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第二章

第十四話

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 カードキーはあるので、そのまま部屋に入ってきていいと言われていた。けれど悠花はインターホンを鳴らす。
 「はい」と聞こえた声は低く、くぐもっていた。
 「入ってきて」と言われたときに気づくべきだったのだろう。
 いつもきちんと揃えられているはずの靴が乱れていることも、カーテンが閉まったままの薄暗い部屋も、そこから漂うアルコールの香りにも。
 リビングに入るとテーブルの上にはワインの空き瓶が転がっていた。他にもウイスキーの瓶が置いてある。空のグラスもいくつか並んでいて、その部屋の様相に悠花は驚いて立ちつくした。
 智晃は仕事帰りだと思われるシャツのままソファで横になっている。

「……と、もあき、さん?」

「悠花、お水もらえる?」

 スーパーで買ってきた食材を慌ててキッチンカウンターに置いて悠花は冷蔵庫をあけた。ミネラルウォーターをグラスに注ぐと、体を起こした智晃に渡した。
 彼が水を飲んでいる間に、リビングテーブルの上にあったグラスや空き瓶をキッチンに運ぶ。
 部屋のカーテンを開けて明かりを取り入れたいと思った。今日はいいお天気で、気温がこれからぐんぐんあがっていくだろう。窓をあけて風を入れて、アルコールの匂いと淀んだ空気を外に追い出してしまいたかった。
 けれどそんな行為をためらわせる何かが、水を飲み終えた智晃には漂っていた。
 いつも脱いだらすぐにハンガーにかけるはずのジャケットも、ネクタイと一緒にソファの背に無造作に置かれていた。

「大丈夫ですか?」

 悠花はラグの上に膝をつくと、智晃の顔をおそるおそる覗き見た。ほんの少し距離を置いたのは、近づきがたい雰囲気のせいだ。
 こんなに飲みすぎるほど飲んで、悠花が来るとわかっているのに、片付けもせずにそのままでいた。この様子だとお風呂にも入っていなさそうだ。もしかしたら食事さえしていないのかもしれない。こんな智晃の姿は初めてで、悠花はどうしていいのかわからなかった。

「ああ、大丈夫」

 そう告げた彼の声はアルコールのせいなのかかすれている。うつむいてソファに座っていた智晃は、空になった水のグラスを静かにテーブルに置いた。そうしてゆっくりと顔をあげて悠花を見つめた。
 思いつめた、傷ついた眼差しに、彼がこんなになるほどの何かが起こったのだと感じ悠花は不安になる。
 彼の大事な女性に何かあったのだろうか……それとも、会社に何か?
 もしかしてという可能性は、次の言葉ですぐに確信に変わった。

「昨日で会社を辞めたのは、本当?」

 ごくりと唾液を飲み込んだ。
 伝えたのは副社長だろうか? 智晃には自分で伝えるからと、口止めしておくべきだったのだろうか。いや、副社長がそんなことを彼に話すなど想像もしなかったから、口止めなど考えもしなかった。

「……は、い。黙っていてすみません。急に決まったので智晃さんに言いづらくて。今日会うから顔を見てちゃんと伝えたいって、思って」

 言葉を並べながらこんなのはただの言い訳だと思った。
 こんな大事なことを悠花以外の人間から聞かされた彼がどう思うかまでは考えなかった。
 いつもそうだ。自分が傷つくことに怯えて、他人がどう思うかまで想像できずにいる。
 智晃を傷つけているのは、自分の過去だけじゃない、噂だけじゃない、悠花自身の行動だ。
 いや、怖かったのだ。
 会社を辞めた原因について話した時、彼が何を思うか、どんな態度をとるか、怖くてたまらなかった。

「連休明けに決まったって聞いた。どうしてその時に話してくれなかったの?」

 悲痛な智晃の声音に、悠花は再度こくりと唾液を飲んだ。口の中がどんどん渇いていく。言葉がすぐには出てこない。
 ……心配をかけたくなかった。忙しかった。会ったときに話そうと思った。話すのが怖かった。
 それらの言い訳を口にすることができない。

「社内で噂が広がったんです。昔と同じように私がお金目当てで男性と……いろんな男性と関わっている、って」
「叔父の秘書の桧垣秋? 工藤コーポレーションの御曹司?……そして、僕、か」

 頭を抱え込むように、智晃は両手で額を押さえた。
 智晃の口から出た名前に、彼が何もかもを知っているのだと気づく。
 悠花は何をどう説明すればいいか迷いつつ言葉を紡いだ。

「桧垣さんとは仕事で関わっていただけです。契約のこととかそれ以外にもいろいろ、いつも以上に関わりが増えてそのせいで噂になりました。工藤さんは……彼は、大学時代の知人で、私の、私とあの人のことを知っていたから心配して声をかけてきただけでした」

 悠花は目を閉じた。
 なんて無様な言い訳だろう。もっと冷静に説明するつもりだったのに、うまくいかない。ウソがばれて誤魔化すために言葉を並べているようだ。

「ごめんなさい。ごめんなさい!」
「謝るのは、それが事実だから?」

 ぼそっと漏れた言葉の意味に驚いたのは悠花だけじゃなかった。
言った智晃自身が口を手で覆って茫然としている。メガネの奥の目が幼子のように揺らいで、眉間の皴が深まる。

 ああ――――!!

