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第二章
第十二話
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叔父の会社から電話が入っていると聞いたとき、コンサルティングの日程でも変更になっただろうかぐらいにしか思わなかった。わざわざ会社に電話をかけてきたのが桧垣であったことも、プライベートな時間を作ってほしいと言われたことも驚きでしかなかった。
金曜日の夜八時にSコンサルティングの応接室でと、会う日時と場所を決めた。スタッフにはその会社と打合せをする旨を伝え、不自然にならないように帰宅を促した。話す内容が本当に仕事ならばそんな配慮はせずに済む。
だが、桧垣秋という男は『名月悠花さんの件で話がある』と挑戦的に言い放ってきたのだ。
叔父にはきちんと『手出しはしないでほしい』と伝えたはずだった。もちろん納得したかどうかなど判断はつかない。
悠花の口から桧垣の名前が出たことはないが、社内での二人がどんな関わりをしているかなど智晃には知る由もない。
わかるのは、彼もまた悠花に関心を持っているということだけ。
智晃はブラインドをおろすと、一応コーヒーを準備した。一部を残して部屋の電気を落とし、客人を待つ。警備員から来客の知らせを受けて、智晃は扉を開けて待ち構えた。
エレベーターを降りた桧垣と目が合う。
「こんばんは」
「お忙しいところ申し訳ありません」
「どうぞ」
男二人の空気は自然に殺伐とする。桧垣は部屋に入ると立ち止まって社内全体を一瞥した。
桧垣のいるような大会社じゃない。そのうえ、ありきたりなオフィスビルの形態をとっていない。机の並んだオフィスのレイアウトを見慣れている人には、めずらしく思えるだろう。
智晃は桧垣が一通り観察するのを見守って、応接室に案内した。
ここでは「応接室」なんて名称では呼ばないが、第三者にはそう伝えるようにしている。
ミーティングルーム兼応接室兼休憩室と、いろんな要素をこなす多目的ルームだ。
向かい合ったソファの真ん中にテーブルというのはよくある応接室だが、その横には大型液晶テレビ、窓際にはカウンターテーブル、さらに奥には畳敷きのスペースもある。もちろん給湯室も完備だ。
「休憩室やミーティングルームも兼ねているんです」
畳敷きのスペースに目をやった桧垣に智晃は説明した。そうしてソファに座るよう促す。
「おもしろいレイアウトですね。こういう環境で仕事ははかどるんですか?」
「はかどるかはともかく、みんな働いていますよ。慣れればここも仕事の場でしかありません」
「そうですね」
智晃は準備していたコーヒーをカップに注ぐと、テーブルに置いた。
桧垣もビジネスバッグからファイルやら資料やらを取り出して並べていく。
智晃はその一部に目を留めて、不躾にそれを手にした。相手の持ってきたものを勝手に手にするのはマナー違反だろう。だがそんなことを考える余裕はない。
「本日付けで、名月悠花はわが社を辞めました。あなたはご存知でしたか?」
「は?」
突然のセリフの内容がすぐには頭に入ってこない。
契約更新しないことは最初にこの男に聞かされた。ゴールデンウィークには悠花自身にも確かめて聞いている。だがそれはもう少し先のはずだ。満了するまでに次の採用先を見つけたいと話していたばかりだった。
今日付けで、会社を辞めた?
