22 / 57
第一章
第二十二話
しおりを挟む
彼に会うと、それまでの戸惑いなど嘘のように、悠花の気持ちは全力で向いてしまう。
欲に忠実に、会いたい、そばにいたいが溢れてとまらなくてコントロールがきかない。
会うたびにそうなる自分を今は自覚しつつあって、一度嵌ったら抜けられない泥沼にどんどん足を踏み入れている。
彼に手を差し出されれば、素直につないでしまう。
顔を傾けられればキスを受け止めるし、服をはがれれば足を開いてしまうだろう。
待ち合わせをして迎えに来た智晃の車に乗って、もともと行く予定だった場所に悠花たちは来ていた。
桜並木の下を二人でゆっくりと歩いている。悠花が持っていた荷物を智晃が持って、空いた片手はゆるやかに繋がっていた。
お昼を幾分過ぎた時間にも関わらず人はいまだ溢れていて、桜を見ながら飲食と語らいを楽しむいつもながらの光景が目に入る。これから夜桜を楽しむための準備をしているのか、大きなシートを敷いている人たちもいた。
電話を通した声を初めて聴いた。印象よりもやや低い声は、機械を通すと艶が増す気がする。悠花を抱くときに、欲望を秘めてつぶやく声に近くて胸がどきどきした。
海に向かったときは、もしかしたら手首のブレスレットをはずせるかもしれないと思っていたのに、桧垣に会ったせいでますます迷路の奥へ進んでしまった。桧垣が出口を教えてくれたのか、迷い道を教えてくれたのか今は判断がつかない。
でも、彼の言葉がなければ、悠花は電話の智晃の声を知らずに終わらせたかもしれない。
可能性を予想しても、すべて覆されるけれど。
悠花はちらりと彼の横顔を盗み見た。表情は穏やかで、醸し出される空気は優しい。だからか特に会話はなくても、心地よい気分だった。
副社長に話を聞いていなければ、彼が悠花の過去を知ったとは思えないほどいつもと変わらない。
言わなくても聞かなくても通じ合っているような空気が自分たちの間には常に流れていた。だから余計な情報を必要としなかった。本当は互いに言いづらいことを抱えていたくせに。
桜の花びらははらはらと落ちてくる。いまだ綺麗な花弁なのにどうして留まっていないのか不思議なほど。ちょうど桜の木の下のベンチから人が去っていくのが見えて、自然にそのあとに二人で座った。
「これ……もしかしてお弁当だった?」
荷物を指して智晃が聞いてきた。
「はい」
「今からつまんでも大丈夫かな?」
昼食には遅すぎて、夕食には早すぎる。悠花は食欲をなくしていて昼食は抜いたままだったから、彼に会って安心したせいでお腹が空いていることを思い出した。
「食べられる分だけでかまいませんから」
「お昼はほとんど食べていないから、お腹は空いている。あなたは……?」
「私もあまり食べてなくて、空いているの思い出しました」
「作ってきてくれてありがとう……。僕のせいで予定通りにはいかなかくて本当にごめんね」
「大丈夫です。結局こうして食べていただけるなら」
トートバッグからお弁当箱をとりだすと、互いの間をあけてベンチに広げた。付属していたお皿と割り箸を渡す。悠花がとってあげてもよかったけれど、彼が何を好むのかわからなかったし、馴れ馴れしい気もした。智晃は感嘆の声をあげると「どれもおいしそうだ」と言いながら箸をつけてくれる。
無駄にならなくてよかった、とちょっと思う。食べてもらえないつもりで作った部分もあったのに、喜んでくれる顔を見ると嬉しくなる。
「優しい味付けだね……すごく好きな味だよ」
やわらかな声と優しい笑顔でそう言われて、悠花は恥ずかしくなってうつむいた。
彼はこういうことをきちんと言葉にして言ってくれる。見てくれている、認めてくれているというのがすごく伝わってくるから、疑心暗鬼にならずにすむ。よく知らなくても信頼できる、そう思わせるところに悠花は安心して惹かれてきた。
たとえ隠していることがたくさんあっても。