 悠花はすっと体の中心に向かって冷気が走るのを感じた。体中の力が一気に抜けていく。
 それはあやつり人形の糸が切れてばらばらになる感覚。
 深い胸の痛みが涙となって出てこないように大きく目を見開いた。
 泣かない、泣かない。
 泣けばまるで女の武器である涙で同情をひくみたいだ。そんな無様な姿を見せることも、彼の言葉に傷ついていることも露わにしたくない。

「智晃さん。会社を辞めたので、就職活動を急ぎたいんです。だから、だから、しばらく……」

 会えません――そう言葉にしかけて悠花は口を噤む。
 しばらく――会えない。
 それってどれぐらいなのだろうか?
 次の就職先が決まるまで? そもそも就職先は見つかる?
 連休明けに感じた漠然とした不安が、明確な形となって悠花に襲いかかる。いまさらに現実を突きつけられて悠花は愕然とした。
 それはまるで過去の焼き直し。
 自分の存在が他人を不快にさせるものでしかないと、迷惑をかけるものでしかないと、傷つけるものでしかないと思い知る。
 思わず床に手をついた。
 ずれて落ちた左手のブレスレットが、手首にまとわりついている。
 今にも切れそうな、細くて儚い、煌めく糸。

「しばらく、お会いできそうにないんです。だから、だから……」

 ――いっそ、このまま、もう会わないでおきましょう。

 脳裏に言葉が浮かぶと同時に、音が大きくなった。
 優美な音色を奏でるものでもなく、どんどんなんて地響きを鳴らすものでもなく、なんと表現していいかわからない、音。

「僕と別れて、桧垣秋と結婚する?」

 言い放った智晃の目は深く傷ついている。彼はそのままゆっくりときつく目を閉じた。
 穏やかで優しくて、いつも悠花のことを気遣ってくれていた彼が、こんなふうになるほどのことをしてしまった。
 こんな言葉を言わせた自分が、悠花はひどく許せなかった。

「しません……私は誰とも結婚しません。結婚できないことは自分が一番、わかっていますから」

 穂高とも、桧垣とも、そして智晃とだって結婚できない。
 そんなことはとっくにわかっていた。
 恋に、踏み込むべきじゃなかった。やっぱり、誰かを好きになったりしなければよかった。
 大好きで大切な人達を傷つけることしかできない好意など、抱くべきではなかった。
 関係を終わらせる言葉が、頭の中をぐるぐるまわる。
 そう終わらせた方がいい、こんな関係は。これ以上智晃を傷つけないためにも、断ち切るべきだ。
 それでも悠花は決めていた。もう二度と自分から別れの言葉は告げないと。
 穂高の時のように、自ら告げて、自分も傷ついて相手も傷つける言葉は言わない。
 決めるのは智晃だ。
 智晃は悲しみと憤りを秘めた顔を両手で覆った。かすかに肩が震えているのは怒りのせいか悲しみのせいか。

「智晃さん……今日は帰りますね。ゆっくり休んでください。あまり飲み過ぎないようにしてください」

 悠花はそれだけを告げると、空になったグラスの横に智晃の部屋のカードキーを置いた。
涙をこらえて、なんとか立ち上がる。キッチンカウンターの上に、さっきスーパーで買ったばかりの食材が目に入ったけれどそのままにした。
 「終わり」はいつも呆気ない。
 智晃の部屋を出てエレベーターまで走ると、そこまでが限界だった。
 引き留められることを期待していたのだとその時に気がついた。


 ***


 智晃はテーブルの上のグラスを手で払った。悠花が部屋を出ていった音をかきけすようにグラスの割れる音が響く。床に散らばったガラスの破片の中に、自分の部屋のカードキーを見つけて、かきむしるように頭を抱えた。
 追いかけたほうがいい。彼女はきっと泣いている。
 自分の口からこぼれおちた言葉が、彼女の言った言葉が荒波のように押し寄せて来る。それが智晃の体からすべての力を奪って、頭でわかっている正解通りに体を動かすことができない。
飲み過ぎだけが原因ではない頭痛が襲う。頭が割れそうに痛い。耳障りな音が大きく響いて思考が定まらない。

『誰とも結婚できない』

 結婚しないという自分の意志でなく『できない』と断定した彼女の奥底にある苦しみ。
 そこに追い打ちをかけた自分の発言。

「何をやっているんだ!! 僕はっ!」

 けれど追いかけていっても……今は彼女を追い詰める言葉しか吐けない気がした。
 彼女の浅はかな行動のせいですべてが壊れたのだと。
 自分の計画が崩れる原因となった彼女の過去を、彼女自身を責める自分の姿が容易に浮かぶ。
 床に散らばったガラスの破片に智晃は、悠花との間もこんなふうに壊れた気がして、そうしたのが自分であることを痛感した。
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