「お聞きしていないんですね」
聞いていない、知らない。
悠花とはメールでやりとりするのがメインだ。電話はあまり好きじゃないと言うし、智晃も声を聞けば会いたくなるからそれでいいと応じていた。それに明日は会う約束をしている。週末に智晃の部屋に来るのは、出張さえなければ当たり前になってきていた。
「それは急に決まったんですか?」
「連休明けに決まりました」
「なぜ?」
「これは名月悠花の調査書です。それからこれが辞める原因になった写真。ここに載っている人物は工藤コーポレーションの御曹司です。彼女は過去も金目当て御曹司目当てで男漁りをしていました。今回もそういう素行が会社にバレて噂になりました。彼女は騒ぎを起こした責任をとって契約満了前に辞表を提出しました。あなたも彼女と関わりがあるようでしたので、被害にあわれるまえにお伝えしようと思って来た次第です」
「ふざけるな!!」
智晃はテーブルの上のそれらを手で払い落した。
桧垣が並びたてる内容が不快すぎて許せない。
「ふざけていません。私とのことも社内で噂になったんですよ。彼女は元々様々な男と噂されるような女だった。調査書にもそれは明らかです」
調査書は読んだ。桧垣の言う通りの内容が書かれてあった。あの時に受けたショックを今でも覚えている。そうしてそれらが事実無根であることもわかっている。
「彼女を、悠花を侮辱するなら帰ってください。調査書の内容は僕も知っています。でも彼女はそんな女性じゃない。たとえあなたや、この男性と噂になったとしてもそれは彼女のせいじゃない」
「彼女に騙されていると思わないんですか?」
「あなたは同じ職場で彼女の何を見てきたんですか? 僕は彼女の人となりをずっと見てきた。もし騙されているならそれでも構わない。騙される男が馬鹿なだけだ」
こんな男の戯言を聞かされるぐらいなら、今すぐにでも悠花に連絡したかった。
こんな状況になったことをどうして話してくれなかったのか、明日会ったときに話すつもりだったのか、それとも隠すつもりだったのか、いろんな想像が頭をまわっていくけれど、それで彼女を疑うようなことはしたくない。
桧垣は智晃が床に払い落とした書類をゆっくりとした動作で拾い上げた。
そうして再びソファに深く腰をおろすと激高している智晃などに構わずに、コーヒーに口をつける。
余裕の仕草に、智晃は舌打ちしたくなるほど腹立たしかった。
「あなたのおっしゃる通りだ。彼女はそんな女性じゃない。だが、そういう噂が流れたことは事実で、彼女はその結果辞めざるを得なくなった。ここに書かれたような過去も一部、一緒にさらされました」
「いずれ契約を終えることは僕も聞いていた。それが早まっただけなら、それで構わない。悠花はうちで雇う」
「それは無理です。あたなはうちのコンサルタントをしている。こんな噂で辞めた彼女があなたのところで働いていると知られれば、彼女は再び御曹司をひっかけた女として扱われるでしょう。それにそんな女性を雇ったあなたの信用も落ちる。そんなリスクは負えない」
智晃は言葉を失う。
辞めるならうちへ来ればいい。一緒に働ければいい。
何事もなく普通に契約を終えていれば可能だったことが、こんなつまらないことで覆る。
悠花がどんな想いをしたのか、どれだけ傷ついたか、そう思うと、いてもたってもいられない。
「あなたに彼女は守れない。手をひいてください」
「どうしてそんなことを言われなくちゃならない!」
「彼女のことはご存じなんでしょう? こんな状況になった自分が……あなたにふさわしくないと思うのは当然だ。だから自ら身をひいた場合は彼女の意志を尊重してほしい」
「あなたに言われることじゃない! 僕は悠花を手放したりしない!」
「あなたは世田の御曹司だ。そしてこの会社の代表。失えないものがたくさんある。オレはただのサラリーマンで、失って困るものは何もない。あなたと別れたら結婚してほしいと彼女にはプロポーズしている」
桧垣はがらりと口調を変えると、再びバッグから一枚の紙を取り出した。
婚姻届けには桧垣の名前、そして保証人の欄には叔父の名前。
彼に「手をひけ」と言われるのは二度目だ。
この男が悠花へどんな感情を抱いているかはうっすらと気づいていた。その背後に叔父がいることも。
だが彼自身の本音がそこまでのものだとは思わずに愕然とする。
「正直に言えば、最初はあんたとのことを応援するつもりだった。彼女はオレのことなどなんとも思っていない。あんたと別れたらオレとの結婚が待っているから、嫌なら別れるな、そういうつもりでプロポーズした。副社長に頼まれたときだって面倒だと思った。オレだって彼女のことをなんとも思っていなかった」
桧垣が過去形で淡々と語る。けれどそこにいるのは彼女を想う一人の男の姿。
社内で対峙したときのような、からかいや蔑みを消し、ただ気持ちを吐露する。
冷静な桧垣の姿を知っているからこそ、今の態度が彼の本気を示していた。
「でも、今は違う。これ以上儚く笑う彼女を見たくない。噂になったのが、貶められたのが自分でよかった、なんてセリフ言わせたくない! あんたには彼女を守れない。オレなら守ってやれる。彼女が結婚に応じたら海外勤務するつもりだ。副社長も便宜をはかってくれる。海外まで行けば、こんなくだらない噂関係なくなる! オレと結婚すれば、こんな噂もただの噂になる!」
「僕も悠花にはプロポーズしている。彼女が応じてくれさえすれば僕はすぐにでも結婚するつもりだ。あなたには渡さない!」
智晃は目の前の婚姻届けを乱暴に破った。叔父の署名がひどく歪んで見える。
なぜ自分の味方をしてくれないのか、なぜこの男の味方をするのか。
この男には悠花が守れて、自分では守れない?
破いた紙片の一部が桜の花びらのように舞い散った。
あの日の彼女が鮮やかに蘇る。
過去を……つらいはずの過去を淡々と語って、笑みさえ浮かべそうだった横顔が。
「……あんたのプロポーズに彼女が応じるならそれでいい。だが、応じなかった場合、オレは無理やりでも彼女と結婚する。どうせ彼女はあんたと別れたら一人でいようとするはずだ。オレは神城穂高のように見守るだけの愛なんてごめんだ」
桧垣は破れた婚姻届けの残りを丁寧に折りたたんで、そして他の資料もしまいはじめた。
「副社長から伝言がある。『おまえには中途半端な力しかない。中途半端な力を持っているから名月くんにはリスクになる。中途半端な力しかないから彼女を守ることはできない。彼女を守りたいなら力を手に入れろ』。これがどういう意味かあんたならわかるだろう?」
桧垣の目が、どこか智晃に対して同情している色を宿す。
中途半端な力。
自分でコンサルティング会社を経営している、しがない個人事業主。
父方である世田とも、母方とも一切関わりを持たず自分の力で道を切り開いてきた。
この会社は智晃が作り上げた小さな王国だ。
御曹司という肩書など名前だけのものだと……自分自身を見てほしいと願って作った世界。
たとえどんなに周囲から、会社の一部を引き継げと言われても突っぱねてきて守ってきた場所。
「あんたは世田を引き継ぐ気はないんだろう? だがこのままだと、彼女を守るためには世田の力が必要になる。あんたは自分の生き方を捨ててまで彼女を選べるのか? この、自分のつくりあげた会社を彼女のために捨てることができるのか? 会社を捨てて、世田に戻ることができるのか?」
悠花を守るために、世田の力が必要?
会社を捨てて、世田に戻る?
智晃はだんっとテーブルに拳を打ち付けた。
濁流が一気に押し寄せて襲い掛かる。ぐるぐるして見えなかったものが一本の線に繋がっていく。
叔父がどうして悠花のことに気づきながら何も告げなかったのか。
関係を知っていながらお見合いを画策してきたのか。
味方にはならず……むしろ桧垣を悠花にあてがおうとしているのか。
叔父の思惑の背後には世田が隠れているというのか?
「なにより、彼女が……そんなことを望むと思うのか」
そんな言葉を残して、いつのまにか桧垣が退出していた。
智晃はぼんやり宙を仰ぐ。
彼が本当にここに来たのか、何を語ったのか、覚えていたくもないのに、空のコーヒーカップがそこにはある。
ふとワイングラスを思い出した。
三住から悠花の調査書を受け取ったあの夜も同じ絶望を味わった。
飲み干したワインの味は覚えていなくて、舌に残った雑味だけがひりついた。
三住には悠花との付き合いはリスクだと言われた。
桧垣には悠花を守れないと言われ、叔父は傍観しているだけ。
自分が作り上げた王国、自分の手にできるだけの力、守るための手はひとつしかない。
だから悠花までは守れないというのか?
彼女はそれをわかっているから、智晃の言葉を笑って濁す。
明確な答えを避けるのは、こんな未来を確信していたから?
好きなだけではだめだということを、過去の恋愛で智晃も悠花も知っている。
「悠花……」
呟いた名前は幻のように霧散する。
『終わり』がくることは決まっていた。
出会った夜から、こうなることは決まっていた。
遅いか早いかの違いだけで――
金曜日の夜八時にSコンサルティングの応接室でと、会う日時と場所を決めた。スタッフにはその会社と打合せをする旨を伝え、不自然にならないように帰宅を促した。話す内容が本当に仕事ならばそんな配慮はせずに済む。
だが、桧垣秋という男は『名月悠花さんの件で話がある』と挑戦的に言い放ってきたのだ。
叔父にはきちんと『手出しはしないでほしい』と伝えたはずだった。もちろん納得したかどうかなど判断はつかない。
悠花の口から桧垣の名前が出たことはないが、社内での二人がどんな関わりをしているかなど智晃には知る由もない。
わかるのは、彼もまた悠花に関心を持っているということだけ。
智晃はブラインドをおろすと、一応コーヒーを準備した。一部を残して部屋の電気を落とし、客人を待つ。警備員から来客の知らせを受けて、智晃は扉を開けて待ち構えた。
エレベーターを降りた桧垣と目が合う。
「こんばんは」
「お忙しいところ申し訳ありません」
「どうぞ」
男二人の空気は自然に殺伐とする。桧垣は部屋に入ると立ち止まって社内全体を一瞥した。
桧垣のいるような大会社じゃない。そのうえ、ありきたりなオフィスビルの形態をとっていない。机の並んだオフィスのレイアウトを見慣れている人には、めずらしく思えるだろう。
智晃は桧垣が一通り観察するのを見守って、応接室に案内した。
ここでは「応接室」なんて名称では呼ばないが、第三者にはそう伝えるようにしている。
ミーティングルーム兼応接室兼休憩室と、いろんな要素をこなす多目的ルームだ。
向かい合ったソファの真ん中にテーブルというのはよくある応接室だが、その横には大型液晶テレビ、窓際にはカウンターテーブル、さらに奥には畳敷きのスペースもある。もちろん給湯室も完備だ。
「休憩室やミーティングルームも兼ねているんです」
畳敷きのスペースに目をやった桧垣に智晃は説明した。そうしてソファに座るよう促す。
「おもしろいレイアウトですね。こういう環境で仕事ははかどるんですか?」
「はかどるかはともかく、みんな働いていますよ。慣れればここも仕事の場でしかありません」
「そうですね」
智晃は準備していたコーヒーをカップに注ぐと、テーブルに置いた。
桧垣もビジネスバッグからファイルやら資料やらを取り出して並べていく。
智晃はその一部に目を留めて、不躾にそれを手にした。相手の持ってきたものを勝手に手にするのはマナー違反だろう。だがそんなことを考える余裕はない。
「本日付けで、名月悠花はわが社を辞めました。あなたはご存知でしたか?」
「は?」
突然のセリフの内容がすぐには頭に入ってこない。
契約更新しないことは最初にこの男に聞かされた。ゴールデンウィークには悠花自身にも確かめて聞いている。だがそれはもう少し先のはずだ。満了するまでに次の採用先を見つけたいと話していたばかりだった。
今日付けで、会社を辞めた?
「お聞きしていないんですね」
聞いていない、知らない。
悠花とはメールでやりとりするのがメインだ。電話はあまり好きじゃないと言うし、智晃も声を聞けば会いたくなるからそれでいいと応じていた。それに明日は会う約束をしている。週末に智晃の部屋に来るのは、出張さえなければ当たり前になってきていた。
「それは急に決まったんですか?」
「連休明けに決まりました」
「なぜ?」
「これは名月悠花の調査書です。それからこれが辞める原因になった写真。ここに載っている人物は工藤コーポレーションの御曹司です。彼女は過去も金目当て御曹司目当てで男漁りをしていました。今回もそういう素行が会社にバレて噂になりました。彼女は騒ぎを起こした責任をとって契約満了前に辞表を提出しました。あなたも彼女と関わりがあるようでしたので、被害にあわれるまえにお伝えしようと思って来た次第です」
「ふざけるな!!」
智晃はテーブルの上のそれらを手で払い落した。
桧垣が並びたてる内容が不快すぎて許せない。
「ふざけていません。私とのことも社内で噂になったんですよ。彼女は元々様々な男と噂されるような女だった。調査書にもそれは明らかです」
調査書は読んだ。桧垣の言う通りの内容が書かれてあった。あの時に受けたショックを今でも覚えている。そうしてそれらが事実無根であることもわかっている。
「彼女を、悠花を侮辱するなら帰ってください。調査書の内容は僕も知っています。でも彼女はそんな女性じゃない。たとえあなたや、この男性と噂になったとしてもそれは彼女のせいじゃない」
「彼女に騙されていると思わないんですか?」
「あなたは同じ職場で彼女の何を見てきたんですか? 僕は彼女の人となりをずっと見てきた。もし騙されているならそれでも構わない。騙される男が馬鹿なだけだ」
こんな男の戯言を聞かされるぐらいなら、今すぐにでも悠花に連絡したかった。
こんな状況になったことをどうして話してくれなかったのか、明日会ったときに話すつもりだったのか、それとも隠すつもりだったのか、いろんな想像が頭をまわっていくけれど、それで彼女を疑うようなことはしたくない。
桧垣は智晃が床に払い落とした書類をゆっくりとした動作で拾い上げた。
そうして再びソファに深く腰をおろすと激高している智晃などに構わずに、コーヒーに口をつける。
余裕の仕草に、智晃は舌打ちしたくなるほど腹立たしかった。
「あなたのおっしゃる通りだ。彼女はそんな女性じゃない。だが、そういう噂が流れたことは事実で、彼女はその結果辞めざるを得なくなった。ここに書かれたような過去も一部、一緒にさらされました」
「いずれ契約を終えることは僕も聞いていた。それが早まっただけなら、それで構わない。悠花はうちで雇う」
「それは無理です。あたなはうちのコンサルタントをしている。こんな噂で辞めた彼女があなたのところで働いていると知られれば、彼女は再び御曹司をひっかけた女として扱われるでしょう。それにそんな女性を雇ったあなたの信用も落ちる。そんなリスクは負えない」
智晃は言葉を失う。
辞めるならうちへ来ればいい。一緒に働ければいい。
何事もなく普通に契約を終えていれば可能だったことが、こんなつまらないことで覆る。
悠花がどんな想いをしたのか、どれだけ傷ついたか、そう思うと、いてもたってもいられない。
「あなたに彼女は守れない。手をひいてください」
「どうしてそんなことを言われなくちゃならない!」
「彼女のことはご存じなんでしょう? こんな状況になった自分が……あなたにふさわしくないと思うのは当然だ。だから自ら身をひいた場合は彼女の意志を尊重してほしい」
「あなたに言われることじゃない! 僕は悠花を手放したりしない!」
「あなたは世田の御曹司だ。そしてこの会社の代表。失えないものがたくさんある。オレはただのサラリーマンで、失って困るものは何もない。あなたと別れたら結婚してほしいと彼女にはプロポーズしている」
桧垣はがらりと口調を変えると、再びバッグから一枚の紙を取り出した。
婚姻届けには桧垣の名前、そして保証人の欄には叔父の名前。
彼に「手をひけ」と言われるのは二度目だ。
この男が悠花へどんな感情を抱いているかはうっすらと気づいていた。その背後に叔父がいることも。
だが彼自身の本音がそこまでのものだとは思わずに愕然とする。
「正直に言えば、最初はあんたとのことを応援するつもりだった。彼女はオレのことなどなんとも思っていない。あんたと別れたらオレとの結婚が待っているから、嫌なら別れるな、そういうつもりでプロポーズした。副社長に頼まれたときだって面倒だと思った。オレだって彼女のことをなんとも思っていなかった」
桧垣が過去形で淡々と語る。けれどそこにいるのは彼女を想う一人の男の姿。
社内で対峙したときのような、からかいや蔑みを消し、ただ気持ちを吐露する。
冷静な桧垣の姿を知っているからこそ、今の態度が彼の本気を示していた。
「でも、今は違う。これ以上儚く笑う彼女を見たくない。噂になったのが、貶められたのが自分でよかった、なんてセリフ言わせたくない! あんたには彼女を守れない。オレなら守ってやれる。彼女が結婚に応じたら海外勤務するつもりだ。副社長も便宜をはかってくれる。海外まで行けば、こんなくだらない噂関係なくなる! オレと結婚すれば、こんな噂もただの噂になる!」
「僕も悠花にはプロポーズしている。彼女が応じてくれさえすれば僕はすぐにでも結婚するつもりだ。あなたには渡さない!」
智晃は目の前の婚姻届けを乱暴に破った。叔父の署名がひどく歪んで見える。
なぜ自分の味方をしてくれないのか、なぜこの男の味方をするのか。
この男には悠花が守れて、自分では守れない?
