蔵庫に突っ込むと携帯を手にした。
頭を冷やして、冷静になって、少し時間をおいたほうがいいとシャワーを浴びながら思っていた。今会っても、また彼女を傷つけしまうのではないかと不安だったから。
でも、それではきっと彼女を失う可能性の方が高い。
誰かのために働くことが好きで、他人のことばかり思い遣る。そんな優しい彼女に「結婚できない」なんて言葉を吐かせた。自分にはそんな資格はないと思わせた。
「悠花……ごめんっ!!」
繋がらない電話に智晃は叫ぶ。耳に響く無機質な音色を聞きながら智晃は崩れ落ちた。
「男と噂になったから会社を辞めざるを得なかった」「過去まで暴かれそうになっている」
そんなことを簡単に説明できるわけがないのだ。
「迷惑をかけたくない」「いつか傷つけてしまう」
そう怯えて何度も何度も泣いていた。
「好きでいていいか」と智晃に許可まで求めてきた。
「傷つけていい」と答えておきながら、いざそうなって嫉妬に狂って八つ当たりした。
「悠花! 頼むから電話に出てくれ」
悠花の携帯は留守電には切り替わらない。残されるメッセージで嫌な思いをしたからと聞いていた。電話自体あまり好きでない。
自分の着信に気づいて折り返してくれる可能性はあるのか。
カードキーを置いて行った意味は?
会社を辞めた今……住む場所を引き払って引っ越しでもしてしまえば、彼女はどこへ姿を消すかわからない。
思考がどんどんマイナスにすすんで、智晃はいても立ってもいられなくなった。車のキーを掴んで外に飛び出そうとして、響いた着信に相手も確認せずに携帯を手にする。
「智晃くん?」
聞こえてきた声が一瞬誰だかわからなくて、智晃は言葉に詰まった。
「叔母さん?」
「そう、智晃くん、今電話でお話しできる? 実は悠花ちゃんが、ええと名月悠花さんが今うちにいるのよ」
父の姉である叔母の言葉に智晃は全身から力を抜いて壁にもたれた。
「夫がね、彼女をうちに呼び出したの。智晃くん……あなた悠花ちゃんとお付き合いしていたんでしょう? 彼女ね、今ボロボロなの。体調を崩して我が家で休ませているわ。甘えたくない、迷惑かけたくないって泣くの。夫はね、あなたじゃ頼りないからって桧垣さんを推しているんだけど、私はね、甥であるあなたを応援したいわ。ねえ、もう悠花ちゃんとはお別れしたの?」
「別れていません!! 僕は悠花が好きです。叔母さん……彼女を迎えに行きます」
「ええ、ええ、そうしてあげて。悠花ちゃんね、本当にいい子なの、素敵なお嬢さんなのよ。こんなに傷つけられるような子じゃないの。私はね、もうこの子がボロボロになる姿なんて見たくないの」
くぐもった叔母の声が胸をつく。智晃は目頭が熱くなるのを感じて目を閉じた。
悠花が叔母のところへいた安堵と、倒れるほど苦しんでいる事実と、その引き金を引いた自分の愚かさと、いろんな感情が溢れてごちゃ混ぜになる。
守るのは難しい。
それは晴音のときにも嫌というほど思い知らされた。彼女の抱えた病を、肩代わりすることなどできなかったから。苦しむ彼女の姿を見守ることしかできない不甲斐なさを味わいつづけた。
悠花の過去を……智晃は多分守れない。
でも未来は守っていける。その力が自分にはある。
「智晃くん、彼女を守ってあげて」
「叔母さん、知らせてくれてありがとう。すぐにそちらへ伺います」
「ええ、久しぶりに智晃くんの顔を見られるのを楽しみにしているわね」
電話が切れると智晃はゆっくりと目を開けた。メガネをはずしてぼやけた視界を拳で拭い覚悟を決める。
「悠花の未来を守るのは僕だ」
「終わり」になんかさせない。
智晃は先ほどと違った心意気で車の鍵を再びぎゅっと握りしめた。
0
お気に入りに追加
315
あなたにおすすめの小説
続・上司に恋していいですか?
茜色
恋愛
営業課長、成瀬省吾(なるせ しょうご)が部下の椎名澪(しいな みお)と恋人同士になって早や半年。
会社ではコンビを組んで仕事に励み、休日はふたりきりで甘いひとときを過ごす。そんな充実した日々を送っているのだが、近ごろ澪の様子が少しおかしい。何も話そうとしない恋人の様子が気にかかる省吾だったが、そんな彼にも仕事上で大きな転機が訪れようとしていて・・・。
☆『上司に恋していいですか?』の続編です。全6話です。前作ラストから半年後を描いた後日談となります。今回は男性側、省吾の視点となっています。
「ムーンライトノベルズ」様にも投稿しています。
月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~
真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
Home, Sweet Home
茜色
恋愛
OL生活7年目の庄野鞠子(しょうのまりこ)は、5つ年上の上司、藤堂達矢(とうどうたつや)に密かにあこがれている。あるアクシデントのせいで自宅マンションに戻れなくなった藤堂のために、鞠子は自分が暮らす一軒家に藤堂を泊まらせ、そのまま期間限定で同居することを提案する。
亡き祖母から受け継いだ古い家での共同生活は、かつて封印したはずの恋心を密かに蘇らせることになり・・・。
☆ 全19話です。オフィスラブと謳っていますが、オフィスのシーンは少なめです 。「ムーンライトノベルズ」様に投稿済のものを一部改稿しております。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
アルバートの屈辱
プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。
『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる