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第二章

第十三話

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 智晃はマンションの部屋に戻るとキッチンに向かいワインセラーの扉をあけた。
 適当にワインを選んでコルクを抜き、やや乱暴にグラスに注ぐ。
 色を透かして見ることも香りを嗅ぐこともせず、キッチンカウンターのそばで立ったまま一気に口に含んでグラスを空にした。
 セラーに保管してあるのはそこそこいいワインのはずだった。
 けれど今の智晃にはその味もよくわからない。
 リビングテーブルにワインとグラスを置いてソファに座って初めて、キッチン以外の照明がついていないことに気づいた。背中をもたらせて宙を見つめる。
 キッチンから届く光が、色をなくしている部屋を浮かび上がらせる。
 天井の一部に貼られたウォールナットの無垢材の裏には、照明が隠されている。これだけを灯してリビングで過ごすのが智晃は好きだった。ダウンライトだと天井に丸い穴が空いているようで嫌だったから、この照明プランニングを頼んだ。スポットライトや間接照明、スタンドライトを組み合わせて、照明計画をたてたから、どの照明を灯すかで部屋の雰囲気はがらりと変わる。
 そんな智晃のこだわりさえ、いまだ悠花は知らない。
 智晃はワインを何度となく注いでは飲み干した。
 友人の経営するワインバーに行こうかとも思ったけれど、こんな精神状態を見られたくなくてマンションに戻ってきた。
 桧垣秋と別れてから、思考と感情が泥臭い色となって渦巻いている。
 憤りだろうか。
 わけのわからないことを突きつけてきた桧垣に対する憤り。
 叔父が彼の味方である憤り。
 辞めることを言わなかった悠花への、いや、何も知らなかった自分への――

「なん、でっ!」

 なぜ悠花はいつも何も話してくれないのだろう。契約更新をしないという話も、今回の話も彼女は自分だけで決めて進めてしまう。確かに仕事を続けるかどうかなど、彼女自身が決めることだ。でもそう考えているのだと相談してくれてもいいのに。
 そう考えて、智晃は「はっ」と渇いた笑い声を漏らした。
 相談?
 彼女が気軽に相談できるほど、安定した関係でもないのに?
 どこまでも移ろいやすく、曖昧で、簡単なことで覆りそうな関係なのに?
 連休明けに急に決まった辞職。その原因が男との噂で、調査書の内容を肯定するような状況になったのであれば……ますます言えるわけがない。
 悠花は嘘をついているわけじゃない。隠しているわけでもない。きっと明日会ったときに、直接智晃の顔を見て、今回の経緯を説明するつもりなのだろう。
 いつも言うタイミングが遅いだけだ。
 悠花の人となりや考え方を思えば、智晃にはきちんと理解できていた。
 けれど頭で理解するのと、感情で納得するのとは別物だ。
 ワインの瓶はすぐに空になった。再び、ワインセラーから今度は別のものを持ってきた。いくら飲んでも酔えないし味もわからない。でも飲まずにはいられなかった。
 智晃はスーツの上着を脱いでネクタイをほどいた。ソファの背にそのままひっかけると、内ポケットにあった携帯が床に落ちる。
 明日はいいお天気の予定だった。暑くも寒くもない過ごしやすい季節。彼女と一緒にどこかへ出かけようと思っていた。ゴールデンウィークは部屋の中に閉じ込めて過ごしたから、次ぐらいは外に出よう。
 部屋に招けば……抱きつぶすだけで終わることが想像できたから、車で迎えに行く予定にしていた。
 ドライブに行って、水族館でも美術館でも大きな公園でもどこでもいい。
 知らないことのほうが多いから、悠花が何に興味を持っているか知りたい。どこへ出かけたいか知りたい。
 そう考えるだけで楽しみだった。
 でもこんな気持ちで、どこかへ出かけて楽しめるとは思えない。
 智晃は悠花にメールをして、明日は直接マンションに来てほしいと頼んで予定を変更した。彼女からはすぐに返事がきて、もし用事ができたのならキャンセルしても大丈夫だとこちらの状況を気遣う内容が届く。
 会いたいとか、会いたくないとか、そんなことを考える余裕もなく「会わないわけにはいかない」そう思った。
 それで彼女が何を聞かせてくれるのか、自分が何を口走るか、想像もできないくせに。
 「大丈夫だから」とメールを返信すれば「わかりました」とだけ返ってくる。
 智晃は携帯を手にして項垂れた。
 彼女が会社を辞めることは決まっていた。ただそれが早まっただけ。
 新しい仕事が見つかるまでここにいればいい。この部屋から再就職活動をすればいい。
 そのうちに機会をうかがって自分の会社に連れて行こう。一般的な企業とは異なる雰囲気の職場に興味をもってくれるだろうか? 智晃が女性を連れて来るなんて晴音以来だから、社内の人間が騒ぐ姿が目に浮かぶ。悠花は人当たりがいいから周囲にはすぐに馴染めるはずだ。英語も話せるし文書の作成もうまい。
 彼女は戸惑っているけれど、あなたが必要だと言えば悠花の心だっていずれ動くかもしれない。
 一緒に暮らして一緒に働く。
 そうして彼女の不安をやわらげて、大丈夫だと安心させて、毎日でも「あなたが好きだ」とささやいていつか結婚できればいい。
 指をからめて手をつないで、ソファで寝転がってテレビを見て、一緒にキッチンに立って料理を教えてもらう。今夜はこのワインを飲もうかと、少しだけうんちくを語れば、彼女は「おいしい」ってほほ笑んでくれるだろう。
 そんな未来を想像していたのに――――全てが砕け散った。
 彼女の過去のせいで。

「……か……はる、かっ……悠花!」

 名前を知ってからずっと、彼女は智晃から離れようとしていた。この関係をあきらめようとしていた。
 傷つけることが苦しめることが怖いと。
 好きになってごめんなさい、とまで言わせた。
 「大丈夫だ」と答えてきたはずなのに、今、智晃はそんなセリフを口にはできない。
 智晃はワインを飲み続けて、酔いが睡魔に変わってソファに倒れこむまでグラスを呷った。



 ***



 土曜日、悠花は智晃のマンションに隣接しているスーパーまでタクシーで向かった。
 副社長からは工藤との写真について「後をつけられて撮られたものではなく、偶然見かけた誰かが撮ったもののようだ」と聞かされてほっとした。
 けれど、智晃との関係だってすでに知られている可能性もある。
 そのため用心を兼ねて、マンションに直接向かうのではなくスーパーを経由することにした。
 スーパー内にはマンション住人専用の出入り口がある。智晃から預かったカードキーで、出入り自由になったので、食材を購入してそこからマンションに入ろうと考えていた。
 当初の予定ではどこかへ出かけるつもりで、智晃が悠花のマンションまで迎えに来る手はずになっていた。しかし昨夜遅くに智晃から、出かけられなくなったからマンションに来てほしいとメールがあったのだ。
 急な仕事でもあるのなら、予定はキャンセルしてもいい旨を伝えたものの、彼からは会いたいから来てほしいと返信がきた。
 会いたいと思う。でも会うのをためらう。
 智晃と会うときに、抱えるいつもの矛盾。
 出会った当初からあるこの矛盾は、悠花の心をどことなく重くするくせに、彼に会えば消えてしまう。その程度のものだ。
 でも今回は少し違う。
 智晃には正直に今回の件を伝えなければならない。
 昨日付けで会社は辞めてしまったこと。そうなった原因について。
 そして、再就職活動を理由にしばらく会えなくなる可能性があることを。
 その裏には、ほとぼりが冷めるまでおとなしく過ごしていたい意図があることを彼は見抜くだろうか。
 さらにその奥底に……そのまま彼との距離を置くことも意識している可能性を。
 悠花は自分でもわからないのだ。
 いや、どうしたほうがいいのかはわかっている。
 智晃の素性を知った時から答えは出ている。
 今はまだ智晃との噂は広がっていないし、会社を辞めたことで噂もこのまま収束するかもしれない。
 けれど本当に智晃にまで被害が及ばないという確証はないのだ。
 もし彼の私生活や仕事まで自分のせいで犠牲になれば、もう今度こそ悠花は自分自身を許せないだろう。
 迷惑をかけるかもしれないとわかっていながら欲望を優先させた。
 その結果大切な人を窮地に落としいれている。
 穂高の時と同じことを繰り返すつもりなのかと過去の自分が叫んでいる。
 傷ついても苦しんでも構わない、智晃はそう言ってくれた。
 傷つけ苦しめるのが悠花なら、癒すのもそうだと言って。
 一歩一歩勇気を出して足をすすめるたびに、歩いてきた道ががらがらと崩れていく恐怖を誰がわかってくれるだろうか。大事な人の足元が破壊していく大元にいるのは悠花なのだ。
 奈落の底に落ちていくことがわかっていて、道を破壊しながら近づいていくなんて破滅的すぎる。
 けれどやっぱり、自分がどうしたいのかはわからない。
 だから悠花は決めていた。
 智晃の望むとおりにしようと。
 彼が悠花と別れたくないというのなら別れない。
 彼が別れたいと言えば別れる。
 恋人同士なら普通にある結末への決断を彼に委ねるだけだと。
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