破いた紙片の一部が桜の花びらのように舞い散った。
あの日の彼女が鮮やかに蘇る。
過去を……つらいはずの過去を淡々と語って、笑みさえ浮かべそうだった横顔が。
「……あんたのプロポーズに彼女が応じるならそれでいい。だが、応じなかった場合、オレは無理やりでも彼女と結婚する。どうせ彼女はあんたと別れたら一人でいようとするはずだ。オレは神城穂高のように見守るだけの愛なんてごめんだ」
桧垣は破れた婚姻届けの残りを丁寧に折りたたんで、そして他の資料もしまいはじめた。
「副社長から伝言がある。『おまえには中途半端な力しかない。中途半端な力を持っているから名月くんにはリスクになる。中途半端な力しかないから彼女を守ることはできない。彼女を守りたいなら力を手に入れろ』。これがどういう意味かあんたならわかるだろう?」
桧垣の目が、どこか智晃に対して同情している色を宿す。
中途半端な力。
自分でコンサルティング会社を経営している、しがない個人事業主。
父方である世田とも、母方とも一切関わりを持たず自分の力で道を切り開いてきた。
この会社は智晃が作り上げた小さな王国だ。
御曹司という肩書など名前だけのものだと……自分自身を見てほしいと願って作った世界。
たとえどんなに周囲から、会社の一部を引き継げと言われても突っぱねてきて守ってきた場所。
「あんたは世田を引き継ぐ気はないんだろう? だがこのままだと、彼女を守るためには世田の力が必要になる。あんたは自分の生き方を捨ててまで彼女を選べるのか? この、自分のつくりあげた会社を彼女のために捨てることができるのか? 会社を捨てて、世田に戻ることができるのか?」
悠花を守るために、世田の力が必要?
会社を捨てて、世田に戻る?
智晃はだんっとテーブルに拳を打ち付けた。
濁流が一気に押し寄せて襲い掛かる。ぐるぐるして見えなかったものが一本の線に繋がっていく。
叔父がどうして悠花のことに気づきながら何も告げなかったのか。
関係を知っていながらお見合いを画策してきたのか。
味方にはならず……むしろ桧垣を悠花にあてがおうとしているのか。
叔父の思惑の背後には世田が隠れているというのか?
「なにより、彼女が……そんなことを望むと思うのか」
そんな言葉を残して、いつのまにか桧垣が退出していた。
智晃はぼんやり宙を仰ぐ。
彼が本当にここに来たのか、何を語ったのか、覚えていたくもないのに、空のコーヒーカップがそこにはある。
ふとワイングラスを思い出した。
三住から悠花の調査書を受け取ったあの夜も同じ絶望を味わった。
飲み干したワインの味は覚えていなくて、舌に残った雑味だけがひりついた。
三住には悠花との付き合いはリスクだと言われた。
桧垣には悠花を守れないと言われ、叔父は傍観しているだけ。
自分が作り上げた王国、自分の手にできるだけの力、守るための手はひとつしかない。
だから悠花までは守れないというのか?
彼女はそれをわかっているから、智晃の言葉を笑って濁す。
明確な答えを避けるのは、こんな未来を確信していたから?
好きなだけではだめだということを、過去の恋愛で智晃も悠花も知っている。
「悠花……」
呟いた名前は幻のように霧散する。
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