彼は結局たくさん食べてくれて、悠花もつられて口にして、お弁当箱は空になった。少しぬるくなった水筒のお茶を紙コップにいれて渡すと、二人でほほ笑みながら飲む。
「知り合いがね……今日、入院したんだ」
「……急用って、もしかして」
「そう。倒れたって連絡があって……病院に行った。あ、でも大丈夫だったよ。だからこうして来られたんだし。それでもごめん。言い訳も謝罪もまともにしないままキャンセルして。僕もらしくなく動揺していたから」
「いえ、そんな、お知り合いの方が突然入院されたなら、仕方がないことです。お気になさらないでください」
本当に急用だったのだと、泣きたい気分でほっとする。他人の不幸に安堵するようで心苦しさも感じるけれど、こんな風に話されると、本当に彼は悠花のことを知らないでいるのかと思ってしまう。
「入院したのは、僕がずっと大事に思っていた女性だ」
その言葉で悠花はすっと体温が下がった気がした。
智晃は遠くの桜の木々をながめるように、ぼんやりとした横顔を見せる。落ちた花びらが一瞬だけ彼の髪にのって、そして滑り落ちていった。
「彼女は体が弱くて……特に病名があるわけじゃなく、本当に弱いんだ。熱をだしやすかったり、体調を崩すとすぐに入院するほど悪化したり、血圧の変動で倒れたり……自律神経の問題だから直接的な治療法がない分、うまくつきあっていくしか方法がない。だから悪化しすぎると免疫力が落ちて命に係わることもあって……何度か実際危険だったときもあった」
悠花は両手を組み合わせてさりげなく左手首のブレスレットを握りしめた。忘れられないほどの大事な女性の話を……彼は隠さず話してくれる。そのことをどうかみ砕けばいいか悠花はわからない。
「だから……彼女が倒れたという連絡がきたときは常にその覚悟をしている。そして僕は彼女に何かあれば、他の何を捨てても駆けつける。これからもきっと僕は優先していくと思う。あなたとの約束を破っても、彼女を優先する」
「……は、い……」
彼の言葉は当然のような気もしたし、そうでない気もした。命に係わる可能性が高いのであれば、彼女の元にかけつけるのは人として当然だと思う。それでなくとも、その女性は彼が愛した人だ。悠花との約束より優先するのはあたりまえだった。
でも恋人より優先すると言われれば、わからない。恋人よりも大事な女性……その存在を彼は最初から示唆していたけれど、胸が痛むのは悠花の勝手なのだろうか。
「でも、もし彼女とあなたが同時にそんな状況になったら……」
無意識にぎゅっと握っていた手の上に彼の手が重なった。桜を見ていると思っていた彼の視線は悠花をじっと見つめている。メガネの上の困った眉の形。じっと見つめていたらその目にうつっていたのは泣きそうな悠花の顔だったのかもしれない。
「僕は、あなたの元に駆けつける」
「……わた、し?」
「どうしても彼女の方が体は弱いし、これからも入院してしまうことは多いと思う。僕はやっぱりそのたびに駆けつける。あなたに甘えているかもしれないけど……それだけは許してほしいんだ。でも僕の最優先はあなただから」
きゅっと悠花をつつむ手に力がはいる。視線をわずかにふせて、彼は開きかけた唇を閉じてはまた開いた。
「あなたのことを……僕は調べた。あなたが話してくれるのを待てばよかったのに、話をさせるのもつらそうな気がして……いや違うな、僕がどうしても知りたかったんだ。知れば嫌うなんて、あなたが言うから、知っても嫌わないと証明したかったのもあるけど、卑怯なことをした自覚はある」
ごめん……そう言葉が続く。今日は彼の謝罪の言葉ばかりを聞いている。
悠花は首を左右にふった。彼が調べたことは副社長から聞かされていたから知っていた。でも彼が正直に話した上に謝罪してくれるとは思わなくて、言葉が見つからない。
知ったなら、どうして会いにきてくれたのか?
どうしていつもと変わらない表情で見つめてくれるのか、暖かく優しい手でつつんでくれるのか。
「正直……驚いたし、戸惑った。僕の知っているあなたとあまりにも違いすぎて……」
「違わないかもしれません!そんな素振りを見せずに近づいて……それがあなたを騙す手段かもしれない」
この期に及んで悠花は自分を貶める言葉を口にした。
信じてほしい、信じてほしくない。
嫌ってほしい、嫌ってほしくない。
我儘な感情を抱いて自分が傷つかないように防御する。
「……一瞬、そう考えたよ。でもすぐに消えた。あなたが僕を騙すつもりがあるなら、「もう、会わない」なんて言う必要がないし、むしろ積極的に関わってくるはずだ。割り勘にこだわる必要もないし、もっと僕にたかっただろう。こんな泣きそうなのもわざとなら……僕は騙されてもいいよ」
彼の手が涙までは出ていないはずの目元をすっと拭う仕草をして、髪をなでる。
周囲には人が溢れていて桜を見ながら楽しんでいる。そんな雰囲気を壊しそうな自分たちでさえもかすむほど桜の花は人の目をひきつけている。それでもこんな場所で泣くのは卑怯な気がして、瞬きを繰り返した。
彼は噂に惑わされずに悠花を信じようとしてくれている。
名前も教えなかった、セックスだけの相手なのに。
悠花のことなどなにひとつ知らないのに。
「いろいろ迷ったし悩んだし考えた。でも未来がどれほど危うく儚いもので……命がいつ途絶えるかわからないということを、僕は知っている。あなたが嘘をついていても、僕を騙そうとしていても、過去にどんなことがあったとしても……僕はあなたに「会いたい」。
明日の約束を、次の約束をたくさん交わしていきたい。
命には限りがあるからこそ、僕は現在の欲望を最優先する。悠花と一緒にいたいんだ。僕のそばにいてほしい……」
どんなものにも「終わり」はある。
そう言った桧垣の言葉と重なるものがあって、悠花は自然に頷いてしまう。
未来への不安より「現在」の気持ちを優先する。
彼がそうするのなら……自分もそうするだけだ。
ふわりと強めの風がふいて、薄桃色の花弁が一斉に舞う。感嘆の声が漏れ出た瞬間、悠花の唇を小さくかすったものがあった。
***
「今夜は僕の部屋に泊まってほしい」
そう言われて悠花は、最初に花見に行こうと伝えたときの彼の言葉を思い出した。同時にあの瞬間に抱いた甘い気持ちが胸にあふれる。
会う前はいつも悩んでいるくせに、彼に会ってしまうと悠花の意志は簡単に覆ってしまう。そしてそれが嫌じゃない。
悠花の明確な返事など待たずに、彼は手をひいて車に乗せた。もう二人とも花を見るよりも大事なものを見つけたかのように先を急ぐ。
「会いたい」を叶えれば、「もっと一緒にいたい」になって、そのうち「もっと長く」と欲は膨らんでいく。
温もりをその身に感じた途端、急いで蕾を膨らませて花弁を開く桜のように。
見知った道に戻ってきたとき、悠花は覚悟を決めて彼にお願いした。
「荷物を……置いて、泊まる準備をさせてください。家に、寄っていただけますか?」
先週は彼の家に泊まらず、送られることも断って帰ってきた。彼は悠花の住んでいる場所を知らない。
「そのまま……帰ったりしない?」
「はい」
「僕に知られて構わない?」
「はい」
「道を教えてくれる?」
「はい」
悠花は続けて家までの道順を教えた。来客用の駐車場は事前申請していない今日は使えないので、少し離れた場所で待ってもらう。悠花の住んでいる場所を見て、彼がかすかに目を見張ったのに気が付いた。察しのいい彼のことだ。このマンションを見ればおおよその見当をつけるだろうとは思っていた。
「急いで準備してきますね」
「……待っている」
悠花は不思議な気持ちで、いつものエレベーターに乗り込む。朝、部屋をでるときは、今日は会えないかもしれない可能性も考えていたし、調査結果を知っている彼から嫌われることも覚悟していた。
自分がしていることが、正しいかどうかの自信など微塵もない。
ここで関係を断ち切ったほうがよかったと後悔する未来は簡単に想像できる。
「終わり」がくるまであがいて……不安に耐えられるのかどうかも、彼を苦しめないですむかどうかもわからない。
でも一緒にいたいと言ってくれる限り、自分も望む限りそばにいることしか今はできない。
不確かな未来よりも、今の気持ちを優先すると言った彼の言葉通り。
悠花は部屋に戻ると、荷物の片づけと準備をはじめた。
欲に忠実に、会いたい、そばにいたいが溢れてとまらなくてコントロールがきかない。
会うたびにそうなる自分を今は自覚しつつあって、一度嵌ったら抜けられない泥沼にどんどん足を踏み入れている。
彼に手を差し出されれば、素直につないでしまう。
顔を傾けられればキスを受け止めるし、服をはがれれば足を開いてしまうだろう。
待ち合わせをして迎えに来た智晃の車に乗って、もともと行く予定だった場所に悠花たちは来ていた。
桜並木の下を二人でゆっくりと歩いている。悠花が持っていた荷物を智晃が持って、空いた片手はゆるやかに繋がっていた。
お昼を幾分過ぎた時間にも関わらず人はいまだ溢れていて、桜を見ながら飲食と語らいを楽しむいつもながらの光景が目に入る。これから夜桜を楽しむための準備をしているのか、大きなシートを敷いている人たちもいた。
電話を通した声を初めて聴いた。印象よりもやや低い声は、機械を通すと艶が増す気がする。悠花を抱くときに、欲望を秘めてつぶやく声に近くて胸がどきどきした。
海に向かったときは、もしかしたら手首のブレスレットをはずせるかもしれないと思っていたのに、桧垣に会ったせいでますます迷路の奥へ進んでしまった。桧垣が出口を教えてくれたのか、迷い道を教えてくれたのか今は判断がつかない。
でも、彼の言葉がなければ、悠花は電話の智晃の声を知らずに終わらせたかもしれない。
可能性を予想しても、すべて覆されるけれど。
悠花はちらりと彼の横顔を盗み見た。表情は穏やかで、醸し出される空気は優しい。だからか特に会話はなくても、心地よい気分だった。
副社長に話を聞いていなければ、彼が悠花の過去を知ったとは思えないほどいつもと変わらない。
言わなくても聞かなくても通じ合っているような空気が自分たちの間には常に流れていた。だから余計な情報を必要としなかった。本当は互いに言いづらいことを抱えていたくせに。
桜の花びらははらはらと落ちてくる。いまだ綺麗な花弁なのにどうして留まっていないのか不思議なほど。ちょうど桜の木の下のベンチから人が去っていくのが見えて、自然にそのあとに二人で座った。
「これ……もしかしてお弁当だった?」
荷物を指して智晃が聞いてきた。
「はい」
「今からつまんでも大丈夫かな?」
昼食には遅すぎて、夕食には早すぎる。悠花は食欲をなくしていて昼食は抜いたままだったから、彼に会って安心したせいでお腹が空いていることを思い出した。
「食べられる分だけでかまいませんから」
「お昼はほとんど食べていないから、お腹は空いている。あなたは……?」
「私もあまり食べてなくて、空いているの思い出しました」
「作ってきてくれてありがとう……。僕のせいで予定通りにはいかなかくて本当にごめんね」
「大丈夫です。結局こうして食べていただけるなら」
トートバッグからお弁当箱をとりだすと、互いの間をあけてベンチに広げた。付属していたお皿と割り箸を渡す。悠花がとってあげてもよかったけれど、彼が何を好むのかわからなかったし、馴れ馴れしい気もした。智晃は感嘆の声をあげると「どれもおいしそうだ」と言いながら箸をつけてくれる。
無駄にならなくてよかった、とちょっと思う。食べてもらえないつもりで作った部分もあったのに、喜んでくれる顔を見ると嬉しくなる。
「優しい味付けだね……すごく好きな味だよ」
やわらかな声と優しい笑顔でそう言われて、悠花は恥ずかしくなってうつむいた。
彼はこういうことをきちんと言葉にして言ってくれる。見てくれている、認めてくれているというのがすごく伝わってくるから、疑心暗鬼にならずにすむ。よく知らなくても信頼できる、そう思わせるところに悠花は安心して惹かれてきた。
たとえ隠していることがたくさんあっても。
彼は結局たくさん食べてくれて、悠花もつられて口にして、お弁当箱は空になった。少しぬるくなった水筒のお茶を紙コップにいれて渡すと、二人でほほ笑みながら飲む。
「知り合いがね……今日、入院したんだ」
「……急用って、もしかして」
「そう。倒れたって連絡があって……病院に行った。あ、でも大丈夫だったよ。だからこうして来られたんだし。それでもごめん。言い訳も謝罪もまともにしないままキャンセルして。僕もらしくなく動揺していたから」
「いえ、そんな、お知り合いの方が突然入院されたなら、仕方がないことです。お気になさらないでください」
本当に急用だったのだと、泣きたい気分でほっとする。他人の不幸に安堵するようで心苦しさも感じるけれど、こんな風に話されると、本当に彼は悠花のことを知らないでいるのかと思ってしまう。
「入院したのは、僕がずっと大事に思っていた女性だ」
その言葉で悠花はすっと体温が下がった気がした。
智晃は遠くの桜の木々をながめるように、ぼんやりとした横顔を見せる。落ちた花びらが一瞬だけ彼の髪にのって、そして滑り落ちていった。
「彼女は体が弱くて……特に病名があるわけじゃなく、本当に弱いんだ。熱をだしやすかったり、体調を崩すとすぐに入院するほど悪化したり、血圧の変動で倒れたり……自律神経の問題だから直接的な治療法がない分、うまくつきあっていくしか方法がない。だから悪化しすぎると免疫力が落ちて命に係わることもあって……何度か実際危険だったときもあった」
悠花は両手を組み合わせてさりげなく左手首のブレスレットを握りしめた。忘れられないほどの大事な女性の話を……彼は隠さず話してくれる。そのことをどうかみ砕けばいいか悠花はわからない。
「だから……彼女が倒れたという連絡がきたときは常にその覚悟をしている。そして僕は彼女に何かあれば、他の何を捨てても駆けつける。これからもきっと僕は優先していくと思う。あなたとの約束を破っても、彼女を優先する」
「……は、い……」
彼の言葉は当然のような気もしたし、そうでない気もした。命に係わる可能性が高いのであれば、彼女の元にかけつけるのは人として当然だと思う。それでなくとも、その女性は彼が愛した人だ。悠花との約束より優先するのはあたりまえだった。
でも恋人より優先すると言われれば、わからない。恋人よりも大事な女性……その存在を彼は最初から示唆していたけれど、胸が痛むのは悠花の勝手なのだろうか。
「でも、もし彼女とあなたが同時にそんな状況になったら……」
無意識にぎゅっと握っていた手の上に彼の手が重なった。桜を見ていると思っていた彼の視線は悠花をじっと見つめている。メガネの上の困った眉の形。じっと見つめていたらその目にうつっていたのは泣きそうな悠花の顔だったのかもしれない。
「僕は、あなたの元に駆けつける」
「……わた、し?」
「どうしても彼女の方が体は弱いし、これからも入院してしまうことは多いと思う。僕はやっぱりそのたびに駆けつける。あなたに甘えているかもしれないけど……それだけは許してほしいんだ。でも僕の最優先はあなただから」
きゅっと悠花をつつむ手に力がはいる。視線をわずかにふせて、彼は開きかけた唇を閉じてはまた開いた。
「あなたのことを……僕は調べた。あなたが話してくれるのを待てばよかったのに、話をさせるのもつらそうな気がして……いや違うな、僕がどうしても知りたかったんだ。知れば嫌うなんて、あなたが言うから、知っても嫌わないと証明したかったのもあるけど、卑怯なことをした自覚はある」
ごめん……そう言葉が続く。今日は彼の謝罪の言葉ばかりを聞いている。
悠花は首を左右にふった。彼が調べたことは副社長から聞かされていたから知っていた。でも彼が正直に話した上に謝罪してくれるとは思わなくて、言葉が見つからない。
知ったなら、どうして会いにきてくれたのか?
どうしていつもと変わらない表情で見つめてくれるのか、暖かく優しい手でつつんでくれるのか。
「正直……驚いたし、戸惑った。僕の知っているあなたとあまりにも違いすぎて……」
「違わないかもしれません!そんな素振りを見せずに近づいて……それがあなたを騙す手段かもしれない」
この期に及んで悠花は自分を貶める言葉を口にした。
信じてほしい、信じてほしくない。
嫌ってほしい、嫌ってほしくない。
我儘な感情を抱いて自分が傷つかないように防御する。
「……一瞬、そう考えたよ。でもすぐに消えた。あなたが僕を騙すつもりがあるなら、「もう、会わない」なんて言う必要がないし、むしろ積極的に関わってくるはずだ。割り勘にこだわる必要もないし、もっと僕にたかっただろう。こんな泣きそうなのもわざとなら……僕は騙されてもいいよ」
彼の手が涙までは出ていないはずの目元をすっと拭う仕草をして、髪をなでる。
周囲には人が溢れていて桜を見ながら楽しんでいる。そんな雰囲気を壊しそうな自分たちでさえもかすむほど桜の花は人の目をひきつけている。それでもこんな場所で泣くのは卑怯な気がして、瞬きを繰り返した。
彼は噂に惑わされずに悠花を信じようとしてくれている。
名前も教えなかった、セックスだけの相手なのに。
悠花のことなどなにひとつ知らないのに。
「いろいろ迷ったし悩んだし考えた。でも未来がどれほど危うく儚いもので……命がいつ途絶えるかわからないということを、僕は知っている。あなたが嘘をついていても、僕を騙そうとしていても、過去にどんなことがあったとしても……僕はあなたに「会いたい」。
明日の約束を、次の約束をたくさん交わしていきたい。
命には限りがあるからこそ、僕は現在の欲望を最優先する。悠花と一緒にいたいんだ。僕のそばにいてほしい……」
どんなものにも「終わり」はある。
そう言った桧垣の言葉と重なるものがあって、悠花は自然に頷いてしまう。
未来への不安より「現在」の気持ちを優先する。
彼がそうするのなら……自分もそうするだけだ。
ふわりと強めの風がふいて、薄桃色の花弁が一斉に舞う。感嘆の声が漏れ出た瞬間、悠花の唇を小さくかすったものがあった。
***
「今夜は僕の部屋に泊まってほしい」
そう言われて悠花は、最初に花見に行こうと伝えたときの彼の言葉を思い出した。同時にあの瞬間に抱いた甘い気持ちが胸にあふれる。
会う前はいつも悩んでいるくせに、彼に会ってしまうと悠花の意志は簡単に覆ってしまう。そしてそれが嫌じゃない。
悠花の明確な返事など待たずに、彼は手をひいて車に乗せた。もう二人とも花を見るよりも大事なものを見つけたかのように先を急ぐ。
「会いたい」を叶えれば、「もっと一緒にいたい」になって、そのうち「もっと長く」と欲は膨らんでいく。
温もりをその身に感じた途端、急いで蕾を膨らませて花弁を開く桜のように。
見知った道に戻ってきたとき、悠花は覚悟を決めて彼にお願いした。
「荷物を……置いて、泊まる準備をさせてください。家に、寄っていただけますか?」
先週は彼の家に泊まらず、送られることも断って帰ってきた。彼は悠花の住んでいる場所を知らない。
「そのまま……帰ったりしない?」
「はい」
「僕に知られて構わない?」
「はい」
「道を教えてくれる?」
「はい」
悠花は続けて家までの道順を教えた。来客用の駐車場は事前申請していない今日は使えないので、少し離れた場所で待ってもらう。悠花の住んでいる場所を見て、彼がかすかに目を見張ったのに気が付いた。察しのいい彼のことだ。このマンションを見ればおおよその見当をつけるだろうとは思っていた。
「急いで準備してきますね」
「……待っている」
悠花は不思議な気持ちで、いつものエレベーターに乗り込む。朝、部屋をでるときは、今日は会えないかもしれない可能性も考えていたし、調査結果を知っている彼から嫌われることも覚悟していた。
自分がしていることが、正しいかどうかの自信など微塵もない。
ここで関係を断ち切ったほうがよかったと後悔する未来は簡単に想像できる。
「終わり」がくるまであがいて……不安に耐えられるのかどうかも、彼を苦しめないですむかどうかもわからない。
でも一緒にいたいと言ってくれる限り、自分も望む限りそばにいることしか今はできない。
不確かな未来よりも、今の気持ちを優先すると言った彼の言葉通り。
悠花は部屋に戻ると、荷物の片づけと準備をはじめた。
0
お気に入りに追加
316
あなたにおすすめの小説

ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

地獄の業火に焚べるのは……
緑谷めい
恋愛
伯爵家令嬢アネットは、17歳の時に2つ年上のボルテール侯爵家の長男ジェルマンに嫁いだ。親の決めた政略結婚ではあったが、小さい頃から婚約者だった二人は仲の良い幼馴染だった。表面上は何の問題もなく穏やかな結婚生活が始まる――けれど、ジェルマンには秘密の愛人がいた。学生時代からの平民の恋人サラとの関係が続いていたのである。
やがてアネットは男女の双子を出産した。「ディオン」と名付けられた男児はジェルマンそっくりで、「マドレーヌ」と名付けられた女児はアネットによく似ていた。
※ 全5話完結予定

【商業企画進行中・取り下げ予定】さようなら、私の初恋。
ごろごろみかん。
ファンタジー
結婚式の夜、私はあなたに殺された。
彼に嫌悪されているのは知っていたけど、でも、殺されるほどだとは思っていなかった。
「誰も、お前なんか必要としていない」
最期の時に言われた言葉。彼に嫌われていても、彼にほかに愛するひとがいても、私は彼の婚約者であることをやめなかった。やめられなかった。私には責務があるから。
だけどそれも、意味のないことだったのだ。
彼に殺されて、気がつけば彼と結婚する半年前に戻っていた。
なぜ時が戻ったのかは分からない。
それでも、ひとつだけ確かなことがある。
あなたは私をいらないと言ったけど──私も、私の人生にあなたはいらない。
私は、私の生きたいように生きます。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる